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2013年12月30日 (月)

■1230■

冬コミ初日の昨日、りんかい線国際展示場駅にて、山田太郎議員の街宣お手伝い。
Dsc_1708コミケ帰りのお客さん向けに、児童ポルノ禁止法改正に反対するビラを配布した。ビラは夏コミに配ったものと同じみたいだったけど、演説では、CG児童ポルノ裁判についても触れていましたね。(街宣の詳細は、昼間たかしさんが取材してくださいました。
街宣は、今日も14時から行われる。

僕はビラ配りのボランティアだったので、山田議員の言っていることをじっくり聞けなかったんだけど、「どうして私がひとりで立っているかというと、国会議員で明確に反対している人が、私しかいないから」という意味のことをおっしゃっていた。
お客さんの中には「児童ポルノの規制に反対するなんて、とんでもない!」と言っている人がいたけど、「これが児童ポルノです」という明確な定義ができない法律なんでね。画像掲示板で、「児童ポルノの貼り付けは禁止です」と書かれていたりするけど、書いてる本人にも「ここからは児童ポルノ、こここまでは児童ポルノではない」なんて線引きできないはずだよ。まさに、言葉だけが一人歩きしている危険な状態。

その現状に、漫画・出版業界は声をあげている。しかし、アニメ界隈でメシを食っているはずのライター・編集者の耳には、この規制の存在自体が届いていないかに見える。


児ポ法に直接関連していなくとも、例えば、一般社団法人「人工知能学会」の学会誌の表紙が「女性蔑視」と言われたでしょ。
Ngakkaishi570「この表紙むちゃくちゃ気持ち悪い」「これはダメだ…」とか、主観で「性差別」と断罪されている。国際的には通用しない、とか。
そういう人たちは、どうもキャラ絵であるとか、擬人化とか、オタク界隈のトレンドに弱いみたい。本来、見るはずではなかった人たちの目に、たまたま触れてしまった感がある。

それだけ、日本のオタク文化に於ける「性」のあり方が特殊で理解されづらいことの証なんだけどね。この絵に男の「願望」「欲望」を見る人は、おおぜいいる。だけど、悪いけど、ありふれた絵だよね。二次元萌えという概念をインストールされている僕らからすると。「品が良すぎる」と言ってもいいぐらい。
今、世間から「気持ち悪い」と分断されていた二次元趣味(イラストや漫画だけでなくアニメやゲーム、フィギュアも含まれる)が、白日のもとに晒されはじめている。オタク趣味が一方的に「キモい」と断じられ、公然と罰せられる時代が到来した――とさえ言えるかも知れない。

何しろ、『艦これ』の絵を見て「ポルノだ!」っていう人が出てきたんだもん。「そんな無理解なバカはほっとけばいい」んだろうか? 来月からの通常国会で規制強化されたら、そんな悠長なことは言ってられなくなる。


『艦これ』のどこがポルノなんだよって思うけど、安倍晋三がASEANでAKB48を登壇させたじゃん。あの写真を見て「こんなの、欧米では児童ポルノですよ」って怒っている人がいた。
つまり、何であれ女性がモチーフで「気持ち悪い」と感じさせてしまうものは、即座にポルノ呼ばわりされる時代が来てしまったのではないか。『かぐや姫の物語』で、「子供の半裸・裸身は欧米では制約がつく」と無責任に批判していた人がいたけど、「日本ではOKでも、欧米ではポルノ」。この言い方が、来年は流行るかも知れない。

……この風潮に、児童ポルノ禁止法の強化が加わったら、「成人男性は成人女性の出演しているAV以外は見るな」となってしまう。性欲の全体主義化だよ。表現の自由以前に、心の自由の問題だよ。アニメのキャラを見て、僕らオタクが「かわいいな」「エロいな」と感じたら「気持ち悪い」=「ポルノ」=「法で取り締まれ」。
リベラルとか左派とか呼ばれている人ほど、そういう短絡に陥っているかに見える。そのような短絡をなぞるかのように、児ポ法が動きつつあるということね()。

今、なにをどうしたらいいのか、僕には分かりません。なので、まずは明確に反対している議員を応援する。規制反対の世論を高めるぐらいしかないのね。今のところは。


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2013年12月26日 (木)

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オトナアニメ年鑑2014 本日発売

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●「前後上下」の位置関係から探る宮崎アクションの真の面白さ
今年は「ザ・テレビジョン Colors」「モデルグラフィックス」と、ジブリと宮崎駿について、かなり好き勝手に書かせてもらえた。
この原稿は、宮崎駿作品のアクション・シーンに限って話をしてほしい、というオーダーだった。「高い所」と「後ろ」をとった方が勝つ、というドッグファイトのセオリーが根底にあると思うのだが、ポルコ・ロッソはセオリーを破った戦い方をしている。

『もののけ姫はこうして生まれた。』を見れば分かるように、宮崎駿は、かなり早い時期から予定調和のカットワークを捨て、無意識の領域にたどり着こうとしはじめた。
その試みが、アニメーターの自由を奪うことにつながっていった。ところが、メイキングを見ると、意外と周囲の意見を聞きながらコンテや原画を直しているので、そこがまた面白くて困る。


ここのところ、いい映画に出会えないでいたのだが、イラン映画『オフサイド・ガールズ』、これには驚いた。
75c140d3601436d9bf49d9f8aa3af58a女の子とサッカーの映画と聞いて、「どうせ女の子がチームを組んでサッカーやるんでしょ?」と決めつけていた。まったく違う。
イランでは、女性が男のスポーツを観覧することが禁じられている。それでもサッカーが見たくて、男のフリをしてスタジアムに潜入した女の子が、兵士に捕まってしまう。鉄柵でつくられた簡単な檻の中には、すでに数人の女の子たちが囚われていて、試合を見られない彼女たちは、檻の中で意気投合する。
映画は試合終了までの100分間を、リアルタイムで追う。場所はスタジアム裏手の檻の中がほとんど。この思い切ったコンセプトが、役者とカメラワークに生命を吹き込んだ。

サッカーの大好きな彼女たちは、試合を見て興奮する兵士に実況するようワガママを言ったり、中には「トイレに行きたい」とウソを言って、脱走する女の子までいる。
その女の子が戻ってきて、「試合はこんな感じで進んでいたよ」と、仲間に説明するシーンが素晴らしい。四角に区切られた檻の中をサッカーコートに見立てて、その場で試合の模様を再現しようとするのだ。カメラは、嬉々として歩き回る彼女の動きだけを追う。
そこには、制約を逆手にとる表現のたくましさが、脈々と息づいている。


この映画は2005年のイラン=バーレーン戦の試合中に、ゲリラ撮影された。そのため、ドキュメンタリー的なカメラワークが主体。捕まった女の子に寄り添うように、カメラは群衆の中を進む。だが、彼女がスタジアムの裏手に連れていかれると、その場でカメラは為すすべもなく立ちつくす。
カメラは意志であり、知性であり、映画をフレーミングする万能の神のようでありながら、万能であるがゆえに、その限界を心得ている。

やがて、護送用のバスに乗せられる彼女たち。だが、映画はそこで終わらない。ついにイラクの勝利が確定すると、バスの外には国旗をつけた車から人々が乗り出し、爆竹を鳴らしたり歓声をあげたり……。人々の体温と歓声が寄せてかえす波となり、無限に広がっていく。
ひとりで落ち込んでいた女の子が、やはり逮捕された少年から花火をもらい、それを両手に掲げると、護送バスから熱狂する夜の街へと歩き出していく。彼女が手にしているのは、自由と愛情の灯火だ。

「女子はサッカー場に入れない」という、たったひとつのシチュエーションを取り出すだけで、お国柄や社会性が浮かび上がってくる。テレビに浸食されきった日本映画では、考えられないことである。
コンセプトが明快だから、カメラワーク次第でコメディにもなるし、サスペンスにもなるし、泣かせることだって出来る。CGで後から付け足す必要など、何もない。
次から次へと、泉のように湧き出す豊かさに圧倒され、心の芯が温められた。

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2013年12月24日 (火)

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月刊モデルグラフィックス 2014年2月号 25日発売
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●組まず語り症候群 第14夜
今月から千葉ーザム氏が担当編集となり、アオシマのデコトラを見開きで取り上げています。
デコトラのプラモデルが自分の中でヒットしたのは、「これはプラモデルを作らない人向けの商品ではないか?」という千葉ーザム氏の一言でした。どうも、僕らの知っている模型文化とは違う文脈から売れている商品ではないか。模型のなかのヤンキーというか、「言葉の通じない感じ」がすごい。
「えーと、そのキット、表面処理はどうするんですか?」とか聞いたら、「ああ!? 表面がどうしたオラア!」とすごまれるような。

そういう、俺の知っているはずの趣味を、思わぬ角度からのぞき返してみたい衝動にかられる。アニメや模型に対する興味が枯渇しないのは、その「思わぬ角度」を探しつづけているからだろうな。


「独裁者の強権政治だけでファシズムは成立しない。自由の放擲(ほうてき)と隷従を積極的に求める民衆の心性ゆえに、それは命脈を保つのだ。」
「何もかもが怖い人々は、とりあえず最も強そうなものに縋(すが)りつく。そもそもの恐怖の種をまいてくれた、他ならぬ国家の警察と軍隊に。」
「積もり積もった不満や不安を、だからといって権力を有する元凶にぶつければ報復が怖い。より立場の弱い人々に八つ当たりし、あるいは差別の牙を剥(む)いて、内心の安定を図るようになっていく。」
――斎藤貴男 『安心のファシズム-支配されたがる人びと-』

我が子を放射能から守りたい母親たちを「放射脳」とさげすむのも、秘密保護法に反対する人たちを「在日」「サヨク」とあざ笑うのも、「とりあえず最も強そうなものにすがり」、「より立場の弱い人々に八つ当たり」する心理だよね。

Ustreamで、大飯原発ゲートの抗議活動を見ていたとき、人気アニメ作品のアイコンをつけて「お巡りさん、こいつら銃殺しちゃってください」と書き込んでいた人も、原発に対するあまりの恐怖心からから、ついつい警察にすがりついてしまったのだろうな……まあ、分かりますよ。今となっては。
自分の人生を生きてないんだよ。自分が対峙しなければならない相手に、媚びへつらう。自分の欠損を埋める努力を怠り、最短距離で優越感を得ようとする。「俺は日本人だ」とか「大和民族だ」とかさ。

「目的のない行動はあり得ないから、目的のない思考、あるいは目的のない感覚に生きている人たちは行動というものを忌みきらい、これをおそれて身をよける」
――三島由紀夫 『行動学入門』


年末のコミケでは、児童ポルノ法規制強化に反対している山田太郎議員のお手伝いをするかも知れない。
1205x300『コミケplus Vol.1』掲載の山田議員のインタビュー記事は、HPからも読めるけど、「そもそも性的に興奮することがそんなに悪いことなのかという議論もありますし、まして国家が個人の嗜好の問題にまで介入して、憲法に保障された表現の自由を規制する必要があるのかという疑問もあります。」
――実に、正鵠を射ている。

2010年の都条例(聞いたことあると思うけど、「非実在青少年」という言葉を生んだ条例改正案)のときは、漫画家や出版業界が猛反対した。
今回は、どうだろう。ともあれ、人に「やれ」と言うよりは、自分から動かねばね。

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2013年12月21日 (土)

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やけに『おおかみこどもの雨と雪』で検索してくる人が多いな?と思ったら、地上波で放映されたのか。みんな、テレビ好きだね。「アニメや映画が好き」なら分かるが、「テレビが好き」ってのは、かなりヤバい兆候だと思うよ。依存症だよ。
依存症の悪いところは、自ら考えて、自ら選びとるという意志の力が減退してしまうことだ。アル中が酒にコントロールされるように、テレビ依存症は「だってテレビで言ってたもん」「そんなことテレビで言ってなかったもん」が口癖。思考が乗っとられている。

レンタル屋へ、自分の見たいものを選びに行こう。だけど、レンタル屋に置いてあるものがすべてではない。DVDになっていない映画だって、いっぱいある。
フリッパーズ・ギターが歌っていたように、「そもそも全てと呼べるものなどない!」のだ。どうせなら、誰も見てないアニメを探し、世界中の映画をくまなく見てやろう。


今週は、取材や試写会で出かけていたのだが、「この試写会があったこと自体を、SNSなどに一切書かないでください」と言われて、ちょっと驚いた。
内覧試写というか、「まだ未完成だけど、特別にお見せします」みたいな小さな集まりだったら、それも分かるんだけど……。「言論はコントロールするのが当然」という閉鎖的な考えが、アニメ業界に根強くあるのは間違いない。

「何をどう書いても、宣伝にしかならない」と、最初からあきらめている編集者もいる。だけど、向上心を失ったら、それは堕落の一本道、畜生道ですから。
制約の間をぬって、いかに読者と対話できるか、です。

僕も「廣田って、○○に金でももらってんのか」と言われることがあるけど、それぐらい疑って読んでもらって、ちょうどいい。Amazonのレビューにも、遠慮なくガンガン書いてほしい。「厳しい目をもった読者」は、自由と公平の最後の砦だから。
「金を出すから、一字一句、言われたとおりに書け」と脅されたら、僕は仕事を下りたうえに、このブログでバラすけどね。


児童ポルノ法関連の記事。【詳報あり】pixivやメロンブックスへ飛び火する恐れも…CG児童ポルノ裁判の初公判「私は無実です」
何度読んでも、「衣服の全部又は一部をつけない姿態」という児童ポルノの定義が分からない。防寒着で頭から爪先まですっぽり覆った状態だろうと全裸だろうと、どっちも児童ポルノにしてしまえる。
「ハダカは児童ポルノ」「パンチラは児童ポルノ」と、先入観をもって決めつけている人がいるが、実はそのどちらも児童ポルノだし、児童ポルノでないとも言える。

そんな定義曖昧な児童ポルノ法違反者を逮捕するのが、未成年者をターゲットにした性犯罪ばかり起こしている日本の警察。

僕が秘密保護法に反対していたのは、権力サイドが何とでも、どうとでも運用できてしまうからです。児ポ法と同質だから。
ところが、心のドン底からガッカリしたのは、「特定秘密保護法に反対しているのは、金でやとわれたプロ市民」という批判ね。「反原発デモしてるのは、みんな在日」とレベルが変わらない。「自分が気に入らないヤツらは、自分とよく似ているが別の人種である」「自分は何色にも染まっていない一般人である」……いやいや、プロ市民だの在日だの言ってる時点で、かなり度数の強い色メガネかけてるよね?
単に、自分の意志で集まり、自分の声を発している人間がねたましいだけだろうが。

僕はコミケには何年も行ってないし、特に思い入れもないんだけど、コミケが開催できないような社会は、国はイヤなんです。
自分たちの趣味が、自由が法に侵されようとしているのに、まだ「反対運動している連中はサヨクと在日」という偏狭なファンタジーに逃避するとは……。出版業界・映像業界で食ってる人たち、他人事ではありませんよ。

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2013年12月18日 (水)

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この2日間で見た映画は、『砂と霧の家』と『小さな命が呼ぶとき』。
Mv5bmtuzntcwnduynl5bml5banbnxkftzty『砂と霧の家』は、ジェニファー・コネリーの演じる女性が、差し押さえされた家を取り戻そうと、イラクからの移民家族と衝突する。元イラク軍人を演じるベン・キングズレーのハゲっぷり、ダメ男に転がってしまうジェニファー・コネリーの自虐ぶりが、なかなか見ごたえある。
税金が払えなくて持ち家をとられてしまうバツイチ女、朝から晩まで肉体労働しなくては食っていけない元イラク軍人……社会的に弱いもの同士が、争いをやめて共存しようと模索しはじめるあたりに、ほのかな希望が見える。その希望を完膚なきまでに破壊するのが、ジェニファーに言い寄ってくるダメ警官というのが、痛々しかった。

『小さな命が呼ぶとき』は、ひどい邦題だな。ハリソン・フォードが出演している映画とは思えない。原題は「Extraordinary Measures」。
Mv5bnze0njq0odm2ov5bml5banbnxkftztc子供を難病におかされたビジネスマンが、偏屈な科学者と組んで、新薬開発の事業に乗り出す実話。価値観の違いすぎる二人が、なんとか妥協点を探りつつ、出資者を募るあたりから面白くなってくる。
だが、自分の子供を真っ先に救いたい主人公は、新薬を我が子に投与するよう、裏技を使う。……そりゃあ、あまりに利己的じゃないの?と思っていると、最初は激怒していたハリソン・フォード演じる科学者が、ちょっと気のきいたことを言う。

『チャーリー・ウィルソンズ・ウォー』や『正義のゆくえ』もそうだったけど、アメリカ映画は「まず、お前はどうしたいんだ?」と、個人の意志を尊重するところがある。とりあえず、個々人の差異を認める。
アメリカという国がどうあれ、そこは見習いたいと思わせられるんだよな。


ASEAN(東南アジア諸国連合)の会席で、安倍晋三がAKB48やEXILEのショーを披露。
View0016323531(この写真はニュースサイトより転載。)
北朝鮮の「喜び組」を連想した人もいるようだけど、軍に掌握された時祭イヴみたいなもんでしょう……。ちょっと前に、「いずれ日本政府はアイドルを利用するよ」と書いたけど、思ったより早かった。
もともと、握手券や投票券で客を釣るような商売しているアイドルだから、そりゃあ、電通にプロデュースしてもらっている無能政府とは相性いいに決まっている。

こうして、テレビばかり見ている層に向けて好感度を増すために、もはや恥もプライドもかなぐり捨てている焦りっぷりが、安倍政権は怖い。
アニメも漫画も、根こそぎ持っていかれる気がしている。それでもなお(支持率急降下中の)現政権に心酔するオタクたちのマゾヒズムは、一体どこに由来するのだろう?


オタクというのは趣味の一形態ではない。オタクになる人は、「体」がオタクなんだよね。僕も、姿勢の悪さや肌の白さには、いまだにコンプレックスを感じる。醜形恐怖、対人恐怖……46歳にもなって、コンプレックスを克服できてない。
社会性の無さ(コミュニケーション不全)は、幼年期の家庭環境に左右されていると自覚している。

だから、何かにすがりたい、頼りたい、甘えたい心情は分かる。だって、原発事故が起きてしまって、大人たちの社会が「放射能は安全です」と食材も何もガンガン流通させはじめて、もともと怖かった社会が、もっと怖くなったんだもの。
社会との付き合い方が分からなくてアニメやゲームに逃避した人たちが、何か依存できるものはないか血まなこで探しはじめるのは、無理からぬ話だ。原発事故後、急に在日韓国人を嫌悪しはじめた人って多いんじゃないかな?
「人種差別は、社会生活に支障が生じたときに始まる」と聞いたことがある。社会への不安を押し殺すために、誰かを差別したり嘲笑したりせずにいられない。それがオタクの暗黒面。

内通者に向いているのは、「友達が少なくてプライドが高い人」なんだって。自尊心をくすぐってやれば、何でも言うこと聞くから。ギクリとした人、いるんじゃないの?
「友達が少なくてプライドが高い人」「孤独なのに、偉そうに振る舞いたいヤツ」は、権力側からはコントロールしやすいんだって。そのパターンにまんまと嵌まっている人が、何十万って単位で存在しているのが今の状況なんじゃないかな。

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2013年12月15日 (日)

■1215■

EX大衆 2014年1月号 発売中
Ex_taishu
●人気アニメ聖地☆巡礼の旅
扱った作品は『あしたのジョー』『機動警察パトレイバー』『頭文字D』『惡の華』『ゼーガペイン』 『東のエデン』『ガッチャマン クラウズ』『聖戦士ダンバイン』『幻魔大戦』『STEINS;GATE』『つり球』『らき☆すた』『ガールズ&パンツァー』『あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。』
『あの花』は、斎藤俊輔プロデューサー(アニプレックス)にインタビューもしました。

これは、編集部から「是非やりたい」と持ち上がった企画で、担当編集が『あの花』のファンだったので、そこは1ページ使って重点的に。僕のほうからは、『惡の華』『ゼーガ』『クラウズ』あたりを押し込んで、コラムのアイデア出して……という流れです。(取材写真は貴田茂和さん。)

だけど、二本ぐらいだったか、せっかく取り上げたようとしたのに「DVDの販売期間が終了しているので」と、掲載を断られてしまった作品があった。つまり、売り上げの悪かったアニメは、メーカーが「なかったこと」にしてしまう。
「みんな知らないだろうけど、こういう作品があったんだよ!」と、こちらとしては大声で言いたいわけですよ。なのに、「もう売ってないDVDだから、宣伝してくれなくて良いです」という冷徹な考え方に阻まれてしまう。

実写映画は、見ている人たちの多様性のおかげで、マイナー作品でも救済される。ヒットしなかった映画を愛好して、あえて記事にする人もいる。だけど、アニメの場合は「なかったこと」にされてしまう。長期的視野で商売してないんですよ。


原恵一監督の『はじまりのみち』を、レンタルで。製作委員会に、ちゃんとサンライズが名を連ねているのが素晴らしい。
E2e5b_230_68b48e2cd5698b39e19ef08f7木下恵介の生誕百周年記念映画だから、どうせ「半生を描く」構成なんでしょ?とナメていた僕が悪かった。原監督、ごめんなさい。映画は、木下恵介が病気の母をリヤカーに乗せて疎開させる、たった2日間の物語。いわば、ロードムービーの体裁をとっているのに驚かされた。

この映画を見た人は、誰でも「カレーライスの便利屋くん」を演じた濱田岳の存在感に圧倒されるんじゃないかな。悪人じゃないんだけど、自己都合最優先で、欲望に素直なため他人を傷つけてしまう……という、非常に多面的な、しかし、ありふれた青年。
金と女で、ころころ態度を変える便利屋くんが、繊細な木下恵介に「あんた、変わった人だなあ」と言うシーンで、ちょっとギクリとしてしまった。生命力旺盛なガツガツした人からすると、自分の信条にかたくなな人間なんて、「めんどくさいこと考えてるね」ぐらいにしか思われないんだよね。

母子の愛情を描いた作品に見えるだろうけど、映画監督を休業中の木下恵介と、そんな事情を想像すらしない便利屋くんの価値観が、あざやかに交差する物語だった。恵介に映画監督に戻る動機を与えたのは、ほかでもない便利屋くんだからね。

そして、「映画監督を休んでいる恵介」と「アニメ監督を休んで実写を撮っている原監督」の姿は、いやでも重なってみえる。


ここしばらく日本映画は見てなかったけど、『はじまりのみち』はドンピシャで「大戦末期の戦意高揚映画」……という、今日的なテーマを繰り出してきたな、と恐れ入った。監督が意図してなくても、時代性は、作品に入り込んでしまうんだろうな。

あるいは、今を生きる僕らは、時代性に鋭敏でなければならない。
戦争の話をはじめた恵介に、便利屋くんが「こんな話、誰かに聞かれたらどうする!」と困惑するシーンがあるけど、いま現在、口に出しづらい話題は増えつつあるよね。原発や放射能だけでなく、「こいつは、日当をもらって抗議デモに参加してるんじゃないか?」「愛国心が義務化されるけど、この人は内心どう思ってるんだろう?」とか。窮屈な世の中になってきたよね。
(ついでに言っておくと、僕は何度も、国会周辺のデモや請願に参加してるけど、一円ももらってない。労組の人たちは、何か縛りがあるのかも知れないけど。)

神山健治監督が言うように、「ほとんど全てのアニメが左翼構造」だった。アニメという表現そのものが、体制に迎合しづらいスタイルである気がする。良くも悪くも、個人の内面と親和性が高すぎる表現だよね。「はみ出し者のための娯楽」と、僕は考えていた。
ところが、いま最もお手軽に体制や権威に迎合しているのは、アニメ・ファンではないの? 大震災前から、何となく感じていた齟齬が、だんだん形になってきた気がする。やはり、もっといっぱい、色々な映画を見なくては……。  

(C) 2013「はじまりのみち」製作委員会

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2013年12月12日 (木)

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生まれて初めて、ディズニーランドへ行ってきた。
Ca4lxrl8僕のディズニーアニメ好きを知った人は、ほぼ間違いなく「じゃあ、ディズニーランドへは何度も行ったでしょう?」と聞く。しかし、「ディズニーランドへ行こう」と約束すると、なぜか相手と縁が切れるというジンクスがあった。女性関係では、「ディズニーランドへ行こう」の一言が、自爆装置のスイッチのようになってしまっていた。

しかし、今回はそういう事情を知る相手からのお誘いだったので、クリスマスの装いのディズニーランドを、ひっそりと楽しむことが出来た。


日が暮れてから、「もう夜だし、最後に、これでも乗って帰ろうか」と、二人乗りのゴーカートみたいな乗り物にのった。これが雰囲気があって、なかなか良かった。園のはじっこにある施設なので、小さなレースカーは、街頭に照らされた夜のハイウェイを走る――もちろん、とても狭いミニチュアのハイウェイだ。だが、薄暗い道は、果てしなく遠い。
コーナーを曲がる瞬間、ずっと小さな頃、誰もいない遊園地でゴーカートに乗せてもらったことを思い出した。自分の人生は、こんな遠くまで来てしまった。でも、少なくとも、ひとりではない。ひとりでなら、こんな寂しい街路を何度でも歩いてきたし、これからも歩くんだろう。でも今日だけは、ひとりじゃなかったんだ。

それと、ディズニーランドは今年で開園30周年なんだけど、「30年前の遊園地」という寂れた雰囲気が良かった。すでに、多くの施設が時代遅れになりつつある。その古臭さが、かえって味わい深さへ繋がっていた。
『カリブの海賊』は、『パイレーツ・オブ・カリビアン』がヒットしてから、ジョニー・デップのアニマトロニクスを、何体か追加したようである。だが、いくら何をしようと、あの蝋人形館のような得たいの知れない後ろ暗さ、見世物くささは消しようもない。
ただ、ヒゲ面の海賊たちが醜く笑い、酒をくらったり楽器をならしたりしているだけの、無限回廊。猫や山羊など、やたら家畜が多いのも、気味が悪くて良い。傑作なのは、「牢に入れられた海賊たちが、鍵をくわえた犬を招きよせようと、口笛を鳴らしたり骨をちらつかせているジオラマ」。もう、かなり意味が分からない。この光景をおぞましいと言いたいのか、笑わせたいのか、アトラクションの意図が不明。
「だから、何だっつんだよ? 何が言いたいわけ?」と苦笑していると、はるか向こうに見えるペンキで描かれた空の色が、怪しい紫色に煌いている――その、無声映画のような不気味な美しさは、狙って出せるものではない。


『ジャングル・クルーズ』も『イッツ・ア・スモールワールド』も、『ダンボ』などで披露されたディズニー特有の人種偏見が、いうなれば生き生きと無邪気にうごめいていた。そのグロテスクさすら、21世紀の今となっては郷愁を誘う。

郷愁といえば、ようやく初めて目にした『キャプテンEO』が、「あの当時の雰囲気のまま」とレトロ感を強調しているのも、印象に残った(日本でのオープンは1987年。当時はSFX映画好きの間で「もう見た?」「なんで見ないの!」と、近年で言えば『アバター』のような扱いだった)。
ところが、リニューアルした『スター・ツアーズ』とは比べるのも可哀想なほどSFXはつたなく、技術の古さが際立ってしまっている。まるでヤン・シュワンクマイエルのような、グロテスクな立体アニメーションが登場するが、それが程よい稚拙美へと熟している――。舌の上で転がすように味わうべき、大人のアトラクションであった。
(『キャプテンEO』の観客たちはおとなしいものだったが、『スター・ツアーズ』では女子高生たちが最初から最後まで拍手喝さい。僕が見たバージョンは、惑星ホスの氷原での戦いだったが、あのシーンが撮られたのは70年代の終わり頃のはずだ。それが、まぎれもない最先端の「今」の映像として楽しまれていることの脅威。コンテンツを使い捨てにせず、30年も40年も生かしてやろうという考え方のスケール感に、圧倒される。)

『スター・ツアーズ』の迫力には、さすがにビックリ仰天したけど、東京ディズニーランド全体が醸す“夢の終わり”感は、 『キャプテンEO』が象徴しているのは間違いない。
(そしてとうとう、僕は旧版の『スター・ツアーズ』を見ることはなかった。)


いわば、東京ディズニーランドと僕の歴史とは、何度も機を逸しながら、遅れに遅れて、今日ようやく交わったのである。遅すぎた。だが、丁度よかった。僕もディズニーランドも、歳をとっていたから。
シンデレラ城まで歩いてきて、「ディズニーランドって、こんなに狭いの?」と驚いた。だが、それは僕が来るのが遅すぎただけなのだ。それは甘美なすれ違いであり、出会いでもあった。

30年前、僕は16歳だった。ディズニーランドへ行くお金も相手も、いなかった。僕は思い出す。どこか遠い遊園地へ連れていってもらった日のこと、まだ僕に家族があった頃のことを。
退屈で憂鬱で、もう帰りたいのに、僕はソフトクリームを持たされ、えんえんと回るメリーゴーランドへ乗せられたままだった。なのに子供の僕は、楽しいフリをしなくてはいけない。

もうそろそろ朽ちてきて、ひょっとして飽きられているかも知れない遊園地。それがクリスマスのために健気にライトアップし、くどいまでに細かな装飾を施している姿は、何はともあれ、大昔に別れた恋人のように愛らしかった。

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2013年12月10日 (火)

■1210■

またもや、防府日報さんからプレゼントが贈られてきた。
12_06cimg0259_15『マイマイ新子と千年の魔法』カレンダー! 片渕監督監修で、キャラ表と場面カットのシンプルな組み合わせで、ちゃんと季節感を出しているのが上手い。

『惡の華』のムック本をつくった気力と気迫で、もういちど『新子』に挑みたい。特に、美術と色指定。あと、時代考証的な部分も。
日本のアニメってのは……本当に、世界遺産に登録しろよ?と思う。商売の出口にいる連中がダメにしているだけで、すごい文化なんだよ。世界唯一だと思う。

アニメ業界に取材して、検閲が入らないことなんて、ほぼ無い。100人にひとりぐらい、「原稿チェックなんて、しませんよ」と、すべてこちらに任せてくれる人がいる。だが、力の強い会社ほど「ウチの作品は、こういう感じに書いてください」と、出版社やライターを外注の広報担当のように扱うし、バッサリと原稿を書き直して「このとおりに印刷しろ」と投げてよこす人もいる。
健全とは言いがたい状況にある。


最近、レンタルで見た映画は『プラトーン』と『セルピコ』。
Alpacino1356340381244901いまの時勢にピッタリだと思った映画は『セルピコ』。私服刑事になった主人公が、警察署内の汚職を思い知らされ、それでもめげずに、内部告発に踏み切る。
ほとんどの刑事は、犯人から金を巻き上げることを当たり前だと思っているし、上層部はその事実をもみ消そうとする。閉塞したまま、巨大すぎる権力を持たされた組織は、カルト化してしまうのだ。
セルピコだけは、髪とヒゲをヒッピーのように伸ばし、どこにでも潜入捜査する。そのため、彼はいつも異なる服装をしている。彼だけが、外部との、社会との接触を絶たずにいる。

僕たちは、いま生きているのだから、いつの時代の映画でも「今」の映画として見なくてはならない。映画の中で起きていることを、自分に引き寄せてほしいんですよ。我田引水していい。


映画が、個人の側に立ちつづけているかぎり、社会は正気を保っていると思う。
セルピコの恋人が、意味深なたとえ話をする。「ある日、王様以外の全国民が、毒を飲んで狂った。ひとり残された王様が毒を飲んで狂ってしまうと、国民たちは“やっと王様が正気になった”と喜んだ」。
いま、日本のあちこちで、そういう現象が起きているんじゃないの? そのとき、あなたがどうしたらいいのか、この40年前の映画は教えてくれる。

『かぐや姫の物語』が素晴らしいのは、終始一貫して、個人の味方をしつづけてくれるところだね。映画を見るときは、いつもひとりだから、映画は、表現は、個人に対して無限に解放されているべきだと思う。

(幸いにして、実写映画について取材するとき、配給会社と特別な関係にないかぎり、記事内容をチェックされたりはしません。映画評論が成り立っているのは、業界が成熟している証拠です。)


今週金曜、特定秘密保護法、発布。
つづいて、1月早々の通常国会に、児童ポルノ禁止法改正案が提出されるらしい。自民党は秘密保護法強行で支持率が急降下しているから、一気呵成にやるつもりだろうな。

そして、表現規制が実行されるときは、事前警告ナシだろうと思う。いきなり誰かが逮捕されていたりとか、気がつくとイベントが消えていたりとか、気がつかないうちに、静かに進むだろうな。

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2013年12月 7日 (土)

■1207■

昨夜6日、秘密保護法が成立した。
12_06cimg0259_3僕は午前中から、国会裏へ行った。
ここへ来るのは、水曜の議員まわり(請願)で終わりにするつもりだったが、前日夜、ネット中継している人が「とにかく今からでも来て欲しい」と悲鳴をあげていたので、行かないわけにはいかなかった。
なので、前夜に原稿を終わらせて、早めに出かけた。すでに、議員会館前は、人々でごった返していた。
創価学会の現役会員が「公明党に裏切られた」と叫んでいたのには、驚かされた。学会員は秘密保護法反対なのだ。

国会周辺を歩いていたが、仕事のメールや電話が途切れないので、暗くなる前に帰ることにした。その夜、自民党と公明党のみの賛成で、秘密保護法は成立した。多数決って、学級会かよ……。
この数日で、僕は自民党が数にものを言わせて、どんなに醜いことをするのか、幼い頃から「この大人たちは何をしてるんだろう?」と疑問だった国会が、すっかり幼児化してしまっていることを思い知らされた。そして、狙いすましたようなタイミングで国会中継を打ち切ったり、はじめから中継するつもりもないNHKが、たった2~3日で国営放送と堕する様も、目撃した。

集まった数千人の人々、夜には一万人をゆうに越えた人々は、声をかぎりに叫んだ。それ以外、何も方法はない。手も足も、もがれた気持ちだった。
議員まわりでは、自民党議員の事務所で働く連中が、あたかも「これで一生、安泰だ」とばかりに両手に腰をあて、薄笑いで対応するのを、数十センチ間近で見た。

次の選挙は、ない。ないと思う。ニュースは一本調子になり、そもそもニュース自体がテレビからも新聞からも減っていき、広告代理店は政府に有利なキャンペーンを数秒単位で繰り返し、多様性は喪失していくだろう。


「まさか」と思うよね。僕も、実は半信半疑。だけど、ナチスだって最初から「戦争やろうぜ、国民の諸君!」と煽ったわけじゃない。「皆さんにとって、良いことをしますよ」と言っていたはず。

『メガゾーン23』みたいに、いつの間にかアイドルが愛国心を煽る歌をうたい、彼女のファンたちが愛国者に転がっていく。戦争は、戦争の顔をしてやっては来ない。
誰からも愛されたことのない者、親からほめられたことのない者、女から「好きだ」と言われたことのない者たちは、他人を妬みやすくなる。彼らの妬みを、俺だったら利用するね。「君自身は悪くない、君を愛さない社会が悪いのだ」と、仮想敵を創出する。幼稚で短絡的な、分かりやすい敵対構造をつくる。「ヤツらを憎めば、いい社会になる」ってな。

そう考えていけば、総理大臣、あんな胃の悪い59歳のオジサンに、キモいまでに心酔する若者たちが多いのも、納得いくだろ? みんな、愛されてないのさ。
彼らが愛されるような、開かれた柔軟な社会をつくるべきなのに、逆に、彼らをだまして搾取する社会をつくり上げてしまった。


自分が多数派に属していると錯覚し、何も主体的に考えなくなったら、いざ表現規制が来たとき、何も抵抗できないだろうな。そのときには、まさしく手も足も出ない状態になっている。

日本雑誌協会が、児童ポルノ法改悪への反対広告を出したってね。
P13112501日本雑誌協会は、秘密保護法にも反対声明を出しているんだよ。秘密保護法が「国防のためですよ~」とすり寄ってきたのと同じように、児童ポルノ禁止法は「子供たちのためですよ~」って顔をして、僕たちの前に現われた。

そして、児ポ法改悪を目指しているのは、誰と誰ですか? またしても自民・公明・維新だろ? すべて繋がってるじゃないか。
法規制だけでなく、あれも禁止、これもタブーで、がんじがらめにしないと、社会の形を維持できないんだろうな……今の日本。

そして、僕たちが持っている武器は、あまりに、あまりにも少ない。せめて考えよう、勇気をもって考えよう。

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2013年12月 5日 (木)

■1205■

Febri Vol.20 10日発売予定
Febri20
●Febri Art Style
今号から、アニメ作品の背景美術にスポットを当て、一作品ずつ美術監督にインタビューしていきます。第一回は『凪のあすから』の東地和生さんです。

●Double Circle 企画者インタビュー
東芝が川崎市とコラボして展開するWeb用アニメのプロデューサーにインタビュー。

●クール・ジャパン社会学 第三回
レナト・リベラ・ルスカ氏へのインタビューを記事化。今回は英語圏、特にアメリカでのソフトの消費のされ方について。

Febriはすごく元気な本で、次号に向けての企画も、すでに動きはじめています。


『マイマイ新子と千年の魔法』のふるさと、山口県防府から、お酒が届きました。
Cazcpmgqなんと、「新子の覚悟 家出の『友』」という言葉とともに、見慣れた後ろ姿が……! 防府日報の縄田社長、ありがとうございました。
こういう遊びが出来るのは、地元ならではと思います。4年前の厳しかった、でも熱かった「新子の冬」を、複雑な気分で思い出しました。
だけど、振り返るには、記憶が生々しすぎますね。

先日、モデグラ編集部に打ち合わせに行ったら、ファンレターを渡されました。『組まず語り症候群』の感想とともに、カラーのフリーペーパーが入っていました。「やばい、この人は“分かっている”ぞ!」と焦ってしまうほど、僕と視点の似ている方だった。
まだまだ、文化は元気だなあ……と思うのですよ、こういう嬉しいことがあると。


特定秘密保護法、本日午後、強行採決の噂が流れています。
Cimg0256僕は火曜日夜の抗議活動に参加、そのときにも「強行採決された」という声が、国会裏(議員会館前)の僕らに届きました。それは誤報だったのですが、いまの自民党ならやりかねない。

翌日水曜(昨日)、「議員まわり」行動に参加。三回目。全国から集まってきた人たちと一緒に、自民党議員の事務所に陳情に行きました。
……ま、これもひどかったね。議員はいなくて、秘書や受付が対応するんだけど、若いのに精神ねじまがっちゃって、まあ。「党則がありますから」「党の方針にのっとって」って、そんなんじゃ自分の思考がなくなるよ?って話。いい大学でたのは、無神経に人を見下すためかよ。

「強行採決だけは、やめてくださいね」とお願いしてきたものの、大宮市の公聴会も強行採決で決めてしまいましたからね。独裁だよね。原発事故後、ソビエトは崩壊したでしょ。日本も、もう国の形を維持できなくなってきている。


それにしても、法律家やジャーナリストばかりか、演劇人や映画監督まで反対を表明したというのに、アニメ業界人は高畑勲と宮崎駿の2人のみ? アニメ業界だけ、社会と隔絶されている。あらためて、ガッカリしました。問題意識、ないんすね。

僕のようにアニメ関連の本に書いていて、その一方で原発や秘密保護法に反対していると「何、あいつサヨク?」みたいなことを言われる。そう言っている本人たちは、とりあえず考えなくても行動しなくても済む、ネトウヨみたいな生ぬるい立場でボーッとしている。自分と社会の関わりに鈍感すぎ。ラクしすぎ。
別に、こんな歪んだ社会と接点を持ちたくなかったら、部屋から出ずにゲームに溺れていてもいいと思う。それが、その人にとっての「自由」であるなら、無理やり外へ出ていく必要はまったくない。

だけど、ゲームやアニメの規制が、容易にできる社会になるよ。『夢と狂気の王国』で、宮崎駿と鈴木敏夫が、「いよいよ戦前に戻そうというんだな」と話していたでしょ? そういうところにピンと来ないといけないんですよ。アニメ・ファンであればあるほど。
いい歳こいてアニメ見るっていうのは、「自由」を行使するということだからね。個人にとっての「自由」のみが問題なんですよ、詮ずるところ。抑圧から、完全に解放された立場でいること。何でも楽しめること、何もせずに一日をすごすこと。誰にも邪魔されず、ひとりで夕陽をながめること。自由だけが、人間を人間に保ってくれる。

それとは逆の社会へ、ものすごい勢いで疾走をはじめているのが、今。

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2013年12月 1日 (日)

■1201■

12月になりました。
ヨドバシカメラで、ひさびさに模型の工具を買ったので、そういう話でもしたいんですけどね。また秘密保護法の話です、すみません。


27日(水)は、国会議員事務所を訪ねてまわる「議員まわり」、二回目の参加(人の少ない日だったので、参加して良かった)。
30日(土)は、渋谷から表参道を回る秘密保護法反対デモに参加(学生が主催らしく、若い人ばかり)。
Cimg0266本日(日)は、日本弁護士連合会の新宿西口・街頭演説を見に行った。
弁護士なんて好きじゃないんだけど、反対声明やらアピールやらで名前を売っているだけの演劇人や研究者のグループよりは、街頭に立つだけ立派。
この二年半、政府や国会がちゃんとしていれば、別に僕は反対しなかったと思うよ。この国、「そもそも国なのかな?」って疑問だよ。「アメリカの保護国です」と断言されて、かなしいけど納得してしまったぞ。

議員まわりと日弁連の演説には、福島県出身の人が参加していたけど、強行採決前日の福島市での公聴会について、激怒していたぞ。「いつまで福島をダシにするんですか!」と、震えていたぞ。


……ただ、ここで秘密保護法を継続審議か廃案にしたところで、「今の日本」が、そのまま残るだけですからね。そこに、徒労感はかんじる。
今の、原発事故の処理を何十年も続けていかなくてはならない日本が、そんなに素晴らしい国ですか? 狭い仮設住宅に被災者を住まわせておいて、オリンピックで盛り上がる国、その開催地の首長が5千万円もらっちゃったりする国の、一体どこを誇ればいい?

僕は、結婚前に奥さんと歩いた、雨上がりの京都が忘れられない。足元の苔ひとつにも、命が宿っていると感じた。日本にも、すばらしい文化はいっぱいある。アニメーションもそう、漫画もそう。
僕が二ヶ月前に訪問したばかりのクロアチア、貿易都市リエカでは、『おおかみこどもの雨と雪』を上映しているぞ()。『Djeca-vukovi』って……、クロアチア語で『狼の子』って意味だけど、嬉しいじゃないか。

クロアチアは、血みどろの戦争の果てに独立を手に入れた国だからね。俺は、軍事力を全否定はしない。宮崎駿の言うように「最新の戦車を、少しぐらい持っていたほうがいいのではないか」程度に思っている。
だけど、今の日本に、軍事力で何かを解決する資格はない。弱者を見つけては、あれこれ理由をつけて逮捕したがっているような下品で低脳な政府に、いかなる権力も付与すべきではない。


秘密保護法が施行されても、しばらくは何も変わらないと思うよ。ニュースの数が減ったり、ニュースの内容が似たりよったり……という不気味な状況にはなるだろうけど、いきなり、何万人も逮捕されたりはしないだろう。

だけど、秘密保護法は「理由を告げずに、誰でも逮捕可能な法律」ですからね。
つまり、「社長が、気に入らない部下を殴り殺してもOK」な会社があったとします。そんな会社に勤めていて、「でも、まだ誰も殺されてないからね」って安心してられる? むしろ、みんな殺されないように大人しくなるだけだろう。社長は調子にのって、最初はセクハラしていたのに、ついには白昼堂々、レイプをするようになるだろう。

だから、最初に最強の権力をつくってしまえば、あとは無法地帯になるよって話。
「俺のまわりでは、まだ誰も逮捕されてないぜ」と安心していると、この前の話みたいに『かぐや姫の物語』にオッパイやハダカを出すのは禁止、見たやつは逮捕!となりかねない。すぐに、表現規制がやってくるわけではない。「いつでも何でも表現規制できる法律」を、まずは強引に通しておいて、後からじわじわ締め上げるわけだ。

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