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2014年6月30日 (月)

■0630■

近所の歩道橋を渡ったら、階段の隅っこに鳩がうずくまっていた。
僕が通りかかるとき、ビクッと驚いていたが、その場から動こうとしない。よく見ると、左の羽が不自然に曲がっているので、骨折してしまったのかも知れない。
――どうしよう、と考えた。線路の反対側には獣医があるが、連れて行ったら、迷惑がられるかも知れない。今から友達と会うので、家に連れて帰ることはできない。せめて、水だけでも与えられないかと思案したが、鳥がどうやって水を飲むのか見たことがない(いま考えると、ボトルのキャップに水を溜めてやれば、飲めたのかも知れない)。
しばし佇んで、「どんな生き物にも宿命があるのだ」と自分に言い聞かせて、歩き去った。

助けないまでも、気にはかけたのだ、とここに書くことで、僕は許されようとしている。
その直後に会った友人は、「ネットには現実を虚構化する力がある」と言っていた。


「現実の重力を持った出来事が、ネットに書かれた瞬間、その重みを失ってしまう」とも、その友人は言っていた。だから、物事を遠くに追いやって他人事にするには「あれはクソだな」「あいつはカスだな」と、匿名のままネットに書き散らすにかぎる。

先週は、ほぼ毎日、かつて接触のなかったジャンルの人たちの元へ足を運んだ。
そこで得られる情報は、話し手の表情や声色によって、いく重にも意味が膨らんでいく。そうして得られた実感も、ネットに書いた瞬間、「はあ? 今ごろ気がついたの?」などと見知らぬ他人に笑われてしまう。あるいは、頭でっかちな理屈で「あいつの行動は得策とは言えない」などと批判されてしまう。

集団的自衛権に抗議して、男性が焼身自殺をはかった。「バカなことを」「無駄なことを」と、安全圏から小石を投げる人たちで、ネットは溢れかえっていることだろう。


オタクという人種は、現実の生きづらさを嫌というほど肌身に感じてきた人が多いと思うので、匿名で物事を遠くにおいやることで「現実からの退避」をはかるのは、理解できる。「ネットの外へ出ろ」とは、言いづらい。
ただ、名前も身分も一切を隠したまま、自らは社会に対して意見しない、立場の違う者と話そうともしない、まるでリスクを負わない人間の言葉に説得力が出るわけがない。
漫画・アニメに対する弾圧を跳ね返せないのは、まさに「オタクがオタクであるがため」。実社会で行動しない言い訳だけはズラリと並べて完全武装するオタクの性癖ゆえだろう。

それでも、ネットに引きこもっているからこそ、出来ることだってあるはずだ……と、僕は考える。
例えば、被虐待児童を救おうとしている団体は、小さなところほど実効力のある活動をしており、それゆえに人手でもなく資金もない。どこの団体へも、ゆうちょ銀行から寄付できるはずなので、児童ポルノ法を契機に児童への性虐待に憤った人は、千円でもいいから寄付してはどうだろうか、と思う。それなら、顔を出さなくてすむかわり、ネットには「児童保護団体に寄付しました」ぐらいは書けるので、オタクのイメージアップにもなるだろう。
メディアの流布する「オタクはロリコンで変態で、いつも児童を狙っている」屈辱的なイメージを、少しは押し返せるはずだ。

団体の具体名を出してしまうと、それこそ「現実の重力」のないフラットな情報になってしまうので、書かないほうがいいと僕は判断している。
直接会った相手には、「あの団体もいい活動をしてはいるんだけど、告知の仕方で損をしている」「少しだけ寄付したけど、もう十分かな」などと、具体的に話をするようにしている。地道な活動をしている人たちほど、どことなく話が下手で、だけど一生懸命で、僕は親近感をおぼえてしまう。


僕の中で、漫画・アニメへの国内外からのいわれのない弾圧への抗議と、児童への性虐待(とその対応策)は、ゆっくりと別々のものへと剥がれつつある。
ただ、友人とも意見交換したのだが、現実に立脚しない創作物はあり得ない。「犯罪をおかさない代わりに、創作行為をしている」と言える面さえある。それはそれで是非を議論する必要があるだろう。「結論ありき」でなければ、創作物と犯罪の関係を研究するのも構わない。

そのとき、「ネットから出てこない頭でっかちなオタクたち」は、研究対象にされるだけで議論に加われないのではないかという危惧はある。(いま現在、「気持ち悪い」と糾弾の対象にはなっているわけで。)
そんなジレンマを抱えながら、右手でメディアの暴論に拳を突き上げつつ、左手で児童保護活動にかすかな接点を保っているのが、今の状態。

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2014年6月26日 (木)

■0626■

月刊モデルグラフィックス 8月号 発売中
187470357
●「組まず語り症候群」第20夜
今回のサブタイトルは『家ーイ! めっちゃホリディ』。

最近、この連載は何を取り上げても評判がよくて、「この路線で突っ走って、本当に大丈夫なのだろうか?」と、担当編集とよく話しています。最初は、僕と編集だけが「何だ、この頭のいかれたパーツ分割は」と笑いながら撮影していたのですが、最近はベテランのカメラマン氏が「僕らが何を喜んでいるのか」分かってきたフシがあって……。
ひとりぐらい、「これの何が面白いの?」という人にいて欲しいんですけどね。


どこから、何を書いたらいいんだろう。児童ポルノ法が改正され、国内外のメディアがこぞって「漫画とアニメを規制しなくていいのか!?」と大合唱しています。
僕も、次号の『創』誌で取材記事を書きますが、もうぜんぜん追いつかないです。

一方、僕が展開した『児童ポルノではなく【児童性虐待記録物】と呼んでください』署名に対しては、ほとんどリアクションがありません。
ただ、僕自身は、実際に性虐待を受けている子たちを救うための手助けができないかと考え、いくつかの団体に連絡をとっています。現場で児童保護の活動をしている人たちに接してみると、彼らはお金も時間もなく、したがって漫画やアニメを叩いているヒマなどないのです。最前線は創作物規制どころではない。
(単純所持規制も、被害者を助けることにならないと彼らは知っている。)

そういう活動をしている団体があったら、「どうせコイツラも、漫画やアニメの敵だろう」と思い込まないで欲しい。
僕は、かなり偏見を払拭できました。そういうのは、ネットの情報だけでは分かりません。


ただ、オタクは生きづらい人生を歩んできた人たちだと思うので、「敵」の存在に敏感で、被害妄想的に考えてしまうのも分かります。だからこそ、漫画やアニメを楽しみに生きている人たちを追いつめるようなマスコミの暴力的な姿勢には……「頼むから、もうやめてくれ!」と、もう声に出して叫びたいぐらいなんです。

でも、実際に僕が表現規制派の議員に会おうと動いたりすると、匿名の人から「また余計なことを」とか言われちゃうのね。「匿名で文句は言うけど、社会に対しては何もしない」ことも生きのびる方法だと思うので、僕は反論はしません。
僕はたまたま、顔も名前も出して行動したいってだけであって。叩かれるのも承知の上だし。


先週、新宿コマ劇場前で、薬をもられた女子大生たちが昏倒しましたね。
マスコミもほとんど報じず、警察は捜査すら行わないので、ネットの不確かな情報しかないけれど、明治大学の公認サークルがレイプ未遂したらしいですね。「へーえ、こっちは逮捕しないんだなー」って感じです。リアルに犯罪を行っているのは、社会的強者なんですよ。警察官だって、女子高生を買春してますよ。だけど、刑事罰は受けてない。
その代わり、アニメ・漫画好きを「児童を誘拐して殺すかも知れない」ように印象操作している。【児童ポルノ】は、オタク弾圧用語になってしまった。大手新聞の社説が【児童ポルノ】を盾に、表現の自由を軽んじるような発言をしているようでは、もう末期的ですよ。

リアルに暴力をふるっている強い者同士がおおらかに許しあい、暴力をふるう体力などないオタクを嘲り疑りながら、リアルな犠牲者を路上に投げ捨てている。正義もへったくれもない。こんなはずじゃなかった。こうまで酷いはずじゃなかった……。

もう、漫画がどうとかいう話ではないですよ。
新宿コマ劇場前で倒れていた女子大生の中には、未成年者もいたそうです。19歳以下ですね。そっちは取材せず、助けようともせず、「漫画を罰しろ」「オタクは気持ち悪い」とわめきたてる社会。責任をとらない大人。勇気のない大人。
ひとりでもいい、「僕は違う」と言ってほしいんです。この理不尽な世の中に対して、最後まで戦うと。勇気のある人は、本当に少ない。

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2014年6月22日 (日)

■0622■

Febri Vol.23 発売中
23
●『機動戦士ガンダムUC』各話解説
藤津亮太氏と分担し、僕はEp2~4を担当。Ep3のオープニング演出については、どこかで触れたかったので、ここに書きました。

●メカ作画監督・玄馬宣彦氏インタビュー
総作監として具体的にどんな作業をしたのか、各話のメカ作監との連携、そしてEp7に登場したモビルスーツの由来。生き生きと楽しそうに語ってくれました。

●渋キャラオヤジ列伝 第十一回 スベロア・ジンネマン
ジンネマンについては『俺の艦長』でも書いたので、最初は依頼を断っていました。しかし結局、編集長の「ジンネマンは娘のように愛しいマリーダを失って尚、生きつづけねばならない男」という一言に押されて、そのような方向で書いてあります。

僕は、アニメ・キャラと自分の人生とを混ぜこぜに語っていいと思う。「現実とフィクションの区別をつけましょう」という言葉には、どこかフィクション中のキャラを突き放したような冷たさを感じる。


友人とメールをやりとりしていて気がついたことだが、おそらく現実に少女に手を出してしまう犯罪行為と、少女のエロティックな絵を描いたりする創作欲とは、脳の根源的な部分では関連していると思う。(僕は「創作行為は犯罪に近しい」と、以前に書いた。犯罪的な心理のプロセスを経なくては、優れた作品は生まれない。)

だが、「絵を描く快感」があまりに巨大すぎるため、犯罪をおかす可能性など、ほぼ完全に霧散してしまう。二次元/三次元という言い方があるように、まさに「次元が違う」欲望へと分離していく。
表現規制、とくに「エッチな漫画を禁止しろ」と繰り返す人たちは、何はともあれ「絵を描く快感」、圧倒的な創作行為の快感を知らなさすぎる。表現や創作について、あまりにも考えが浅い。
ことさらに「絵」を愛好するのは、現実を忌避する一手段だと思う。対して、犯罪をおかしてまで他人を性欲の犠牲にする人は、現実世界での強者なのだ。『なかったことにしたくない 実父から性虐待を受けた私の告白』で明らかにされたように、社会で成功した父親が、当たり前のように娘を犯しつづける実態があり、漫画を取り締まるヒマがあったら、そのような社会的名声に隠れた犯罪者をあぶり出して欲しいと、これは本気でそう思う。


その一方、「現実とフィクションの区別をつけましょう」という決まり文句は、逃げ口上にも聞こえる。創作の源泉は、やはり現実なのだ。残念ながら、「絵を描く」行為は現実と手を切ることを意味しない。現実と創作の相関については、各自で考えを深め、場合によっては自ら社会に理解を求めていくよりないだろう。
(現実に欲情し、現実に罪を犯したものの処罰のほうが、よほど重要だ。人権保護を訴える団体ほど、なぜか現実に起きた事件を軽視して創作物を攻撃しがちに見えるが……。)

同じ表現物でも、写真や映像作品になると、とたんに評価が厳しくなる。実写作品だろうと、表現と虐待記録は厳しく分けて考えるべきと思う。
友人の言葉を借りると、実際の性行為にすら、ある種の「想像」を注入せざるを得ないのが人間なのだ。そうでなければ、僕らは昆虫と同じになってしまう。


ここ何ヶ月かの出来事に疲れ、数ヶ月ぶりにキャバクラへ。しかも、三鷹から吉祥寺へタクシーを飛ばして、二軒もハシゴ。

何を話すでもなく、ぼんやりと座っているだけだったので、キャバ嬢たちは戸惑っていた。最後についた嬢は、占いのサイトを教えてくれた。単なる星占いの類いではなく、かなり難解なことが書いてあるが、悩んだときは役立つのだという。
キャバ嬢のことを「カネしか判断基準がない」ように罵る人が多いが、彼女たちの優しさが軽かろうが薄かろうが、俺は何度となく彼女たちに助けられてきた。相手に、助けたつもりがあろうとなかろうと、僕は勝手に感謝している。

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2014年6月19日 (木)

■0619■

改正児童ポルノ禁止法が参議院で可決された昨日、新宿で『たまこラブストーリー』を見てから、上野・東京都美術館のバルテュス展へ向かった。
Untitled2大阪府立大学の森岡正博教授は、バルテュス展の広告を見て「芸術の名を借りた児童ポルノ絵画」とツイート()。【児童ポルノ】という言葉が「少女をモチーフにしたエッチっぽいもの、ワイセツっぽい表現ジャンル」として定着してしまっている、端的な例ですね。

僕がバルテュスを知ったのは、「夜想」という雑誌なんだけど、種村季弘や澁澤龍彥を読んでいた時期なので、もともとタブーを踏破する怪しい作家という認識だった。巨匠なんていうイメージは、もちろんなかった。
昨日は65歳以上が無料のサービスデーだったので、その世代の人たちで場内は大混雑。日本は、なんと文化的に豊かな国なのだろう。


それでも少なからず驚かされたのは、晩年のバルテュスがスケッチ代わりに少女たちを撮影したポラロイド写真が、98,000円の高級写真集として売られていたこと。そして、同時期のポラロイド写真の展覧会も行われている()。
リンク先の写真を見て戸惑う人が大半だと思うが、「児童性虐待記録物」という言葉を意識していれば、ただちに「虐待の記録か否か」という判断が働くはず。【児童ポルノ】かどうかで判断しようとすると、「未成年のヌードだし、ヤバいんじゃないの?」となってしまう。

たとえ絵のモデルであっても、写真を撮ったり公開したりするのは、やはり何らかの虐待になるのではないか……という人もいると思う。
Photoその議論は有意義だろう。【児童ポルノ】にあたるとして公開が危ぶまれた『ヴィオレッタ』は、まさに「芸術のためとはいえ、ヌードモデルにされるのは立派な虐待だ」と告発するコンセプトの映画だ。
あえて「コンセプト」と言ったのは、告発のみに終わっていないから。創作や表現は、受け手によっていかようにも解釈の幅を広げられてしまう。その振れ幅こそが、表現することの価値に他ならない。

この映画の中で、すっかりオジサンになったドニ・ラヴァンが画家として登場し、少女をモデルにした写真を「いいセンスをしている」と認めて、お金を出す。彼はモデルになった少女を前にしても、手を出すわけではない。作品にしか興味がないのだ。彼自身は、成人女性をモデルにして絵を描いている(そのシーンがR15+に指定された理由にもなっているのだが)。
主演のアナマリア・ヴァルトロメイが嫌な思いをしないよう、彼女のヌードは周到に避けられ、撮影時にはカウンセラーがつき、本国フランスではG指定(全年齢向け)として一般公開された。

にも関わらず、前述の、ドニ・ラヴァンの絵のモデルとなった成人女性が丸裸で現われるシーンを、僕はエロティックに感じた。きちんと服を着て座っている少女の前に、いきなり成熟した豊満な肉体が投げ出される……その無作法さ。シーンの意味としては、モデルの女性とドニ・ラヴァンの関係、さらにはヴィオレッタの母親の嫉妬と怒りを描いており、少女は大人同士の修羅場に、たまたま立ち会っただけだ。
だが、監督の、作品の意図をこえて意味が膨らんでしまうことこそが、映画の面白さだ。『ヴィオレッタ』は映画であること、作品であることによって、「性虐待への告発」に徹しきれていない。
「表現する」こと以外の意図をもった作品は、必ず袋小路に追い込まれる。その限界を押し開いて新たな価値を与えるのが、われわれ受け手なのである。
僕が「見る側も主体性を持て」「点数なんかで作品を評価するな」と言っているのは、そういう意味だ。


【児童ポルノ】の単純所持が禁じられつつある今、バルテュス展を開催すること、『ヴィオレッタ』を公開することには、たいへんな意義と価値がある。ここで萎縮すれば、日本は文化的な意味で枯れてしまう。「裸が出ているから公開禁止」「性器が見えているからポルノ」程度の野蛮人になってはいけない。
たえず、自らの倫理と正義を疑うこと。それが理性的な生き方だ。理性的に生きるため、ありとあらゆる表現に、自由自在にコンタクト可能でなければいけない。

(C)Les Productions Bagheera, France 2 Cinema, Love Streams agnes b. productions

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2014年6月16日 (月)

■0616■

三鷹駅前のバス・ターミナル。財布からカード類を落としてしまったオバチャンが、パニックに陥っていた。数枚のカードは風にあおられ、停車しているバスの下にまで飛ばされてしまっている。
ちょっと怖かったけど、バスの下に潜り込んで、カードを回収して歩道に戻った。オバチャンは「ごめんね、ありがとうね」と頭を下げながら、買い物袋からウィンナー・ソーセージの袋を出して、僕にくれた。
親も子供もいない中年男は、こういう時ぐらいしか役に立たないんだよね。


『最高の人生の見つけ方』、以前にレンタルして見たはずなのだが、最初の数分で寝てしまった映画。今回は、最後まで楽しく見られた。
Untitled末期がんにおかされた二人の老人が、人生でやり残したことを実現しようと旅に出る。ジャック・ニコルソンが自家用機まで持っているほどの大金持ち、という設定でかろうじてリアリティを保っていたドラマは、終盤へ向かうほど寓話じみていく。
エベレスト登山に来た二人は、足止めをくう。吹雪のために飛行機は飛べない。吹雪がやむのは、春になってからだ。その頃には、二人は死んでいる。彼らは、エベレストに近い寺院で、ミイラのように死んでいくのだろうか。二人は輪廻転生の話をする。「善行をつめば生き返るという理屈が分からんな。カタツムリはどうやって善行をつめばいい? まっすぐに這えばいいのか?」

4度の結婚に失敗したジャック・ニコルソンの自暴自棄な生き方が、身に染みる。特に、ひとりでインスタントな食事をとった後、女たちを部屋に呼ぶシーンがいい。女たちは、もちろん彼の孤独を理解してなどいない。「ひょっとして、あの人、泣いてるの?」と、本人に聞こえる距離で話している。その救いのない描写が、いっそ心地よくさえある。
日本語吹き替えで見ると、モーガン・フリーマンの声はアダマ艦長の坂口芳貞。『ギャラクティカ』を思い出してしまうので、字幕で見るにかぎる。


この映画のジャック・ニコルソンのように「家族」という単位に馴染めなかったんだよね、ようするに。
嫁姑の仲も悪かったし、父親は夜中に怒鳴りだすし。犬を飼ったら飼ったで、「しつけに失敗したから殺す」「俺のカネで買った犬だから、文句は言わせない」とかさ。声を出して泣いたよね、その夜は。
実際には犬は殺されなかったし、僕が殴られたり蹴られたりしたことは少なかったんだけど、殺気があったんだよ。家の中に。

もっと酷い環境で育った人もいるだろう。家庭だけでなく、学校が嫌だった人もいるはず。
そういうとき、テレビでアニメを放送してくれたおかげで、何とか乗り切れた。『ボトムズ』を見ながら、キリコの孤独癖に、友達のできない自分を重ねてみたりした。「教室でひとりで過ごしていても、おかしくはないんだ」って。
同調圧力を強いるだけの教室になんか、多様な生き方はなかったですよ。アニメの中にあったんだよ。セル画の質感には小さい頃から親しんでいたから、極端にいうとセル画にしか愛着も信頼もわかなかった。

多かれ少なかれ、現実とフィクションの歪んだ狭間の中で、誰しもがオタクにならざるを得なかったんだと思う。家庭も学校も重すぎる。キツすぎる。あるいは、職場が厳しすぎる。
そうした「実社会の欠陥」に対して、いったい誰が責任をとりましたかね? その責任を棚上げしたまま、フィクションに罪を着せるような大人たちを許せるわけないじゃん。ま、表現規制に対する怒りは、そんな辺りからも芽吹いている。

アニメや漫画やゲームじゃないよ、家庭や学校こそが青少年の育成に害悪を与えてきたんだろうがよ。
いま苦しんでいる子たちがいるとしたら、まずは大人たちの責任追及から始めるべき。そして、フィクションという優れた逃げ場を、しっかりと守らねばならない。
 
(C) 2008 Warner Bros. Entertainment Inc. All rights reserved.

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2014年6月15日 (日)

■0615■

ひどい夢で、目が覚めた。
僕は二匹の犬を連れて、林の中の小屋に住んでいる。犬たちは二匹とも足を骨折していて、一匹はかなり具合が悪そうだ。たまに元気に走ったかと思うと、一本の足を折り曲げて歩き、さみしそうに座りこんでしまう。
僕は、「そうか、痛いのか」と彼の足をさすってやるのだが、それすらためらわれるほど、犬は辛そうにしている。ちょっと探せば、獣医ぐらい近くにあるだろうに、僕は犬を医者に連れていくのが面倒なのだ。
ある夜、二匹の犬たちがぐっすりと眠っているのを見た。足の悪いほうの一匹は、とくに気持ちよさそうに寝ている。「このまま死んでくれたら、こいつも僕も幸せなのに」……犬たちの寝顔を見ながら、僕は罪悪感に胸がつぶれそうになり、うずくまって泣いた。

――夢の中とはいえ、覚えのある光景だった。僕は自分の飼っていた犬たちを、十分に見てやれなかった。苦痛をやわらげてやることが出来なかった。彼らの苦痛を知っていながら、見て見ぬふりをしていた。
何より怖ろしいのは、大変な事態が起きているのに、「大丈夫、まだ大したことはない」と自分を欺いたまま、取り返しがつかなくなるまで(半ば故意に)放っておくことだ。そして、「こんなはずではなかった」という諦観と失意のうちに、一生を終える――僕は何より、それを怖れている。


東小雪『なかったことにしたくない 実父から性虐待を受けた私の告白』。あんな署名キャンペーン(『児童ポルノではなく、【児童性虐待記録物】と呼んでください。』)をやっておいて、 実際に性虐待を受けていた人の手記を読まない理由はない。
Untitled大きく三つのパートに分かれている。宝塚音楽学校時代の理不尽な暴力の数々。実父からの性虐待をカウンセリングで明らかにしていく過程。最後は、同性のパートナーとのディズニー・シーでの挙式、レズビアンとしての自己分析。
サラッと読める割に、やはり重たい本だった。

ショックだったのは、小学生だった著者を風呂場で犯しつづけた父親の社会的立場。金沢市の演劇活動の中心的人物として、いまだに有名なのだという(現在は故人)。
「少女に性犯罪を行うのは、社交性に欠ける独身男性」――誘拐・殺人などの重大事件では、それは確かに間違ってはいない。だが、圧倒的多数とされる家庭内での性虐待は、ほぼまったく表面化しない。僕の知り合いにも、幼いころ、父親に性行為を迫られていた人がいる。周囲に告げられないだけで、実は何万人といるのではないだろうか。

そのような社会背景に想像をめぐらすと、「被害者のいない二次元なら、何をしてもいいだろう」とは言いがたい。「たとえ創作の中であっても、子供に性欲を抱いてほしくない」という気持ちも理解できる。
「人の心に、命令はできない」――『ベルサイユのばら』の中のセリフが、僕の人間観の根源にある。実際の性虐待被害者と、空想的な趣味として少女愛を抱いている人は仲良くできないだろうが、互いに距離を保ったまま、双方が生きつづける社会は実現不可能なのだろうか。

今の社会、今の法律は、空想的な少女愛・少年愛を獰猛に狩りだす一方、いまこの瞬間にも沈黙を強いられている幼い性虐待被害者たちを見捨てているかに見える。
僕は表現規制に敢然と戦いを挑むいっぽう、性虐待被害者の救済活動を行っている団体にもアプローチしている。両方やらないと、自分の中でバランスがとれない。


『児童ポルノではなく、【児童性虐待記録物】と呼んでください。』の署名簿は、昨夜、全721通の梱包が終わり、今は宅急便の集荷を待っているところです。
結局、僕ひとりで721通を手作業で梱包、添付資料は3人でコピーして運んだわけですが、「ここまでなら個人レベルで出来る」と言えるし、逆に「大勢で助け合いながら表現規制に対抗する」イメージが遠のいたとも言えます。

表現規制については、少数精鋭で対抗していくしかない。僕は精鋭のうちに入らないかも知れないけど、規制している相手は空想ではなく実在してるので、直接会う方法を考える。
もう、ネットで愚痴っているレベルではないと思います。

「児童性虐待記録物」という言葉は、Twitterで検索してみると、それなりに広まってきたように感じられますが、実社会では認知されていないでしょう。
また、表現規制に反対しているのはオタクの人が多いと思いますが、Googleの言葉狩りを見れば分かるように、海外まで巻き込んで急速に「オタク包囲網」が形成されようとしています。それに対して、オタク本人たちが何もしないことには、もはや驚きません。いちばん怖いのは、地域社会で「オタクっぽい外見の人は即通報」のような運動が起きたときです。
そうなったとき、昼間からブラブラしている独身中年である僕は、住む場所を失うかも知れない。そこまでの最悪状況を想定したら、実社会に働きかけていく以外、生きのびる方法はないかと思います。

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2014年6月11日 (水)

■0611■

アニメ業界ウォッチング第5回:アニメーション監督/演出家・山本寛が本音を語る!
Untitledインタビューと構成を担当しました。
僕レベルのライターがアニメ監督に取材しようとすると、どうしてもアニメ制作会社経由になり、「いまリリース中の作品がないので」と断られてしまいます。作品が動いているときは、その作品をプッシュすることが条件になります(インタビューしている横から「もっと作品のことを聞いてください」などと言われる)。
つまり、「作品の宣伝」以外にインタビューの機会がない。そのインタビュー原稿は制作会社とDVDメーカーがチェックして、さらに宣伝っぽく直されて掲載される。いい加減、ビジネス的にプレーンな状態で、監督にインタビューできないものだろうか? そうアキバ総研さんに提案して、成立した記事です。

僕は『Wake Up,Girls!』のエイプリル・フールのネタが、単なる実写版のニセ告知であることに激怒していまして、それも山本監督に伝えました。「そういう苦情も含めて、ざっくばらんに話そう」ということで、引き受けていただけました。
こういう記事は、雑誌では成立しづらいのが現状です。


ようやくブログを更新する時間が出来たのですが、僕は「昼間は原稿、夜は署名簿の梱包」という生活を送っています。
Dsc_1812署名簿は議員会館宛てに、バラバラに発送(しかも一度に百通ずつ)しているので、毎日、クロネコヤマトの集荷の人も大変です。
歩いていける距離に、菅直人議員と土屋正忠議員の事務所があるので、そのお二人には手で届けました。

よく、表現規制を進めたい団体が国会議員全員に要請文を出したりしていますが、僕は個人ですからね。ぜんぶ手作業だし、名簿の印刷代も送料も、自分の貯金を切り崩しています。別に寄付とかカンパとかじゃないです。

ただ、無償での協力を申し出てくれた方が優秀で、添付書類の書式や名簿の版下制作、封筒への宛名貼りまで、すべて一人でやってくださったんです。「児童ポルノという言葉を使って欲しくない」一心で。
僕は最後の仕上げをしているだけなんです。理屈を並べるのも結構ですが、ここまで体を使ってみろ、とは思います。


来週、参議院でも審議されますが、いい加減、「児童ポルノ」という言葉が被害者救済には向かわず、単なる表現規制の道具に堕しつつあることに気づいて欲しいんですよ。

“以前にも書いたが、実態調査によると児童の性的虐待の多くは家庭内で起きている。加害者は不特定多数の児童ポルノ愛好家ではなく、多くは「実父母」「養父母」なのだ。つまり、本当に児童保護を指向するなら崩壊家庭に対する福祉政策に取り組む必要がある。

 だから、私は「児童ポルノ規制」を声高に主張する一方で、福祉政策に冷淡な人たちには、本当の子供を守る気持ちはないと判断している。彼らは単に、自分にとって気に入らないものが目に入らない、一見きれいな社会が欲しいだけなのだ。”

『児童ポルノと単純所持――表現の自由を守るために』()松浦晋也(ノンフィクション作家)
以上、青字は引用箇所。太字は、私によるものです。思わず強調してしまいました。胸に手を当てて、よく考えてみろと言いたいですね。「ポルノを取り締まれ、ポルノ所持は逮捕する」って、意志に反して撮影された被害児童まで込みで「ポルノ」と呼んでいる矛盾に、どうして鈍感でいられるのか。

「子供の人権を」と綺麗ごとを掲げる人や団体に限って、「ポルノ」撲滅には熱心なのに「性虐待記録物」という呼称を嫌がるのは、一体全体なぜなんでしょうね? 

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2014年6月 6日 (金)

■0606■

創 2014年7月号 明日発売
Untitled_2 
●「児童ポルノ」と封印された『ヴィオレッタ』公開めぐる攻防 
サブタイトルは「映倫と配給会社はどこで対立したのか」。配給会社のアンプラグドだけでなく、映倫の大木圭之介委員長にも取材し、双方の言い分を載せています。

以前、WEBラジオで「映倫なんていりません!」と怒鳴った僕ですが、今回は丁寧に取材を申し入れ、「もし『ヴィオレッタ』単体のことを話せないなら、映倫の審査基準ついて、映倫の人の口から語ってほしい」「そうでないと、配給会社に有利な記事になってしまう」と、食い下がりました。
おかげで、委員長に取材できたうえ、『ヴィオレッタ』の審査経緯を詳しくお聞きできました。大木委員長は、たいへん協力的で、多くの資料を提供してくださいました。また、映倫は小さな雑居ビルの一室に間借りしているのですが、それは審査料のみで運営しているためです。この記事によって、映倫への誤解が払拭されることを期待します。

しかし、映倫が「児童ポルノ」という言葉を恣意的に使ったことも事実。配給会社さんが粘り強く交渉して、一発逆転で「児童ポルノではない」という最終審査を勝ち取ったわけです。
「この記事を書けるのは自分しかいない」という自信のもとに、しつこく取材しました。

『ヴィオレッタ』映画本編の感想も、いずれブログに書きたいです。ストレートで情熱的、誠実だけどどこが歪な、愛らしい映画です。


『児童ポルノではなく【児童性虐待記録物】と呼んでください。』署名簿の進捗ですが、入稿後に、コメント欄が正しく表示されていないというミスが見つかりました。
コメントの語尾が切れている程度だったので、「メインは名簿なのだから、目をつむろうか?」と悩んでいたら、助っ人の事務職の方が「どうしても直させてほしい」と言ってくださり、翌日、無事に解決しました。

その方はいま、封筒に全議員の宛名を貼りつづけてくれています。昼間の仕事が終わってから、夜、作業なさってるんです。
僕らは団体でも組織でもありませんから、個人の責任でやるしかないんです。国会議員全員に手紙を出すって、こんなに大変なんです。経費もかかります。国会議員は国民の代表ですから、この署名を無視して目を通さないなんてことは、決して許されません。

議員ひとりひとりに「ちゃんと読みましたか?」とFAXでも送りたいのですが、また721通も送らないといけない……。
議員会館は同じ住所なのに、全議員バラバラに送らなきゃいけない(郵便局にも確認しましたが、他に方法はない)。なんで、そんなに不合理なんでしょうね。でも、送りますよ。手作業で。


もうひとつ、時事通信社の記事、『人付き合い苦手=毎夜コンビニ弁当-女児殺害で逮捕の勝又容疑者』()。
時事通信社、問い合わせメールに返事がないばかりか、電話での問い合わせも受け付けていませんでしたので、プランBに移行させていただきます。ちゃんと返事してれば、ここまでやらないのに……残念なことです。僕は、誠実さに欠ける相手には、手加減しませんので。

人付き合いが苦手なのに、アニメの話では盛り上がり、ひとり分の食事を毎日ひとりでとっている僕は、この記事に「お前にも殺人者の素養があるよ」「お前みたいのは社会に必要ないんだよ」と指さされた思いです。

同時に、僕の個人的体験――母親を父親に殺されたことが、重くのしかかって来ます。
この事件を他人に話しても、「そんな忌まわしい話をするな」って顔をされます。同情なんてしてもらえませんよ。
この件に関しては、僕は被害者遺族として裁判に関わりました。しかし、事件の第一報を立川警察から聞かされたとき、頭の中にこんな言葉が浮かんだんです。「自分は、人殺しの息子として、これから生きねばならないのか」。

くり返しになりますが、同情なんてしてもらえませんよ。もうすぐ離婚から10年にもなろうという独身中年に、世間は甘くありません。……いや、甘やかせてもらってきたんだろうな。友達には助けられたし、多少の仕事は失ったけど、十分に取り戻せたし。
だけど、不意に「お前、何様?」「お前の過去、振り返ってみろよ」と、胸の奥から自己否定の気持ちがこみ上げてくる。再婚話が出てこないのも、もともと「家族」って単位に、僕が向いてないからだろうな。
人殺しも怖いが、個人を、「ひとりで生きること」を排斥する社会だって、同じぐらい怖ろしい。ひさびさに「誰とも会いたくない」「人間が怖い」という気持ちに陥ってしまった。
(署名簿は、ちゃんと20日までに発送しますので、ご心配なく……。それが終わったら、またひとりから始めよう。)

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2014年6月 4日 (水)

■0604■

まず、署名簿の進捗具合から書きましょうか。
昨日、同人誌印刷の会社「ねこのしっぽ」さん()に、前日夜に上がったばかりの版下を入稿してきました。
その場で紙の厚さを選らばせてもらい、署名と皆さんのコメントを一冊に合わせても、厚さ8㎜以下に。すると、メール便82円で送れます。全国会議員分721通を送るので、送料は59,122円。仮に1cmを超えても、12万円ぐらいで送ることができます。

……それにしても、署名簿の編纂では、過大な労働を助っ人に強いることになってしまいました。今は、送付用の封筒を作ってもらっています。
その人の努力や苦労を、どうやって受け止め、伝えればいいのか、考えてしまいます。


児童ポルノ法修正案は、本日4日に提出、衆議院法務委員会通過といわれています(追記:可決しました)。
今は、表現規制に関心の高い人の間で大きく見解が割れていますが、今国会で成立するのは間違いないので、本当の混乱は今月下旬から始まると思います。つまり、児童ポルノ法になんて興味のなかった一般人たちが「アイドルの写真集を持ってるだけで逮捕されるのか?」と騒ぎ出すでしょう。
騒いで当たり前ですよ、新聞報道が始まったのなんて、つい最近なんですから。彼らを無知だ、愚かだとは言えない。動揺しても無理はない。

出版社の自主規制も始まるでしょうし、映画、とくにテレビ放映の基準は揺らぐんじゃないでしょうか。アニメ番組も含めて。もちろん、今回の改正案に直接の関係はないですよ? だけど、勝手に拡大解釈して、勝手に萎縮したり禁止したりするのが自主規制の怖いところです。
現場レベル、民間レベルでは「何が起きても不思議ではない」です。


もうひとつ、警察が利用しはじめていますね。今回の改正案を。
栃木県今市市で8年半前に女の子が殺されましたが、その犯人が今ごろになって逮捕されましたね。児童ポルノ法改正に合わせてきたように見えませんか?
そして、「容疑者のパソコンの中の画像」に、報道の焦点が移ってきました。「猟奇的で、ロリコンに関するもの」「少女趣味に関するもの」ならまだしも、「児童ポルノに関するビデオ画像」と報道してしまった局もあります。改正案に、ドンピシャで合わせてますよね。

こうしたいい加減な(しかし警察にとっては都合のいい)報道が大量になされることで、「少女を殺しそうな危ないヤツは、パソコンの中に児童ポルノ持ってるぞ!」という「常識」が形成されていきます。その操作された常識が、世の中を息苦しくするんですよ。

さらに、時事通信社は「人前では話がうまくできなくなるタイプ」「校内の廊下で友人とアニメの話題で談笑」「Tシャツやジーンズなどの普段着姿でいることが多く、毎日のように、未明に近くのコンビニ店で1人分の弁当を購入していた」と、容疑者のプライバシーを伝聞レベルで報じてしまいました(『人付き合い苦手=毎夜コンビニ弁当-女児殺害で逮捕の勝又容疑者』)。
普段着姿でコンビニ弁当を買っていたり、人前でうまく話せないような男は、子供を殺すんですかね? え、そうは報じてない? だけど、読む人はそう受けとるよ? 「人前でうまく話せない独身男は警戒しよう」って意識が生じるよ? そこが怖いって、僕は言ってるんだ。

昨夜のうちに、まずメールフォームから時事通信社には、記者の名前を明らかにするよう伝えました。
たぶん、無視されるでしょうね。署名提出と本業のことだけ考えていたいんだけど……また、内容証明郵便を出すしかないのかな。

児童ポルノ法改正案の「正確な読み解き方」も大事だろうけど、僕が恐れているのは、条文なんか読まずに「なんかヤバいヤツは、まず通報だ」「逮捕しろ」と騒ぎだす庶民の意識、世の中の空気。俗世間に生きる者としては、そこが最も気がかりだ。

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2014年6月 2日 (月)

■0602■

4月12日から開始した署名は、5月31日に締め切り、総賛同者13,234人で終了しました。ただ、二重に署名されてしまったもの等を、いま省いてもらっていますので、有効署名者数はやや減ります。おおよそ、「1万3千人ちょっと集まった」と覚えてくれれば、間違いないです。

ふだん、事務的な仕事をしてらっしゃる方が助っ人を申し出てくれたおかげで、いまの段階では、僕は指示を出すだけで済んでいます。
国会議員に提出するための「書類」づくりなので、僕がやっているライターという仕事、「雑誌や定期刊行物の記事をつくる」という仕事のアバウトさが逆照射されてきます。いつもは「テキストぎっしり目でキャプションも濃い目で」とか「余白とって、絵素材を印象的に使う」とか、そういうやりとりをしてるんです。
フォーマットが決まってないかぎり、僕は画像選びもラフ(誌面構成)も自分で切りますから、あとは、意図をデザイナーが拾ってくれればいい。

だから、絵心のないライターや編集者がページを構成すると、デザイナーがどんなに優秀でも、おそろしく機械的な誌面になる。官公庁のパンフがつまらない理由も、絵心がないせいでしょう。
そうした欠点や利点を考えあわせると、難しい問題を面白く伝えることは、十分に出来るはず(パンフやチラシだけでなく、例えばイベントなんかでも)。たとえ民間レベルであっても、ディレクターが優秀ならば。あと、人間関係の円滑さかな。
資金だとかの課題はあるけど、不可能じゃない。みんなに、やる気さえあれば。


ちょっと余裕が出てきたので、粘土を買ってきて、フィギュア2体を同時進行で制作開始。
一体は、阿部鉄太郎という彫刻家()の写真を真似て作り、そこから自分の好みやキャラクター性を加えていってます。
お手本があると、早く楽しく作れます。「彫刻は芸術で、フィギュアは趣味に過ぎない」だとかは、しょせん立体の楽しさを理解できない人間が苦しまぎれに考えた無意味なカテゴリー分けにすぎない。
僕は、阿部鉄太郎の彫刻だったら絶対に肉眼で見たいし触りたいし、お金さえあれば購入したいとさえ思う。「欲望を喚起される」ことをタブー視していると、「なんか高級なもの」と「とにかく低俗なもの」しか、この世に存在しないと勘違いしてしまう。

そんな野卑な考えが、「オタクどもの趣味だったら潰してしまって構わないだろう」という社会的な動き、抑圧へと転じたとき、僕らには防御手段がない。社会へのエクスキューズさえ用意していない。そもそも、対策を語る人間がいない。
……僕も、めんどくさい人間になっちゃったね。せめて、読者にお金を払ってもらう記事は楽しくつくる。だけど、僕らの趣味が社会からどう見られてるかも同時に意識していないと、アッという間にぺしゃんこにされてしまうだろう。


余裕が出た証拠に、DVDもレンタルしてきた。先月、『ナイロビの蜂』を見て以来。
Untitled『LIFE IN A DAY 地球上のある一日の物語』というドキュメンタリーなんだけど、この映画は、前にも見た。いくつかのシーンを覚えていた。特に、日本人の父子家庭の朝の光景。
広角レンズで、ごちゃごちゃに散らかった部屋の中を進む、その立体感がすごい。高層ビル街を空撮したかのよう。

二度目でも十分に面白い映画。とにかく、世界のどこにでも人はいて、毎日の暮らしがあるんだと実感したかった。
今回は署名という「社会運動」をやっているので、一見すると何も生み出さないような日々の営みから遊離しかねない。職もなく、ぶらぶら過ごす人々には、本当に何の価値もないのか? ありとあらゆるものに価値があるという前提で、僕はそのすべてを知りたいと思っている。

(C)2011 world in a day films limited

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