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レンタルで、『クロニクル』。3人の冴えない高校生が、ある偶然から超能力を手に入れる。最初はスーパーマーケットなどでイタズラに使っていたが、やがて、彼らの能力は限界をこえていき……というプロセスを、擬似ドキュメンタリー・タッチで撮っている。
一部に熱狂的なファンがいるらしく、TSUTAYAには5本ぐらい在庫があった。僕も、他のディスクに入っている予告編を見て、一発で見ないではいられない気にさせられてしまった。
YouTubeにアップされていそうな親しみやすさが、ひとつの強みだろう。僕が大学生ぐらいの頃にこの映画を撮ろうとしたら、8ミリフィルムかビデオカセット式のカメラを使うしかなく、発表しようとしたら上映用の機器が必要だった。そもそも、撮った映像を見てくれる人を、物理的に集めなければならなかったはず。
ところが、今なら日常のちょっとした映像を、誰もが世界中に発信できる。その頃から、映画に求められるリアリティが変質した。「どうせCGだろ?」という冷めた視点と戦うために、擬似ドキュメンタリー形式は有効だと思う。『クロニクル』を見ていて何より楽しいのは、「もし自分の身に同じことが起きたら、どうしようか?」と想像することだ。種明かしのプレビズ映像を見たあとでも、その、いわば卑近すぎて低レベルな楽しさは変わらない。
ともかく、『クロニクル』を見ていると、とても贅沢な時代を生きていると感じることができる。
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一方で、これまでどおりのフィクションには、リアリティに対する厳しさが求められているように思う。3月7日に公開される映画【ら】は、監督自らが遭遇した性犯罪体験をもとにしていることが強みだ。ドキュメンタリックではないが、実体験的に撮られている……かと思うと、主人公の内面世界も平行して描かれる。現実世界は加害者の時間軸で進行し、内面世界は時間の静止した被害者たちだけが共有できる空間として描かれている。
その詩的な構成が、「他人事」ではない切実さをかもし出す。
だが、何よりも僕を身構えさせたのは、水井真希監督の「これから被害者にも加害者にもなりうる全ての方に」という一言だった。男性は圧倒的に「加害する性」で、僕も「加害する可能性」から逃れられない存在だからだ。
男性は、「強姦や暴力を介さないと異性とコミュニケーションできない加害者」と自分とを、重ね合わせて見てほしい。
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やや映画とは離れるが、僕は独身中年男性であるかぎり、女性や子どもの側から「怖いおじさん」と呼ばれる覚悟をしている。「そのような印象を持つのは、僕に対して失礼だ」とは思わない。
性虐待や性犯罪をなくしたい動機には、むろん幼稚で自己中心的で、支配欲求だけが肥大した加害者への嫌悪もある。だけど、「彼らと僕とは厳然と違います」などと言い訳するつもりはないし、そんな言い訳は通用しない。たとえば、痴漢の話題を出すとヒステリックに反応するのは男性側だ。彼らの傲岸不遜な他人蔑視の態度にこそ、僕は加害対象を人間扱いしない痴漢たちと同質のものを感じてしまう。
(性犯罪は対人意識のゆがみが引き起こすのだと思う。)
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「サバイバーズ・ギルト」という言葉がある。本来は、戦争や災害で生き延びた人たちが、犠牲者に対して抱く罪悪感を指す。僕は、性犯罪の被害者のこうむる精神的損失があまりにも大きいことを知り、40数年間も性犯罪に対して鈍感に生きてきた自分を恥じた。
だからせめて、被害者たちの側にたって性犯罪を考えようと決めた(決めたというより、被害者たちの告白を読んでいくと、彼らの側に立たざるを得なくなる)。被害者たちのダメージに比べれば、僕が「怖いおじさん」扱いされることなど、蚊に刺されたほどの痛みにも及ばない。
映画【ら】については、あらためて語りたいと思う。
(C)2011 Twentieth Century Fox
(C)NISHI-ZO 西村映造
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