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2015年1月31日 (土)

■0131■

レンタルで、『クロニクル』。
346341_01_02_023人の冴えない高校生が、ある偶然から超能力を手に入れる。最初はスーパーマーケットなどでイタズラに使っていたが、やがて、彼らの能力は限界をこえていき……というプロセスを、擬似ドキュメンタリー・タッチで撮っている。
一部に熱狂的なファンがいるらしく、TSUTAYAには5本ぐらい在庫があった。僕も、他のディスクに入っている予告編を見て、一発で見ないではいられない気にさせられてしまった。

YouTubeにアップされていそうな親しみやすさが、ひとつの強みだろう。僕が大学生ぐらいの頃にこの映画を撮ろうとしたら、8ミリフィルムかビデオカセット式のカメラを使うしかなく、発表しようとしたら上映用の機器が必要だった。そもそも、撮った映像を見てくれる人を、物理的に集めなければならなかったはず。
ところが、今なら日常のちょっとした映像を、誰もが世界中に発信できる。その頃から、映画に求められるリアリティが変質した。「どうせCGだろ?」という冷めた視点と戦うために、擬似ドキュメンタリー形式は有効だと思う。『クロニクル』を見ていて何より楽しいのは、「もし自分の身に同じことが起きたら、どうしようか?」と想像することだ。種明かしのプレビズ映像を見たあとでも、その、いわば卑近すぎて低レベルな楽しさは変わらない。

ともかく、『クロニクル』を見ていると、とても贅沢な時代を生きていると感じることができる。


一方で、これまでどおりのフィクションには、リアリティに対する厳しさが求められているように思う。
Original3月7日に公開される映画【ら】は、監督自らが遭遇した性犯罪体験をもとにしていることが強みだ。ドキュメンタリックではないが、実体験的に撮られている……かと思うと、主人公の内面世界も平行して描かれる。現実世界は加害者の時間軸で進行し、内面世界は時間の静止した被害者たちだけが共有できる空間として描かれている。
その詩的な構成が、「他人事」ではない切実さをかもし出す。

だが、何よりも僕を身構えさせたのは、水井真希監督の「これから被害者にも加害者にもなりうる全ての方に」という一言だった。男性は圧倒的に「加害する性」で、僕も「加害する可能性」から逃れられない存在だからだ。
男性は、「強姦や暴力を介さないと異性とコミュニケーションできない加害者」と自分とを、重ね合わせて見てほしい。


やや映画とは離れるが、僕は独身中年男性であるかぎり、女性や子どもの側から「怖いおじさん」と呼ばれる覚悟をしている。「そのような印象を持つのは、僕に対して失礼だ」とは思わない。
性虐待や性犯罪をなくしたい動機には、むろん幼稚で自己中心的で、支配欲求だけが肥大した加害者への嫌悪もある。だけど、「彼らと僕とは厳然と違います」などと言い訳するつもりはないし、そんな言い訳は通用しない。たとえば、痴漢の話題を出すとヒステリックに反応するのは男性側だ。彼らの傲岸不遜な他人蔑視の態度にこそ、僕は加害対象を人間扱いしない痴漢たちと同質のものを感じてしまう。
(性犯罪は対人意識のゆがみが引き起こすのだと思う。)


「サバイバーズ・ギルト」という言葉がある。本来は、戦争や災害で生き延びた人たちが、犠牲者に対して抱く罪悪感を指す。僕は、性犯罪の被害者のこうむる精神的損失があまりにも大きいことを知り、40数年間も性犯罪に対して鈍感に生きてきた自分を恥じた。
だからせめて、被害者たちの側にたって性犯罪を考えようと決めた(決めたというより、被害者たちの告白を読んでいくと、彼らの側に立たざるを得なくなる)。被害者たちのダメージに比べれば、僕が「怖いおじさん」扱いされることなど、蚊に刺されたほどの痛みにも及ばない。

映画【ら】については、あらためて語りたいと思う。

(C)2011 Twentieth Century Fox
(C)NISHI-ZO 西村映造

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2015年1月29日 (木)

■0129■

レンタルで、『ローン・サバイバー』。
Main_largeアフガニスタンで4人のアメリカ兵がある任務につくが、人命優先の判断をしたため、ひとりを除いて凄惨な死をとげる。実話を元にしているので、ラストに死んでいった兵士たちの遺影や結婚式のビデオが出てくる。
あまりにも酷い話で、本当に戦争がイヤになります。だけど、人間をイヤにはならない。戦争反対の人は、こういう映画を見ればいいと思うんだけど、どうも敬遠しがちなような気がする。兵士を「人殺し」と呼ぶような、雑な感性では割り切れない複雑さがある。
映画は「作戦に参加した兵士たちは立派、悪いのはタリバン」と言っているようにも思えるが、言外に「でも、悪い人間ばかりじゃない」「人間に失望しないでほしい」と訴えている。

過酷な山岳地帯でのドキュメンタリックな撮り方に、目が離せなくなる。すごく、イヤな場所に派遣されるんですよ。岩ばかりで、まっすぐ歩けない。平地なんかない。足をすべらせたら、木にぶつかるまで転がり落ちる。視界が悪くて通信にも向いていないため、4人は孤立してしまう。
そこへ、山羊飼いの老人と少年がやってくる。実は、彼らはタリバンに米軍の動きを連絡してるんだけど、武器を持っていないから殺してはいけない。じゃあ、どうするのか。
この緊迫したシーンで、山羊の顔がアップで入ったりする。とてもイライラするんだけど、演出としては、すさまじく効果的ですね。だって、その場にいる兵士たちにとっても、山羊なんて邪魔なんだもん。映画というのは、観客を二時間ジッと座らせるかわり、“座っているだけでは味わえない感覚”を、生理を通じて訴えつづけるメディアなんだよね。だから、何度も見ているうちに印象が変わったり、歳をとると別の映画のように見えてきたりする。


この作戦で死んだ兵士たちは、20~30代。冒頭に、『G.I.ジェーン』に出てきた訓練のシーンの実際の写真が出てくる。あれだけ非人間的な訓練を受けて、ようやく銃を持たせてもらえる。ヘリにも乗れる。その一方で、彼らは家族の話、新居の話なんかをしている。
日本のアニメを見ていると、何の訓練もしてない若者が「フィーリングがあった」とかいう理由で、最新鋭ロボットに乗って戦ってしまう。そして、訓練をつんだプロの軍人は冷酷で残忍に描かれている。あの感覚は平和ボケというより、ロジックとか段取りを無視しすぎていて、ちょっと怖い。

なんかかこう、「善いことをイメージした人なら、きっと善い人だ」って感覚。善いことをするには、どういう段取りを踏まなくてはならないか、そこをスキップしている。
もちろん、アニメに限った話ではない。政治も社会も、いつも明確な段取りをぼやかしたまま、のらりくらりと話をはぐらかしているように見える。その一方で、個人が何をやったのかだけは、苛烈に問いつめる傾向がある。


ちょっと他の方の意見も耳に入れたいと思い、【児童ポルノに関するアンケート】というのを作りました()。
問1で、必ずひとつ選択しないといけない設定にしてしまったので、「本当は選びたくなかったんだけど……」という人は、問2にその旨、書いてください。アンケート作るのは初めてなので、不備があってすみません。

それと、別に「何が児童ポルノに当たるのか」正解を探すアンケートではないです。どこかへ提出するつもりないです。なので、児童ポルノと直接は関係ない話を書いている人がいますが、それでもまったく構いません。

こういう、ややアバウトな場を用意しておかないと、僕自身も窒息してしまうので。あまり身構えずに、協力お願いします。

(C)2013 Universal Pictures

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2015年1月25日 (日)

■0125■

アウトサイダー・プラモデル・アート -アオシマ文化教材社の異常な想像力- 発売中
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●『亜空大作戦スラングル』、『魔境伝説アクロバンチ』、『テクノポリス21C』解説

アオシマプラモの「合体マシン」「ミニ合体」だけを網羅した、やけに濃い本を送っていただいて、「キャッチや解説のひとつひとつまで面白いじゃん!」「ページデザインもいいじゃん、悔しいなあ」と思っていたら、僕も少しだけテキストを手伝っていたのでした。完全に忘れていた。

パチモノとかC級プラモには、その道の愛好家がいらっしゃるので、僕は黙っていようと思うのですが(なので『組まず語り』でもパチモノは避けているはず)、この本には「今まで興味のなかった層まで笑わせてやろう!」という勢いがある。「マニアにさえ分かればいい」というスカした本には、なっていない。
しかも、真面目にやればやるほど笑えるモチーフを、よくぞ探してきた。大河原邦男さんにインタビューして、「直接アオシマ文化教材社とやりとりした記憶はないんです」と当たり前ともいえるコメントを引き出して、トータルとして「いい話」にまとめるセンスもいい。
この本に取り上げられている合体シリーズは、アオシマという企業の、いわば負け戦だったわけだけど、その立ち位置への理解と愛情、敬意が感じられる。こんな本になるとは、思わなかった。


アマゾンジャパンを児童ポルノ放置疑いで捜索(
週末は、この話題に振り回された。ここで言う「児童ポルノ」って、多くの人が指摘しているように、過去に合法的に販売されていたヌード写真集や、ジュニアアイドルの水着DVDだと思う。少なくとも、「性虐待の記録」という意味の「児童ポルノ」ではない。
だから、ニュースを伝える側も、ツイッターで「児童ポルノどころかアダルトグッズまで売ってるよ」と煽る人たちも、もちろん摘発した愛知県警も「児童への性虐待・性暴力」なんて頭の隅にもないわけです。「性虐待をやめさせよう」と思って糾弾しているわけではないんです。
「わいせつなもの、性的に興奮するものを取り締まろう、逮捕しよう」、それだけです。

写真集やDVDなど、目に見えるものを取り締まれば、目に見えないように隠されている児童への性犯罪が減ったかのように錯覚できる。現行の「児童ポルノ法」に効果があるとしたら、「大人たちがスッキリと罪悪感から逃れられる」、それぐらいだと思います。

だったら、「ヌード・水着画像禁止法」とでもして、風紀粛正の法律だと開き直ればいいのに、それはイヤなんだよ。「児童のためだ」って言いたいんだよね。
そして、具体的に何を取り締まったかは、漠然と曖昧にしておきたい。でも、その隠蔽体質って大人たちが性犯罪を隠す過程と、そっくりなんだよね。


あと、性虐待・性暴力の話が後退するのよ、「児童ポルノ」って言葉だと。結局は表現物規制に使われているから、「どこまでエロいのか、どこからがセーフか」って話にしかならない。
性虐待の記録、性犯罪中に撮った写真であれば、それは表現物とは呼ばないでしょう。セーフもへったくれもないでしょ? だから、「性虐待記録物」と呼ばないと、表現規制の話に引っ張られてしまう。


「連続少女暴行拉致事件 被害当事者が描く、リアルな実体験と精神世界」、映画【ら】()。
マスコミ試写に呼ばれています。めちゃくちゃ重たそうな映画なのに、主演は元AKBの加弥乃。とりあえず鑑賞して、何らかの形で応援したいと思います。

たぶん、アニメとかエンタメの話、仕事だけしていても僕は三流以下なので。求められるところには、なるべく行くようにしたいと思っている。

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2015年1月23日 (金)

■0123■

モデルグラフィックス 3月号 25日発売予定
Mg
●組まず語り症候群第27夜
今回のサブタイトルは、「乳よあなたは分かれてた」。KINGDOM DEATHというメーカーの美女フィギュア・セットで、前号同様、ゲームが元というか、このフィギュアがゲームのコマというか。
そのせいか、「プラモデル」という主張は弱いのに、完成度が異次元レベルにすごいという、おかしな具合になっています。

公式サイト()も、ちょっと見づらいんだけど、僕としてはプラモデルの本流から外れまくったキットを評価していきたいです。


レンタルで、『アイアンクラッド ブラッドウォー』。調べてみて分かったのだが、これは『アイアンクラッド』の続編とのこと。だから、「~2」ってタイトルに付けてくれないと分かんないよ。

Sub1_largeだけど、話は分かりやすい。13世紀のイングランド王国。ある小さな城が、数十人の軍団に攻められる。城の主は左腕を切断するほどの大怪我を負うが、息子に「お前の従兄弟に、とても強い戦士がいる。彼なら仲間を集めて、我々を助けてくれるはず」と伝える。息子は城を守るため、従兄弟を探す……が、心に傷を負った従兄弟は、かつての輝かしい戦歴とは裏腹に、落ちぶれた生活を送っていた。果たして、彼に戦士としての誇りは戻ってくるのだろうか……。
どうですか、ちょっと面白そうでしょう?

とは言え、前作の『アイアンクラッド』の予告を見たら、明らかに前作のほうが迫力ある。歴史考証も、しっかりしているとのこと。この『~ブラッドウォー』でも、重たい剣を相手の左胸のあたり目がけて振り下ろす描写が、生々しくてカッコいい。左胸を狙えば、確実に命を奪えるでしょ。戦争モノは、そういう冷徹なリアリズムを避けてはいけません。
(血しぶきとか傷口とか、痛々しい特殊メイクの上手い映画は、たいてい信用できる。)

その一方で、敵の軍団に美女が三人ほどいて、なぜか手足を露出したビキニ・アーマーのような格好をしているとか、そういうサービスも忘れてないところがいい。
あと、『アイアンクラッド』を見ると、どうしてこのような戦乱が起きたのかも勉強できるそうなので、やっぱり前作も見ないとね。


表現規制反対の活動で知り合った虹乃ユウキさんからの情報で、自民党の馳浩議員が、性虐待の被害者支援について、ミーティングを持ったらしい()。
「国民への啓蒙」という言葉が、心強い。やっぱり、性虐待を隠蔽しているのは、「あんな立派な父親が、そんなことするわけない」という、家父長制への盲信だと思う。だけど、日本社会の「父なるもの」は、とっくに権威失墜しているでしょう。

ただ、くだらないナショナリズムが「日本では性虐待など起きない」、「女たちは騒ぎすぎる」と、空しい熱狂を支えている。「むしろ、男が性差別されている」という主張も、「父なるもの」の崩壊からくる不安が言わせているんだと思う。
……その社会意識の変化と創作物は、決して無縁ではいられないと思うんだけどね。「中年男性が若者を叱咤する」ようなアニメには、居心地の悪さを感じる。

(C)2013 IC2 PRODUCTIONS, LTD. ALL RIGHTS RESERVED.

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2015年1月21日 (水)

■0121■

レンタルで、『モーレツ宇宙海賊 ABYSS OF HYPERSPACE -亜空の深淵-』。佐藤竜雄監督に、二度もインタビューしておきながら、今ごろ見ました。制作会社に嫌われてるから、試写状の類いは、いっさい来ません(笑)。すみません。
10で、インタビューのとき、『宝島』『銀河鉄道999』「東映まんがまつり」というキーワードは出ていて、特に「まんがまつり」感はクライマックスで高まる。ロボット(の形をした潜航艇)が出てくるせいかも知れないし、少年が父の遺産を受け継ぐ古典的なプロットが作用しているのかも知れない。僕は無責任に、「若い人が見ても面白い」とか薄甘いことは言いません。オッサンのほうが、楽しいアニメだと思います。


先日、「かつての劇場用アニメは、オジサンに若者の嗜好を知らせるツールとして機能していた」と書いたけど、今は「アニメを見ない人に、“今はこんなアニメがあるんだ”と認識させるツール」なんだろうね。
20年前の『エヴァ』ブームのころ、アニメを見ない友人に、僕は意識して「こんなアニメがあるんだよ」と熱烈にアピールして、彼は夏エヴァに付き合ってくれた。彼の娘さんも「一緒に行く」と言ったんだけど、絶対にエグい(性的にも暴力的にも)シーンがあるから、それは止めたんだ。

「いかにして、アニメを見ない人に見てもらえるか」、それが課題であるような気がする……誰にとっての課題かは、今は保留にしておく。
劇場版の『モーパイ』は、キャラ原案こそあきまんさんだけど、キャラデはテレビとは違う。かろうじて、「深夜アニメなんて見たことない」人に通じるかも知れない絵柄になっている。(「アニメは、アニメ好きの人だけが見てればいい」と思っている人は、「今あるアニメだけがアニメ、今後、自分の想像もしなかった新しいアニメなんか出てこない」と諦観してないか?)

一方で、『魔法少女まどか☆マギカ』が、あの絵柄でアニメファン以外の人まで惹きつけたことを、今更ながら思い出す。「リアルな絵にすれば見てもらえる」のではなく、「アニメファンの中でしか通じない文法は、なるべく避ける」ことなのかも知れない。


もうひとつ、『モーパイ』に限った話ではないけれど。
テレビアニメのアフレコって曜日が決まっていて、午前中にアフレコして、午後はダビングってパターンが多いんです(だから、取材のときはアフレコとダビングの中休みに呼ばれる)。
しかし、人気声優を集めれば集めるほど、全員の揃うチャンスが少なくなっていく。だから、余裕のあるうちに、アフレコだけ先に最終話まで終わらせておく。絵コンテまでは出来ていて、仮の尺は決まっているけど、原画作業はアフレコがすべて終わってから……という場合があるらしい。
だったら、予定になかった第二期をつくるようなスケジュールは難しいわけで、劇場用を一本つくるしかない。それで面白い作品がつくられたりするから、簡単に良い悪いを決められる問題ではない。

僕が『文藝別冊 神山健治』でインタビューした内容を引用すると、“同じ品質のものを均一に提供することができない”“「たまたま面白いものが出来た」という状況に50年も頼ってきた業界”なわけです。
そこに、先ほどのアフレコ優先の制作事情を考え合わせると、毎週毎週、偶発的に出来が良かったり悪かったりする状況が、とても心もとなく感じられてくる。
すばらしい作画には、週にワンカットは巡りあえる。だけど、その同じアニメーターが5年後に同じものを描けるか?といったら、絵描きさんというのは、そういうものではないんです(企画期間が長いと、キャラ表を描いた本人が「もうキャラ表の絵に似せられない」という場合もある)。


いま、テレビシリーズの劇場版が増えてるし、劇場用でなくともイベント上映ならば、少しは制作に時間がかけられるのでは――クオリティの高い映像になら、お金を払ってもいい。内容が良ければ、安物の来場者プレゼントで水増しなんてする必要はない。むしろ、1/1の展示物があれば、写真に撮って観客がSNSにアップすることが、けっこう宣伝として機能する。
「こうすれば、みんなが幸せになる」って状況が、大きな映画館に行くと、少しは見えてくるような気がする。

(C)2013 笹本祐一/朝日新聞出版・劇場版モーレツ宇宙海賊製作委員会

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2015年1月20日 (火)

■0120■

レンタルで『ダイ・ハード/ラスト・デイ』。シリーズ5作目。「~4」とか「~5」と付けてくれないと、「どうせ見ただろうから、借りなくていいや」となってしまうので、付けたほうがいいんではないか。
Szklana_pulapka_6059129ロシアが舞台で、ブルーを基調にした冷たい映像は、なかなか陰鬱で良い雰囲気。マクレーン父子が敵対しているのも、殺伐としていて好き。
カースタントが、なかなか凄い。スタント自体も大事だが、短いカットを大量に重ねているのが上手い。「映画は編集で救える」という言葉は、『スター・ウォーズ』一作目のときに生まれたらしい。フッテージ(撮影素材)がどれだけ貧相に上がってきても、テンポある編集で生まれかわる。


ただ、後半の舞台がチェルノブイリで、放射能を除去する装置が出てくるあたりで失笑してしまう。原爆や放射能を過小評価して描くのは、もはやハリウッド映画の伝統芸だ。
それ以上に、マクレーンがロシアの民間人の車を二台も盗んだうえ、二台目を盗むときに「ロシア語なんて分からんよ」と言って、運転手を殴り倒してしまうのはどうかと……。
ちょっとの爆発ぐらいでは、人が死なないのが『ダイ・ハード』の世界だと思う。なので、街中でロケット弾をかわして背後で爆発させるのは、「誰も死んでない」で説得できる。でも、あれだけの死者が出たチェルノブイリに陰謀説を付加したり、「海外が舞台なら何をやってもいい」と誤解されるような無神経さが、散見される。

僕も、「銃で撃ち合ってるだけの派手なアクションが見たい」と軽い気持ちで借りてきたんだけど、人間観って、そういう映画にも出てしまう。意図しない部分まで表出してしまうので、表現は怖いと思う。
もちろん、僕自身の人間観が変わったせいもある。フィクションに求めるものも変わった。撃ち合いと爆発が、えんえんと続くだけの映画をボーッと見ていたい欲求もある――。


友だちとのメールで、お互いに「今期の深夜アニメは、アレが面白い」「いや、期待したより面白くなかった」とやり合っているのですが。やっぱり、子どもが生まれると、深夜アニメに時間を避けないそうなんだけど、実は彼のほうがアニメのソフトを買っている。買うときは、全巻まとめてドカッと買う。なので、業界にとっては、彼のほうが「お客さん」だと思うんだよね。

僕は、変身バンクを気に入って、バンク目当てで毎週見ていて、ストーリーは問わなかったりする。絵柄、もっというと「線」が好きで見ているとか。どんどん、部分評価になっている。オープニングや変身バンクだけ集めた、安いソフトが出れば買うのに……と思っている。
深夜アニメぐらいは享楽的でいいだろう、と思う一方、「僕が中高校生のころのアニメは、社会に拮抗していたなあ」と思い出したりもする。劇場公開によってアニメが実写映画と並ぶことで、若者の嗜好をオジサンたちに知らしめる回路ができていた。ラジオの映画レビュー番組で「『ガンダム』ってのを見たけど、よく分からなかった。だけど、ロボットのデザインはセンスいいね」と映画評論家が語っていて、「ざまあみろ!」と喜んだりもした。

今のアニメがどうとかいう以前に、若者とオジサンが分断しているか、オジサンが若者の気分のままでいすぎるのかも知れない。そのために、お互いの相違を認識する回路が(必要)なくなってしまったのかも知れない。お互いに知らしめるべき価値意識を、フィクションに込められていない、あるいは読み取ろうとしない、そういう怠慢もあるのかも知れない。

こんな社会だから、引きこもりも悪くない。だけど、フィクションって、社会と接続してしまう。自分の部屋でこっそり作った作品であっても、ネットに乗ったら、双方向になってしまう。批判も受ける。そう簡単に、現実逃避はできない。
でも、社会に接続しながらモラルを磨いていかないと、作品の出てくる土壌そのものが腐りかねないからね。土壌だけは枯らしてはならないと思っている。

(C)2013 Twentieth Century Fox

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2015年1月17日 (土)

■0117■

【懐かしアニメ回顧録第2回】CGアニメ黎明期に制作!モバイルネットの近未来を描いた「プラトニックチェーン」) アキバ総研

『プラトニックチェーン』は、十年ちょっと前の作品だけど、あの頃のネット環境、アニメの視聴環境の寂しさ、のどかさを考えると、十分に「懐かしい」と思う。当時は『地球少女アルジュナ』のDVDとVHSのブックレットやキャッチコピーを担当していたけど、テレビ放送後、半年もたってからソフト発売ですからね。のどかだった。

記事としては、最初はモデグラの『組まず語り症候群』のように、崩した文体で書いていたのですが、修正指示があった末、いまのような大人しい文体になりました。
連載のスタイルが固まってくるのは、四回目か五回目ぐらいからかな。


レンタルで『トランスフォーマー/ロスト・エイジ』。最近の洋画は「~2」とか「~3」とか付けてくれないので借りるときに迷うが、四作目である。
E74vfx001_large前作の戦いの後、人類側はロボットたちを味方ではなく敵と見なし、彼らのテクノロジーを各国が争い求めている――この設定はいいね。結局は、敵・味方の構図に持ち込んでしまうから、クライマックスはワンパターンなんだけど。

倒されたはずの敵が、人類(というか米国)のロボット再生プロセスを利用して復活する、というアイデアも冴えている。でも、シリーズとしては人類側のつくったロボットだけを敵にしたほうが、新味が出たんじゃないかな……。
ところで、味方のロボットが、収監されていた罪のない異星のエイリアンを「気持ち悪いヤツ」とか言って撃ち殺していたけど、ひさびさに、ハリウッド大作で「政治的に正しくない」無神経な描写を見たような気がする。


もう一本、『オレンジと太陽』。17世紀から行なわれていた児童移民に取材した映画。
Oranges_and_sunshine_david_wenham_a「え、児童移民って何?」と戸惑っているうちに、淡々と映画は進んでいくのだが、『エリン・ブロコビッチ』のように、ひとりの女性が社会正義のために立ち上がる話だと分かってくる。
ただ、エミリー・ワトソン演じる社会福祉士は、エリン・ブロコビッチのように強くないので、精神的に追い込まれてしまう。児童移民には教会が関与しているため、脅迫も受ける。
親から引き離された人々のために奔走するエミリー・ワトソンの家に、どっさりと洗濯物が積まれている描写が、なかなかエグい(家事にまで手が回らないのだ)。

「もうこれ以上は、他人の不幸を抱え込めない」と音を上げたエミリー・ワトソンに、児童への性虐待が行なわれた教会を見学しないかと、被害者の青年が誘いをかける。
その教会には、まだ牧師たちが暮らしている。もちろん、自分たちの悪行を暴いて回っている社会福祉士の名前は知っているので、何とも気まずい空気が流れる。

だけど、どうして欧米では牧師が男児を性虐待するんだろうか? やっぱり、権力が関係してるんだろうか。2000年前後に大スキャンダルになったけど、日本ではあまり知られていない。意図的に報道してないんだろうな。
本気で性虐待と戦おうとすると、権力と対峙することになるんだと思う。だから、性虐待を問題としながらも、国家権力と仲のいい福祉団体は信用できないんだよね。

(C)2014 Paramount Pictures. All Rights Reserved.
(C)]Sixteen Midlands (Oranges) Limited/See-Saw (Oranges) Pty Ltd/Screen Australia/Screen NSW/South Australian Film Corporation 2010

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2015年1月15日 (木)

■0115■

EX大衆2月号 本日発売
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●タイムボカンシリーズ魅力解剖
タツノコプロの長尾けんじさん、依田健さんに、『夜ノヤッターマン』のこと、過去のタイムボカンシリーズのことをインタビューしています。
『夜ヤッター』は三悪が主役なので、過去シリーズの三悪にスポットを当てた解説も書きました。
こういう、少ない文字量で正確な情報を書くには、複数の資料に当たって、不必要な情報は無視して、使えるところを掬い上げるセンスが必要。取捨選択と要約ができないと、単なるコピペになっちゃうんですね。


『性犯罪被害にあうということ』という、レイプ被害者の手記を読んでいて、痴漢に合うたび、フラッシュバックのような体験が起き、そのたびにトイレで吐いてしまうという描写が出てきたので、驚いた。
僕も、最初に付き合った女の子からは、たまに痴漢被害の話を聞かされた。未成年者が、初めて異性に身体を触られるのが痴漢被害によるもの……という説に、今さらながら説得力をおぼえる。男性が想像する何倍、何十倍も、痴漢被害は深刻だ。

ところが、女性専用車両を肯定したりすると、Twitterでは大いに絡まれる。「女尊男卑」を標榜する人たちがいて、女性専用車両はもちろん、「日本社会では女性が優遇されすぎ、男性が差別されている」、中には「黒人並に差別されている」という人までいた。
僕には、ネトウヨの幻想する在日特権と変わらないように聞こえる。ようは、自分個人が不遇な思いをしているだけなのに、「在日外国人が得している」「女性が優遇されている」と、話を公の問題にすり替えている。

はてな匿名ダイアリー『元露出狂が綴る防犯対策』()の中に、「人生を充実させたらいいかもしれません。僕は人生でうまくいかないことがあれば、露出の頻度が高まる傾向にありました」という一文がある。
どうすれば人生が面白くなるのか、どうすれば充実するのか。それを徹底的に考えたうえで、まだ他人のせいに出来るかどうか。自分の人生が楽しければ、無闇に他人を攻撃するヒマなどなくなるだろう。


僕の不満はといえば、児童福祉的な立場から性虐待・性暴力に反対する人たちが「児童ポルノ」という概念に対して、やけに鈍感というか、あえて現状のまま放置しているのではないか?という疑念。
児ポ法改正案提出者の遠山清彦議員が、「性的虐待が実際に行われているが、顔のみを写した動画ということでございますが、顔のみが描写をされていて性的部位が描写されていない場合には、本法に基づく児童ポルノには該当しないということになります」と法務委員会で述べたとおり()、児童ポルノを禁止しても、性虐待は決して減らない。むしろ、性虐待をお目こぼしする法律が「児童ポルノ禁止法」なのだ。
(書きづらいことだが、顔面に精液をかけられた児童の写真は「児童ポルノ」ではないため、今でもネットに出回っているという。)

公開討論会に参加してくださった土屋正忠議員も、性虐待の解決策については、話をはぐらかした。児童福祉の立場に立っている人たちも土屋議員と同様、性虐待と「児童ポルノ」をわざと切り離して、後者を「わいせつ物禁止」のために存続させようとしているかに見える。
わいせつ物を禁止したいなら、刑法175条なりで対応すべきであり、児童権利の保護を訴えながら性虐待の記録画像を無罪放免するような誤った法律を活用すべきではない。

僕は「児童ポルノ」という呼称自体に問題があると思うので、「児童性虐待記録物」と呼ぶよう、ポストカードを自費で刷って、せっせと市議会議員や都議会議員に送付している。

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2015年1月12日 (月)

■0112■

昨日のスーパーフェスティバルにご来場の皆様、ありがとうございました。
Cadn3att僕の同人誌[Fig 50's]は、60冊刷ったうち、5冊ぐらい売れました。中には、フィギュアの写真を撮影して「ガレージキットにして売らないんですか?」と言ってくれた方もいたのですが、やっぱり、僕のフィギュアにはポピュラー性がない。

それが分かっただけでも、本をつくった意味はありました。


レンタルで、サウジアラビア映画『少女は自転車に乗って』。
163098_1監督は、サウジアラビア初の女性監督ハイファ・アル=マンスール。この映画は、サウジでは公開されていない。メイキングを見て驚いたが、スタッフはドイツ人男性たち。
サウジでは、女性と男性が公の場で仕事をしてはいけないので、監督は車の中からトランシーバーで、俳優たちに指示を出さねばならなかった。また、保守的な考えの住人や警察にも邪魔され、ゲリラ撮影をすることもあった。

苦しい撮影事情が、そのまま映画のテーマにつながっている。
主人公の少女は自転車を欲しいが、お金がない。そこで、学校で行なわれるコーランの暗唱コンテストの賞金をあてにする。ところが、少女には信仰心がまったくない。そんなことより、自転車で思いきり、街を駆け回りたいと願っている。


無論、監督はイスラム世界で女性の自由が不当に抑圧されていることを、海外に訴えるために危険をおかして映画を撮ったわけだ。
サウジアラビアに、欧米文化はどれぐらい入り込んでいるのだろう?と思って見ていると、なんと、主人公の父親はプレステ3で、FPSを楽しんでいる。中東の大部分の国では、PAL規格というドイツ製の映像信号が使われており、ゲーム機も欧州経由で入ってくるらしい。

この映画は、ヴェネツィア、ドバイ、ロッテルダムの映画祭で賞を受けた(ドバイはイスラム国だが、宗教的制約は非常に薄く、開放的な国だと聞く)。
たまたま、フランスの襲撃事件の直後に見たせいもあって、複雑な気分にさせられた。淀川長治は「いろいろな国の映画を見れば、戦争などなくなる」と言ったが、その通りだと思えてくる。

ただ、先日も『魔女の宅急便』について書いたように、日本映画は国内事情を描こうとしない。無国籍にすればするほど、実は国際性を欠いていく。「最も国内的な映画ほど、最も国際的である」、これは宮崎駿の言葉。
曖昧に現実逃避しようとする国民の態度が、映画にあらわれてしまっている。


昨日、スーフェスが終わってから、友だちと話したのだが、何より「痛い」のは、自分の趣味・嗜好の領域に問題を引き寄せ、矮小化し、その中でだけ話をしたがる人たち。
たとえば、アニメにまったく興味のない一般人の前で、自分の好きなアニメがどんなに素晴らしいか熱烈に語って、座を白けさせた経験は、僕にもある。

アニメに限らず、仕事の話でも何でも、自分だけが知っている狭い世界を普遍的であるかのように語ると、共通言語がなくなって、コミュニケーションが分断してしまう。
世間で「キモイ」と言われているのは、そういう人たちだと思うんですね。で、「分かる人にしか分からない」ように作られた作品が「キモイ」と言われるのも当然のことなんだけど、別の角度からスポットを当てたときに研究的価値が出たりするので、なくなって欲しくないと思ってます。

(C)2012, Razor Film Produktion GmbH, High Look Group, Rotana Studios All Rights Reserved.

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2015年1月 7日 (水)

■0107■

レンタルで、『魔女の宅急便』。
G2_4もし、この映画が80年代に存在したら、「日本を舞台にしてもファンタジーは成立するんだ!」と狂喜したと思う。それぐらい、まずSFXのセンスがアナログっぽい……というか、80年代でも十分に可能だったであろうSFXが多い。ジジはCG製だけど、どこかアニマトロニクスのような雰囲気が残る。いっそ、ジム・ヘンソンのように、すべてアニマトロニクスのみで撮影したら、多分、ハートを射抜かれていたと思う。

『赤いカラスと幽霊船』という、1989年の横浜博覧会のみで上映された実写ファンタジー作品があって、いま思い出したけど、宮崎駿が幽霊船のデザインを担当(子どもの描いた絵をクリンナップ)していた。日本人キャストなんだけど、赤いカラスはジム・ヘンソン・クリーチャーショップが動かしていた。
僕は、「宇宙船」で『赤いカラス~』のスチールを知っただけで本編映像は見ていないんだけど、日本でも『ラビリンス/魔王の迷宮』のようなファンタジー映画がつくれるんじゃないかと、夢を膨らませた。
そのとき想像したのがちょうど、今回の『魔女の宅急便』のようなイメージだった。日本だけど、日本ではない舞台。日本人が出てるんだけど、怪獣映画ではないSFX映画。『未来忍者』や『ガンヘッド』も、「日本でもSFX映画がつくれるぞ!」という前のめりな情熱の産み落とした、“偉大なる失敗作”だったのだと思う。


結局、SFX的な感性というか、「日本を舞台にした邦画なのに、洋画のような目線で見られる恥ずかしくない作品」は、『時をかける少女』だったりするわけだけど……日本の風景の再発見という意味では、尾道三部作か。背景をマットペインティングで描いているのも、センスがいいと思った。
『魔女の宅急便』も、香川県の島でロケして、どこか異国情緒が漂うように粉飾してはいるんだけど……それゆえ、「なぜ、実際の日本は今のような景観になったのか」考えさせられてしまう。魔法を成立させるために、携帯電話もコンビニも、テレビすらない世界(デジカメの代わりに8ミリフィルムが使われている)に設定してるんだけどね。だけど、それはリアルな日本の風景、状況と向き合っていないんだ。

郊外に大型量販店があって、車さえあれば不自由のない生活の中に、本当に魔法は成立させられないのだろうか?
最近では『ウルトラミラクルラブストーリー』のような不思議な映画もあったし、沖縄だけど『ウンタマギルー』が、現代を舞台にしたファンタジーだった。
厳しいことを言うようだけど、ネットもスマホのある現代の日本に、ほうきで飛ぶ魔女を登場させられたとき、「日本を舞台に実写で撮る」意義が、厳然と立ち上がってくるのだと思う。

キキが「お前は魔女だから、お前の運ぶ荷物には呪いがかかっている」と厭われるプロットは、いいセンいってると思った。日本で、日常的に見られる光景だから。だから尚のこと、異世界の話にして欲しくなかった。


それと、この映画に限ったことではないんだけど、「思いの強さ」が問題解決してしまうんだよね。日本映画って。
問題は、戦術レベルで解決しないといけないよね。精神で勝とうとしたから、日本は負けたんだよね。だけど、邦画の主人公って、戦術をほったらかしにして、みんなの「思い」や自分の「思い」をかみしめて、ジーンと立ち止まっていることが多い。いやいや、そんな時間があったら、タクティクスを遂行しなさいよ。ジョン・マクレーンだってハンニバル・レクターだって、戦術で勝ったはずだよ。
「思い」「精神」のみで乗り切る作劇を平然とやってしまうのは、日本の政治や歴史と無関係ではないと、僕は思っている。特攻精神を脱却してないんですよ。

(C)2014「魔女の宅急便」製作委員会

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2015年1月 6日 (火)

■0106■

次の日曜(11日)に開催されるスーパーフェスティバル67()にて、コピー誌[Fig50's](フィグ・フィフFig50s_hyoushi_image テーズ)を販売します。カラー4ページで、一部100円の予定です。
(D-20 Hard Pop Cafeにて)

表紙デザインは、プロデザイナーのべっちん氏、本文デザインはギムレット氏にお願いしました。
内容は、今まで作った3体のフィギュアのメイキング、何を考えてこういう造形にしたのか?という話です。フィギュアって、「市販品のように作ろう」と考えたとしても、その時点で思想が出てしまうんですよね、「市販品に準拠する」という。
技術だけで評価する人が多いんだけど、「俺ならこうする」という考え方が面白いんです、人の作るものって。


『ベイマックス』をめぐって、日本アニメが負けた、いや負けてないといったやりとりを見かける(議論ってほどのものでもないと思う)。
誰にどう言われようと、世間に認められまいと、自分が好きだと思った作品を渾身の力で愛すればいい。認めてほしいと思ったら、世間に伝わる言葉・方法で訴えればいいんだし。

「世間」と「アニメ」の話になると、いつも鬱屈した心理が噴出して文脈を捻じ曲げてしまいがちだけど、もともと日本のアニメはルサンチマンをバネにして世の中に出てきたからね。1979年の『ガンダム』放送時、「テレビまんが」って言葉が当たり前に使われていて、「アニメ」と呼んでいるのは一部のアニメ好きの人だけだった。「まんが」と呼ばれると、とても腹が立った。
だから中学のころ、クラスの男子全員が『ガンダム』の劇場版を無視できず、徹夜組まで出たときは、ようやく報われた思いがした。

ところが、高校に入ると、早くも「アニメを見ているヤツらは暗い」と言われはじめ、また底辺に叩き落されるんだよな。その頃には、女性キャラのヌード・シーンを写真に撮るようなマニアが生まれていたから、しょうがないのかなとも思ったし、「俺はあいつらとは違うんだ」と、同属嫌悪のような感情もいだいた。
1982~85年ぐらいにかけて、劇場アニメも大ヒットには至らず、ハイティーンでアニメ好きだった人たちはOVAのように嗜好の偏ったものを受け入れるか、アニメ以外の趣味を見つけるしかなかった。そのベクトルのまま、30年が経過してしまったのではないか……と、ふと思う。


ちょっと話がとっちらかりそうなので、「なぜ『ベイマックス』の出来がいいと、日本のアニメが萎縮しなければならないのか?」 そういう雑駁としたリアクションが散見されるわけだけど。
僕が「かなわんな」と思ったのは、『キャプテン・アメリカ/ウインター・ソルジャー』で、70年後の世界に蘇ったキャプテン・アメリカが、現代の常識をノートにメモするシーン。メイキングを見ると、その「現代の常識」は、各地域ごとに内容を変えてあるんだよね。アメリカ国内の出来事ばかりだと、他の国の観客が置いてきぼりをくうから。「世界中の観客に親近感を持ってもらうのだ」って、その気概と自信に、まずは圧倒された。
それで、そのノートのバージョン違いに、「日本の常識」ってのは含まれてなかったの。さすがに、疎外感をおぼえた。ショックだったね。

つまり、かつては「ハリウッド映画の市場としては世界第二位」とまで言われた日本が、ひょっとして、もう有望な市場と見なされていないのではないか?という焦り。
なのに、クリエイターたちの日本文化リスペクトは強まる一方……という、この隔靴掻痒たる気持ち。それなら、僕は分かるんだ。『スター・ウォーズ』の新作の特報を見ても、「やっぱり、黒澤明だぞ、この演出は!」って唸らされるし。
だから、これはどっちが勝った/負けたといった、ネットにありがちな「黒でなければ白なんだろ?」って性質の話ではないと思う。

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2015年1月 3日 (土)

■0103■

きっかけはHEROMANのフィギュアから。「ベイマックス」コンセプト・デザインのコヤマシゲト インタビュー!)――アキバ総研
T640_664649とても良い取材でした。記事としては、貴重なラフ画稿をたくさん掲載しているので、ぜひ楽しんでください(使用しているのは、日本で使われている作監修正用紙です。ちゃんとコヤマさんに確認しました)。
コヤマさんがディズニー作品に参加されたことは、例外的なサクセスのようでいて、記事の最後のほうにある、「緊張して黙っているなんてもったいない、怒られてもいいから、とにかく話しかけてみよう」、この誠実な姿勢がすべてを語っていると思います。

この取材は、ディズニーさん、宣伝会社さんの対応も良かったんです。まず、コヤマさんは原稿を手直しするけど、ディズニー側は直しを入れない。それを、取材の前に言ってもらえたんです。問答無用で宣伝担当が赤を入れてくる日本のアニメ会社とは、裁量権の考え方が違う。
「EX大衆」で組んだマーベル映画特集のときも、同じ対応でした。作品タイトルとソフトの発売元、値段、それから版権表記だけは間違いなく入れること。以上です。記事内容には、ディズニーも他の映画会社も、まったく口出しはしません。その方が、こちらにも責任感が生まれます。


レンタルで、『セブン・イヤーズ・イン・チベット』。
Seven_years_in_tibet_61997年公開だそうだけど、その頃は劇場版『エヴァ』で大変だったから。夏も春も、八王子の映画館で見たんだけれど、洋画を見た記憶というのは、ほとんどない。
いま、「新劇場版」の情報をちょっと検索してみたんだけど、なんとなく『エヴァ』最終作が公開されたら、「日本のアニメ、今までごくろうさまでした」って、終わってしまう(無くなるという意味ではなく)感じがしてきた。局所的には野心的な試みがくり返されているんだけど、「日本アニメ(ーター)見本市」にも、一種の焦りを感じずにいられない……。
今日、武蔵境駅前を歩いていたら、「アニメの町、武蔵境を舞台にしたアニメが始まる!」と書かれたポスターが貼ってあり、よく見たら『SHIROBAKO』の番宣であった。石黒昇監督と歩いた、思い出の通りだったこともあり、少し切なくなってしまった。

『セブン・イヤーズ・イン・チベット』は、異文化との交流よりも、ブラッド・ピットが次々と身分や家族を失っていき、ダライ・ラマ14世が彼の息子のように見えていく過程が面白かった。そのダライ・ラマにさえ、「あなたを父だと思ったことはない」と言われてしまい、それでもまだ生きねばならない。
ブラッド・ピットはダライ・ラマと別れ、まだ見ぬ息子と対面することを決意する。映画の中の人物たちは、時計やオルゴール、スーツなどを得たり失ったりする。その輪廻が、チベット仏教の思想とリンクしたりするのかな……と思いがちだが、そんな簡単なところに落としどころをつくらないのが、映画の奥深さだ。

(C) 1997 Mandalay Entertainment. All Rights Reserved.

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2015年1月 1日 (木)

■0101■

母の命日なので、武蔵境の花屋で、アネモネの花束を買ってきた。
店員さんがとても丁寧に包んでくれたので、「ありがとう」と、お礼を言った。年末、靴を修理に出したり、スーパーフェスティバルで売る物を宅急便屋に取りに来てもらったが、宅急便のお兄さんが「あれ、廣田さん? 以前、○丁目のマンションに住んでいた廣田さんですよね?」と話しかけてくれて、そんなことも嬉しかった。

雪の降り出しそうな曇天だ。
大学時代、友人が「今にも雨が降り出しそうな雰囲気が好きなんだ。この空気の湿り気や、かすかな雨の匂い……分かるか?」と話していたことを、たまに思い出す。


母が亡くなって4年、妻と離婚して10年になる。
もし離婚せず、「これが身の丈にあった幸福なのだ」と自分を騙して生きつづけたなら、あれから何か得るものはあっただろうか?と、考える。強気な妻の付属品、オマケとしての人生しか与えられなかったに違いない。

昨年は、GMOメディアが、フィギュアを「児童ポルノ」と呼んだことに対して署名活動を行い、引き続いて「児童ポルノ」という定義曖昧な呼称自体を改め、「児童性虐待記録物」と呼ぶよう、さらに大規模な署名キャンペーンを行った。
最初は表現規制に反対する意味合いが強かったが、「性虐待」の実態を知るべきだと思い、本を読んだり、NPO法人の会合に出席するなどして、ショックを受けた。そして、「児童ポルノ」という言葉に対する懐疑心も、ますます大きくなっていった。


僕の母親は、なぜ殺されたのか。あるいは、僕の父親は、なぜ自分の妻を殺したのか。
父親が、僕や母のことを自分の所有物で、殺すも生かすも俺の自由だと思っていたからですよ。父親は、僕の考えることにケチをつけ、僕の行動を疑い、嘲笑い、「ぶっ殺されてーか?」と脅すことも度々だった。

性虐待も、これと似た構図が引き起こしているように見える。「俺の子どもなんだから、俺が何しようと勝手」。性的嗜好よりも、子どもに対する支配欲・征服欲が原因。そう指摘する専門家が何人かいるし、僕が見聞した範囲でも、そのように感じられる。
家庭には、大人と子どもの絶対的服従関係が横たわっている。学校も、生徒の教師への隷属をベースに成り立った施設。だから、生徒への虐待、セクハラ、暴行は当たり前に行なわれ、他の生徒や保護者、教師や教育委員会が隠蔽する。
性虐待も、「一家の恥」なので、まず母親が子どもを疑い、叱り、あるいは無視する。子どもの弱い立場につけ込み、事件を「なかったことにする」陰気で卑劣な構造が、家庭や学校には巣くっている。

公判で父親の弁護に回った親戚たちは、「私の兄なのだから、弁護するのは当たり前」と言っていた。
僕は、僕の父親が「何をしたのか」を最上位に考えた。それが、人として「当たり前」の態度だ。父親だから許す、家族だから弁護するなどという怠惰で卑屈な考えが、数多の悲劇を隠蔽するのだ。


僕は、弱者が割をくらう、あらゆる事態に反対する。力や立場にモノ言わせて好き勝手をしている連中を倒したい。いま苦しい思いをしている人たちを、解放したい。
政治家は、例えば性虐待に対して冷淡だ。なぜなら、「力のある側が弱者を支配する」構造にクサビを打ったら、彼らの立場が脅かされる。だから、「児童ポルノ」という概念を使って、「悪い連中は、家庭や学校の外にいる変態性欲者だ」と、目くらましを行なう。
スクール・セクハラと戦うNPOの代表は「学校の外ではなく、学校の中をパトロールすべき」と言った。教師や親こそを、まずは監視すべきなのだ。しかし、国会議員には、有権者を疑うような勇気はない。

だから、僕たちがやらないといけない。
『性的虐待の時効は大人になるまで停止して下さい。子どもが全国どこでも助けを求められる体制を!』()……この署名の集まりが今ひとつなのも、結局は「家庭内で性的な事件が起きている」事実を直視したくない人が多いからではないか?と疑っている。
この事件の加害者は叔父だけれど、つまりは「父」や「男」、「大人」といった力ある立場を横暴に使うものたちへの反抗ですから。社会全体の立ち向かうべき課題です。

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