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ここのところ、どんな映画を見ても物足りない。ジョン・ウォーターズ監督『セシル・B/ザ・シネマ・ウォーズ』。ハリウッドのメジャー映画とシネマコンプレックスに叛逆するセシル・B・ディメンテッドという男が女優を誘拐し、自作を撮影する。
『ピンク・フラミンゴ』を上映している劇場を「ぴあ」で探しまわり、嫌悪と失望の入り混じった気持ちで帰路についた者としては、歳を重ね、露悪趣味のフリをしたウォーターズの穏やかさがくすぐったい。本当は、ハリウッド・メジャーを憎んでなんかいないし、いろんな映画があっていいんだよ……と、照れ笑いを浮かべているような慈悲深い映画。
『ピンク・フラミンゴ』の頃、確かにウォーターズの居場所はなかったかも知れない。日本での公開は、アメリカに遅れること14年を経た86年だった。その頃の東京は、とにかく貪欲で、どんな得体の知れない映画でもレイトショーで公開し、マイナーな監督の特集上映があちこちで行われていた。
暴風雨が吹き荒れるように、ありとあらゆる映画が毎週公開され、行くあてのない観客たちを受けいれてくれた。小さな自主上映会に行っても、みんな「ここが俺たちの最前線」といった顔で、席に陣取っていた。
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『浦和レッズの試合で差別的横断幕「JAPANESE ONLY」』(■)
「人種差別、許せない!」と、顔を真っ赤にして正義を主張している人たちも含め、余裕のない国になった。30年前にも、過激な右翼はいた。だけど、世の中が一色に染まりにくかった。かなりの変わり者がいても、うまく衝突を回避できるバッファがあった。
いまは「お前は右なのか? 右じゃないなら左だよな?」と、常に誰かに脅迫されているような感じ。
差別発言しているネトウヨを皆殺しにすれば、それ以外の人々の心から差別意識が消えるんだろうか? 「自分は普通だ」「正常だ」と信じたいがため、どこかの誰かを「あいつらは異常」にせざるを得ない。幼稚で短絡的な心の仕組み。
「性の多様さを認めましょう」と、わざわざ口に出さないと、認めていることにならない――自分で自分にレッテルを貼らないと、居場所を確保できない。だとするなら、今の日本は針のむしろだよね。性の多様さを認めている人たちは、認めない人たちを決して許さないじゃん? その不寛容さこそ、多様性の敵なんじゃないの? 自分で自分のシッポを追い回して、ぐるぐる回っているみたいだよ。
もしかすると、俺はカルト宗教にハマっていて、その教義を信じているだけかも知れない――。週に一度ぐらい、その可能性を疑ってみるといい。
たいがい、何かに偏っているか、頼っているか、誰かを嫌っているか、バカにすることで自我を保っているんだよね。もちろん、この僕も。
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「そんなにも、自分が世界の中心になりたいかよ?」という、友人の言葉が忘れられない。たとえば難病がテーマの映画だったら「私の祖父も難病でしたので、人ごととは思えません」と、身近に引き寄せて「他人よりも、よく理解しているぞ」という顔をしたがる人ね。
映画でも他人の話でも、「私もそうなんですよ!」と自分の体験に照らしてしまう……ついやってしまいがちだが、はしたないので気をつけたほうがいい。
相手を立てて、自分も相手も気持ちいい関係を保てるのは、何も特別なことなく、日々淡々と生きてきた人が上手い。あれは何でだろうな、と思う。
まるでスポットライトの当たらない地味な人生を生きてきた人が、人間関係の上では、まぶしいぐらい素敵な役割を演じている。本人はウケようとか好意をもたれようとか、まったく意識してないところがスゴイ。
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