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アフリカ映画の父と呼ばれるセンベーヌ・ウスマン監督の『母たちの村』。フランス・セネガル合作、マンディンゴ語。西アフリカ、少女への割礼の儀式が残る小さな村。割礼を嫌がった少女たちが、ある女性のもとへ逃げてくる。割礼していない女性は「穢れている」とされ、嫁にもらえない。少女らをかくまった女性は鞭打たれ、平和な村は内戦状態のごとき様相を呈していく
割礼は、つまりは支配のシステムだ。割礼されていない女性を男たちが差別することで、村の中にパワーバランスが構築されている。しかし、この村には小さな突破口が開いている。それは、フランスからもたらされるラジオだ。ラジオからの情報で、母親たちは割礼が欺瞞に満ちたシステムであることを見抜いている。
もうひとつ、西欧からの輸入品を村で売る元・傭兵。彼もまた、外の世界、価値観を知る存在だ。彼は割礼だけでなく、年端もいかない少女との婚約を犯罪視している。そのため、彼は村から放逐された挙句、殺されてしまう。
さらに男たちは村中のラジオを集めて、燃やす。どんな世の中でも、変化を怖れているのは男たちだ。伝統を死守するのは男たちだ。ところが、フランス旅行から帰ってきた村長の息子は、「僕は割礼していない女性と結婚する」と宣言し、村の支配システムを破壊する。
たいへん皮肉に感じたのは、価値観の解放を意味するのがテレビであり、村にテレビアンテナが立って終わるところ。テレビは洗脳マシンなので、より大きな支配の象徴なんだけどね。
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「女の子が生まれたら、教育をしなさい。ちゃんと知識を与えなさい」という意味の歌が、映画の最後に流れる。しかし、教育は支配と直結している。
だからこそ、僕らは学んだことを捨てる勇気を持たねばならないし、漫画やアニメを見てドロップアウトしつづけなければならない。感じつづけ、考えつづけねばならない。
見る価値のある映画であることは確かだけど、DVD特典の日本語版監修者のコメントは見ないほうがいい。フェミニズムは、ある面では解放を促すが、同時に新しい抑圧を生み出すのだと実感されて、イヤな気持ちになるよ。
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札幌の少女監禁事件。「少女漫画を所持している不審な男がいる」という第一報。少女漫画は、被害少女に与えるために容疑者が買った物のようだけど、この報じ方ってどうなの? 『少女漫画持ち乗車「怪しい」 札幌監禁、タクシーの機転』(■)
ついに少女漫画を持ったままタクシーに乗ったら、通報される時代がやってきた。成人男性が『プリキュア』グッズを買ったら、即座に逮捕ではないだろうか?
今国会に、児童ポルノ法規制強化案が提出される見込み。だから、マスコミは「いま叩くんなら漫画とアニメだ」と、かさにかかって煽りたてる。結果、テレビ報道に易々とコントロールされる洗脳民が、「やはり、漫画やアニメは規制すべき」と、政府と同じ方向を向いてしまう。
まして、「デモする連中はテロリスト」「靖国参拝に反対するヤツらは日本人じゃない」と、反対意見を排外する差別主義者が支持される昨今である。
そして、漫画やアニメの立場は、かくも弱い。タクシーの運転手に「怪しい」と思われてしまうほど、社会的地位が低い。僕らにも責任がある。外部に理解を得ようとして来なかった。似たような嗜好の仲間だけで繋がりあい、異なる価値観や生き方から目をそむけてきた。寛容さに欠け、勇気も足りなかった。
SNSの登場で、似たもの同士だけが集まる仕組みが出来て、誰もがそれに甘えすぎた。日本人の大好きな相互監視と陰口、村八分を加速するSNS。その誘惑に負けたのは、何も漫画・アニメファンだけではなかったはずなのだが。
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“バカッター”によって、若者のモラルの低さは可視化されたのかも知れない。しかし、何かを現すことは、それ以外の何かを隠すことでもあって、バカッターを見て笑っている人たちは、決して表面化してこない。誰かが立ち上がれば、それ以外の人たちは座ったままになる。そのサイレント・マジョリティこそ、社会の実相なのだ。
バカッターをスマホで黙って見ている人たちのモラルが高いのかというと、もちろんそんなことはない。圧倒的多数の冷笑は、「人身事故」のアナウンスを聞いて舌打ちする乾いた心から生じている。
漫画やアニメを愛好する人は、いつの時代でも少数派なのかも知れないな。むしろ、漫画やアニメを一切見ない多数派の心が、時代につれて変わってくのだろう。顕現してこない多数派をコントロールするのが、権力だものな。
「日本人はみんな、宮崎アニメを見ているから偏見はない」と言うかも知れないけど、「いいアニメは宮崎アニメ」「それ以外のアニメは見たことない」って人ばかりだから、怖いって言うんだ。
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