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2014年6月19日 (木)

■0619■

改正児童ポルノ禁止法が参議院で可決された昨日、新宿で『たまこラブストーリー』を見てから、上野・東京都美術館のバルテュス展へ向かった。
Untitled2大阪府立大学の森岡正博教授は、バルテュス展の広告を見て「芸術の名を借りた児童ポルノ絵画」とツイート()。【児童ポルノ】という言葉が「少女をモチーフにしたエッチっぽいもの、ワイセツっぽい表現ジャンル」として定着してしまっている、端的な例ですね。

僕がバルテュスを知ったのは、「夜想」という雑誌なんだけど、種村季弘や澁澤龍彥を読んでいた時期なので、もともとタブーを踏破する怪しい作家という認識だった。巨匠なんていうイメージは、もちろんなかった。
昨日は65歳以上が無料のサービスデーだったので、その世代の人たちで場内は大混雑。日本は、なんと文化的に豊かな国なのだろう。


それでも少なからず驚かされたのは、晩年のバルテュスがスケッチ代わりに少女たちを撮影したポラロイド写真が、98,000円の高級写真集として売られていたこと。そして、同時期のポラロイド写真の展覧会も行われている()。
リンク先の写真を見て戸惑う人が大半だと思うが、「児童性虐待記録物」という言葉を意識していれば、ただちに「虐待の記録か否か」という判断が働くはず。【児童ポルノ】かどうかで判断しようとすると、「未成年のヌードだし、ヤバいんじゃないの?」となってしまう。

たとえ絵のモデルであっても、写真を撮ったり公開したりするのは、やはり何らかの虐待になるのではないか……という人もいると思う。
Photoその議論は有意義だろう。【児童ポルノ】にあたるとして公開が危ぶまれた『ヴィオレッタ』は、まさに「芸術のためとはいえ、ヌードモデルにされるのは立派な虐待だ」と告発するコンセプトの映画だ。
あえて「コンセプト」と言ったのは、告発のみに終わっていないから。創作や表現は、受け手によっていかようにも解釈の幅を広げられてしまう。その振れ幅こそが、表現することの価値に他ならない。

この映画の中で、すっかりオジサンになったドニ・ラヴァンが画家として登場し、少女をモデルにした写真を「いいセンスをしている」と認めて、お金を出す。彼はモデルになった少女を前にしても、手を出すわけではない。作品にしか興味がないのだ。彼自身は、成人女性をモデルにして絵を描いている(そのシーンがR15+に指定された理由にもなっているのだが)。
主演のアナマリア・ヴァルトロメイが嫌な思いをしないよう、彼女のヌードは周到に避けられ、撮影時にはカウンセラーがつき、本国フランスではG指定(全年齢向け)として一般公開された。

にも関わらず、前述の、ドニ・ラヴァンの絵のモデルとなった成人女性が丸裸で現われるシーンを、僕はエロティックに感じた。きちんと服を着て座っている少女の前に、いきなり成熟した豊満な肉体が投げ出される……その無作法さ。シーンの意味としては、モデルの女性とドニ・ラヴァンの関係、さらにはヴィオレッタの母親の嫉妬と怒りを描いており、少女は大人同士の修羅場に、たまたま立ち会っただけだ。
だが、監督の、作品の意図をこえて意味が膨らんでしまうことこそが、映画の面白さだ。『ヴィオレッタ』は映画であること、作品であることによって、「性虐待への告発」に徹しきれていない。
「表現する」こと以外の意図をもった作品は、必ず袋小路に追い込まれる。その限界を押し開いて新たな価値を与えるのが、われわれ受け手なのである。
僕が「見る側も主体性を持て」「点数なんかで作品を評価するな」と言っているのは、そういう意味だ。


【児童ポルノ】の単純所持が禁じられつつある今、バルテュス展を開催すること、『ヴィオレッタ』を公開することには、たいへんな意義と価値がある。ここで萎縮すれば、日本は文化的な意味で枯れてしまう。「裸が出ているから公開禁止」「性器が見えているからポルノ」程度の野蛮人になってはいけない。
たえず、自らの倫理と正義を疑うこと。それが理性的な生き方だ。理性的に生きるため、ありとあらゆる表現に、自由自在にコンタクト可能でなければいけない。

(C)Les Productions Bagheera, France 2 Cinema, Love Streams agnes b. productions

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