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立川シネマシティにて、『ゼロ・グラビティ』。会員なので、3D上映でも1,400円で見られた。最近、当たり前のように138分とか167分とかの映画が多いが、これはシンプルに91分。舞台は、ほぼ宇宙空間のみ。登場人物は、宇宙で遭難する女科学者ほぼひとり。回想シーンで地球が出てくるとか、そういう余計な水増しはやらない。
原題は、邦題とは正反対に『GRAVITY』。単に「重力」とタイトリングした意味は、ラストで分かる。人間は両生類が陸に上がっただけ……という諦観のようなアイロニーのような。とってつたけようでもあり、『ゼロ・グラビティ』という邦題で見世物っぽさを売りにした配給会社の意図が分かるようでもあり。
この映画は、座席が振動したり匂いや霧が噴き出す「4DX」でも上映されていると聞く。
言うまでもないが、映画は観客の脳に、止まった映像の繋がりを「動いている」と錯覚させる表現である。「怖い」「綺麗」「冷たい」「熱い」など、映画という錯覚と同期する多様な記憶もまた、脳に蓄積されている。それらの記憶を想起させることで、映画は意味を形づくる。
ところが、実際に座席が振動しないと「振動」を感じられないとすれば、それは演出の不足でしかない。それ以上に「こんな激しい揺れで、主人公は失神しないのだろうか?」といった脳の類推が起動せず、ただ「揺れている」という動物的なリアクションしか観客の脳に起きないとしたら、それはもはや映画を見るのとは別の体験だ。
怖ろしいのは、3Dや4DXを「より高次な体験」と思い込んでしまうことだ。3Dや4DXはハードに過ぎない。
無重力空間で、炎はどう燃えるのか? その面白さはYouTubeの小さな画面でも、十分に伝わるはずなのだ。
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そもそも、僕は『機動戦士ガンダム サンダーボルト』で、フィクションでの無重力描写に興味がわいて、それで『ゼロ・グラビティ』を見に行ったのだ。
『ゼロ・グラビティ』では、デブリの群が同じ軌道を回っており、定期的に他の宇宙機に被害を与える。だったら、デブリを軌道上に敷設しておけば、立体的なバリケードを築けるではないか? ――サンダーボルト宙域は、ラグランジュ点に集まったコロニーの残骸から成っている。その宙域に拠点をもつ側にとっては、何億というデブリが防壁として機能してくれるわけだ。
……ということを、一般向け作品でやると「マニアック~!」といわれてしまうので、日本の映像界は幼稚だというのだ。『ゼロ・グラビティ』は、興収100億円のメジャー作品なのに。
日本映画は、具体性から切り離されてしまったかのように見える。
一秒の猶予さえないピンチ時に、主人公がえんえんと恋人と愛を語り合う。一秒の猶予さえない状況下なら、一秒もかけずに愛を伝えられる演出を考えるべきなのに。そうした冷徹な現状認識を抜きに「愛が伝わったんだから、まあいいだろ」と送り手は考えているし、そんな映画が大ヒットしてしまう。
いろいろ、原因があると思う。70年近くも戦争がなかったことも、作用しているだろう。『王立宇宙軍』のとき、岡田斗司夫が「男の一生の楽しみが、恋愛しかなくなってしまった」と言っていた。そういう時勢もあると思う。(『王立宇宙軍』は具体性の塊のような映画だったが、配給会社の考えたキャッチコピーは「愛の奇跡…信じますか。」だった。)
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地上ばかりか海底の放射線量まで、地道に計測する番組をつくっていたNHKは、都知事選の間は原発の話はしないそうだ。「がんばろう日本」「食べて応援」の陰で、放射性物質は、気合いで吹き飛ばせる幽霊のような存在にされてしまった。
自民党は、とうとう野党を「日本から出ていけ」とヤジりはじめた。もはや「悪霊退散」のレベルである。
このモヤモヤした気持ちを、いつかまとめて書きたいと思うけど、『機動戦士ガンダム サンダーボルト』は、日本人も具体的に状況を考え、冷静に世界を組み立てられるのだと教えてくれた。「愛国心を」「美しい日本を」なんて言われなくても、日本人の潜在能力は優れた漫画の中にある。
ガンダムに敬礼する10代の志願兵たちの悲哀も、ジオンの勲章を嫌悪する民間人の潔癖も、冷徹で具体的であるがゆえに、右とも左とも言い切れない複雑さ、曖昧さをはらんでいる。
作品、表現は、人を裏切らない。ともに考え、ともに歩んでくれる隣人だ。だから、規制などさせてはならないのだ。
(C)2013 WARNER BROS. ENTERTAINMENT INC.
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