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2014年3月18日 (火)

■0318■

「黒子のバスケ」脅迫事件の被告人意見陳述全文公開(
長文なのでふたつに分かれているが、時間をつくってでも読む価値あり。「これは自分のことだ」とピンときた人は、さぞかし多いだろう。

『俗っぽい言い方をすれば、自分のような汚い顔のキモブサメンが成功したイケメンの足を引っ張ってはいけないのです。』
『自分のように人間関係も社会的地位もなく、失うものが何もないから罪を犯すことに心理的抵抗のない人間を「無敵の人」とネットスラングでは表現します。これからの日本社会はこの「無敵の人」とどう向き合うべきかを真剣に考えるべきです。』


多かれ少なかれ、オタクっぽい人たちは、生まれながらに自分を罰してきた「何か」に対峙しているんだろうな。だから、オタクの人生は創作的にならざるを得ない。
作品というのは、犯罪の代償物じゃないか……と、以前から思っていた。どんな作品でも、人を傷つけうる。人を救いうる。犯罪をおかすことで、救われる人間がいるのと同じように。
作品は、社会に迷惑をかけうる。作品を「清く美しいもの」と規定している人は、根本的な思い違いをしている。

いかにして自分を救うか。それは、人生の大きなテーマだ。アニメしか楽しみがなくて、ずっとコンプレックスにさいなまれてきた人が、結婚によって「人生が明るくなった」パターンを知っている。ただひとりに認められるだけで、人は救われる。
僕の別れた妻が、「親から“かわいい、かわいい”と育てられなかった子供が、かわいく育つわけがない」と言っていて。別れて10年近くたつけど、その言葉だけは覚えている。ブサイクでも才能がなくても、妙に自信満々な人は、親に誉められて育っている。僕もコンプレックスは強烈にあるけど、母親に誉めてもらったので、戦う気力ぐらいは、かろうじてあった。
親の責任は、とても大きい。親に見離された人は、誰かに受けとめてもらわなければならない。その「誰か」が見つからないとき、作品を愛することで満たされる場合がある。
(作品――映画や音楽にまったく触れずに生きている人は、意外と多い。彼らは実生活で充実しているから、触れる必要がないのだ。)


少し前から、在特会に理解を示す発言をしているので「?」と思っている人が多いだろうな。在特会は、誰からも愛されなかった桜井誠が描きだした「作品」だと思う。彼はヘイトスピーチを行うことで、ぎりぎり救われている。だから、彼の表現の自由を尊重すべきだと、僕は言うのだ。
ヘンリー・ダーガーは、大勢の子供を物語の中で惨殺した「犯罪的な」作家だが、それゆえに、彼は実社会では犯罪をおかさず、静かに人生を終えることが出来た。
(なので、「汚らしい言葉や残虐で猥褻な作品は禁ずる」程度の野蛮な脳で、権力を行使してはならない。)

ありとあらゆる逃走経路を、確保しておかねばならない。アニメに逃げていい。萌えに逃げてもいい。作品を愛さなくてもいい。憎んで気がすむなら、憎めばいい。
別に、一生の仕事が見つからなくてもいいよ。成功しなくてもいいし、金持ちになる必要もない。信念なんてもたなくていい(むしろ邪魔)、誰かに愛されなくても絶望する必要はない。些細な楽しみを見つけさえすればいい。

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