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『Gのレコンギスタ』最終話「大地に立つ」、もちろんリアルタイムで視聴。やっぱり、ベルリが大地に立つまでの物語であって、あの26話の中で起きた歴史というのは、2クールには収まらない。最終カットで、トワサンガやビーナス・グロゥブが同じぐらいのサイズで並んでいたけど、思想も信仰も微妙にズレていて、好戦的な人たちもごっちゃに住んでいる中で、何とか妥協点を見つけながら、うまく回していくしかない。
その妥協点を見つけながら上手に生きていくのは、今の年寄りには無理だから、物語の中でも大国の大統領には死んでもらうしかなかったんだと思う。
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放送中はいろいろなことを思ったけど、敵味方の関係図をコンパクトにしたがる人が多かったような気がする。目の前で動いている歴史はコンパクトにならないし、「問いには必ず答えを用意してもらえる」インターネット的な短絡に物語を封じ込めようとする態度は、とても危険だと思った。
(その危惧が、前回の日記に書いた『アクト・オブ・キリング』とも関連してくる。極端に敵味方を分けようとすると、必ず暴力的な事態にいたる。)
「黒か白か」乱暴に決めたがるネットの言説から、『Gレコ』は遠いようで近いところにあった。あの世界は千年間は穏やかな時代がつづいたのに、タブーを破ったために21世紀と変わらない時間感覚が戻ってきてしまった、不安定な瞬間(だけ)を描いている。
物語後半で何度か言われていた、「戦争を面白がってしまう人たち」は、いまの日本にあふれている。右翼とか愛国って意味ではなくて、ネチネチと個人攻撃したがる人ばかりでしょ。そうやって、現実の皮膚感覚とアニメのような虚構とを重ね合わせないと、見ている甲斐がないわけです。
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僕は『Gレコ』を見て、「歴史を勉強したら、きっともっと面白いんだろうな」と思った。
だけど、点数つけて作品を評価する人たちは、そもそも作品への謙虚さがない。「自分を楽しませてくれなかったから、減点」という、粗野な考えしかもっていない。だから、クソとかカスとかクズとか死ねとか、二文字ですむ言葉を簡単に使ってしまう。現実は、もっと立体的なはずなのに、スマホで「クズだ」「減点だ」と、指先で万能感にひたってしまう。
そういう乱暴な人たちをタブーで律しようという考えは、実は分からなくはない。そのタブーを傲慢だと感じる人たちもいて、それでも何とかやっていくのが人間の世界なのだ。
『Gレコ』の世界では、「バチが当たりますよ」という言葉が多用されていた。いまの日本では「○○は犯罪です」なんだよね。一方的な脅迫なんだ。「バチが当たりますよ」のほうが寛容だし知的だよね。
Gセルフが、クン・スーンの機体を振動波でつかまえるでしょ。「なんで私を縛る?」「縛ったんじゃなくて、つながっているんです。あなたのビーム・ウィップ(武器)とは違うんです」、こういうやりとりにも、穏やかな時代を引きよせるヒントが隠されていると思う。
(「もう僕は攻撃はしません。その意味は、分かりますよね?」 そう訴えるベルリの背後で、燃えさかる戦艦が降落していく……なんという端的な、冴えた演出なんだろう。)
(C)創通・サンライズ・MBS
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