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2014年1月30日 (木)

■0130■

立川シネマシティにて、『ゼロ・グラビティ』。会員なので、3D上映でも1,400円で見られた。
Jppubphotomainrevgvty_large最近、当たり前のように138分とか167分とかの映画が多いが、これはシンプルに91分。舞台は、ほぼ宇宙空間のみ。登場人物は、宇宙で遭難する女科学者ほぼひとり。回想シーンで地球が出てくるとか、そういう余計な水増しはやらない。
原題は、邦題とは正反対に『GRAVITY』。単に「重力」とタイトリングした意味は、ラストで分かる。人間は両生類が陸に上がっただけ……という諦観のようなアイロニーのような。とってつたけようでもあり、『ゼロ・グラビティ』という邦題で見世物っぽさを売りにした配給会社の意図が分かるようでもあり。

この映画は、座席が振動したり匂いや霧が噴き出す「4DX」でも上映されていると聞く。
言うまでもないが、映画は観客の脳に、止まった映像の繋がりを「動いている」と錯覚させる表現である。「怖い」「綺麗」「冷たい」「熱い」など、映画という錯覚と同期する多様な記憶もまた、脳に蓄積されている。それらの記憶を想起させることで、映画は意味を形づくる。
ところが、実際に座席が振動しないと「振動」を感じられないとすれば、それは演出の不足でしかない。それ以上に「こんな激しい揺れで、主人公は失神しないのだろうか?」といった脳の類推が起動せず、ただ「揺れている」という動物的なリアクションしか観客の脳に起きないとしたら、それはもはや映画を見るのとは別の体験だ。

怖ろしいのは、3Dや4DXを「より高次な体験」と思い込んでしまうことだ。3Dや4DXはハードに過ぎない。
無重力空間で、炎はどう燃えるのか? その面白さはYouTubeの小さな画面でも、十分に伝わるはずなのだ。


そもそも、僕は『機動戦士ガンダム サンダーボルト』で、フィクションでの無重力描写に興味がわいて、それで『ゼロ・グラビティ』を見に行ったのだ。
『ゼロ・グラビティ』では、デブリの群が同じ軌道を回っており、定期的に他の宇宙機に被害を与える。だったら、デブリを軌道上に敷設しておけば、立体的なバリケードを築けるではないか? ――サンダーボルト宙域は、ラグランジュ点に集まったコロニーの残骸から成っている。その宙域に拠点をもつ側にとっては、何億というデブリが防壁として機能してくれるわけだ。
……ということを、一般向け作品でやると「マニアック~!」といわれてしまうので、日本の映像界は幼稚だというのだ。『ゼロ・グラビティ』は、興収100億円のメジャー作品なのに。

日本映画は、具体性から切り離されてしまったかのように見える。
一秒の猶予さえないピンチ時に、主人公がえんえんと恋人と愛を語り合う。一秒の猶予さえない状況下なら、一秒もかけずに愛を伝えられる演出を考えるべきなのに。そうした冷徹な現状認識を抜きに「愛が伝わったんだから、まあいいだろ」と送り手は考えているし、そんな映画が大ヒットしてしまう。

いろいろ、原因があると思う。70年近くも戦争がなかったことも、作用しているだろう。『王立宇宙軍』のとき、岡田斗司夫が「男の一生の楽しみが、恋愛しかなくなってしまった」と言っていた。そういう時勢もあると思う。(『王立宇宙軍』は具体性の塊のような映画だったが、配給会社の考えたキャッチコピーは「愛の奇跡…信じますか。」だった。)


地上ばかりか海底の放射線量まで、地道に計測する番組をつくっていたNHKは、都知事選の間は原発の話はしないそうだ。「がんばろう日本」「食べて応援」の陰で、放射性物質は、気合いで吹き飛ばせる幽霊のような存在にされてしまった。
自民党は、とうとう野党を「日本から出ていけ」とヤジりはじめた。もはや「悪霊退散」のレベルである。

このモヤモヤした気持ちを、いつかまとめて書きたいと思うけど、『機動戦士ガンダム サンダーボルト』は、日本人も具体的に状況を考え、冷静に世界を組み立てられるのだと教えてくれた。「愛国心を」「美しい日本を」なんて言われなくても、日本人の潜在能力は優れた漫画の中にある。
ガンダムに敬礼する10代の志願兵たちの悲哀も、ジオンの勲章を嫌悪する民間人の潔癖も、冷徹で具体的であるがゆえに、右とも左とも言い切れない複雑さ、曖昧さをはらんでいる。

作品、表現は、人を裏切らない。ともに考え、ともに歩んでくれる隣人だ。だから、規制などさせてはならないのだ。

(C)2013 WARNER BROS. ENTERTAINMENT INC.

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2014年1月28日 (火)

■0128■

永井一郎さんが、亡くなった。
永井さんの思い出というと、まずは『機動戦士ガンダム』なんだけど、特に第13話『再会、母よ…』なんだよね。その時点で、「このアニメは、何かというと永井一郎に役を振る」という認識ができていたので、そのキャスティングの苦しさをちょっと笑いながら見るというか。「また永井一郎かよー!」と笑っていたのは、間違いないね。

『再会、母よ…』は、アムロが地球で母親と再会するエピソード。アムロの乗ってきたコアファイターがジオン兵に見つかると困るって、民間人のお婆さんが出てくる。どう見ても、お婆さんなんですよ。なのに、声が永井一郎さんなの。やっぱり、テレビの前で爆笑して。「お爺さんなら分かるけど、お婆さんまで永井一郎なのかよ!?」って。
だから、劇場版で『再会、母よ…』のエピソードが生かされると知ったとき、気になったよね。あのお婆さんの声、永井一郎のままなのか? 果たして、劇場版では、ちゃんと女性の声優が演じていたので、「あ、やっぱりねえ」って。だってそりゃ、お婆さんの声だもんね……。


『ガンダム』で言うと、ランバ・ラル隊のモブの声にも、もちろん永井さんが参加していて。
爆笑したのは、ハモンがアムロを「気に入った」といったあと、ラル隊の兵士たちが茶化すでしょ。「男冥利に尽きるってもんだぜ!」って。その若い兵士の声を、なぜか永井さんがやっている。すごい変なんだよ。かん高い声で、無理やり若い声つくっていて。やっぱり、テレビの前で「今のセリフは、永井一郎じゃダメだろ!」って笑い転げて。

劇場版Ⅱで、もちろん耳をそばだてて聞いたよね。そのシーンの若い兵士の声を。ちゃんと、いい感じに別の声優さんが演じていた。「だって、あの声は永井一郎のままでは変だもんね……」「さすがに、スタッフも分かっていたか」と、また納得したりして。

確か、『ガンダム』映画化当初、「ナレーションはテレビと同じく永井一郎さん。それと、ドレンの声だけは永井さん以外に考えられないので、劇場版でも永井さんで」とアナウンスされていたんだよね。だから、劇場版一作目では、ドレン役は永井さん。
ところが、劇場版Ⅲでドレンが再登場したら、声がレビル将軍役の池田勝さんになっていた。「永井さん以外、考えられない」って言ってたのに(笑)。

だから、「おいおい、話が違うぞ」というか、「なんでこの役が永井さん?」「さすがに変でしょ?」って部分で 『ガンダム』は楽しんでいた。割と、声優さんは、ミス・キャストのときに本当の面白みが出るんじゃないの?


『ガンダム』がそんな具合だったから、「声:永井一郎」というクレジットを見るだけで楽しくなってしまって。
『北斗の拳』がアニメになったとき、原作を先に読んでいたから、「この役は誰がやるんだろう?」って、気になるわけ。ケンシロウとかラオウは、そんなに外さないだろうから、誰でもいい。
「ハブ」っていう、猿みたいな小悪党が、一話だけ登場するんだけど、原作を読みながら「このハブって奴は、もう永井さんしかいないよな」と確信していて。「ニィヒヒヒ!」という笑い声が、永井一郎さんにピッタリなんだよね。

でも、アニメの『北斗の拳』は、一話かぎりの悪党の声は、わりとおざなりにキャスティングしている印象だった。ザコは、たいていナレーションの千葉繁さんが兼ねていたし。だから、ちゃんと永井さんを出してくれるのか、不安ではあったんだよね。
いざ、「ハブ」の登場する回が来たんですよ。テレビの前で、「うーん、誰が声やるのかなあ?」と待っていたら、なんと永井一郎さんなんだよ。「ニィヒヒヒ!」って。
「やった、永井一郎だ!」って、飛びあがるほど興奮して。そんなもん喜んでるの、日本中で俺だけ(笑)。だって、エンドクレジットで「ハブ:永井一郎」と映る瞬間を、何度となく夢想していたからね。


宮崎駿作品でも、王道的なハマリ役はダイス船長やミトじいなんだろうけど、『ラピュタ』のハゲた将軍がいたでしょ? あの将軍が、もうバッチリで。電話線を切られて「もしもしもしもしもし!」って慌てる芝居なんて、「ああ、永井一郎……!」
そのシーンだけ、いま見返してしまいました。別に笑いを狙っていないのに、笑えてしまうことってあるじゃん。永井一郎さんの芸歴や偉大さを知ったうえで、「また変な役やらされてるよ」「どう考えても、無理があるでしょ」と笑ってしまう。ラジオでガンプラの歌をうたわされたりさ。

普通ならサラリと流れるところに、いちいち笑いのポイントをつくってくれた人が、永井さんだったね。俺の人生の中ではね。

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2014年1月27日 (月)

■0127■

チェ・ゲバラの死後から間もない1969年公開の映画、『革命戦士ゲバラ!』をレンタルで。
Sharifandpalanceドキュメンタリー調の演出が、かえってウソっぽさを醸しだして、不思議な味わいとなっている。映画という形態をつきつめると、そこにはカメラと俳優しか残らない。物語は、どんどんチェ・ゲバラが窮乏して追いつめられていく展開なので、キャストや小道具の少なさが露呈して、ちょうどいい具合に画面が貧しくなっていく。

娯楽性を強めようとして、銃撃戦や美女を登場させているが、それがかえってチープさを増幅し、まるで見世物小屋に迷いこんだような気持ちにさせられる。
CGによって後から修正できてしまう逃げ腰ではない、撮れば撮るほど欠乏していくフィルムと戦うゲリラ戦としての映画の姿が、ここにはある。どんな被写体でも、生身の俳優にはかなわない。街頭に出たカメラほど強いものはない。


ガンダムをテーマにした漫画作品には興味がなかったのだが、太田垣康男の『機動戦士ガンダム サンダーボルト』は、発売中の二冊をむさぼるように読んだ。
Photo3僕は、仕事で記事をつくるときは、自身も執筆メンバーに加わった竹書房の『ガンダム画報』を参照している。あれから十数年たって、もともと煩雑だった宇宙世紀年表は、さらに何度も上書きされてしまった。『サンダーボルト』はテレビ放映直前、富野由悠季監督がメモ程度に書いていた簡素な年表のニュアンスまで遡った感がある。
(その年表では、「3日戦争」によって40基のコロニーが地球に落とされたことになっている。落下したコロニーの数が「一基」に絞られたのは、みのり書房『GUNDAM CENTURY』からだったと思う。つまり、テレビの冒頭に出てくるコロニーは、40基のうちの一基に過ぎないはずなのだ。)

メカデザインこそ、バンダイ製プラモデルからインスパイアされてはいるものの、破壊されたコロニーの残骸に、半壊したビルや生活用品まで混じって浮かぶ壮大な空間設計は、富野氏の簡素な宇宙世紀年表を尊重したうえで、丁寧に組み上げられた新鮮な印象がある。


『サンダーボルト』の根底には、「宇宙で暮らす」ことへのシビアな実感がある。破壊された艦船の内部は無重力状態となり、死体の間に血が球となって浮かぶ。スパゲッティやアルコールは、飛び散らないようにパックに入れられ、無味乾燥としている。
宇宙空間で戦う主人公たちの生活感・人生観は、そのような苛酷さの上に成り立っている。富野氏の年表にある「サイド国家主義」は、生活環境の激変を視野に入れて考えだされたものだと思う。それをベースにしているから、かつてサイド4という自治体があった空域を奪還するための民兵部隊が誕生し、難民の貧しい暮らしから脱出したい志願兵が続出する。この作品では、ひとつひとつの悲惨、栄誉、野心が、「宇宙で暮らさねばならない」という人類の巨大な体感のうえに成立しているのだ。

その感覚は、CGで何でも可能になると慢心した日本の映像界が、忘れてしまった知性である。(山崎貴が『寄生獣』を撮るようではイカンのだ。)
富野氏が、簡素ながらも80年分の宇宙世紀年表を書いたのは、映像が貧しくなるのを覚悟してのことだと思う。作家の知恵と工夫が、たまたま年表という形をとったに過ぎない。セル画一枚に説得力を与えるための、膨大な勉強の成果が、あの年表なのだ。だから、やはり映像以上の答えはない。

『サンダーボルト』には、あのザックリした年表と、後半かなり乱れていたテレビの作画とを頼って描いた、一種の殺伐さがある。ハングリーさ、と言いかえてもいい。精神的に飢えていない者がつくると、表現はどんどんいい加減になっていく。


「飢えていない」から、ユーザーは公式だとかオフィッシャルだとか、手近な正解を求めるようになった。手早く、堅実なものにすがりたい。手探りで登山するより、ヘリコプターで安全確実に頂上まで行きたい。それは、本当は自分が何が欲しいのか、分かってない証拠なんだよ。
日本のアニメというのは、文化の端っこから繰り出されたカウンターパンチだったはずなんだ。「ガンダムは衝撃だった」って誰もが言うのは、ようは思わぬところからぶん殴られたって意味なんだ。

だけど今、自分だけは絶対に殴られない安全域から、届きもしない軟弱なパンチをポコッと繰り出す人ばかり増えた。そんなパンチで気がすんでしまうのは、やはり「飢えていない」からなんだよ。

(c) Shogakukan Inc. 2012 All rights reserved.

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2014年1月25日 (土)

■0125■

ちょっと我慢できないので、書く。

『売り手も「やばい」と思う日本男性のロリコン化』() 週刊朝日の記事。
「黙っていてもロリコンビデオやロリコンエロ本やロリコンのイラストがついているオナニーホールが飛ぶように売れるのが、今の日本の現状だ」と書かれているが、「ロリコン向けのビデオ」「ロリコン向けのエロ本」「ロリコン向けのイラスト」という意味だろうな、おそらく。

同じ週刊朝日掲載の記事、『北原みのり「各国首脳の前でAKB48いいじゃん!」』()を読むと、どうも、この人にとってはAKB48も「ロリコン」らしい。未成年の合法のアイドルが「ロリコン」ってことなのね、ハイハイ。
「どうどうとロリコン写真貼ってましょうよ! どうどうと、AKB48に歌ってもらいましょうよ!」……うーん。めんどくせぇなあ、こういう人。こういう雑な感性。薄汚い偏見。吟味されていない言葉。下世話な、野次馬根性。

記事によると、3歳の女の子の水着イメージDVDが『警視庁宛てに「児童ポルノ」通報を送る運動も起き、結果的に発売中止になった』と明言されている。運動が起きた? いつどこで? 個人なり団体なりが告発したのか? 起訴されたの? 「警視庁宛てに」「通報を送る」では、何がなにやら分からない。

ファミリーマートが、「残酷」という指摘を受けただけで、フォアグラパテ入りの弁当を発売中止したでしょ。同じことじゃないかな。国家が個人を監視するように、個人が企業を監視する。アレをやめろ、コレをやめろと脅す。抑圧する――。
もはや、日本は十分にディストピアだよ。息苦しい。3歳の女児の水着であれ、フォアグラ入りの弁当であれ、現行では適法なのに、法廷で争う機会すら与えられず、一方的に消し潰されていく。どちらが野蛮で残酷なんだ? 法治国家だぞ?


先ほどの「ロリコン」記事を書いた北原みのりは、女性が経営するアダルトショップ国内第一号を出店したことが自慢らしい。
セックスに関する著書も多いみたいだけど、雑だよね。事実のつかみ方も、それを伝える言葉も。(性欲とも恋愛とも違う“萌え”という概念を生み出したオタクたちのほうが、何千倍も繊細だ。)
こういう人に「東京都の皆さん、業界的にはOKらしいです、ロリコンコンテンツ規制。」なんて出鱈目を書いてほしくない。「女が大人のオモチャなんて売るのは不潔かつ病的なので、国家が規制すべき」と言われたら、激怒するくせにさ。
(そもそも、「ロリコンコンテンツ規制」とは何か? そんな名前の条例はない。)

フォアグラ弁当の件も、『黒子のバスケ』脅迫事件と変わらないよ。不愉快だから、脅してやめさせる。俺が、私が「気持ち悪い」と感じるのだから、他の消費者や企業は我慢しろよってことでしょ? 恥ずべき心理、恥ずべき国。身が震えるほどの羞恥と怒りを感じる。


法の番人たちの行いを見れば、その国のレベルが分かる。
『新人に熱い豆腐など押し付ける 静岡県警が9人を処分』() 「新人歓迎会で20代男性巡査を押さえつけ、鍋の豆腐などを顔に押し付けたり、熱したトングを右手に押し当てたりした。」……俺はね、どんなに道に迷っても、警察官には絶対に道を聞きません。
面白半分に暴力をくり返すなんて、女子高生コンクリート詰め殺人事件の犯人と変わらない。こんな獣のような連中が、町中で「オイコラ」と僕を呼び止める。野蛮な、おそろしい国だよね。

中学校の体育の時間、僕は習ってもいない平泳ぎをさせられた。体育の教師は「廣田は、何やってんだ? 平泳ぎのつもりか?」と、みんなに聞こえるように言った。
そうやって恥をかかされた後は、一日ずっと憂鬱で……教室で、顔をあげられなかった。高校生になると、僕を嘲笑するのは、教師からクラスメイトへと変わった。体育の時間、僕がどんな無様な醜態を演じたか、彼らは女子生徒に説明し、指をさして笑うようになった。
――どうやって、怒ることを覚えたのか。「こんなことは、間違っている」と確信した。自由ほど尊いものはないと感じた。力をもった者たちは横暴になると知った。

僕は、少数派だ。体も弱いし、頭もよくない。だけど、怒ることだけは知っている。
とりあえず、フォアグラを腹いっぱい食べたいですね。

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2014年1月24日 (金)

■0124■

月刊モデルグラフィックス 3月号 明日発売
Mg
●組まず語り症候群 第15夜
今回のサブタイトルは「どんどんでてこいはたらくプラモ」。前回から、明らかに担当の千葉ーザムさんのカラーが強くなってきています。そこが、連載記事の面白いところ。「次号、コレどうですか?」と振られるネタが、ほんと意味わかんないんですけど。

●『宇宙戦艦ヤマト2199』出渕裕総監督ロングインタビュー
二時間をこえる、熱いインタビューでした。
『ヤマト2199』にピンとこなかった人も、第一作のリメイクという「仕事」として捉えると、あちこち合点がいくのではないかと思います。
『俺の艦長』の著者としては、沖田艦長の思想を尊重している出渕監督の姿勢に、胸打たれました。

●『宇宙戦艦ヤマト2199』ブームの仕掛け方
『ヤマト』シリーズの放送・公開形式を、ザッと概観してみた記事です。「入場者プレゼント」って、古くは東映まんがまつりなんだろうけど、マニア向けに始めたのは『ヤマト』のセル画じゃないでしょうかね。

だけど、今回は『ヤマト』の作例群が、すごいことになってます。視覚の限界量を超えている。
先日のスーフェスの帰り道、デザイナーのべっちん氏が『進撃の巨人』の例え話として、『サンダ対ガイラ』を引き合いに出した。「うん、あれは凄い映画だったよね!」と、日本のビジュアル・センスの独創性に興奮したんだけど、まさかプラモデルという「メディア」によって、同じ感覚に陥るとは。
モデグラは編集スタッフを募集しているので、「自分はどこかタガが外れている」と自覚している方は、編集部に骨を埋める覚悟で応募してほしい。


「やめろ、やめろとバカが2人そろって」 石原慎太郎氏(
“くたばりぞこないのジジイ”って悪い言葉だけど、石原じいさんに対しては使っていいよね? 「原発を今止めたら2、3年で電気料金が15~20%上がり、日本の経済が全滅する」というけど、去年の9月15日以降、国内の原発が全停止していることを、このジジイは忘れてしまっているらしい。しかも、原発が停まる前から、電力会社は電気料金上げてるし。原発関係ないし。

日本人が原発に固執する理由は、いろいろあるだろう。老人の場合は、原発が懐メロ化してしまっているのかも知れないな。
日本初の商業用原子力発電所(東海発電所)は、1960~65年に建造された。その間に所得倍増計画が実行され、猛烈な経済発展が成し遂げられた。その「日本すげー」「経済すげー」の印象が、原発とダブって感じられるんじゃない? 
「歌は世につれ、世は歌につれ」じゃないけど、自分が若くて元気のよかった頃に流行っていた歌って、決して否定できないもの。先日、CSで1986年の『ザ・トップテン』がそのまま放映されたけど、「おおらかな、いい時代だったな」「昔のアイドル歌謡は甘酸っぱいな」と思ってしまったよ。僕が大学に入った年だから。

「人間、センチメントに弱いから」って、石原ジジイ自らが言ってるじゃない。原発稼動=経済発展という郷愁から抜け出せないのは、アンタらの方だよ。
原発事故を擁護するのに使われる「50~60年代の大気中核実験の方がひどかった」話法も、一種のセンチメントだな。部分的核実験禁止条約は、1963年でしょ。それ以降に生まれた世代には、関係ないもん。「俺たちの世代は毒くらったんだから、今の連中もガタガタぬかすな」という言い分、人間性を疑ってしまうな。


カミーユにぶん殴ってもらえたクワトロ大尉は、まだ幸せなほうで。
僕は「バブル期に大学生だったんですか? 軽蔑しますよ」と、20代に冗談半分に言われたことはあるけど、殴ってなんてもらえない。加齢とともに必然的に生じる傲慢は、自ら洗い落とすしかない。

40歳をすぎてから、ガクンとつまらなくなる人間は、大勢いる。僕も、そうかも知れない。若い人は、よく見ておいてほしい。

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2014年1月23日 (木)

■0123■

TSUTAYAに大島渚コーナーがあったので、『青春残酷物語』をレンタルした。1960年の公開。
Filmarchive558imageja桑野みゆき演じる17歳の女子高生が、川津祐介演じる大学生と美人局で稼ぐことを思いつく。だが、桑野の妊娠・堕胎をきっかけに二人は破滅へ向かう。
映画としては、凡庸な出来です。松竹ヌーベルヴァーグなら、吉田喜重や篠田正浩のほうが画期的なことをやっていた。だけど、大島は1960年の東京の街へカメラを出したんだよね。「今」をフィルムに焼きつけたんだ。

例えば、渋谷で学生デモを見ている桑野と川津。デモは本物で、街頭で見ている人たちも本物。望遠で狙っているから、セリフはアフレコだ。
後半には、当時、東京のあちこちにあったであろう建築現場が出てくる。その建築現場も本物。60年末には、所得倍増計画が閣議決定。豊かな時代だったんだろうな。

桑野の姉と、その元恋人が「僕らは学生運動で挫折したが、若い世代は欲望に生きている。だから、彼らは挫折しない」という意味のことを言う。説明的なセリフなんだけど、リアルに聞こえた。
つい先日、ネトウヨについて若い人と話す機会があって。彼によると、若い世代はお金を持ってないから、無料(あるいは格安)で楽しめる小さな娯楽をよく知っている。だから、それほど暮らしに不満は抱いていない。むしろ、社会に苛立っているのは30~40代じゃないですか、と彼は言う。だから、ネトウヨは高年齢であって、お金のない若者と同一視されたら迷惑だって。
いまや、世間知らずは若者ではなく、オッサンたちだって話。


大震災の前年、肺がんで死んだ映画学科の後輩が言っていたよ。
「廣田さん。日本のアニメにとって、いちばん幸せな状態って何だと思います? 地球の裏側でも、どんな貧しい村の子供たちでも、ネット回線さえあれば日本のアニメが無制限に見られる……その日が来るのが、作品にとっても人にとっても、幸せなはずですよ」。
だけど、今のアニメは放送開始一分もしないうちに「番組の不正利用が多発しております……」。映画館に行けば、「NO MORE 映画泥棒!」 だけど、アニメのブルーレイは2話しか入ってないのに7千円だし、映画は1800円もするし、窮屈な時代だのお!

僕は『ゼーガペイン』のDVDを全巻買ったし、雑誌で何度か記事もつくったけど、最初に海外の違法サイトで『ゼーガ』を知ったことを、しつこく責められたよ。
君らも君ら、不寛容だよね。アニメでも映画でも「ネタバレ禁止」とかさ。ディスクの売り上げが悪かったら「爆死確定w」とかさ。権利者側の決めたルールと価値観だけは死守するのな。

カルメン・マキが東京電力への反発から、電気代を滞納したら「あなたこそ犯罪者ですよ」とコメントしまくる名無しの群れ。
政府や電力会社が決まりを破っても、僕らだけは決まりを守ろう――。敗戦国民の卑屈なアイデンティティは、ひそかに伝播しているのではないだろうか。「全面降伏したのだから、米軍基地は受け入れましょう。嫌がっている沖縄県民たちはワガママです。」「第五福竜丸の被爆をウヤムヤにするためにアメリカから原発が導入されたので、ありがたく使いましょう。」

「え? いま動いている原発はゼロだし、特に東電管区は、真夏のピークを原発なしで三度も乗り切っていますよ?」などと、本当のことを言ってはいけない。
仕方なく、やむを得ず、断腸の思いで、苦渋の決断で、不本意ながら、耐えがたきを耐えるのが大好きな国民なのさ。


昨年末、山田太郎議員の児童ポルノ法規制強化反対キャンペーンのお手伝いをしたときに知ったのだが、エンターテイメント表現自由の会「AFEE(エフィー)」という組織がある。
このAFEEが、都知事候補者たちに都条例についてどう考えているか、公開質問状を提出した。

僕もうっかりしていたんだけど、SNSで自分の顔写真を載せるべきところに、美少女のアイコンがあるのって、かなり奇異に見えるらしいのね。それは海外だけでなく、国内でも。
だけど、「シナチョンは出ていけ」の排外主義者が「俺たちの趣味や嗜好の特殊性だけは、例外的に認めろ」なんて言っても、説得力ないよね。
明日24日、通常国会召集。児童ポルノ法改正案の提出が懸念される。プラカードを掲げただけで、警察官と自民党員に取り囲まれるご時世、いったい何が出来るだろう?

(C)1960 松竹株式会社

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2014年1月19日 (日)

■0119■

NNNドキュメント'14「反骨のドキュメンタリスト 大島渚 『忘れられた皇軍』という衝撃」の再放送を見る。
140112番組は、1963年放送の『忘れられた皇軍』本編と、関係者のインタビューから成る。番組で取材された元日本軍の在日韓国人たちが、その後に起こした訴訟にも大島渚は顔を見せており、当時のビデオも出てくる。

1963年というと、僕の生まれる4年前。『鉄腕アトム』が放送開始され、ケネディが暗殺された年。『忘れられた皇軍』本編には、当時の雑踏に重ねて、谷啓の「愛してタムレ」の陽気なメロディが流れる。
敗戦から20年たって、豊かな時代だったんだろうけど、あまりノスタルジーは感じない。いまの自分にとって生々しく感じるのは、家賃さえ払えずに困窮していた20代のころ。90年代の寒々とした雰囲気を、不思議と懐かしく感じる。その頃、僕より若いのに漫画喫茶に寝泊まりし、一日の大半を路上ですごす若者たちのドキュメンタリーを見た。あの底冷えするような無関心な都会の雑踏に、かえって身をあずけたくなるような濃密なリアリティを感じた。

いま、そういう番組あるのかね? この「反骨のドキュメンタリスト」という番組には、是枝裕和監督が出演していて、「今の政府になってから、ナショナリズムに人々の心情が回収され、それがひとつの救いになってすらいる」と語る。「8割が賛成するなら、残り2割で何が出来るのか。テレビというのは、それを考えるメディア」。「支持されなくても、やる。視聴率が低くても、つくる」。
いまのテレビがそうなっていないから、是枝監督はわざと言ったんだろうね。


それで、『忘れられた皇軍』を見て韓国籍の傷痍軍人たちに心傷むのかというと、むしろ、彼らは今の僕たちに近い境遇なのではないか、とゾッとさせられる。2014年に、この番組を放映するという狙いも、そこにあるんだろう。僕らは国に捨てられつつある、ということね。

「いや、俺はそんなことない」「俺は、国に捨てられてなんかいない」と言う人が大半だと思うよ。負けた人間ほど「まだ負けてない」と自分にウソをつく。敗北を受け入れて消化しないと、次には進めないとサッカーの監督も語っているというのに、日本人にはそれが出来ない。
日本人は、敗戦を「終戦」と呼びかえる欺瞞のうえに、アイデンティティを組み立てた。「実は負けていない」という虚勢から脱しきれない。原発事故が、それを明らかにした。「事故は大したことない」「だから、原発はやめない」「やはり、原発は必要だ」「いや、原発なしにはやっていけない」。言えば言うほど、負けた事実だけが明確化していく。

汚染地域で、わざわざグルメ・コンテストをやる。汚染されたシイタケを、わざわざ給食のメニューに入れる。「ああ、危険なんだな」と分かってしまう。やることがアベコベなんだよ。「食べ物が汚染されてしまって、困っている」と正直に言えば、みんなで救いあう気持ちが生まれるだろうに。
『忘れられた皇軍』の韓国人たちは、とりあえず「俺たちは負けた」ってところからスタートしている。報われなかったかも知れないが、理不尽を受け入れるよりはマシだと、彼らは考えたのだろう。「いやいや、俺らは負けてないよ」と自らを欺きつづけた日本人は、いま膨大なツケ、払わなくてもいいツケまでを払わされつつある。どちらが、精神的にマシなのか?と考えてしまう。

だって、目の前でヤバイことが起きているのに、「大丈夫だよ、こんなの」と事態を過小評価してる人って、一緒にいて怖いもの。そういう人と仕事していると、逃げだしたくなる。ダメならダメと、正直に言う人なら一緒に戦えるのに。


今日は、是枝裕和監督の『歩いても歩いても』も見たんだけど、阿部寛の演じる長男が「俺が失業していることは、親には内緒だぞ」と嫁さんに頼むところが、痛々しい。
携帯電話をとっては、忙しいアピールをする。そういう男、いっぱいいるじゃない。「忙しい」って言うと、安心できるんだよ。自分には役割がある、世の中から必要とされているぞって思い込めるんだろうな。
仕事がなくなったら、それは「世の中から必要とされてない」「自分の役割は終わった」ってサインでしょ。「さて、どうしよう」と、ポケットに手を入れて考えればいい。そういう態度でいないと、自由という広場には立てない。自由とはおそらく、安心の反義語なんだよ。

原発事故以降、みんな過剰に安心を求めはじめた。在日韓国人を差別し、罵倒する人が激増した。誰かを差別しているかぎり、「まだ負けてない」って思えるから。
「負けた」って認めるのって、気持ちいいと思うんだけどな。泣くのって、気持ちいいよ。涙が出ると、救われた気持ちになる。少なくとも、僕は「困ったんです」と正直に告白する人間以外、助ける気にはなれない。

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2014年1月16日 (木)

■0116■

大島渚のドキュメント番組『忘れられた皇軍』に熱烈なコメントを寄せていた是枝裕和監督。代表作の『誰も知らない』を見たことがなかったので、レンタルしてきた。
Daremo4巣鴨の子供置き去り事件をモチーフにした、ドキュメンタリー風の作品。母親に捨てられた兄弟4人の都会生活が、貧困によって崩壊していく。最初は長女が干していた洗濯物は部屋の中に投げ出され、ボロボロの汚れた服を着た子供たちは公園で水を汲み、頭を洗い、コンビニから賞味期限切れのおにぎりをもらって、ぎりぎりの飢餓をしのいでいる。

事件は1988年に起き、映画は2004年公開。だけど、それから10年を経た今のほうが、リアルに感じられるような気がするね……。
実写映画は、実社会と無縁ではいられないはずなんだ。原発事故以降、日本映画がどうでもよくなったのは、バブリーな夢の中へ逆戻りしてしまったから。テレビドラマの劇場版だとか、本当にクソッタレ。原発をモチーフにしながら、「それでも日常は続いていくよ」式の実写映画も、しょせんは現実逃避のファンタジーなので、同じぐらいの嫌悪感をおぼえる。

10年前、僕は結婚していて、ゲーム会社の正社員でいられた。だけど、地方から出てきた20代の社員は、漫画喫茶で夜明かししたりしていたんだよね。僕のようなバブル世代とは、生活意識が違ったんだろうと、今になって思う。


僕が中学生ぐらいのころ、「一億総中流」という言葉があった。うちの親が、学校のアンケートに答えて「中流」のところに丸をつけているのを、ちゃんと覚えている。
「ウソつけ」と思った。小学校のころは、ボロボロの木造の長屋に住んでいる友達がいたし、同じクラスに庭つきの邸宅に住んでいるヤツもいた。しょせんは、「彼らに比べればウチはマシ」「しかし、お金持ちというほどでもない」だとか、そんな気味の悪い他人への遠慮が「中流意識」の正体だったんだ。
バブル世代は、中流意識から逃れられないんだと思う。実社会がどうあれ、他人がどうあれ、貧乏だけはイヤだ。同じ日本に貧乏な人がいようが、自分が貧乏でさえなければいい。

是枝裕和監督は、バブル景気の真っ只中に青春時代を送った。あのお祭のような日々を甘受してきたはずの人。『誰も知らない』のモデルになった巣鴨の事件は、彼が早稲田大学を卒業した翌年に起きた。あんな豊かな時代に、同じ東京に住む子供たちが飢えていただなんて、信じられない。
是枝監督は、その残酷な対照を、他人事とは思えなかったんだろうな。一億総中流意識からこぼれ落ちた人たちを、彼は無視できなかったんだ。


映画の中に、いじめられて不登校になった女子高生が出てくる。ちょっとリアリティがないんじゃないかと思ったけど、彼女が帰る家ってのは、自動ドアのある高級マンションなんだよ。緑が茂っていて、うっすらと木陰になった歩道橋の向こうに、グラウンドが広がっていたりしてさ。その静謐な風景を、薄汚い服を着た主人公が見ている。
その彼が荒れ果てたアパートに帰る道筋に、歩道との高低差を埋めるためのコンクリのブロックがあって。それを踏むとき、「ゴットン」と嫌な音がする。それはいわば、無関心の音だ。笑いもしないし、泣きもしない。嬉しくもないが、悲しくもない。フラットな音。フラットな感情。

監督は、また嫌なロケ地を選んでいて。行くあてもない子供たちが遊ぶのは、小さな原っぱのような土地なんだけど、その向こうで巨大な重機が新しい建物をつくっている。その建物は、飢えた彼らを救いはしない。関係がないんだ。
かろうじて、彼らがすがることの出来る場所がコンビニ。コンビニが24時間営業になった頃から、いろいろおかしくなった。そういう意見がある。そうかも知れない。すべての時間が均質化された。暑くても寒くても、コンビニに行けば大丈夫じゃないか。おなかが空いたら、コンビニに行けばいいんじゃないか。だけど、その安心感は、のっぺらぼうだよね。コンビニは、僕らの気持ちを地ならしした。寂しくも嬉しくもないよう、均質にした。無慈悲にした。

もうひとつ、この映画で象徴的なのは、どんなに追いつめられて、死を身近に感じても、子供たちが警察にだけは行かないところ。警察や施設は、ダメなんだって。「ダメ」って、つまりは幸せにはなれないってニュアンス。
この映画から10年たって、何かひとつでもマシになったものがあるんだろうか? 悪化の一途をたどってると思う。

(C)2004 『誰も知らない』 製作委員会 All rights reserved

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2014年1月15日 (水)

■0115■

EX大衆 2月号 本日発売
Ex_taishu
●TIGER&BUNNYについて吠えるぜ!
カラー4ページの特集。「劇場版第二弾公開前なので、画像を大量に使える」とのことで編集部主導で動いた企画でしたが、意外と制約が多くて、振り回されました。
「ウチの読者はタイバニを知らないと思うので、入門的な記事を」「と同時に、EX大衆ならではの視点も欲しい」とのオーダーで、Febriに書いたときのメモを引っ張り出して『虎徹名言集』をつくったり、平田広明さんの事務所の話を出したり……。

しかし、今月のEX大衆は「ケイブンシャの大百科の大百科」という記事が、素晴らしい。当時の「大百科」シリーズの編集者が、自販機本を引き合いにだして、「最低限の情報だけ押さえておいて、あとは自分たちで好き勝手にページを埋める」楽しみを存分に語っている。
そういう記事が、EX大衆のような雑誌に載っているのが、また美しい。自販機本なんて、憧れのまとですよ、俺にとっては。大量に刷ってとにかく儲けたいのか、少なくてもいいからゲリラ的に好きな本をつくるのか……その志向が定まらないヤツほど、「出版不況」と言いたがるんだよね。

自分にとって、何が幸せなのか、何が本当に楽しいのか、心の底から正直になって考えないといけない。つまらない義務感やプライドは、目を曇らせるだけ。本当に面白ければ、どんな仕事をやっても楽しいはずだし、つまらなければやめてしまった方がいい。


『プライベート・ベンジャミン』と間違えて借りてきた『G.I.ジェーン』。リドリー・スコット監督。
Cs0000000200400790111女性議員の政策アピールの一環として、米海軍のSEALsへ送り込まれたデミ・ムーア。
むくつけき男たちの中で、たったひとりの女性訓練兵。『エイリアン』と同じテーマを、異邦人の側から眺め返しているかのような作品だ。
『エイリアン』では、人間たちの中に、人間を生殖の道具に使う生き物が紛れ込んだため、人間のありようそのものが変質していった。エイリアンから見れば、人間たちは生殖のための器官にすぎないからだ。

『G.I.ジェーン』のデミ・ムーアは、男性ばかりの組織に順応するのではない。彼女が頭を丸刈りにして、汚いスラングを口にすればするほど、SEALsが「女のいる特殊部隊」へと再編成されてしまうのだ。
そのため、上層部は動揺し、彼女を送り込んだ女性議員までが手の平を返す。女性兵士が男に負けまいと抵抗しただけなのに、上部組織までもが変質を迫られていく。

ラストで、自分をレイプしようとした鬼教官を助けてしまうシークエンスは、かなりどうでもいい。たいていの映画にとって、ラストは他愛のないものだ。映画は、過程が面白いのだ。
しかし、訓練兵たちが昼食を手づかみで食べ、食べきれずにポリバケツに捨てさせられた挙句、そのポリバケツの中の残飯を「貴様らの晩飯だ」と食べさせられるシーンは強烈だった。


今週、梅津泰臣監督にインタビューすることになっているのだが、 『ウィザード・バリスターズ 弁魔士セシル』は、カットワークの切れ味がいい。
20131107024511b83セシルが事務所に初出勤してくるシーンで、「すみません、遅くなりました」と敬礼するけど、ワンカットのように見えて、アップの絵だけ別カットになっている。(これは顔だけ見ていても分からない。よく見ると、背景が急に寄った絵になっている。)
カットを分けることでカクッとテンポがついて、仕草と顔が強調される。

もうひとつ、安定した構図の中で、主人公だけ目立たせるラストカット。
警官ふたりナメで、右にセシル、左にもよがいる。セシルは警官に弁明しているが、問い詰められるとガクッと頭を下げて、「セシルです」。ここでEDに切り替わるセンス。
もし主人公の顔アップで「セシルです」だったら、視聴者は何も探すものがないというか、選択肢がない。4人のキャラが止まっている中で、セシルだけが自分の名前を言いながら頭を下げる。すると、4人の中でセシルにフォーカスが合う。視聴者の視線が誘導される。その瞬間にバスンと終わるのが、カッコイイんだよ。

あと、キャスター付きの椅子に座ったキャラが、フレームインしてセリフ一言とか。最初からフレームの中にいるより、シャープな動きが加わる。セリフの印象も強まる。
何度も見てしまう作品には、必ず、何度も見たくなるような仕掛けが潜んでいる。

(C)1997 HOLLYWOOD PICTURES COMPANY and TRAP-TWO-ZERO PRODUCTIONS,INC
(C)ウドパートナーズ

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2014年1月13日 (月)

■0113■

昨日のスーパーフェスティバルにお越しいただいた皆さま、ありがとうございました。
Dsc_1722あいかわらず、ギムレット氏のレゴが大人気。自分が楽しんだ成果で、見知らぬ人まで笑顔にさせるなんて、すごい事だと思う。

僕の帰りの荷物は、売れ残った商品のみだったのだが、竹橋駅近くのコンビニに、袋ごと忘れてきてしまった。
それに気がついたのは、三鷹駅の改札を抜けたときだった。後日、あらためて取りにいくのも億劫なので、すぐさま竹橋まで引き返すことにした。所要時間は40分ちょっと。
荷物はコンビニのレジの中に、きちんと保管してあって、若い店員が笑顔で「お気をつけください」と手渡してくれた。


しかし、憂鬱な気持ちは晴れない。
たとえば、こんなニュース……。『迷子に「どうしたの」と声かけるべきか 「不審者」扱い怖く、「110番」した実例巡り議論』(
泣いている子供を助けようとして声をかけただけで、犯罪者にされてしまいかねない世の中が、平和といえるだろうか? 犯罪をおかすかも知れない一個人と、「アイツは犯罪者かも知れない」と疑心暗鬼にかられた群集と、どっちが怖ろしい?

いま、犯罪の起きていない場所に、「犯罪者をつくる」方向に世の中が動いているんだよ。
『マイノリティ・リポート』のように、「どうせ未来には犯罪をおかすに決まっているから、早く牢屋に入れてしまえ」という考え方が、支配的になってきている。
たとえば、誰に何を言われたわけでもないのに、「こういう表現はヤバイよな」と自粛することで、そこに犯罪の萌芽が生まれてしまう。自主規制という卑屈な態度によって、本来、何もない自由な場所に「犯罪の可能性」が生まれてしまう。

権力は、権力のみでは完成しないんだよ。権力を恐れ、怯えた群衆たちが屈服することによって、初めて権力は形になる。子供に声すらかけられない異常な世の中をつくっているのは、「ヤバイぞ、犯罪だぞ」と勝手に怯えている我々自身の臆病さなのだ。

(ついでに言っておくと、雑誌の記事をつくるとき、「こんなこと書いたらメーカーに怒られるかも」とビクビクしているライターや編集者は、表現と言論の自由を、積極的に権力者に差し出している。アニメ雑誌が、まるごと一冊広告の羅列になるのも道理というものだ。)


イスラエルは、『ネット上に「同意なしの性交渉」を描いた写真や映像を掲載することを禁ずる法律を採択した。』(
もし強姦を記録した映像があるとするなら、その犯人を探して逮捕すればいい。もし、頭に犯罪をイメージしただけで罰せられるとしたら、殺人事件を扱った映画、小説、あらゆる表現がタブーになってしまう。タブーにしたところで、犯罪がなくなるのだろうか?

僕が小学生だった昭和40~50年代には、猫や鳩、カエルの死骸が、街のあちこちに落ちていた。通学路に転がったままの死骸が、何日もかけて腐敗していくのを、友達と観察したものだった。
いま、街から動物の死骸が消えた。だけど、小動物を虐待する人間はいなくならないし、JR線では毎日誰かが列車に轢かれている。「人身事故」などと言葉を飾り立てても、死は隠しきれるものではない。

死や性などのタブーを、あるはずの場所から隠したがり、ない場所にタブーを生じさせようとしている。そして、タブーを破ってすらいない、破りそうな人間を疑う。むしろ、容疑者をでっち上げるため、あちこちにタブーを設置したがっている。それが今の日本であり、日本人だ。

「戦時体制に入ると、まず国家は自国の文化を破壊しようとする。」(クリス・ヘッジズ 『戦争の甘い誘惑』より)
迷子で泣いている子供に声をかけたら、逮捕されるかも知れない異常な国だよ? もはや一種の戦時体制でしょ。

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2014年1月 8日 (水)

■0108■

いやいや、面白いぞ、『ゼロ・ダーク・サーティ』。最初は、字幕を追うので精一杯だったが、CIAの地道な捜査が、政治的判断から阻まれていく過程は面白い。
Bestofmovieszerodarkthirty1 9.11後、CIAは数万件の情報をもとに、数百人を拷問にあわせてきたが、ビンラディンに繋がる決定的な情報は出てこない。
ジェシカ・チャステイン演じる捜査官は、拷問に頼らず、現地での捜査に徹する。しかし、アメリカ人をターゲットにした爆破テロに巻き込まれて仲間を失い、彼女自身も銃撃にあう。
遅々として進まない捜査への苛立ちを、ガラス板に「拠点発見から○日目」と書きなぐるカットで見せている。作戦実行を渋る上官がジャバ・ザ・ハットのような体型だったり、ちゃんと視覚的に対立や抑圧を表現している。

ついにラディン殺害作戦が動き出し、ジェシカは特殊部隊の兵士たちと会う。
兵士たちは、馬蹄を投げて遊ぶゲームに興じている。それを見ているジェシカに、作戦実行の電話がかかってくる。目の前で、何も知らされていない兵士が「50ドル賭けようぜ」と馬蹄を投げる。馬蹄は、うまくポールに引っかかる。果たして、こんな風に作戦も上手く行くのだろうか? というより、自分のしていることは50ドルぽっち賭けるゲームに等しいのだろうか? もっと途方もないことが起きようとしているのではないか?
一言でいい表せない予感、不安が、見るものの心に沸き起こってくる。


先日、『星の旅人たち』という軽薄な作品を見てしまったせいか、どうすれば知的な映像が撮れるのか、つい考えながら見てしまう。
Zerodarkthirty33903_8まず、人物の手前や奥に、何か配するといい。絞りは開き気味にして、特に手前にあるものをボカすと深みが出る。遠景をボカすのも情感が出る。光源をハッキリさせ、暗いところは潰してしまう。安定した構図を避け、カメラをかすかに揺らし、カットの意味を膨らます。
また、シーンを最後まで見せない。そのシーンの意味は、次のシーンか、だいぶ後に分からせるようにする。電話の相手を、すぐには誰だか明かさない等、観客の興味を持続させる。

そして、引きの絵は「ここぞ」というシーンのためにとっておく。例えば、作戦が発動して多数の局員がいっせいに動いているようなカットは、1秒でも映れば「大きなことが起きている」と分からせることが出来る。そういう狙いがないかぎり、奥までピントの合った、明々白々とした絵は避ける。

――『星の旅人たち』は、これらの逆をやっている(笑)。ファミリー向けやコメディなら、すべてにピントが合っていて、即座にセリフの意味が分からないとダメだろうけどね。

拷問を担当していた男性のCIA局員が、猿をからかっていて、手にしていたアイスクリームを丸ごと取られてしまうシーンが良かった。意味があるようなないような、観客にゆだねるシーンがないと、現代の映画にはならない。その猿は、拷問されていたテロリストの比喩なのかも知れない。すると、CIA局員が自白した捕虜に、ごちそうを食べさせるシーンに意味が出てくる。
あるいは、まったく意味などないのかも知れない。そのような多義性をもった映像に迷わされる過程で、「映画とはこういうものだ」という先入観、自縛がほどけていく。


児童ポルノ法改正について、ジャーナリストの昼間たかしさんは、かなり悲観的な見方をしている()。
“早い話が、世の中の大抵の人とこの事件について話せば、ただただ「子供に欲情するのは頭がオカシイ」と思われるのが、事実である。なぜなら、具体的に自分の生活にどのような影響を及ぼすかをイメージすることができないからだ。”
まさしく、そういう状況だと思う。「児童ポルノ」という言葉そのものが暴力的なため、うむを言わさず「そんなものは撲滅だ」「法で潰せ」と、短絡的なリアクションしか示せない。
そういう人たちは、児童ポルノの法的定義を知らない・調べないくせに「ハダカはまずいだろう」「どうせ、見るもおぞましい物に決まっている」程度にしか考えていない。

だとするなら、少女のヌード写真を撮っていたルイス・キャロル原作の『不思議の国のアリス』はどうだろう。図書館から追い出さねばならないのではないか。いや、その前にナボコフの『ロリータ』は、問答無用で焚書だろう。キューブリックの『ロリータ』のDVDを持っている人は、単純所持で逮捕してはどうだろうか?

“いくら政治家や取り締まりを行う当局が「そのようなことはしない」といっても、国民の側の過剰な反応が一般化していく現象をとどめることはできない。実際に、まだ法改定も行われていないのに、すでに世の中には「児童ポルノとは何か?」ということを考えることなく、「子供のハダカ自体がダメ」という空気が醸成されている。そうした情勢に抗うことができる人は少数だ。”(前掲リンク先より引用)
アニメ『偽物語』に、忍野忍の入浴シーンが出てきたが、僕は「隠さなくていいのだろうか」と思ってしまった。「テレビでは隠して、DVDで出せばセーフでは?」と愚かにも考えてしまった。
「忍野忍は年齢600歳だからOK」などと、子供じみたことを言っていられる段階は、とうに過ぎたのではなかろうか。


『2014年問題の児童ポルノ法改正と共謀罪、特定秘密保護法に通じるもの』(
特定秘密法や共謀罪に実効性を持たせるため、児童ポルノの単純所持が、いいように使われるのではないか?という話。

だが、「特定秘密保護法に反対しているのは、在日」「サヨク」「プロ市民」と痛罵してきたオタクたちが、今さら児童ポルノ法規制強化に反対の声をあげるとは、とうてい考えにくい。
2010年の都条例改正のときは、多数の漫画家やラノベ作家、研究者、出版社らが立ち上がり、大規模な反対運動を展開した。
しかし今は、あの時と空気が違う。「政府の決めた方針に逆らうのは、ヘサヨのやること」。そういう人たちが連帯できるとは、やはり僕には思えない。

Jonathan Olley (C) 2012 CTMG. All rights reserved.

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2014年1月 5日 (日)

■0105■

スーパーフェスティバル64()開催まで、一週間となりました。
今回も「Hard Pop Cafe」として、出店します。ブースはD-18です。たぶん、新作フィギュアを未塗装状態で展示します。モチーフは『タイムボカン』のヒロイン、淳子です。


つまらなかった映画は、一晩でタイトルごと忘却するようにしているのだが、あまりのつまらなさにメイキングまで見てしまった映画が『星の旅人たち』。Yahoo!の映画レビューなど普段は決して読まないのだが、『星の旅人たち』に関しては、評価の低いものだけを選んで読んでしまった。
20120306006fl00006viewrsz150xマーティン・シーン演じる老医者が、息子を亡くす。息子はスペインで巡礼の旅に出ていたのだが、嵐かなにかで死んでしまったらしい。マーティン・シーンは発作的に「息子の遺灰とともに、巡礼の旅をつづけよう」と思いつき、旅の途中で男女3人と知り合う。

登場人物がみんな、偶然をよそおって、印象的な登場の仕方をする。出るなり議論をふっかけてくる。出るなりトラブルを起こす。出るなり奇行に走る。とにかく観客の印象に残ろうと必死。旅の仲間に加わろうと必死。
退屈してくると、素っ頓狂な人物を出して、無理やり盛り上げようとする。人に頼る。役者に頼る。間がもたなくなると、人に振る。監督の生きざまが、そのまま表れたような映画だ。そう思って見ると、あちこちに苦労のあとが丸出しに投げおかれていて、けっこう面白い。

退屈な映画には、「スランプに陥った小説家」がつきもの。この映画にも、もちろん登場する。もちろん自分の人生を語るし、「小説のネタにする」名目で、人に質問しまくる。
この苦しまぎれな小説家は最後に何を言うんだろう?と思って見ていると、なんと「最後のフレーズが思いつかない」と苦笑して立ち去るのだから、けっこう面白い映画だ。


なぜこんな映画になったのか、メイキングを見るとハッキリする。
マーティン・シーンが、息子に監督させた映画なのだ。そんな身内のナアナアで、まず面白くなるわけがない。しかも、この監督は息子役で映画に出てしまっている。顔がバレている。もう逃げられない。さらに、アイデアの発端は「マーティン・シーンが孫と旅に出たこと」で、チョイ役でマーティンの娘まで出演している。
マーティン一家が、次々と駄作のできた理由を自白していくメイキングは、かなりエキサイティングだ。駄作ができるのには、ちゃんと理由があるわけだ。親子三代、映画一本に甘えすぎ。

原題は「The Way」というミもフタもないものだが、かえって味わいぶかい気がしてくる。
国内配給は、これまた期待を裏切らずにアルバトロス・フィルム。『ロズウェル 星の恋人たち』をパクったような邦題も、「ゲテモノ専門のアルバトロス配給だから」と考えると納得せざるを得ない。
つまり、100のうち99まで失敗しつづけた映画なのだが、日本配給がアルバトロスに決まったことによって、ひとつだけ勝てたというか。映画の存在する意味が、パタッとひっくり返ったわけだな。

(C) The Way Productions LLC 2010

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2014年1月 1日 (水)

■0101■

以前から見たいと思っていたスティーブン・スピルバーグ監督の『戦火の馬』。2013年に見た最後の映画となった。
Images 第一次大戦前夜のイギリス。美しい馬と出会った青年が、せっかく育てた馬を軍に徴収されてしまう。やがて青年自身も従軍して、長い道のりの末に愛馬と再会するまでを描く。
古い飛行場を改造したという、巨大な戦場のオープンセットがすごい。ねずみの這い回る塹壕の外へ出ていくと、あちこちに砲弾によるクレーターがあり、そこに雨水が溜まっているのだ。泥の中を突撃する兵士たちは次々に銃弾に倒れ、鉄条網に引っかかったまま死んでいく。

ひとつひとつの表現に、がっしりと背骨が通っている。
例えば、クライマックスで馬は戦場を駆け回るのだが、やがて有刺鉄線が体に食い込み、ドイツ・イギリス両軍が睨み合う陣地の中央に倒れてしまう。
イギリス兵が馬を助けようと白旗を掲げて、塹壕から出てくる。すると、ドイツ側からも鉄線を切る工具をもった兵士がやって来る。彼らは、トゲの食い込んだ馬の体から、二人がかりで鉄線を切断していく。少しずつ馬は自由になり、両軍の兵士も冗談をかわしはじめ、最後には互いの名を名乗って、手を握る。
つまり、このシーンで有刺鉄線から助けだされているのは、馬一頭だけではない。二人の兵士は、お互いを縛りつける国家や民族から、少しずつ解放されていくのだ。


古典的といってもいいカットワークが、歯車のように映画を駆動させる。
戦地に借り出された馬は、騎乗突撃で最初の乗り手を失う。森に潜んでいたドイツ軍は、機銃掃射でイギリス軍の騎馬部隊を迎えうつ。馬にのったイギリス将校の顔が、驚きにゆがむ。その顔のアップ。次に、ドイツ軍の機銃の銃口のアップ。そのカットから、音声がなくなる。機銃が火を吹く。イギリス軍人が撃たれるカットも、落馬するカットもない。次のカットで、馬はただ一頭で森の中を駆けている。それだけで、乗り手が撃たれたことが分かる。機能的で、なおかつ美しい。

物語の進行は、まるでミニチュア模型を作りこむように、映画の世界観を広げていく。
ドイツ軍にとらわれた馬は、今度は野砲を運ぶのに借り出される。数頭の馬に牽かれて、野砲は丘に登る。カメラが引くと、丘には巨大な野砲がズラリと並んでいる。
「装填!」 丘の下には、すでに砲撃でボロボロになった街が広がっている。暗闇で、砲撃に怯えているイギリス兵たちの表情が、つぎつぎとアップになる。最後に映るのは、最初に馬を育てていた、あの青年だ。
深い愛情に結ばれた青年と馬は、いまは敵同士に引き裂かれている。馬は野砲の並ぶ陣地に、青年は砲撃に耐える街にいる。その数奇な、しかし残酷な構図を、映画は手抜かりなく丁寧に組み立てていく。

「映画が面白い」とは、ひとつひとつのカットが十分に役割を果たしている、ということなのだ。カットが機能しなければ、我々は「物語」に触れることすら出来ない。


今日は、母の三回忌。マンションの周囲は、死んだように静まっている。
母は、凶刃に倒れた。今でも、どれだけ痛かったか、怖かったか、想像する。僕は理不尽に向かって、戦いを開始した。

今は、朝には祭壇の水をかえ、夜にはロウソクの炎を灯す生活をしている。
今朝は、しおれた花を生ゴミの袋に捨てた。

あれから、まだ僕は人と話している。人の悩みを聞いている。あるいは、たわいのない世間話に笑っている。いまだ、新しい人との出会いがあり、新しい関係が築かれていくことに驚きを感じる。
――いろいろな世代や境遇の人と、よく会話すること。いろいろな意見、いろいろな感想を聞くこと。多様性を失わず、矛盾を受け入れることが、悲惨な事件から自分を救う唯一の方法だ。暗闇は、いつでも口を開けて僕らを待っている。


年末のコミケは、「販売停止」が相次いだという()。コミケ準備会が、同人誌の修正基準を「商業誌に準ずる」とするなら、児童ポルノ禁止法が改正された暁には、逮捕者が続出するかも知れない。

逮捕におびえ、同人活動を自粛するのか。今のうちに情報を集め、規制強化反対の世論を国会に届かせて対抗するか。人の心に、命令はできない。

(C) DreamWorks II Distribution Co., LLC. All Rights Reserved.

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