■1028■
レンタルで、『フローズン・タイム』。失恋したショックから不眠症になり、なぜか時間をストップさせる能力を身に着けてしまった画学生。彼は、眠れない時間を使って、スーパーマーケットで夜勤のアルバイトをはじめる。
タイトルにもなっている「時間を止める能力」に特に意味はなく、演出として面白く使われる程度。だけど、「夜のスーパーで働く」設定がいい。恋人にフラれたまま、毎夜、永遠のように長い8時間をやりすごす。その無味乾燥とした非生産的な滞空時間こそが、「凍結された時」であることは、言うまでもない。
スーパーの従業員みんなでフットサルの試合をやるんだけど、夜のコートでやるんだよね。それがまた、時間の流れを感じさせず、広漠とした雰囲気をかもし出す。夜って、美しい。
よく、「俺の二時間を返せ」という人がいるが、この映画のように、あらかじめ「二時間の間隙」として、人生に占位しようと試みる映画もある。
監督はファッション写真家とのことなので、撮影はきれい。恋愛映画につきものの、パーティのシーンも、ちゃんとある。人生に退屈しているときにこそ、見るに値する映画だよ。
■
児童ポルノ禁止法について、よい記事が二つ。
『児童ポルノ禁止法は矛盾だらけ! 子どもを性的虐待から守る目的をお忘れか?』(■)
『【神戸女児遺棄】容疑者が閲覧していた「児童ポルノ」の定義を考察』(■)
児童ポルノ禁止法は「児童の権利を擁護することを目的とする」(第一章 第一条より)。社会風紀を取り締まるのが目的の法律ではありません。
ところが、同法の児童ポルノの定義が「性欲を興奮させ又は刺激するもの」を基準としているため(第一章 第二条)、性虐待の証拠となり得る画像であっても、「児童ポルノ」にあたらない場合がある。ここで、法の目的がねじれてしまっている。
ねじれてしまっているのをいいことに、例えばコンビニで売っているエロ本を「あんなのは児童ポルノだ」と、吐きすてるように言う人がいる。
GMOメディアが、フィギュア作品を「児童ポルノ」と呼んで削除しようとしたのと同じです(■)。そこには被害児童が存在しない。被害児童を視界から排除し、「性欲を興奮させ又は刺激するもの」だけを攻撃したいとき、「児童ポルノ」という言葉が、手軽に、便利に使いすてられている。
■
つまり、法律のおかしな部分を、国民の側が精査せずに乱用してしまっている。このだらしない状態、しかも被害児童の存在をほったらかしにして暴走している状態が、僕はイヤなんです。
「被害者はさておいて、加害者を定義して罰することが最優先」なのは、児童ポルノ禁止法にかぎらず、社会の潮流になっていると僕は感じています。
誰もが余裕がない、議論する時間も場もないから、とにかく早く切って捨てたい。だから、たとえばエロ漫画を読んでいるオタクを性犯罪者にしたがる。「もう面倒だから、アイツラが悪いってことにしよう」となる。そこにはやっぱり、被害者はいないんですよ。被害者救済を具体的に考えるのが、面倒だから。
殴ったり、罵詈雑言を浴びせるだけが暴力ではない。面倒だから制度を曲解して使ったり、議論や思考を放棄すること、主体性を捨てて多勢に流されることも、暴力に繋がるんです。
(C)2005 LEFT TURN FILMS-CASHBACK FILMS
| 固定リンク
コメント