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2015年2月27日 (金)

■0227■

超合金Walker 発売中
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●村上克司さん、大石一雄さん、野中剛さんインタビュー
昨年から超合金の仕事が続いているのですが、今回は生みの親である村上さん、育ての親である大石さん、新世代第一号ともいうべき野中さんのインタビューを書くことができました(野中さんのみ、取材に同席できなかったのですが)。

どなたのお話もインパクトがあり、特に同世代である野中さんの「80年代のアニメブームより、70年代の仮面ライダーやマジンガーZの方が、より自分の深い部分に根を下ろしているのではないか」的な発言には、ハッとさせられました。
僕が、ライダーや東映ロボットを避けているのには、何か理由があるのでしょう。

ACE IN THE GUNDAM  U.C.0079‐U.C.0096 宇宙世紀のエースと専用機の系譜 発売中

07339593 ●『機動戦士ガンダムUC』パート執筆
「ガンダム」のアニメ、ゲーム、漫画などのパイロット本です。ひさびさに、物語設定の中での「ガンダム」本に参加させていただきました。一社独占ではなく、アニメ本と縁の薄い出版社が「ガンダム」ビジネスに新規参入できるのは、健全なことと思います。

「ガンダム」本って、いろんな編集部やライターが「この言い方、カッコいいな」と互いに流用しあって、独特のテキスト文化をつくっていった部分があります。ビームライフルを「持つ」でも「装備する」でもなく、「携行する」とかね。「強いビーム」ではなく、「高出力のビーム」とか。
だけど、アニメの制作現場では、そんな言い方はしていないので、ガンプラの解説書などから発生した文化なんでしょうね。


映画【ら】の水井真希監督をゲストにお呼びした、『表現の不自由』第五回、プレミアム会員の方は来週木曜まで視聴できます。(
Bxj_ojviaaczmcこれはね、終盤の水井監督の「どこから先が性犯罪になるのか?」というお話が、とても面白い。だけど、延長する機会を逃してしまったので、また次回やります。
というか、舞台挨拶を中継できないか、トークショーを中継できないかという相談も受けているので、【ら】との付き合いは、もう少し続きそうです。3/7より、渋谷アップリンクにて公開。

今回は性犯罪の話だったけど、たとえば、みんな今どうやって暮らしているのか、どこに生きづらさを感じているのか、僕にはすべて繋がって見える。アニメ・オモチャ系のライターだからって、社会性をバツンと切って閉ざしてしまうのは、僕には違和感がある。社会的な記事を書く技量はないけど、エンタメってのは社会の影響を受けざるを得ないので。あと、オタク性ってのはセクシュアリティと不可分だとも思うし。

とは言っても、本当の本当に苦しいことは、さすがにブログにも書けないけれどね。どうやったら楽しくなるのか、何が幸せなのか、いつも意識していないと坂道を転がり落ちる世界に生きている、とは感じる。

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2015年2月25日 (水)

■0225■

モデルグラフィックス 4月号 発売中

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●組まず語り症候群 第28夜
今号は、アオシマのオーディオ・シリーズのプラモデルが二つ手に入ったというので、久々にメカ物です(サブタイトルは「カラオケのオケはオーケストラのオケなんだぜ」)。しかし、このページも人気があるんだかないんだか……。編集部からの「一冊にまとめませんか?」って話も、どっかへ消えてしまいました。

だからというわけではないのですが、僕のコピー誌[Fig 50's]を、『組まず語り』の感想を書いてくれた読者の方、20名にプレゼントします。20名というと、おそらく応募者全員でしょうけどね。
よろしくお願いします!


4月に、ギリシャのサントリーニ島に旅行するので、あまりお金を使わずにおとなしくしようとしていたのですが、3月に引っ越すことにしました。いま住んでいるマンション(……に見えるけど、中身は木造アパート)が、あまりに耐え難いから。
最初は旅行から戻って、5月ごろから物件を探してみようかと思ったんだけど、下手にネットで問い合わせてはいけませんね。不動産会社をたらい回しにされ、その中のさらに一社にたらい回しにされる。

あのね、去年の秋ぐらいに湯浅誠さんの本などを図書館で借りて、貧困について調べたんです。僕がライターという引きこもりがちな仕事をしている間に、世の中は激変していた。僕が大学を卒業した年って、まだバブルの余熱がたっぷりで、「就職すれば一生安泰」と信じられていたし、「バイトで食いつなぐ」ことが、気楽な生き方だと肯定されていた。
今、ワンルームを貸し出している不動産屋や引っ越し業者は、あの頃の浮ついた感覚で「サービス」している。いまが繁忙期だから強気なんだろうけど、自分で「繁忙期なので」と、満面の笑みで、割増料金を要求してくる。
「お金に余裕のある方からは、早めにとるようにしてる」なんて、平気で口にしちゃう。

若い彼らは、人のいなくなった、あの寂寥としたパーティ会場を見ていない。
僕らは、見たからね。三年間もバイトした模型会社で、アルバイト全員がいきなり解雇された瞬間を、僕はまだ覚えている。16億円もつぎこんで、一本もゲームを完成させられなかったゲーム会社から、次々と人が消えていった朝も、よく知っている。
パーティは、いつか必ず終わるんだ。


だけど、不況になってバイトが全員クビとか、社員半分リストラとか、まだ目に見えていたからマシだったのかも知れない。「ああ、これで終わったな」って分かるから。
今の不幸って、目に見えづらいんじゃない? 医療被曝は分かるけど、原発事故で自分がどれぐらい被曝してるか、そこまでは分からないじゃない? 後から、「実は基準値ごえの汚染水、ずーっと垂れ流しでした」なんて言われても、もう元には戻らないじゃない? だから、怒るタイミングさえ貰えないわけ。感情の動きさえ、えぐり取られている。後から、気づくんだ。

不幸な人って、自分が不幸であることに気がついてない。僕だって、そうかも知れない。不動産屋や引っ越し業者が、盛大に金を要求するから「待てよ、ちょっと変だろうよ」と言い返せる。「俺のこと、騙してねえか?」って睨みかえせるうちは、まだマシなんですよ。
だから、「いま幸せな時代だな」って、漠然と思っているとしたら、それが怖い。不幸も幸せも、この目で見て確かめるまで、信じてはいけない。

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2015年2月23日 (月)

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日本映画専門チャンネルで、『花とアリス』。
12297_sub_066504ea33bc8983381077240公開時の11年前は、普通に「上手いなあ」と感心して見ていたはず。元嫁も岩井俊二監督が好きだったので、「蒼井優と鈴木杏、どっちがいいか」みたいな話をした記憶がある。
2人が縄跳びの縄を回して、憧れの先輩を飛ばせようとする。だけど、先輩は飛べない。なぜなら、彼は2人に騙されているから。その表徴を説明しすぎず、カットをバツンと切るところが上手い。不在だとか、空白を「存在するもの」を使って、何とか浮かび上がらせようとする意欲が感じられる。

そもそも、「先輩が記憶喪失になった」設定自体、鈴木杏が思いついた虚構であって、「だから、先輩は記憶喪失から回復しない」とウソをウソで強化して、自分の気持ちに都合のいい現実を作ろうと努力する。
それは、人間ひとりに認識可能な現実が、あまりにはかなく、薄っぺらいからだ。


鈴木杏は、文化祭で落語部(落語も、その場にいない人物同士を会話させる話芸だ)の一員として出演する直前、舞台袖で先輩にすべてを告げる。
しかし、舞台上では落語部の部長が、鈴木杏の準備が整うまでの間、必死に間を持たせようと奮闘している。いつも思うことだけど、鈴木杏に与えられたミッションは、憧れの先輩に涙の告白をすることではなく、一秒でも早く舞台に上がって、落語を演じることのはず。ところが、自分の気持ちがすむまで、えんえんと告白を続ける。
告白している暇なんかない、だけど告白したい、そのせめぎ合いを避ける。脇役の部長に、すべて押しつけている。日本映画の抱え込んだ疾病だと思う。「想い」が、状況に優先する。

もし、鈴木杏が先輩に想いを伝えたいのであれば、まず舞台の上で奮闘努力している部長を助けることも同時に考えなければならない。その合理性の中でこそ、「想い」という理外の理が伝わるのだと思う。


もうひとつ、蒼井優がオーディションでバレエを踊ることで、雑誌モデルとしてデビューする。そんな一部の業界の価値観を、ドラマの中で成功体験として位置づけている。
鈴木杏の告白シーンで、コメディリリーフの部長を見捨てたように、ここでもオーディションに落ちる他のモデルたちを「愚かな女たち」「残念な連中」として描いている。そんな描き方をすれば、蒼井優が受かるに決まっている。

バレエを踊る蒼井優に向かって、男性編集者とカメラマンは「下、何か履いた方が…」と言う。パンツが見えてしまうからだ。その気遣いに対して、蒼井優が「減るもんじゃないので」と答えるが、それはオッサン都合の妄想ではないだろうか。そこでハッとして蒼井はバレエをやめるんだけど、それでも素晴らしい踊りだった……では、なぜいけないのか。
女子高生というか、少女を「オッサンの都合を無制限に受け入れる女神」に祭り上げてしまっている。しかも、「パンチラが良かっただけでしょう」と文句を言う立場の広末涼子を、わざわざ「偶然に長電話している」というシチュエーションで、現場から外している。姑息ではなく、露骨です。せめて、広末が「あなたもプロなんでしょ、パンツぐらい何よ」って言えば、オッサンの都合でオーディションに受かったようには見えなかったのに。


ようはね、ちょいちょい、責任回避させる映画なんです。かわいい登場人物たちに。広末にしっかり責任を負わせないと、「社会人」として描けないでしょ。無責任な大人たちに認められて雑誌の表紙になって、それが女子高生にとっての成功体験というのは、あまりに貧しい。(もし蒼井優が、熱烈に芸能界に入ろうと頑張っていたのなら、話はまったく別なのだが、「プロのカメラマンに撮ってもらえて、女の子が嬉しくないわけないだろ?」という付け足し感がね……)

『風立ちぬ』で、二郎が喀血した菜穂子に会いに行くとき、大慌てしながらも図面をカバンに忘れず入れて、汽車の中で、ぼろぼろ泣きながら計算をしている。「想い」を抱きながらも、責任を忘れていない。現実にあらがう、とはああいうことを言うのだろう。

(C)2004 Rockwell Eyes・H&A Project

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2015年2月21日 (土)

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ずっと探していた『第九軍団のワシ』、ようやくレンタルで。
Sub_large ローマ帝国第九軍団が、北方で消息を絶って20年。第九軍団の隊長は「軍団の象徴であるワシの像を蛮族に盗まれた」と、汚名を着せられていた。その息子、マーカスは見事な指揮で砦を守り、部下を命がけで救出したことから、栄誉を受ける。
軍を名誉除隊したマーカスは、父の汚名をそそぐため、北の彼方にあるという蛮族の地におもむき、ワシの像を取り戻そうと考える。しかし、当地に詳しいのは、ローマ人に憎しみを抱く奴隷の青年ただひとり。もしかすると、旅の途中で裏切るかも知れない……果たしてマーカスは、ワシの像を見つけ出して、父の名誉を回復できるのだろうか?

原作小説を、宮崎駿が絶賛したんだよね。映画は、ディテールの手堅い冒険娯楽モノに仕上がっている。下手に美女だとかラブロマンスだとか、出さないところが潔い。徹頭徹尾、友情と忠誠の物語。
僕らも、「命をかけて」とまでは言わないまでも、日々、友だちと信頼をやりとりして生きているはず。50歳も近くなれば、そういう手ごたえを人生に感じていないと、空しいでしょう。だから、身のまわりの人間関係を想起ざるを得なかった。

途中、あまりにも広大で尊大なローマ帝国が、現代のアメリカと重なって見えるんだけど、それは意図的にやった(アメリカ人俳優にローマ人を演じさせた)んだそうです。
「どの方向から、何とでも批判していいよ」という、キリッと勇ましい映画です。充実した二時間を過ごせた。


『「マンガ・アニメ」をもっともエンターテインメントだと感じているのは20代(約3割)! 一方、「コンサート(ライブ) 」は全世代で6割から7割にも』(
バンダイナムコゲームスによる「エンターテインメントに関する意識調査」の結果。エンタメの第一位は、ライブやコンサートで、アニメやゲームは20~30代の一部が楽しんでいるにすぎない。

アニメのディスクを売るとき、初回特典として「イベントチケットの優先購入応募券」ってあるでしょ。それを目当てで買わせようって言うんなら、もはやアニメ本編よりもイベントの方がお金を出す価値がある……と、メーカーが認めてしまっているわけだよね。
僕の周囲でも、アニメのディスクは全く買わないけど、声優のコンサートは必ず行くって人はいるからね。アニメ業界も、その娯楽的価値の変遷には、とっくに気がついているんだろう。知人に言わせると「アニメ自体はまったく面白くないが、主題歌アーティストの売り方が抜群に上手い」メーカーもあるという。


メーカーがアニメを製作するようになって、映像そのもので回収しようと考えるようになって、2006年にアニメの制作本数がピークを迎えたけど、その頃ですよ。ネットカフェ難民という言葉が生まれ、日本の貧困率が注目されはじめたのは。みんな、お金がなくなった。
いちどテレビで無料で見られたアニメが二話分のみ、正味一時間しか入っていないディスクに、毎月6,000~7,000円出してくれというビジネスは、もうさすがに成り立たない(まだやってるけど)。今度は、ディスクを買うと、本編を端末にダウンロードできるサービスが開始される。場所をとるディスクは、どんどんオマケ化していく。

なのに、いまだにディスクが何枚売れたか……でしか、アニメの商品価値は計られない。僕らが本の企画を考えるときも、「あの作品は売れなかったからね」って話になる。
すると保守的な本ばかりになって、お客さんもオフィッシャルなもの以外、あまり読みたくないんじゃないか?とも感じている。
あるアニメ会社の偉い人の、「みんなで、こういう状況にしたんだ!」という苦渋に満ちた一言が、耳から離れない。

(C)2010 Focus Features LLC. All Rights Reserved.

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2015年2月19日 (木)

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ニコラス・ローグ監督の『WALKABOUT 美しき冒険旅行』。1971年のイギリス映画。
Walkaboutオーストラリアに旅行に来た姉と弟。だが、特に理由もなく父親が発狂し、砂漠の真ん中で、子どもたちに発砲しはじめる。その不条理な行為が気持ち悪くて、なかなかゾクゾクする出だしだ。

姉は弟を連れて逃げ出し、小さなオアシスを転々とするうち、アボリジニの少年に助けられる。
「美しき冒険旅行」という無理やりな邦題がついているが、動物の死骸はこれでもかと出てくるし、カンガルーを原始的な武具で叩き殺したり、残虐なシーンが多い。そして、アボリジニの少年は、美しい姉と結婚し、廃墟で暮らしていくことを夢見るが、彼女に拒絶されてしまう。その末路は、あまりにも惨い。

では、何が「美しき」なのかというと、白人の姉を演じたジェニー・アガターのヌードだろう。『2300年未来への旅』や『狼男アメリカン』、最近では『アベンジャーズ』にも出演している女優だから、そっちの方が僕らのようなオタクには、馴染みぶかいはず。
そのジェニー・アガターが全裸で泳ぐ美しいシーンがあるのだが、アメリカではカットされて公開されたという。彼女は当時、16歳だったそうだ。


僕の借りてきたDVDはHDリマスター版で、つい今月、出たばかりらしい。
しかし、「16歳の全裸のシーンがある」と言われたら、今どきは「児童ポルノ」と烙印を押されかねない。22歳の歌手が、アメリカのファッション誌にトップレスのセミヌード写真を掲載したところ、国内で「童顔なので13歳に見える」「児童ポルノ」と批判されたらしい。笑ってすませられない、ある種の病理を感じる。⇒“米歌手セレーナ・ゴメスのトップレス写真に「まるで児童ポルノだ」の批判”(

それだけ、アメリカでは児童を狙った性犯罪が多いのだと思う。イギリスでも、たまにギョッとするような数字を目にすることがある。
だが、犯罪性のないヌードをいくら取り締まったところで、犯罪が減少するわけではない。欧米での聖職者による性虐待のニュースを見ると、彼らは何を正すべきか混乱をきたしてしまい、出口のない泥沼にはまっているかに見える。
なので、「先進国は日本などと違って、これだけ厳しいのだ、立派なのだ」と言われても、性犯罪の数字を見てしまうと、説得力が消し飛ぶ。

……にも関わらず、アメリカ映画もフランス映画も、その表現の幅はとてつもなく広く、自由だ。もちろん、この『WALKABOUT』も。その獰猛なまでの開拓精神には新鮮な気持ちにさせられるし、カンヌ国際映画祭に出品されたと聞くと、異質な文化を受け入れる柔軟さに胸を打たれる。


『WALKABOUT』でジェニー・アガターの全裸が出てくるのは、アボリジニの儀式で少年が「妻を得てもいい」と許されるからだ、との解説をネットで見つけた。つまり、ヌードが出てくるのには必然性があるし、エロチックに描かれる必要がある……と。
僕には、そこまでは読みとることは出来なかった。だが、ばっさりとカットして何か為した気になっている大国より、まだこの国には文化の解読者・理解者がいるのだ。

……いや、『WALKABOUT』のヌードシーンをカットしただけで、アメリカを文化的に野蛮だと断じてもいけないな。もっともっと、よく勉強しないと。

(c)1971 Si Litvinoff Film Productions. All Rights Reserved.

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2015年2月16日 (月)

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レンタルで、ジョディ・フォスターの監督した『それでも、愛してる』。
Main_largeうつ病に苦しむ男が、ぼろぼろのビーバーのパペットを左手にはめ、そいつを別人格として演じることで、周囲の人々と新たな関係を結びなおす。
主人公の幼い息子と、彼の演じる“ビーバー”が初めて会話するシーンだけで、もう他人事とは思えなくなってしまった。僕は離婚して十年の間、妻の飼っていた犬を「心の中で引き取って」、毎日欠かさずに会話しているからだ。その行為が何であったのか、この映画に教えられたような気がする。

メル・ギブソン演じる主人公は、大会社の社長で、その重圧に押しつぶされようとしている。だが、彼は“ビーバー”という相棒を自ら作り出し、彼を自由奔放に振舞わせることで、がんじがらめになっていた自分を解放することに成功する。
男であること、父親であることは少しも偉くない。「男らしさ」こそが、他ならぬ重圧なのだ。ジョディ・フォスターは聡明にも、その事実をつまびらかにする。白日の下にさらす。それだけで、この映画には価値がある。人々を解放する。自由にする。


『寄生獣』も、自分の体に別人格が顕現することで、ひとりの人間のパーソナリティが分裂していく物語だった。パーソナリティの分裂を防ぐため、新一はミギーを切断しようとしたことがあった。
だが、高校生ぐらいなら、むしろ積極的に自分を変えていこうとするのが自然な姿のような気もする。『それでも、愛してる』は、「自分は変わらない」「変えたくない」という強迫観念にとらわれた中年男が解放されるから、切迫感がある。

傍系的葛藤として、主人公の長男の話が進行する。彼は他人になりすましてレポートを書くのが得意で、学年主席の女生徒に卒業スピーチを依頼される。やがて彼は、彼女のカウンセラーのような不思議な立場をとっていく。
若い彼らも、やはり「言いづらさ」「生きづらさ」を抱えている。自分をオープンにして、己の置かれた社会的立場を、もっと活性化させたいと望んでいる。信用ある立場におかれた人間ほど、自分から解き放たれたいと願う。単に自由になりたいのではなく、融通無碍に自分を有効活用できないかともがく。
(普遍的なテーマだと思うのだが、意外とこの映画の知名度が低いのは、ある程度の運と才能に恵まれた人たちの悩みをテーマにしているせいかも知れない。)

例によって、映画の結論はどうでもいい。どうせ、プロデューサーの意向で保守的なところに落ち着くのだから。しかし、もっと多くの人、特に男性に見てほしい映画だ。


署名キャンペーン【痴漢被害根絶のため、「車内防犯カメラの設置」と「学校での性暴力対策教育」を求めます。】⇒
僕が今までやった署名の中でも、ワーストワンの集まりの悪さ。理由は、いろいろ指摘してもらった。それでも皆さん、この春から電車通学を始める子たちを、このまま見殺しにするつもりですか、と問いたい。

(C)2011 Summit Entertainment, LLC. All Rights Reserved.

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2015年2月14日 (土)

■0214■

EX大衆 3月号 10日発売予定
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『機動戦士ガンダム THE ORIGIN I 青い瞳のキャスバル』公開記念
シャア・アズナブル 知られざる過去 構成・執筆
いくつか切り口があると思うのですが、EX大衆的には「シャア」が受けるそうなので、『逆シャア』ラストのセリフを引用しながら、シャアと母親についてのコラムも書きました。
……ただ、『THE ORIGIN』は既存のシリーズに直結するわけではないらしく、書き方が難しいですね。宇宙世紀年表の抜粋も掲載したけど、飽くまで「参考程度」ということで。
最終的に“正史”となった『ユニコーン』に比べ、『THE ORIGIN』は、やや取り扱いが難しいコンテンツになりそう。


さて、本日2/14で、離婚十周年です。
離婚当初の、朝焼けのビルの屋上で風に吹かれているような、一枚の羽になったような無限に自由な気分が少しずつ降落してきて、あっという間に、紅灯の巷を這い回るドブネズミになってしまった気がする。

僕個人にとっては、2011年元旦、母が殺され、父親が殺人犯となったこと。それが離婚などより、ずっと大きな体験だった。公判が終わるまでの9ヵ月。それを過ぎても、事件にかかわった「普通の人々」の鈍感さ・愚鈍さには、憎しみを感じた。
事件のあった朝、離婚から始まった第二の人生は、これで終わったと思った。凍りついたような立川県警のロビーで、父親の残した飼い犬たちと、夜まで震えつづけていた(ドアには「開けたら閉める」と書いてあるのに、警官たちは必ず開けっ放しにしていく……そういう人たちなのだと思った)。

母の火葬が終わり、お骨を持ち帰ってくると、「どこでもいいから、海外へ行きなさい」という母の言葉がよみがえった。彼女の分まで、80歳まで生きてやろう、という気持ちになれた。
ところが二ヶ月後の3月11日、大震災が起きた。原発が爆発し、僕の誕生日、関東地方にも放射性プルームが来た。ずっと後になってから、ベランダに溜まった泥を測定したら、3,000ベクレルだった。


原発事故とインターネットは、切り離せないと思う。事故によってこの国のモラル崩壊が明らかになったが、崩壊を加速させたのはインターネットだろう。もしネットがなかったら、僕たちは直に顔を合わせて怒ること、議論すること、妥協点を見つけることが、かなり上達していたんじゃないだろうか。何しろ、これだけの難問を山積みにしているのだから。
ところが、ネットでボヤいたり嘲笑したり、「絶対に許さない」「死ね」「クズ」とつぶやくことで、みんな満足するようになってしまった。

いつだって、普通の人々に失望させられる。
原発事故の科学的影響よりも、たとえば汚染された食材が学校給食に出されて、子どもたちの口に入ってしまった事件。メールしたり電話をかけたりして県や業者を追求していくと、「国から聞かされてなかった」「あまり大ごとにしないでほしい」と、シレッと責任回避する人ばかり。「子どもたちに悪いことをした」と反省している人は、ひとりもいなかった。

彼らが特殊なのではなく、どんな業界でも、当事者意識をほったらかしに自分の仕事を貶め、価値を低めてしまっている人が多い。「自分の会社さえ良ければ」「自分の業界さえ良ければ」「クライアントと自分さえ儲かれば」など、原子力ムラ的な共同体意識に、あちこちで出くわす。
社会に暮らす人たちの方を、向いていないんですよ。


原発事故後、人に言われて頭から離れない言葉。

「日本人には、基礎学力がない」
「考えることが多すぎて、みんな、考え方が雑になっている」

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2015年2月11日 (水)

■0211■

マスコミ試写で、『カイト/KITE』。
上映前、宣伝会社の女性が「18禁アニメなんですが、物語がすごく良いのでハリウッドで実写映画化されたんです。原作アニメの出来も、すごく良いんですよ」と、熱心に説明していた。
読売新聞は昨年、児童ポルノ法改正にかこつけて、「日本製アニメなどの性表現の過激さが海外で強く批判されているのは確かだ。たとえアニメでも、子どもを性表現の対象とした作品が大手を振ってまかり通っては、日本が世界から信用を失う。業界は本気で自主規制に取り組むべきだ」()と根拠薄弱な持論を展開し、「どの作品を指して言っているのか?」という僕の質問にも黙ったままだが、批判されるどころか、たっぷり愛されている証拠が、13年もの紆余曲折を経て完成した『カイト/KITE』である。

映画は、原作アニメの『A KITE』とそっくりなシーンがあり、オープニングから驚かされます。ハリウッド映画人が、原作アニメのどこに惚れていたのか、よく分かる。キャラクター名も、そのままです。ちゃんと、体内で爆発する弾丸も出てきます。
1116047_1200舞台は、『第9地区』でもお馴染みのヨハネスブルグ。殺伐としたロケ地と、銀のこし風のザラッとした映像の相性がいい。近未来という設定なので、遠景はマット・ペインティングで地味な未来都市が描かれている(これ見よがしでないところがいい)。

で、アクションというよりは、バイオレンス映画。ありとあらゆる道具を凶器にして、「いや、その方法で人間の頭を貫通させるのは無理では?」といった殺しのシーンが続出するので、タランティーノ以降の「これはちょっとあり得ないのではないか?」という物理法則無視の無茶なバイオレンス描写と復讐譚が好きな人には、たまらない映画になっている。


ただ、ストーリーは難解。サミュエル・L・ジャクソンがアカイを演じているのだが、アカイの正体を、もっと早くサワに分からせる必要があったと思う。オブリの立ち位置も、いまひとつ分かりづらい。
だけど、小道具などで原作アニメの良いところを少しずつ拾っているので、「なぜ原作どおりにしなかった?」という批判は、あまりに酷な気がする。
それと、アダルトシーンを外したバージョンを原作にしているけど、サワとアカイは肉体関係にあった方が、2人の残酷な隷属関係がはっきりしたと思うんだよな……。サミュエル・L・ジャクソンが嫌がったのかも知れないけどね。

ラストシーンは開放感があって、とても綺麗。原作ファンはもちろん、コンプレックスにまみれた大手メディアの日本アニメ叩きにうんざりしている人は、応援のためにも見にいって欲しい。4/11から。


話題はガラリと変わるけど、【痴漢被害根絶のため、「車内防犯カメラの設置」と「学校での性暴力対策教育」を求めます。】という署名キャンペーンを始めました()。
これは、痴漢対策に関するアンケートをベースに立ち上げたもので、文部科学省とJRグループに要請文を送ります。

まだ署名開始から24時間も経ってませんが、集まりは悪いです。痴漢問題に限らず、ネットで匿名でゴネていたいだけであって、現実的解決策へ繋げようなんて考えてない人が多いから。児童ポルノを「性虐待記録物」と呼びかえる件でも、「法律に合わない」と理屈をこねる人ばかりで、「では法律を変えよう」なんて人は出てこない。しょせん、本気じゃない。

でも、だから世の中は変わらない。僕らは侮辱されつづけている。明日の朝の通勤電車で、また誰かが痴漢にあうでしょう。そして、吐き気のする思いで我慢して、沈黙を強いられる。
痴漢をする男には会社員が多いという統計があるけど、そんな方法でしか他者を屈服させられない、そうまでして他者を貶めないと自我を保てない男たちも情けない。
沈黙しているほうが何かと都合のいい世の中だから、僕はひとりでもいいから動こうと決めたんです。

(C)2013VideovisionEntertainment,Ltd.,DistantHorizon,Ltd.&DetalleFilmsAllrightsreserved

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2015年2月 8日 (日)

■0208■

Febri Vol.27 10日発売予定
Photo 
Febri Art Style 構成・執筆
今回は、6ページに増えています。『花とアリス殺人事件』の美術監督・滝口比呂志さんインタビューと、本編で使われた背景美術を掲載しています。
『花とアリス~』試写会の直後( )は、同じロト・スコープ作品である『惡の華』をなかったことにされるのがイヤで、まとまりのない感想を書いてしまった。前作『花とアリス』の前日譚を映画化する企画は、『花とアリス』公開のころからあったらしく、アニメにしたのは「俳優が歳をとってしまって中学生を演じられない」都合が大きいような気がする。そういう意味からも、「アニメ」として見る必要はない。モノクロ映画を見るような気分が、ちょうどいいんだろうと思う。


●『神撃のバハムートGENESIS』 全話解説・コラム
全話解説は、公森直樹さんと半分ずつ担当しています。僕は、第二話のアーミラが酔っ払って踊るシーンのGIFを見て、『
GENESIS』を知ったんです。あのシーンは作画はもちろん、カットワークにも酩酊感があって、手描きアニメならではの表現になっている。
コラムは、さとうけいいちさんのデザインワークについて書いています。十年以上前の「動画王」が、まさか役に立つとは……。


『Gのレコンギスタ』第19話、『2001年宇宙の旅』のような船内マラソンから力を合わせて船Djqbkrvxi_2
外での運搬作業、オーロラのようにきらめく宇宙線、格納庫で働く人たち……の流れで、ひさびさに涙腺が緩んだ。音楽の演出がいい。特に、格納庫のシーンはマニィの寂しい心情を汲んで、ピアノから入っているのが綺麗。実は、アニメの音楽演出は実写映画とは比較にならないぐらい優れている。誰も取材しようとしないだけ。音響監督の木村絵理子さんのプロフィールを見れば、なるほどと納得すると思う。
『Gレコ』はストーリーが難解だと言われるけど、今回は誰がどこの出身で、どんな理想を抱いていて、世界の構造がどうなっていて、なぜ主役メカが主役たり得るのか、すっきりと整理できた。状況が分からないなりに、ここまで敵味方入り乱れて進んできたけど、みんなで来られて良かったね……という感慨もある。

僕は、イベント上映のときに劇場パンフ用に吉田健一さんにインタビューしていて、そのときに「金星まで行く」という話は聞いていた。その前にトワサンガ(永久の山河を夢見る人々……というのは公式設定ではないらしい)という場所が出てくる、とも聞いていた。
そのインタビュー時に頭に浮かんだ広大な冒険譚が、ようやく像を結んでくれた。ビーナス・グロゥブの勢力が悪役として登場してきたのも、いいアクセントになっている。


『機動戦士ガンダム THE ORIGIN』の方は、公式な試写会があったらしいけど、僕は松竹の会議室で先月、見せてもらった。
僕は、富野由悠季監督が放送前に書いたラフな宇宙世紀年表が好きなんだけど、『
THE ORIGIN』は、飽くまでも登場人物たちの過去。キャラクター中心。あの年表を解釈したプリクエル、という趣きは薄い。キャラクターの作画は、絵の崩し方といい、おおらかでゆったりしていて気持ちがいい。

ただ、僕は「これはオジサンには分からんわ」と戸惑うようなコンテンツに、未来を感じる。ビジネスとしては、オジサンに合わせるのが正しいし、僕もそれで食わせてもらっている。ただ、文化というのは金儲けだけではない、伸び代の部分が大事だと思う。オジサンに向けたものばかりだと、オジサンと一緒に死に絶えてしまうので、どう育つか分からない雑草のいっぱい生えてる状態が健全だと思う。


(C)創通・サンライズ・MBS

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2015年2月 5日 (木)

■0205■

レンタルで、田中裕子主演の『ザ・レイプ』。
64bbf3df7f720683cf0a8b65add0ceec1982年公開、落合恵子原作。空前のアニメブームの中でも、この映画が公開されたことは、よく覚えている。
今回、はじめて全編を通して見たけど、「田中裕子が脱いだ」「セックスシーン、レイプシーンまで演じた」センセーショナリズム込み、いや、明らかにヌードで集客しようとした企画だと思う。ラストのシャワーシーンなんて、かなり無意味だもん。
ではレイプ被害を訴えながら、ポルノ的要素を盛り込んでもいいのか。創作の場合、それが許される。許されるというか、「こう感じろ」「こう受け取るな」って、そこまで自在に観客をコントロールできないんだよ、作品って。どんなに醜く撮っても、興奮する人は興奮するだろうし、その醜さの中に美を感じることもあるかも知れない。作品は、表現は未知の知覚、領域を開拓する。だから、裁けない。


さて、物語はとても堅実に出来ている。法廷ドラマになるのかと思いきや、勝訴するかどうかは、だんだん関係なくなっていく。田中裕子演じる女性の、恋愛やセックスに対する奔放さが明らかになっていって、でも「奔放だったらレイプされても仕方ない」とは、もちろんならない。彼女は自分への陵辱に激怒しながら、若い恋人があまりに頼りないから、昔つき合っていた不倫相手に逃避したりもする。バーで男に突き飛ばされた女の子を「大丈夫だよ」と抱き上げて、いっしょに踊ったりする。

レイプされたことで自分は何者であるか、何を大事に生きているのか考えるし、周りにいる男たちの良いところも、救いがたい下劣さも見えてくる。単に「レイプはいけません」という話に終わっていない、その器の大きさには、ちょっとたじろぐ。

そういう大らかな映画だから、「レイプされて、逆に良かったんじゃないの?」と早合点する人もいるかも知れない。創作物は治外法権だから、「そのように早合点するな」と命令はできない。
レイプを糾弾する映画でありつつ、セックスシーンを積極的に撮ることが許される。逆に『ヴィオレッタ』のように、「被害者と同じ思いを女優にさせたくない」と、ヌードを避ける監督もいる。
あらゆる表現物は、グレーゾーンに存在している。むしろ、現実を白黒に分けさせない、倫理的役割を表現物が担っている。『ザ・レイプ』を見て、「強姦なんて大した罪じゃないんだな」と勘違いする人もいるだろう。でも、だからこの映画を上映禁止にすれば実社会が改善されるわけではない。「ヌードを撮ってはいけません」「セックスシーンはいけません」と、雑な割り切りをする人が増えているような気がする。


実社会の犯罪は、実社会で防ぐしかない。
なので、「痴漢対策についてのアンケート」というのをやっています。(
もうちょっと集まってから、署名キャンペーンへ移行しようかと思います。……にしても、昨年の署名のときにも感じましたが、「私は違う意見だ」と言うなら、ご自分の意見を浸透させる努力ぐらい、してほしいんです。なぜか、僕に「あなたの考えを曲げて、私の意見を通しなさい」と要請してくるんですよ。自分は決してリスクを負わず、署名を始めたヤツにすべて押しつけてしまえ……という人が出てこないことを祈ります。

SNSで嘆いているだけでは、社会は良くなりません。署名を集めても、すぐに制度が変わるわけではありません。何も保障されてないんです。
勇気を出すと孤独にならざるを得ないので、誰にも勇気を持てとは言えない。孤独に耐えられそうなヤツが、ちょっとずつ頑張るしかないのです。

(C)東映

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2015年2月 3日 (火)

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プレス試写で、『花とアリス殺人事件』。
Koma000024_large実は、予告を見て美術が良かったので、美監さんにはインタビューずみ。美術は、文句なしに素晴らしいです。「背景動画は無い」と聞いていたけど、けっこうあります。

で、『惡の華』のメイキング・ブックまで作った僕としては、『惡の華』と比較せざるを得ないじゃないですか。
『花とアリス~』は、「たまたまセル・ルックに映る新型カメラを使用した実写映画」という趣き。「アニメとしてのアイデンティティ」は、驚くべきことに皆無に近いと思う。
だからこそ、ラストに近づくにつれてセル・ルックの「絵」であることが気にならなくなって、小憎らしいほど「いい話」に泣かされるわけ。「アニメとしてのアイデンティティ」が欠落しているからこそ、「実写映画的な満足感」を得られたのではないか……という気がする。


『惡の華』って「性」がテーマで、だからこそ、絵の裏側に俳優の身体を想像させられ、緊迫感が出たわけでしょう。『花とアリス~』は、中学生女子2人が出てくるところまでは同じなんだけど、ほぼまったく「性」を感じさせない。だからこそ、大衆に受け入れられるであろう、とも予感する。
いみじくも宮崎駿が『崖の上のポニョ』のメイキングで話していたように「あらゆるもの、性から逃れられない」のが「日本のアニメらしさ」なのだろう。「性」っていうと猥褻なものを想像するかも知れないけど、動画の表現や色彩の中に気持ちよさだとか、個人の嗜好のみで映像を成立させられる全能感が含まれてると思うんだよ。

念のため言っておくと、主役の花とアリスは、やることも言うことも、とても魅力的。だけど、そこには作り手の恣意が希薄であって、キャラクターを支えているのは、蒼井優と鈴木杏の魅力なんだよ。
また語弊のある言い方をすると、『花とアリス~』には「描き手」がいない。描き手の「これこそ、気持ちいい動きだ」って嗜癖、欲望がない。すると、「アニメ」ではなく「映画」になる。

『惡の華』は、主人公が男で、異なる2人のヒロインに翻弄される通俗性があって、それも「アニメっぽい」んだよね。
Akunohana01_41さて、第一話のこのカット。実は、演じた俳優の顔を忠実にトレスしているだけで、目を鋭く描いたとか、そういう誇張はしていない。むしろ、『花とアリス~』のほうが細部は省略して、「漫画のような顔」にディフォルメしている。
にも関わらず、『惡の華』のほうが「日本のアニメ」というイメージが強い。髪の色も含めて、「キャラクターを印象づけたい」という欲求、欲望がでかいのです。その印象は、たとえ実写をトレスした絵であっても、「止めで何秒」とか、前後のカットをどう繋ぐかで、いくらでも強められるのです。その貪欲な恣意性が、「日本アニメらしさ」なのね。

『花とアリス殺人事件』は、そっちは向いてない。飽くまで、今回の撮り方が(たまたま)ロト・スコープだった、というだけであって、いつもの「岩井俊二監督の映画」なんです。「アニメ」と呼ぶことには、抵抗がある。
対して、『惡の華』は、「この原作漫画を、どうアニメにしたら、アニメ番組として成立するか」という課題から、ロト・スコープが選択されたわけですよね。セル・ルックだったら何でもアニメだろう、という単純な問題ではないです。
おそらく、「欲望をどう洗練して様式化するか」が重要なんだと思う。たとえば、新しい『プリキュア』の主役は偶数から始めるのか、奇数から始めるのか。そういうフォーマットを仕込んでこそ、「日本のアニメ」になる。なので、『花とアリス殺人事件』は実写映画として楽しむのが吉。

(C)花とアリス殺人事件製作委員会

(C)押見修造・講談社/「惡の華」製作委員会

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