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最も年長の友人から頼まれごとがあり、僕ひとりではどうにもならないので、歳若い友人に甘えることにした。
この歳になると、年上の友人に頼られるのも、年下の友人に頼るのも嬉しい。若い編集者でも、自分の意志で「こういう企画をやりたい」と言ってくる人の背中は、必ず押すようにしている。「若い」ことは、無条件に、圧倒的に強力な武器である。四十代で一日を棒に振るのは単なるマイナスだが、二十代なら一年間の遅れさえ、数時間で取り返せる。伸びるときは、一日で伸びる。それが「若い」ということだ。
僕は、引きこもりやニートを責める気になれない。いま停滞していても、若いうちなら取り返せる可能性があるからだ。
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秘密保護法に反対せねばならないのは、裏でこういう話が進んでいるからだ。「児童ポルノ禁止法改正で宮沢りえ『サンタフェ』所持も犯罪か」(■)
今年5月の国会では、『ドカベン』の妹の入浴シーンが例に挙げられた。『ドカベン』という例は、非常に回りくどい。はっきり、「エロ漫画が根絶やしにされ、エロ同人誌を作成しただけで逮捕される時代になる」と言わないとダメ。表現の自由というより、「欲情の自由」が脅かされる。「お前ら、これを見て興奮したら逮捕だからな」「興奮したいなら、こっちだけにしろや」と、体制側にズリネタまで決められてしまう。ひらたく言えば、「異常性欲禁止法」だ。
どうだ、君たち。ひとり部屋で妄想する分には、誰が何に興奮しようと自由ではないのか? 結局、児ポ法改正は日本独特の「人の目」「世間体」にもとづく相互監視を強化し、性的マイノリティを追いつめるものでしかない。僕は、世の中にどんな変態がいようと、変態でいることによって心の自由が保たれるなら、その自由は鉄壁のガードで守られねばならないと思う。
国会議員や自治体首長の発言を見て、どう思う? 彼らの使う「常識」「当たり前」という言葉に暴力を感じるのは、僕だけだろうか?
女装バーで飲んでいたら、「女みたいな格好してるけど、しょせん、君らは男だろ」と絡んでいるヤツがいた。なんという無味乾燥な、殺伐とした野蛮な人間観だろう? 狭いバーの中、女装によって心の安寧が保たれるなら、誰に文句を言われる筋合いもない。「男なら男の格好をしろ」「男なら女にだけ欲情しろ」――この「常識」や「当たり前」が、人によっては耐えがたい抑圧になることを、必ず知っておかねばならない。他人の痛みを知らねばならない。
秘密保護法に嫌悪を感じるのは、力の強い側の一方的な常識、一方的な当たり前がまかり通る世の中になってしまうからだ。君や僕は、力の強い側に属しているか? 君が女子高生を買春しても逮捕されない体力自慢の警察官でもないかぎり、権力は君の部屋に、君の心の中に押し入ってくる。君が弱者なら、一ミリでもいいから権力側の横暴を押し返せ。
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「僕らは、数知れず、アニメに救われてきた」と、同年代の友人と語り合った。僕らの世代でいうと、小学6年生でロボットアニメを見ていたら、「まだマンガなんて見てるの?」と笑われたものだ。
だけど、他人から見てどうであろうと、アニメを見ていなければ発狂するか自殺するかしてたんじゃないか……と思う。それぐらい深く「生」に直結しているのが、アニメであり、我ながら幼稚に感じるオタク趣味であり、ありとあらゆる表現や芸術であり、それらに貴賎はない。すべて、等しく尊い。人の心を解放するものは、すべて尊い。
そして、重厚長大な文学作品を読破することも、エロ同人誌をネタにオナニーすることも、個人の自由という意味では、まったく同じ行為だと僕は思う。ついつい、オナニーは汚いもの恥ずかしいものと切り捨ててしまいがちだが、あれをやらねば男子は救われない。秘密を持たねば、人は生きられない。
ヘンリー・ダーガーは、今でこそ「アウトサイダー・アートの巨匠」などと呼ばれているが、彼の作品は、彼自身にとって性的な秘密(ズリネタ)であったに違いない。偉大なる変態・ダーガーの作品を見るとき、僕は「アートもズリネタも、結局は同じものだ」と穏やかな気持ちになる。表現は「生」のみならず、「性」にも直結していることを、決して忘れてはならない。
他人を殺す自由や他人を強姦する自由を放逐すればいいのであって、変態でいる自由を奪うような世の中にしてはいけない。「人の心に命令はできない」(『ベルサイユのばら』)のだ。
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