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プレス試写で、『花とアリス殺人事件』。
実は、予告を見て美術が良かったので、美監さんにはインタビューずみ。美術は、文句なしに素晴らしいです。「背景動画は無い」と聞いていたけど、けっこうあります。
で、『惡の華』のメイキング・ブックまで作った僕としては、『惡の華』と比較せざるを得ないじゃないですか。
『花とアリス~』は、「たまたまセル・ルックに映る新型カメラを使用した実写映画」という趣き。「アニメとしてのアイデンティティ」は、驚くべきことに皆無に近いと思う。
だからこそ、ラストに近づくにつれてセル・ルックの「絵」であることが気にならなくなって、小憎らしいほど「いい話」に泣かされるわけ。「アニメとしてのアイデンティティ」が欠落しているからこそ、「実写映画的な満足感」を得られたのではないか……という気がする。
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『惡の華』って「性」がテーマで、だからこそ、絵の裏側に俳優の身体を想像させられ、緊迫感が出たわけでしょう。『花とアリス~』は、中学生女子2人が出てくるところまでは同じなんだけど、ほぼまったく「性」を感じさせない。だからこそ、大衆に受け入れられるであろう、とも予感する。
いみじくも宮崎駿が『崖の上のポニョ』のメイキングで話していたように「あらゆるもの、性から逃れられない」のが「日本のアニメらしさ」なのだろう。「性」っていうと猥褻なものを想像するかも知れないけど、動画の表現や色彩の中に気持ちよさだとか、個人の嗜好のみで映像を成立させられる全能感が含まれてると思うんだよ。
念のため言っておくと、主役の花とアリスは、やることも言うことも、とても魅力的。だけど、そこには作り手の恣意が希薄であって、キャラクターを支えているのは、蒼井優と鈴木杏の魅力なんだよ。
また語弊のある言い方をすると、『花とアリス~』には「描き手」がいない。描き手の「これこそ、気持ちいい動きだ」って嗜癖、欲望がない。すると、「アニメ」ではなく「映画」になる。
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で、『惡の華』のメイキング・ブックまで作った僕としては、『惡の華』と比較せざるを得ないじゃないですか。
『花とアリス~』は、「たまたまセル・ルックに映る新型カメラを使用した実写映画」という趣き。「アニメとしてのアイデンティティ」は、驚くべきことに皆無に近いと思う。
だからこそ、ラストに近づくにつれてセル・ルックの「絵」であることが気にならなくなって、小憎らしいほど「いい話」に泣かされるわけ。「アニメとしてのアイデンティティ」が欠落しているからこそ、「実写映画的な満足感」を得られたのではないか……という気がする。
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『惡の華』って「性」がテーマで、だからこそ、絵の裏側に俳優の身体を想像させられ、緊迫感が出たわけでしょう。『花とアリス~』は、中学生女子2人が出てくるところまでは同じなんだけど、ほぼまったく「性」を感じさせない。だからこそ、大衆に受け入れられるであろう、とも予感する。
いみじくも宮崎駿が『崖の上のポニョ』のメイキングで話していたように「あらゆるもの、性から逃れられない」のが「日本のアニメらしさ」なのだろう。「性」っていうと猥褻なものを想像するかも知れないけど、動画の表現や色彩の中に気持ちよさだとか、個人の嗜好のみで映像を成立させられる全能感が含まれてると思うんだよ。
念のため言っておくと、主役の花とアリスは、やることも言うことも、とても魅力的。だけど、そこには作り手の恣意が希薄であって、キャラクターを支えているのは、蒼井優と鈴木杏の魅力なんだよ。
また語弊のある言い方をすると、『花とアリス~』には「描き手」がいない。描き手の「これこそ、気持ちいい動きだ」って嗜癖、欲望がない。すると、「アニメ」ではなく「映画」になる。
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『惡の華』は、主人公が男で、異なる2人のヒロインに翻弄される通俗性があって、それも「アニメっぽい」んだよね。
さて、第一話のこのカット。実は、演じた俳優の顔を忠実にトレスしているだけで、目を鋭く描いたとか、そういう誇張はしていない。むしろ、『花とアリス~』のほうが細部は省略して、「漫画のような顔」にディフォルメしている。
にも関わらず、『惡の華』のほうが「日本のアニメ」というイメージが強い。髪の色も含めて、「キャラクターを印象づけたい」という欲求、欲望がでかいのです。その印象は、たとえ実写をトレスした絵であっても、「止めで何秒」とか、前後のカットをどう繋ぐかで、いくらでも強められるのです。その貪欲な恣意性が、「日本アニメらしさ」なのね。
『花とアリス殺人事件』は、そっちは向いてない。飽くまで、今回の撮り方が(たまたま)ロト・スコープだった、というだけであって、いつもの「岩井俊二監督の映画」なんです。「アニメ」と呼ぶことには、抵抗がある。
対して、『惡の華』は、「この原作漫画を、どうアニメにしたら、アニメ番組として成立するか」という課題から、ロト・スコープが選択されたわけですよね。セル・ルックだったら何でもアニメだろう、という単純な問題ではないです。
おそらく、「欲望をどう洗練して様式化するか」が重要なんだと思う。たとえば、新しい『プリキュア』の主役は偶数から始めるのか、奇数から始めるのか。そういうフォーマットを仕込んでこそ、「日本のアニメ」になる。なので、『花とアリス殺人事件』は実写映画として楽しむのが吉。
(C)花とアリス殺人事件製作委員会
(C)押見修造・講談社/「惡の華」製作委員会
『惡の華』は、主人公が男で、異なる2人のヒロインに翻弄される通俗性があって、それも「アニメっぽい」んだよね。

にも関わらず、『惡の華』のほうが「日本のアニメ」というイメージが強い。髪の色も含めて、「キャラクターを印象づけたい」という欲求、欲望がでかいのです。その印象は、たとえ実写をトレスした絵であっても、「止めで何秒」とか、前後のカットをどう繋ぐかで、いくらでも強められるのです。その貪欲な恣意性が、「日本アニメらしさ」なのね。
『花とアリス殺人事件』は、そっちは向いてない。飽くまで、今回の撮り方が(たまたま)ロト・スコープだった、というだけであって、いつもの「岩井俊二監督の映画」なんです。「アニメ」と呼ぶことには、抵抗がある。
対して、『惡の華』は、「この原作漫画を、どうアニメにしたら、アニメ番組として成立するか」という課題から、ロト・スコープが選択されたわけですよね。セル・ルックだったら何でもアニメだろう、という単純な問題ではないです。
おそらく、「欲望をどう洗練して様式化するか」が重要なんだと思う。たとえば、新しい『プリキュア』の主役は偶数から始めるのか、奇数から始めるのか。そういうフォーマットを仕込んでこそ、「日本のアニメ」になる。なので、『花とアリス殺人事件』は実写映画として楽しむのが吉。
(C)花とアリス殺人事件製作委員会
(C)押見修造・講談社/「惡の華」製作委員会
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