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チャンネルNECOで、『ガッチャマン』。これは友人二人が見に行って、「もうケナす気力すら沸かない」と呆然としていた映画なんで、最初は笑いながら見ていたんだけど、ベルク・カッツェ登場のあたりから、身を乗り出すほど楽しんだ。カッツェ役は、初音映莉子という女優なのか。カッツェが、すべて持っていった。
まず、カッツェはガッチャマンになり得る適合者でありながら、そのまま死ぬことも出来たんだけど、あえて敵のボスになった……という背景がいい。今いち納得いかない設定だろうけど、そのほうが詩的な感じが出る。「整合性はないが、なんとなくいい」なんてシチュエーションは、小説でも映画でも、山ほどある。
しかも、かつての恋人であるコンドルのジョーの元へ現われて、ジョーをキスによって感染させて、半分ほどギャラクターの血をまぜてしまう。私についてくるか、それともガッチャマンのままでいるか、自由にしなさいって誘いをかけるわけだ。
それが物語の中盤。そういう極私的な、内面的な葛藤を、映画の真ん中に持ってくるセンスがいい。そのあとの「地球の主要都市を救う」なんてシークエンスは、歌舞伎の演目みたいなものであって、メインテーマは「カッツェを殺せるか、それとも誘惑に負けるか」なんですね。
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で、敵の要塞へ突入するんだけど、もはやカッツェとジョー以外、何も見る必要はない。
二人が戦っているところへ、主人公のケンが横入りする。その攻撃で、カッツェのマスクの左目部分が外れる。同時に、ジョーのヘルメットの左目部分も割れている。ジョーは、普段は左目を髪で隠してるんだけど、ギャラクターの血に感染してからは、左目が赤くなってしまう。その赤い左目が、ヘルメットが割れて露出してしまっている。同時に、カッツェの左目も露出する――。その段取りが、まるでデザインのように綺麗な流れをつくる。
映画を見るんなら、そういう部分を面白いと思えなきゃ、損ですよ。
そこから先は、暑苦しいマスクを外して、初音映莉子が素顔で剣をふるってくれる。紫のマントをはためかせて。これが実に、目に滋養ですよ。眼福ですよ。
また、セリフがいいんだ。ジョーが、かつて恋人だったころの、思い出のペンダントをちぎって捨てると、ポツリと「ああ……そっち?」 あなたは私ではなく、ガッチャマンでいつづける方を選んだのね、という意味。そして物憂げに顔をかしげたかと思うと、自分も思い出のイヤリングを捨てるんだ。無言で。そこから、また剣で戦う。
死ぬまぎわの表情が、また絶品だった。憎むような、くやしいような目でにらんだかと思うと、ふっと表情がゆるんで、最後には寂しく微笑む。そこまで描いたら、もう十分でしょう。
それ以外のすべては客引きだと思うんだけど、それは空回りしていた(笑)。荒牧伸志さんのデザインワークは、CGにはフィットするんだけど、実写では情報量が多すぎる。白組のエフェクトは、随所で小技を効かせているんだけど、世界観を補強してはくれない。
もっとシンプルでよかった。全体的に。
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それでまあ、予想はしていたんだけど、ネットでは袋叩きだね。
「みんながカスって言ってる映画は、クソミソにいじめ抜いてOKだよね」って風潮は、「自己責任」って言葉が流行りだした10年前ごろに、始まったような気がする。「みんなで叩くって決めたんだから、叩かないヤツはおかしい」と同調圧力こみの吊るし上げ。いちど悪意が決壊すると、もはや歯止めがきかない。それが今の日本人気質。
気に入らないからって、嘲笑まじりに低い点数つけてみたりさ。アニメでも、ソフトが何枚しか売れなかった、駄作決定とかさ。回避不能な「失格」のレッテルを貼りたがる。日本全体、余裕がないんだよ。それは社会構造の反映であって、みんながその趨勢に意志をもって抵抗しないと、何も改善されないんですよ。
(C) タツノコプロ / 2013 映画「ガッチャマン」製作委員会
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