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2015年2月23日 (月)

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日本映画専門チャンネルで、『花とアリス』。
12297_sub_066504ea33bc8983381077240公開時の11年前は、普通に「上手いなあ」と感心して見ていたはず。元嫁も岩井俊二監督が好きだったので、「蒼井優と鈴木杏、どっちがいいか」みたいな話をした記憶がある。
2人が縄跳びの縄を回して、憧れの先輩を飛ばせようとする。だけど、先輩は飛べない。なぜなら、彼は2人に騙されているから。その表徴を説明しすぎず、カットをバツンと切るところが上手い。不在だとか、空白を「存在するもの」を使って、何とか浮かび上がらせようとする意欲が感じられる。

そもそも、「先輩が記憶喪失になった」設定自体、鈴木杏が思いついた虚構であって、「だから、先輩は記憶喪失から回復しない」とウソをウソで強化して、自分の気持ちに都合のいい現実を作ろうと努力する。
それは、人間ひとりに認識可能な現実が、あまりにはかなく、薄っぺらいからだ。


鈴木杏は、文化祭で落語部(落語も、その場にいない人物同士を会話させる話芸だ)の一員として出演する直前、舞台袖で先輩にすべてを告げる。
しかし、舞台上では落語部の部長が、鈴木杏の準備が整うまでの間、必死に間を持たせようと奮闘している。いつも思うことだけど、鈴木杏に与えられたミッションは、憧れの先輩に涙の告白をすることではなく、一秒でも早く舞台に上がって、落語を演じることのはず。ところが、自分の気持ちがすむまで、えんえんと告白を続ける。
告白している暇なんかない、だけど告白したい、そのせめぎ合いを避ける。脇役の部長に、すべて押しつけている。日本映画の抱え込んだ疾病だと思う。「想い」が、状況に優先する。

もし、鈴木杏が先輩に想いを伝えたいのであれば、まず舞台の上で奮闘努力している部長を助けることも同時に考えなければならない。その合理性の中でこそ、「想い」という理外の理が伝わるのだと思う。


もうひとつ、蒼井優がオーディションでバレエを踊ることで、雑誌モデルとしてデビューする。そんな一部の業界の価値観を、ドラマの中で成功体験として位置づけている。
鈴木杏の告白シーンで、コメディリリーフの部長を見捨てたように、ここでもオーディションに落ちる他のモデルたちを「愚かな女たち」「残念な連中」として描いている。そんな描き方をすれば、蒼井優が受かるに決まっている。

バレエを踊る蒼井優に向かって、男性編集者とカメラマンは「下、何か履いた方が…」と言う。パンツが見えてしまうからだ。その気遣いに対して、蒼井優が「減るもんじゃないので」と答えるが、それはオッサン都合の妄想ではないだろうか。そこでハッとして蒼井はバレエをやめるんだけど、それでも素晴らしい踊りだった……では、なぜいけないのか。
女子高生というか、少女を「オッサンの都合を無制限に受け入れる女神」に祭り上げてしまっている。しかも、「パンチラが良かっただけでしょう」と文句を言う立場の広末涼子を、わざわざ「偶然に長電話している」というシチュエーションで、現場から外している。姑息ではなく、露骨です。せめて、広末が「あなたもプロなんでしょ、パンツぐらい何よ」って言えば、オッサンの都合でオーディションに受かったようには見えなかったのに。


ようはね、ちょいちょい、責任回避させる映画なんです。かわいい登場人物たちに。広末にしっかり責任を負わせないと、「社会人」として描けないでしょ。無責任な大人たちに認められて雑誌の表紙になって、それが女子高生にとっての成功体験というのは、あまりに貧しい。(もし蒼井優が、熱烈に芸能界に入ろうと頑張っていたのなら、話はまったく別なのだが、「プロのカメラマンに撮ってもらえて、女の子が嬉しくないわけないだろ?」という付け足し感がね……)

『風立ちぬ』で、二郎が喀血した菜穂子に会いに行くとき、大慌てしながらも図面をカバンに忘れず入れて、汽車の中で、ぼろぼろ泣きながら計算をしている。「想い」を抱きながらも、責任を忘れていない。現実にあらがう、とはああいうことを言うのだろう。

(C)2004 Rockwell Eyes・H&A Project

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