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2013年9月29日 (日)

■0929■

エルドランシリーズ グレートメモリアルブック 絶対無敵ライジンオー 10/1発売
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●内田健二プロデューサー、インタビュー構成
聞き手は編集の方で、記事の構成・執筆のみ行いました。
『ライジンオー』当時、内田さんはプロデューサーでした。私がサンライズに雇われた時は、企画推進室長。今は、社長です。

サンライズを辞めた後、内田さんからは「何か面白い漫画や小説、ない?」「こんな企画進めているんだけど、手伝ってくれない?」と相談されることがあり、そのうちいくつかは、実現しました。

……その頃の僕は、「自分が中心になって、企画を回すべきだ」という野心が燃えつきて、まだ「冷め切ってはない」温度だったので、ほどよい距離感が保てたのだと思う。
内田さんも、「元・部下」ではなく「飽くまで、本や雑誌に書いている人」と扱ってくださったので、それが良かったんではないかな。


スーパーフェスティバル63、ご来店いただいた方、誠にありがとうございました。
Kiki_pkgうちのキキ()も、何人かの方に写真を撮ってもらったり、「可愛い!」と言ってもらった上、パッケージデザイナーのべっちん氏に、箱絵まで作成していただきました。
(タミヤMM風に処理したセンス、さすがです。)
会場では、女性の意見を聞けたのが、非常に有意義でした。

フィギュアは、あと4~5体は作ります。
ただ、3月に旅行したときのように、「模型どころではない」という気分になったら、どうなるのか分かりませんが……。
旅行のあとは、3ヶ月、模型に触りませんでした。「ヨーロッパの風景や建物をモチーフにしたものなら、何か作りたいな」と思いはじめ、ジブリ関連の仕事が舞い込んできたのがキッカケとなり、フィギュア制作にいたりました。

イベントで熱く語ったようなパンチラ()ではなく、風景というか空気感を作りたかった。
いずれは、40数年分の煩悩を武器に、強烈なエロ香をはなつ悩殺フィギュアも作ってみたい……渋いオッサンを作るのも、美少女を作るのも、この歳になると大差ないというか。ずっと人間を見てきた分だけ、武器の種類は増えている。フィギュアを作っていると、よく分かる。

スーフェスでは、出品したプラモデルがほとんど売れてくれて、旅先では、すこし贅沢ができそうです。


『ガッチャマン クラウズ』最終回。
Photo12_2「クラウズ」は群集という意味なのだが、「小さな混乱を、より大きな混乱をもって無効化する」見事な収束ならぬ拡散のおかげで、やっとタイトルの意味が分かった気がする。
「ガッチャマン=クラウズ」ではなく、「ガッチャマン+クラウズ」なのね。どちちが主でも従でもなく。

「目的」を捨てた時点で、累はカッツェに勝ったんだよね。
「あなたがリーダーだけど、あなただけがリーダーではない」というラスト、あっぱれ。
Xは、「あなたの○○としてのスキルが必要とされています」と言うけど、「逃げたいときは、全力で逃げてもいい」。あらゆる過程が、それぞれ結論となっている。素晴らしい。
「心の中で、いったん、自分の役職を辞めてみる」というセリフも、生きていくヒントになっているし、すごい。

制作状況の苦しさは、あらゆる場所で耳にした。だけど、最終回は作画もよかったし、こんなスケールの大きな作品をありがとう、とスタッフさんには言いたい。
旅行前に最後まで見られて、本当に良かった。『クラウズ』については、次号の「Febri」でもたくさん書かせてもらったので、よろしくね。

(C)タツノコプロ/ガッチャマンクラウズ製作委員会

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2013年9月27日 (金)

■0927■

日曜日、スーパーフェスティバル63()に「Hard Pop Cafe」として出店します!
ブースナンバーは、D-18であります。今回はオモチャよりも、プラモデルが多いかも。絶版ガレージキットなんかも、売っちゃうかも。
そして、ギムレット氏お手製の「レゴペーパー」も新刊を準備中!

さらに、新趣向として「廣田の作ったフィギュア」を展示予定。
Cfdasimg1199_3「これ誰?」と思うだろうけど、『魔女の宅急便』のキキだよ! ちゃんと着彩して展示するので「46歳の作ったジブリ・キャラ」の渋さとキモさを堪能してほしいぞ!

この展示は、「模型って、作ったら終わりじゃないですか」「ライブ性がないですよ」というギムレット氏の発案によるもの。「だったら、ワンフェスで飾れば?」と言われそうだけど、模型好きの人が集まる場所では、確実に埋もれてしまうでしょう……。


クロアチア再訪まで、一週間を切った。来週の今ごろは、モスクワかザグレブか。
僕のような対人恐怖症が、言葉の通じない国へひとりで行くなんて、まさに自殺行為だと思う。

そもそも、僕は中学生ぐらいに得た戦術だけで、生きている。
あまり外に出たがらないとか、人と関わらないとか、インドアな楽しみを見つけるとか。その状態を維持しようとすると、高校ぐらいから、猛然と悩みはじめるんだよ。僕の生き方を、バカにするやつが現われるわけ。「勉強もダメ、運動もダメ。何が面白くて生きてるわけ?」という、そいつの嘲笑に、ひとことも言い返せない。
勉強も体育もできなくて、アニメとプラモのことだけ一生懸命なんて、この先の世界では通用しないらしい……と、ようやく気がつく。


それから僕は、自分らしくないことを始めた。恋愛とか。
人嫌いな性格なので、当然のことながら恥はかくし、苦労もした。だけど、報われたときの幸福感が、ハンパではない。それから大学卒業までの数年間、誰かしら、女性を追いかけていたと思う。精神的にも肉体的にも、20代前半までが、命をかけられる最後の時期だからね。
その頃は、フラれ方も、ハンパではなかった。相手の元彼が出てきて怒鳴られるとか。人前で泣いたりもした。
だけど、消耗する一方じゃなくて、たとえば、ちょっとだけ、ひとりで生きていく勇気がついたりとかね。見返りはあったんだ。

それに、よく分からない土地まで出向いて行って、ようやく相手に会えたと思ったら、元彼がのっそりと出てくるなんて、僕にとっては、冒険もいいとこだった。
20年ちょっと経過した今だから言えるんだけど、あんな予想外の「楽しい」体験、その後の人生になかったんだよ。「人生の醍醐味」だったんだ。
だから、言葉も通じない国へ行くってのは、命がけで恋愛して、完膚なきまでフラれてボロボロになったあの日々に、いちばん近づけるような気がする。


19~21日の日記で、アニメ会社による「チェック」「修正」について書いた。
同業(というか編集プロダクションの社長)から、「とても共感して、泣きながらブログを読んだ」とメールがあった。
異業種の方からは、「あちら様もプロならば、我々というプロを信用するのが当然だ」との言葉をいだいた。

お二人とも、ありがとうございます。穏やか気持ちになれました。

こんな気分のまま、オリンピックだリニアだと狂乱する原発事故継続中のアホ国家を離れられる気分は、また格別であります。

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2013年9月24日 (火)

■0924■

月刊モデルグラフィックス 11月号 明日発売
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●組まず語り症候群 第11夜
今号は、ひさびさの見開きです。サブタイトルは「スペツナズより忍者が好きっ!」
忍者にかこつけて、『未来忍者』や『女バトルコップ』などについて語っています。

●ギャラクティカNOW
今号からの『ギャラクティカ』短期(かつ不定期)連載に、ちょこっとコラムを書いています。作品解説なんかも僕なんだけど、ドゥアラの階級を間違えてしまった。この頃は、「ドゥアラ二等兵長」でした。すみません。
それにしても、パイロットのヘルメットまで電飾してある、どろぼうひげさんのバイパーMk Ⅱの作例は凄い。


原稿が一段落したので、吉祥寺に行ったついでに、バウスシアターで『エリジウム』。
Main_largeだいたい、吉祥寺まで歩いた帰りは、電車に乗ってしまう。『エリジウム』を見たあとでは、違った。自分の足で歩かねば、と思った。
友達とゲラゲラ笑いながら見る映画もいいけど、平日昼間にひとりで見て、帰りの足どりがしっかりする映画も、人生には必要だ。

ニール・ブロムカンプ監督の前作、『第9地区』に比べると、ヒロインとのロマンスはあるし、ライバルとの決闘はあるし、エンタメ性は強化されたかに見える。だけど、「これは今、実際に起きていることなんだ」感は、『第9地区』の比ではない。より露骨になった。
支配層が清潔なスペースコロニーに住んでいて、多くの被支配層が汚染された地球に住まわされている……という設定を「70年代っぽい」「古臭い」と、別世界の出来事と捉えてしまう人は、かなり鈍感だと思う。時代の匂いを嗅げていない。

冒頭、主人公はロボットの警官にボコられ、人形仕掛けの役人に冷たくされるが、あれは今の日本で、ごく普通に見られる光景です。
そして、主人公の働く工場の上司は、親会社の社長から「菌がうつるから、近寄るな」と疎まれる。誰かを抑圧している者は、そのうえの誰かに抑圧されている。『エリジウム』は、我々の世界の話なんだよ。


主人公は、確かにヒロインのために戦ってはいるのだが、彼の決死の戦いは、すべからく被支配層の解放へつながっていく。
Main_new_large貧乏人を搾取していた密入国斡旋業者が、「チャンス到来」と知るや、当たり前のように支配層のシステムを転覆させようと行動しはじめるさまが、最もエキサイティングだった。ああいう、ガツガツした生命力旺盛な人間になりたい。
しかも、悪いヤツらを皆殺しにするんではなく、あくまで技術を盗んで解放するだけ……という、スマートさがいい。

「汚い地球を捨てて、みんなで楽園に住みましょう」という話ではない。「すばらしい人類の叡智なら、みんなに分け合うべきだ」と、平等を訴えている。ヒロインの娘が、ある寓話を話すけど、それがすべてだな。あの話は、耳から離れない。どっかちょっと、仏教的な話だったな。
西欧的な価値観から解放されようぜって話だから、あんまり受けは良くないんじゃない? でも、みんなから愛されない映画こそ、僕らのような下っ端の栄養になるんだよ。堂々とすりゃいいんだ。世界中の映画を見る自由が、僕らにはある。
何を愛したっていい。完全に自由だ。帰り道、ちょっと小雨がパラついていたけど、曇り空も、雲のすき間から見える青空も、みんな綺麗だった。

誰にも恭順するな。でも、誰かの役に立て。
オセロゲームのコマが、すべて真っ黒になったとしても、いつまでもひっくり返らない、最後の白いコマでいよう。 

(C)2012 Columbia TriStar Marketing Group, Inc. All rights reserved.

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2013年9月22日 (日)

■0922■

日本映画専門チャンネルで『帝都物語』。後半だけ。
Teito_1あいかわらず、ハイビジョン合成のカットがバレバレなわけだけど、バレるほどに愛しい。ミニチュア丸出しなんだけど、丸出しだから嬉しい。
坂東玉三郎、いとうせいこう、実相時昭雄、林海象……キャストとスタッフを聞いただけで、ワクワクしてしまう。

『ガンヘッド』前年の、88年公開。あの頃は、「今は和製SFX映画ムーブメントの黎明期なんだ!」「まだまだ、これから!」「まだ第一弾だから!」と、毎回、思っていた。日本にもセンスあるクリエイターが現われて、時代は変わるぞって、本気で思っていた。今でも、その期待が裏切られた感じは、なぜかしない。

あの頃、僕は日大映画学科の学生だったから、企画書をどんどん作って、どんどん映画業界の人に電話して、誰であろうと会ってもらった。何十社も回った。
「夢を見る」って、ああいう日々のことを言うんだろうけど、そういう気持ちにさせてくれたのが、80年代末の和製SFX映画なんだ。「完成度なんかより、心意気だ」「勇気こそが、人生でいちばん大事だ」って、あの頃に教えてもらった気がする。


「なんか分かんないけど、ムカつくんです……何もかもが」。
それまで、愉快そうにしていたベルク・カッツェが、急にイライラしはじめる。『ガッチャマン クラウズ』は、今の日本を描きすぎている。ゾッとする瞬間がある。

カッツェは、インターネットに堆積した、理由すら曖昧な悪意そのものであり、たまに「お前たちが悪い」「私は、あなたです」と言うでしょ。日本全体、どんよりと悪意に覆われているような気がする。
住民を立ち退きさせてまでオリンピック強行、とかさ。それに飽き足らず、次はリニア新幹線でしょ? 強者が、一方的に肥え太ることには、やけに寛容な国だよね。「オリンピックに反対するヤツは、敵だ」「日本人じゃない」とかさ。――敵でも、日本人でなくとも、結構だよ。ひとりになりたくなる。

「誰が死のうと、知ったこっちゃねーよ」。そんな冷酷さが、日本人の本質じゃないかって思えてくる。「どうせ誰でも、いつかは死ぬんだよ」というあきらめが、根底にあるんだろうな。
どんな残虐な事件が起きても、僕らはもう、たいして驚かない。老人同士が殺しあっても、親が子を殺しても、子供が子供を殺しても。
明るい未来とか、豊かな文化とか、本気で信じさせてくれよ。信じさせてやれよ。


前回、前々回と、アニメ関連本につきまとう「版権元からの修正」について書いた。
僕はそれこそ、雑誌に書きはじめたばかりの15年前、いきなりアニメ会社から「お前、俺の言うとおりに書き直さないと、雑誌ごと潰すぞ!」と、電話口で怒鳴られた。
(その人は、まだ業界にいて、別の雑誌を脅したり、無理難題を押しつけたり、ご活躍中と聞く。)

それは極端な実例だとしても、「従わないなら、画像は貸しませんよ」「ウチの作品、掲載不可にしますよ」みたいな脅し文句は、しょっちゅう聞く。
せめて、「私の言うことが正しいと思うので、従ってほしい」と言えないのだろうか? 「こちらに権利があるのだから、従いなさい」では、銃で脅すのと変わらない。

他人に「そのように書くな」「このように書け」と強制する重みを、この人たちは考えたことがあるのかな? 「ウチが権利元なんだから、従わせるのは当然」と考えているなら、とても怖ろしいことだと、気がついてほしい。
それは、「他人を力で屈服させたい」という欲望の、かすかな行使だから。いま、警察官は簡単に人を拘束できちゃう。政治も、弱い人間から潰していこう、力を拡大しようって方向に動いているでしょ?
考えずに従ってくれる、おとなしい人間が、おとなしいまま屈服させられる世の中。その「屈服させる力」「屈服させるシステム」を、当たり前のものとして使っているとしたら、あなたは加害者なんだと気がついてほしい。

そんな力やシステムが介在してつくられた本を、「楽しい本ですよ」と売ることは、僕にはできない。どこか、一片でも混じりけのない誠意を残したいんですよ。歯をくいしばるのは、そのためなんだよ。


僕らは、勉強は「つらくて当然」「眠くてもがんばって続けるもの」と押しつけられた。
社会に出ても、「仕事というのは理不尽なもの」「滅私奉公こそが仕事」と思い込まされている。「つらいのが何だ!」「眠いなんて甘えるな!」という意識が、多かれ少なかれ、どんな職場にもあるんじゃないかな?

ドM・ドSの国だと思うよ、日本って。
みんなが、「小さな警察」になってしまい、誰かを拘束したい、屈服させたい欲望にかられているんじゃないだろうか。自分が嫌な思いをさせられた報復のために。

国連の拷問禁止委員会で、人権人道大使が「黙れ!」と怒鳴ったでしょ?
みんな、ちょっとずつ怒鳴っているんだよ。隣の人に対して「黙れ!」って。ネットでいちばん多く使われている言葉は「死ね」だと思う。

「人は、感動するために生きてっからよ」。僕の好きな漫画に出てくるセリフです。
感動したいし、感動したし、だから本をつくっているんだし。「世の中、そんなに悪くないな」「楽しいこともあるんだな」って、読者に思ってもらえなかったら、本つくる意味ないし!

僕が絶望したとしても、その分、誰かが希望を持ってくれれば、それでOKじゃないかって、僕は本気で思っている。

(C)1988 キネマ旬報社

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2013年9月21日 (土)

■0921■

世間は、三連休ですか。私は、この三連休が勝負。週明けに原稿を提出して、一週間以内にチェックが戻ってくることを計算しつつ……。
29日のスーパーフェスティバルのブースが「D-18」と決まりましたが、これについては後日。


先日は、インタビュー記事が、ときとして「トホホ」な状態で掲載されることについて書いた。
キャリア豊富な監督ともなると、インタビューが始まる前に「今、アニメのジャーナリズムってこんな程度なの?」と、聞いてくる場合がある。「あんた方の雑誌、こんなままでいいの?」と聞かれたこともあった。

そういう人たちは、キチッと意識をもって、原稿を修正してくれる。
だが、ほとんどの「修正」は、乱暴なものだ。

例えば、主人公とヒロインのことを
「彼は、メイド服の謎の美少女と出会った」と書くでしょ。
「彼は、メイド服のカオリ・E・ローゼンバッハと出会った」と、キャラ名に直されてしまう。
でも、文全体からすると、「メイド服の謎の美少女」と書いたほうが、その先のドキドキ感・ドラマ感が伝わるわけです。ヒロインの名前なんて、こっちは百も承知なんです。読者も、知っているでしょう。文全体の構成・効果を考えて、あえて「メイド服の謎の美少女」と書く――なのに、「キャラ名は必ず本名でお願いします!」と、機械的に直されてしまう場合がある。
普段から雑誌や本を読んでいれば、こんな婉曲表現は普通ですよね? だけど、アニメ会社からは、脊髄反射的な「国語のテスト」みたいな直しが、多いです。


また架空の例ですが、二之宮繁というアニメ監督がいたとします。
「この作品で監督デビューを果たしたのが、あの二之宮繁である。二之宮は、すでに敏腕アニメーターとして、名を知られていた」と書くとするでしょ? 
「あの二之宮繁である。二之宮は、すでに敏腕アニメーターとして」と、フルネームに直される。一度フルネームを出した後は、「二之宮は……」と書いたほうが、文が作家寄りになると思います。だって、筒井康孝を「筒井」と書いた方が、風格が出ませんか? だけど、権利元からすると、それは「間違い」なのね。

……それは、日本語としてどうなの? 作家の名前を呼び捨てにしては、失礼なんでしょうか? これも例えだけど「モビルスーツ」を文脈上、「ロボット」と書くのは、不正解なんでしょうか?
意図があって、あえて婉曲表現をしている、距離をとっているのに、その距離を埋められてしまう。直接的な表現しか許されない場合がある。


もうひとつ、「?」という例をあげます。
例えば、「A作品、B作品、C作品を挙げて、廣田さんなりにSFアニメについて語ってよ」という依頼が、来たとします。
A作品の権利元のA社は「画像の使用料金を払ってもらったので、画像使用はOK。記事内容はお好きに」。B作品のB社も「タイトルを出すぐらいなら、記事内容はチェックしません」。しかし、C作品の権利元のC社だけが「必ず原稿を見せてください!」という場合がある。

結果、C作品についての記述だけ、過剰な直しが入るんですよ。「ついに2人は対決する」と書いたら、「あれは対決ではなく、ただのバトルです」とか(笑)。俺には対決に見えたんだけど……俺の主観はマチガイであって、「バトル」が正解らしい。
その結果、文章全体の中で、C作品についての記述だけ過剰になり、浮いてしまう。だけど、C社は「他社作品や文全体のことなど、知ったことか!」なんでしょうね。


修正修正、また修正の結果、いちばん損しているのは、お金を出して本を買ってくれた、読者さんなんです。
「いいアニメだったから、いい記事やムックを見たい」と思うのが、読者さんの当たり前の欲求です。厳しい修正を出して「正解」を書かせようと強要してくる担当者は、読者さんが喜ぶかガッカリするかまで、考えていません。

反対に、ジブリの鈴木敏夫プロデューサーに何度かインタビューしましたけど、『アニメージュ』出身の鈴木さんは、「いい記事にまとめるのが、君の仕事だよね?」とばかりに、原稿チェックなんてしませんでした。
そういう割り切りをされると、心地よい緊張感をもって仕事ができます。だけど、「ここが違う!」「この書き方も間違い!」と、容赦のない赤字が飛びかうことの方が多いです。
理不尽な直しに抗議すると、「では、図版を使わせませんけど、いいですか?」と脅されたりする。僕と編集者は「今後は、あそこの作品を扱うのは避けましょう」と、どんよりしてしまいます。

(……本音をいうと、僕は権利元の意識が肥大化して、ライター個人の著作権を、平然と無視している事実が、怖い。「僕のことも、ちゃんと認めてよ」っていうより、原稿修正のときに、暴力性みたいなもの、ある種の憎悪すら、相手から感じてしまう……。)

話が横道にそれそうなので、これぐらいにしておきましょうか。
「廣田くん、僕らには金払ってまで、アニメの広告つくってやる義理はないんだよ!」と、僕の記事を叩いてくれたF社の編集さん。ああいう強靭な主体性を持って、本をつくる人が激減したのも事実です。
まして、副業として片手間にライターをやっている人に「職業意識を持て」と言っても、そりゃ無理な話です。

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2013年9月19日 (木)

■0919■

朝からロシア大使館へ。これで四回目。
Cadbwptiようやく、トランジット・ビザを取得した。下調べが甘かったせいで、二度も無駄足を踏んでしまったが、二度と行くこともなさそうなので、結果オーライ。

少しずつ、来月の旅行が楽しみになってきた。


『風立ちぬ』特集の「スケール・アヴィエーション」を買った。宮崎駿監督とファインモールドのSa鈴木邦宏社長の対談が載っているので、これは買わずにいられない。しかも、まだ映画が完成する前の対談なので、飛行機の話が分からなくても、ちゃんと面白い。

こういう特集を読むと、「ああ、ちゃんと模型が文化として扱われているなあ」と、しみじみ嬉しくなる。柿沼秀樹さんの連載は、ハンブロール(塗料メーカー)の思い出話。こういう話は、ちゃんと、誰かが語りついでいかないとね。

僕もモデグラ誌に連載を持たせてもらっているが、このジャンルなら、どんな苦労も、屁とも感じない。50代になっても、書けそうなところもいい。


先月~今月と、仕事がたてこんでいる。
嬉しいのは、若くて有能な編集者と出会えたときだ。僕の原稿を、何箇所か直しただけで、サッと読みやすく仕上げてくれる。「プロだなあ」と思う。ありがとう、という気持ちになる。
そういう人に会ったら、編集長と飲んだとき、「あの編集者は逸材だから、大事にすべきですよ」と耳打ちするようにしている。

インタビューには、人それぞれの流儀があると思う。
渋谷陽一のように、自分の意見も、積極的に原稿に残す人もいるだろう。僕は、聞き役に徹するように努めている。
いちばん、編集者やライターのこだわりや意地が出るのが、インタビューじゃないかな。

僕は、十何年か前、先輩と呼べるライターさんから、「喋ってるとおりに書けばいいってもんじゃない」「ちゃんと起承転結を考えて構成すべし」と、いろいろ教えてもらった。
短いインタビューであれ、長いインタビューであれ、何を伝えたいのかフォーカスを絞るのが、インタビュアーの義務だ。どこがどう面白いのか、きちんと話を構成しなおす。だけど、文字数が決められているから、「書けば書くほど伝わるはず」という固定観念を、捨て去らねばならない。
「文章力」というものがあるとしたら、それは「要約」だと言えるのかも知れない。(このブログは、やたらと長いが。)

アニメ関係の本では、「原稿チェック」が慣例化しているため、必ずインタビュイーの「直し」が入る。年に何人か、その「直し」を勘違いしてか、「これは私のページ!」とばかりに、文章を“書き下ろして”しまう人がいる。
当然、ページには収まらない。文体も、ぐちゃぐちゃ。それなのに、「取材・文:廣田恵介」と印刷されて、世の中に出てしまう。泣きたくなるね。

相手に、悪意はない。「私のインタビューなんだから、私の好きに書いていいよね?」程度にしか、思っていないらしい。
それ、一応、俺の著作物なんですけどね……。


ごくまれに、僕がインタビュイーになることもある。『GIGAZINE』で、何度か、僕のイベントが記事にされたけど、「原稿チェック」なんて、そんなもんはないですからね。
事前に「取材しますよ」と言われてはいるし、「記事にするかも」と言われているので、文句は一切ない。どこか直してくれ、と頼んだことさえない。
たとえ僕を取材していても、その記事は、その記者さんの仕事なんだ。プロの仕事を、僕は最大限に尊重する。

僕は、僕がナメられているとしても、相手の仕事を尊重する。
尊重せねば、インタビューなど出来るものではないからだ。「ありがとうございました」と、頭を下げる。相手も「いい記事にしてください」と、笑って頭を下げる。
一切、直しがない場合もある。「このくだりは実は、こういう意味で話したのです」と、注釈が入る場合もある。いかなる場合も、相手の意志を尊重しようと努める。

しかし、文章が真っ赤になって帰ってくると、ページ数に合わない以前に、記事の趣旨がどこかへ消えてしまう場合が、ほとんどなのだ。「……で、何がいいたいんだ、このインタビューは?」となってしまう。
インタビュイーが思いつくまま直した結果、こちらの計算も狙いも、かき消えてしまうわけだ。
(つまり、話したままではなく、話したことを素材に組み立てなおしていることに、気がつかない人が多い。だから、平気で壊してしまう。)

つまらない記事が増えれば、その分、世の中もつまらなくなる――。
このサイクルを、分かっていない人がいる。どんな優れた仕事をしていても、世の中への影響までは考慮していない人が、実はほとんどではないだろうか。
世の中がつまらなくなれば、当然、あなたの暮らしもつまらなくなる。空気を濁らせているのは、あなた自身なのだから。

真っ赤にされた原稿を前にして、僕は今、とても憂鬱である。

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2013年9月17日 (火)

■0917■

秋公開予定の『夢と狂気の王国』。知らなかった。『風立ちぬ』のメイキング映画なのか。これは、絶対に本編より面白いはず。何より、タイトルがいい。
O065005621036537_650YouTubeに、10分ぐらいの紹介番組がUPされていたけど、もう十分に面白い。宮崎さんの声、話し方が好きだから。
庵野さんを選んだ理由も、「上手い」とか「雰囲気がある」とかじゃないんだよな。単に、庵野さんに甘えたんだと思う。作品に、夾雑物を入れたくなかったんだろうな。

そういうワガママが許された点も含めて、幸せな引退作だったと思うよ。


日本映画専門チャンネルで、『首都消失』。1987年公開。
最後まで見てしまったのだから、そこそこ面白かったんだと思う。特撮も、地味で綺麗だった。
渡瀬恒彦の娘役として、濱田万葉というかわいい女優が出てくるのだが、この人は知らなかった。不自然なぐらい、登場シーンが多いのだが、「女の子を出しておけば画面が持つだろう」的な安易さが感じられて、心地よかった。
『首都消失』を面白く感じるぐらいだから、よほど疲れているのだろうな。

濱田万葉は、80年代、コカコーラのCMに出ていたらしい。
今月の「月刊アーマーモデリング」に、80年初頭の、浜辺のデニーズのディオラマが載っていて。胸をしめつけられるほど、ノスタルジックな光景だった。
当時は、自分の陰気な性格に悩んでいたはずなんだけど、無責任に「あの時代」を振り返ると、申し訳ないぐらいに甘美な日々だったと思う。

夜中に、80年代のCM集をYouTubeで見るのは、密やかで恥ずかしい、愚かで甘やかな楽しみです。
それを見ているときの自分は、『ソイレント・グリーン』で、美しかった頃の地球の風景を見ながら安楽死していく、老人のような心境だ。

絶望という意味ではなく、「人生、終わったな」と思えた瞬間が、たぶん三回ぐらいあったような気がする。そこから、「生き返った」「生還した」という鮮明な記憶は、まったくない。
嵐の一夜が明けたら、窓のそとに晴天がひろがってた……程度のものだ。


3日、モスクワ SKYPOINT HOTEL 泊。
4日~5日 ザグレブ Alta 泊。
6日 リエカ Hotel Neboder 泊。
7日~8日 ロヴィニ Hotel Adriatic 泊。
9日 ザグレブ The Movie Hotel 泊。

11日 午前10時30分、成田着。それぞれのホテル、地図を印刷しておかないとな……。特に、モスクワ。ホテルに着けるかどうか、まったく怪しい。
通貨についても、もう一度、調べておかないと。

旅行から帰ってきたとき、どんな心境になっているだろう? 「もう、クロアチアはうんざりだ」という気分なら、次は、安くて近いハワイにでも旅してみようかと思う。海ではなく、海沿いの町を見たい。
ひょっとすると、80年代初頭のデニーズのある浜辺ような、心安さとドキドキが、ないまぜになったような風景を探しているのかも知れない。そんなロマンスは、この国には、もう残っていないから。

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2013年9月15日 (日)

■0915■

『ガッチャマン クラウズ』、第10話。かつて、はじめが呈した「どうして全員で戦わないのか」「どうして人前で戦わないのか」といった疑問に答えるように、5人が変身。
Photo10_3『クラウズ』らしくない絵だけど、スーツのデザインがバラバラっていうあたり、『クラウズ』らしいのかも知れない。

OPで、6人がビルの屋上に並んでいる決めカットは、けっこう好き。
最初の、後ろから俯瞰で見たカットは、まあ普通かな。2カット目からがカッコいい。
望遠で隣のビルから狙っているような、真横からのアングルがあって(丈がタバコを口から離す芝居が、渋く効いている)……横PANが、空気感・臨場感を増す。
次のカットで、はじめの横顔のアップから引いて、その次のカットは、一歩だけ踏み出す6人の足元。ここで、うつつの靴がハイヒールってのが、色っぽい。
そして、ラストカットは足元から狙った6人の絵で、清音が、日本刀に手をかける芝居が入っている。それぞれのカットが、アクションの途中で切れてるところが、実に大人っぽいんだ。

ヒーロー物のルックスを維持しながらも、物語的には、主役がどんどん入れ替わっていく。
Photo10_1そして今、海面下で、はじめとカッツェの会話が進行している……この2人だけは、自分に正直だから、話が通じてしまうのだ。
キャラクターの配置を見るだけで、ひとつの「論」になっているのが、やはり凄い。
(でも、2人が話している場所が銭湯ってのが、なかなか笑わせる。)


日本サッカー協会が、2020年の東京五輪で、福島県のJヴィレッジをキャンプ地にすると発表()。
これに対しては、異論が多い。……あれ? みんな、オリンピック喜んでたじゃん、なんで? みんな、サッカー大好きじゃん。かてて加えて、「放射能は無害」「自然放射線と人類は共存してきた」んでしょ? なら、Jヴィレッジも安全じゃん!

俺は去年5月、Jヴィレッジ近くまで行ってみたよ。警官に呼び止められたけど、彼らはマスクすらしておらず、僕らより若かった。関西から派遣されてきた警察官もいた。
線量が高かったから、オロオロしながら、「あなた方は、マスクしなくて大丈夫なのか」と言おうとした。でも、しなくていいんだろうな。放射能は、安全だから。自然放射線であろうと、福島第一原発の中に閉じ込められていた物質であろうと、ぜ~んぶ安全なんだから。

「原発事故なんて、たいしたことじゃない」「飛行機に乗っても、レントゲンを撮っても被曝するんだから、放射能は絶対安全」と主張する人々は、どうして福島に行かないんでしょうね(笑)。
だって、「故郷を捨てて避難したお前らは、いつまで被害者ヅラするのか」「五輪に反対する資格などない」とまで言った人がいたじゃん。
その人は、「Jヴィレッジに五輪選手を集めるのは、いかがなものか」とは、まさか同じ口で言わないよね?

本日15日、日本中の原発が止まる。停電にはならない。それなのに、「経済のため」「オリンピックのため」再稼動するんだろうな。みんなで「五輪のためなら原発必要!」デモでもやりましょか?
僕らは、そっちの道を選んだんだ。「行きはよいよい」のカードに賭けた。賭けたツケを、子孫に押しつけることに決めた。みんなで。もう、後戻りはできないし、言い訳も許されない。
そりゃ、フランスだけでなく、世界中から軽蔑されもしましょうよ。

……でも、みんな考えるのをやめたんだから、安心安心♪ 放射能も安全安心♪


原作の『ゲド戦記』では、第一巻が好きで。
ゲドは、慢心のあまり、自分の「影」を、地獄から呼び出してしまう。「影」は、いつでもピッタリとゲドを付け回していて、そのためにゲドは神経症的な不安にかられ、いつでも怯えている。
少しでも「影」のことを忘れたい……と思った彼は、竜退治に出かける。竜を退治するのは大仕事ではあるが、決して消えてくれない「影」のことを考えるよりは、ずっとマシなのである。

原発事故以降、このエピソードが、たまに頭をよぎる。
本当に怖いのは「影」のはずなのに、ゲドは「影」から目をそらすため、人々から賞賛される「竜退治」によって、事態を誤魔化す。

誰もが、「影」からは逃げられない。「影」と向き合わぬものは、未来に絶縁状を叩きつけたも同然なのだ。

(C)タツノコプロ/ガッチャマンクラウズ製作委員会

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2013年9月13日 (金)

■0913■

「眠いときは、寝る」、これ以上に効率のいい仕事のやり方はないはずなのだが、昨夜はスケジュールのことが気になった。
午前中は、起きたらまず粘土に触る。ちゃんと目が覚めて、涼しければ、午前中のうちに買い物に行く。午後から深夜までの十数時間、寝たり起きたりしながら、仕事を進めていく。

本屋に「サボりながらやった方が、仕事の能率は向上する」主旨のビジネス本が山積みになっていて、本から教えられないと、そんなことさえ分からないのか?と、やや呆然とした。
まず、何はともあれ逃げ道を確保し、それから対策を考えれば、追いつめられることはない――。


フランスの週刊誌が、原発事故と放射能汚染の中で行われるオリンピックを揶揄したマンガを掲載。
官房長官の抗議内容は、「東日本大震災の被災者の気持ちを傷つけ……」。いやいや、いまだ仮設住宅に住まわされ、故郷を追われたままの16万人を傷つけているのは、日本政府だと思うぞ。

だけど、オリンピックに不満な被災者を罵る人たちも、少なからずいるようだ。
反論はない。反論というほどのものはない。誰にでも、幸せに生きる権利がある。原発事故をなかったことにして、楽しいことだけ考えて生きる権利だって、もちろん認められなければいけない。「原発事故を直視せよ」とは、もう僕は言わない。言うのに、疲れた。

例えば、吉祥寺のバーで、「原発が動いてなければ、こうしてエアコンで涼をとることもできない」と笑っているママさんがいた。
しかし現在、東電管区内で動いている原発は、ただの一基もない。そのことを指摘すると、ママさんは顔を真っ赤にして、「それがどうかしたんですか!」と怒鳴りはじめた。
それは、ママさんの幸せな世界観のために、言ってはならないことだったんだ。彼女は、誰を傷つけたわけでもない。ほうっておくべきだった。

生きてる間ぐらい、好きなものを食べたい。そう願って、汚染を気にせず食道楽に走るのが幸せならば、その人の邪魔をしてはいけない。
僕が来月、またしても南欧に旅行するのも、一種の現実逃避だ。当地は原発からの電力も使っているし、チェルノブイリの汚染も、それなりにくらっていると思う。だけど、僕は気にせず食べる。

旅行中の一週間、僕は被災地のこともオリンピックのことも、忘却しているだろう。十分に、罪深いじゃないか。


誰が作者か忘れてしまったのだが、「犬を飼いはじめたら、そのことが原因で、また争いが起きる。そんな我が家は、悲しい」……という意味の短歌がある。
オリンピック界隈での意見の食い違いを見ていて、その短歌を思い出した。本当は楽しいはずのことでも、それが原因で、また争いが起きてしまう。それが、今の日本だ。

悲しき、我が家――。この状態は、何年後か、何十年か後には終わってくれるんだろうか?

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2013年9月11日 (水)

■0911■

昨日、2つの音声データを原稿化したが、今週、2件の取材がある。
仕事は終わらず、トラブルは増える。原因のはっきりしているトラブルだから、まったく腹は立たないんだけど。
原稿の直しも、編集者が「私の意見としては……」と、主体性をもって述べてくれるので、しっかり直す。

DVDをレンタルしている時間がないほど、スケジューリングに失敗しているので、最近見られたAlien映画は、ムービープラスで『エイリアン4』。
シガニー・ウィーバー、公開当時48歳。クローン再生された設定なので、CGでシワを消してあげて欲しいと、マジで思った。97年当時はともかく、今なら可能だろう。

零れ落ちそうな美しい瞳のウィノナ・ライダー。彼女がロボットと判明したとき、「トースター」と悪口を言われるが、このジョークは『ギャラクティカ』へ受け継がれている。体内にケーブルを接合して、宇宙船をコントロールする描写も、同様だ。

美女の出てくるSF映画。それほど美しいものを、他に知らない。


IOCでの安倍晋三の発言、「(福島第一原発の)状況は、コントロールされている」「汚染水の影響は、原発の港湾内で完全にブロックされている」は、東京電力はおろか、経産省幹部、官房長官からも「そうとは言い切れない」と、思い切り否定されてるじゃん(笑)。

しかも、TOKYO MXのリアルタイム・アンケートでは、視聴者の57%がオリンピックに反対だそうで、当然と思います。

いま、言いたいことがあるとしたら、オリンピックに出られない競技の関係者が、おしなべて「これでは、子供たちに夢を与えられない」と、気色の悪いことをおっしゃっている点。
オリンピックの競技だけが、子供たちの夢じゃない。絵描きになりたい子もいるだろうし、声優になりたい子も沢山いる。そういう夢を、一顧だにしないじゃない、スポーツ選手のような社会的強者って。「オリンピックは、子供たちみんなの夢だ」って世論を、強引につくるじゃん。
スポーツが不得手な子にとっては、ひとりでゲームしている時間が、至福なのかも知れないよ? 被災地の避難施設へ行ったアニメ関係者から聞いた話だけど、中学生ぐらいの女の子が、スマホか何かの小さな画面で、アニメを見ていたんだって。そのとき、「やっぱり俺たちの仕事は必要なんだな」って実感したんだって。どんな気持ちだったか、想像してみてくれよ。

だけど、オリンピックは被災地を切り捨て、そのくせ、被災地の子供たちをダシに進められている。
老朽化した東京の施設をリニューアル、莫大な広告費に放映権料、選手村には何万個ものコンドーム配布。どこが「子供たちの夢」なんだよ? 笑わせるぜ。


東京地検から、簡易書留が届いた。
僕は、足立区の産地偽装業者・大兼文喜を、昨年5月30日に刑事告発した。結果は、不起訴。
首相が、どうどうと国際舞台でウソをつく国だからなあ……。

(C)20th Century Fox

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2013年9月 8日 (日)

■0908■

先に 『ガッチャマン クラウズ』の話をしておきますか。第9話。
Photo9_3実は、この話数から最終回まで、先に絵コンテとシナリオを読んでいるので、ちょっとバイアスがかかって見えるのかも知れないが……テレビアニメって、ワンカットの秒数がすごく短い。コンテ段階では、ゆったりしているように思えたシーンが、どんどん先に進んでいくので、かなり戸惑った。

さまざまな声音を使い分けてきたベルク・カッツェが、ついに「ガッチャなんて怖くな~い」と、ひとりでミュージカルを始めるシーンが、今回の見どころですかね。
(カッツェは、自分の気持ちいいことを正直にやってるだけなので、簡単に否定できないんだよね。) 
だけど、カッツェの独壇場に見えて、「人知れず活躍」するはずのガッチャマンたちが生配信をはじめてしまったり、つねに勢力図が変化するところが、やっぱり頭のいい作品だと思う。ひとつの事象に対して、かならず、二つ以上の異なるリアクションがあるところとか。
累に対して、「死ねよ」と書き込む民衆は、果たして間違っていると言い切れるのか?とかね。

「予想通りの展開だった」と覚めている人がいるけど、「予想させたり裏切ったり」するのが、よく考えられたエンタメですので。「まったく予想すら立てられない作品」なんて、誰も着いてこられないでしょ。


IOCは、7年後のオリンピック開催地を、東京に決定。
僕の脳裏には、なぜか2011年に福島県いわき市で取材した、女子高校生の言葉()が浮かんだ。「いわきは安全! 東京どもムカツク!」

東京は建設ラッシュで、今後7年間、莫大な経済効果が期待できるという。……では、いまだ狭い仮設住宅に住んでいる人たちは? 原発事故で職を失った人たちは? 絶望して自殺した農家の人は? 明け方の東京で、恥も知らずに歓声をあげた愚民どもは、被災者をバッサリと切り捨てたわけだ。

ヨーロッパ貴族によって構成されているというIOCは、「東京は汚染されていない」という新たな安全神話を、あつかましくも我々都民に押しつけた。東京では、この夏もセシウムが降下しつづている。だが、東京都健康安全研究センターが調べているそんなデータも、「安全安心なオリンピック」の旗印のもと、採取されなくなるかも知れない。

事故直後、三鷹駅で大きなスーツケースを持って避難していった母子を見たときの、あの複雑な思い。
福島県広野町の山や川の美しさに目を見はり、それらが触れるのもはばかられるほど、強く汚染されていると知ったときの、震えるような憤り。
僕は、忘れない。「東京どもムカツク!」 その一言が、すべてだ。浮かれてヘラヘラしている大人たちよ、どう答える?


もうひとつ。
原発事故の収束をほったらかしにして、「行くぜ東北!」「食べて応援!」と都合のいいことばかり言っている偉そうな業界人を見ていると、いやでも、母を殺した犯人のことを思いだしてしまう。

犯人だけではない。苦しんで死んだ母の痛みさえ想像せず、そういう暗くて重たい事実からは徹底的に目をそらし、「○○(犯人)にも人権がありますからねえ」と歌うように言った弁護士。「妹としての務め」「友として当たり前」と、たったそれだけの理由で犯人を擁護した証人たち。
どいつもこいつも、根拠曖昧な「絆」で結ばれていた。赤黒い血で染まった事件現場は忌避するくせに、「犯人の罪を軽くしよう」「人権を守ろう!」と、うすぼんやりと虫のいいことしか考えようとしない愚民ども。
原発事故や汚染実態を直視せず、綺麗にデコレーションされたオリンピックのことばかり話題にする連中は、母の死を軽んじ「こんなの、たいした事件じゃない」と思い込もうとした関係者たちと、まるで同じだ。

辛いこと、重いことを忘れたるために、薄っぺらで明るい側面しか見ようとしない臆病者たち。
子供たちにガラスバッジを付けさせたまま、「オリンピックが喜ばしい」だと? 恥を知れよ。

(C)タツノコプロ/ガッチャマンクラウズ製作委員会

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2013年9月 5日 (木)

■0905■

昨夜は、原稿一本終わらせ、朝6時半に目が覚めたので、「……今日、行くか」と思い立って、ロシア大使館へ。三度目。
領事部前には、すでに数人の旅行業者が並んで談笑していたが、10分ぐらいで申請手続きは終了。二週間後の19日に、トランジット・ビザを受けとれば、クロアチア到着前に、空港ではなく、ロシア国内のホテルに泊まれる。
(シェレメーチエヴォ国際空港は、一夜を明かすには、やや物騒な雰囲気らしい。)

ちなみに、ロシアのトランジット・ビザ申請に、もっとも役立ったのは「気力だけでバックパッカー的旅行」というブログ()。申請フォームは、大使館のサイトにある。

あとは、クロアチア国内での移動用に、バスの時刻表を印刷して持っていきたい。
『旅の指さし会話帳』によると、クロアチアの女性の性格は少しきつめ、ザグレブの人たちは比較的冷たい、物価は高い……俺の第一印象は、そう間違っていなかった。


今月、仕事が立て込んでいるのは、実は旅行とは関係がない。どういうわけか、遅れたり早まったりして、9月末にシメキリが集中してしまったにすぎない。
定期的に書いているAとBのうち、Aはほぼ終了。Bも、来週頭には終わらせたい。そのため、日曜日に友だちと映画に行く予定を、キャンセルてしまった。

「遊びに行く時間さえない」、これは仕事のスケジュール管理が失敗している、端的な傍証である。
なので、来週以降に大量にある仕事Cと仕事Dに関しては、ライターの増員をお願いした。たいてい、「使えるライターがいない」「だから、アンタに頼んだんだ」と即答されるのだが、早い・上手いライターを育ててこなかった僕らにも、責任はある。

みんな、「俺が書きました!」「私の記事です!」という自慢だけは一人前だが、いかにシメキリに遅れず、十分なスケジュールを確保して、本全体の質を上げるか?を考えていないように見える。
「寝ないで書いたんです!」と、胸を張るライターがいる。二度と組みたくないね。ちゃんと寝て、脳のコンディションを最良に保ち、なおかつシメキリに間に合うようにスケジューリングできなければ、断ったほうがいい。
「今日だけで、三件取材しました!」と自慢するライターがいる。取材は、単なる仕込みです。原稿を納品して、初めて僕らの仕事は完了です。

自分の体力を折り込んだスケジュールを組めないようなら、どんな仕事も失敗します。
「寝ないで書けば、終わる」は、「シャブを打てば、できる」とまったく同義。


安倍晋三が、「オリンピック開催の2020年までには、汚染水問題は解決している」と発言したそうで。そうか、オリンピック招致のために、大慌てで汚染水対策をはじめたわけか。
自民党の議員が、「なぜ五輪招致前に発覚したのか」と苛立っているそうだけど、オリンピック招致後だったら、いいのかよ(笑)。
話の順番が、破綻しているよね。

日本オリンピック委員会の会長が、「東京は安全だ」とほざいているのも、気に入らない。
だったら、俺の家のベランダから出た3,000Bqのセシウム汚泥()は、何なの? 原発事故前から、ずーっとあったの?  
この人、「福島は東京から250キロ離れており、皆さんが想像する危険性は東京にない」とも言ってるんだけど、やっぱり福島より、東京が大事なわけだ。オリンピックで潤うのは、被災地じゃない。東京の代理店、東京の大企業だけだよ。

何も変わってないよ。オリンピック招致がなかったら、汚染水も原発も、ずーっと放置しておくつもりだったんだろ? 

都のサイトを見ると、「夢の力が必要」とか書いてある。なんでそういう、耳ざわりのいい曖昧な言葉でごまかす? いつまでに何をするから、これだけの金と技術が必要です、と考えさせない。愚民どもを「気持ち」だけで走らせようとしている。
エンタメもそうです。「泣けたから、いい映画」とかさ。なぜ感動したのか、後から落ち着いて考える人がいない。「自然と泣けた」「何となく泣けた」程度。その日本人の「曖昧さ」が、僕は怖くてならない。

今は、あるアニメのメイキング本を、必死につくってます。技術と知恵と計画性がなければ、夢なんて見られません。

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2013年9月 3日 (火)

■0903■

COLONY DROP 2
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●APPROACHES TO JOURNALISM in the 21st CENTURY.
また同人誌の紹介ですが、こちらは、レナト・リベラ・ルスカ氏によるインタビュー記事。僕と藤津亮太氏が、アニメの記事を商業誌に書くことについて、あれこれ語っています。
英語の同人誌ですが、興味のある方は公式サイトへ()。

僕が藤津さんと会ったのは、角川書店の『千尋と不思議の街』なんだけど、それ以前に扶桑社「SPA!」で、僕が『ビバップ』や『ガサラキ』を取り上げていて、それを藤津さんが見ていたのでした。その辺りの昔話も、英訳されてます。


で、残暑の厳しい昨日は、レナト氏にインタビューした後、都内のスタジオへ移動。
その場で、たまたま、キャラホビのために上京されていた徹屋さん()とお会いして、作品を前に、お話しできたのでした。

……僕は、徹屋さんの作品を見て、フィギュアを作りはじめたほどですからね。あまりの幸運にオロオロして、それでも、図々しく質問ぜめにしてしまいました。
ここには書きませんが、もう、想像を絶するクリエイティブな方で。村上隆がいろいろやんなくても、ここにちゃんと、アートとして価値あるフィギュアがあるじゃん!と。

……徹屋さんの作品について、雑誌に書くかどうかは、現時点では分からないんだけど、例えばセイラさんのフィギュアを見たら、中学一年の頃、初めてテレビで 『ガンダム』を見た、あの肌触り感が、ジワッと蘇ってくるわけ。
あの頃は『ガンダム』でさえ、「夕方にテレビつけたら、やってた」という偶発性満点の……語弊のある言い方だけど、見世物というかキワモノだった。「よく分からないけど、凄いもんを見たよ」と、友だちに話したくなる体験。
徹屋さんのフィギュアも同様で、「見てしまった」感がある。この現物を前にしたら、もう見る前の自分には、戻れない。体験としての濃度が、濃すぎる。

アニメのフィギュアって、二次元コンプレックスの延長みたいに思われているだろうし、多くのフィギュアは童貞的というか、成人男性の趣味としては「やや恥ずかしい」ところが、実は良い点でもあるんだよ。第二次性徴期に戻れるというか。
だけど、オッサンになると、「単純に女性を見る回数」が増える。電車の中でチラッと見るだけでも、高校生の何百倍も、見た回数だけは多いはずで。女性と付き合えば、イヤでもいろんな表情を見ることになるし。それらもやっぱり、「やべえ、見ちゃった」って偶発的体験なわけで。
その体験の積層を、フィギュアに込めることができれば、ちゃんと「オッサンのたしなむ趣味」になるんだよ。


で、フィギュアのような文化のある国を、僕だって誇りたいんだけど……。

政府が、福島第一の汚染水対策に、国費の投入を決定。「東京へのオリンピック招致に影響するから、先送り」とか、子供じみたことを言えなくなったのは、太平洋への汚染水漏れが、国際的な安全保障問題に発展してしまったからだろうな。
こんなだらしない被曝国で、オリンピックなんて、やっちゃいけないよ。人類の恥だよ。

いま動いている原発は、大飯4号機だけ。その4号機も、15日に停止する。原発ゼロ状態は、311以降、二回目だ。
原子力規制委員会は、「福島第一原発は、現在も不安定な状況にある。事故は収束した段階ではない」と明言。日本の大人たちは、そろそろ、目を覚まそう。

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2013年9月 1日 (日)

■0901■

『鋼鉄のヴァンデッタ』 第0話 原画集
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末尾に、1ページだけ文を寄せています。
実質的に、高橋裕一さんの原画集のような構成で、かなり見ごたえがあります。秋から、委託販売がはじまるそうなので、公式サイト()に注目しておいてください。

しかし、監督の玉村仁さんと、マチ★アソビでの上映会&トークショー以来、ひさびさに話したのですが、作品を愛してもらえる状況にもっていくのは、狙ってできるものではないね。
「愛される」って、「……バカだなあ」とか「……ダセエなあ」とか、溜め息まじりに苦笑されて、それでもギュッと抱きしめてもらえることだと思う。
笑われるようなスキがないと、なかなか愛されない。綺麗でも可愛くても、自己完結されてると、愛しようがない。
だから、「次はユルユルの、頭の悪い作品を、高橋さんとつくってみたら?」とアドバイスしたわけですが。

あと、「愛する」ってのはスキルだと思う……僕はこの歳で、人間を、とくに異性を愛せないと気がついたから。
「愛する」って根源的な欲望ではないから、ただ漠然と生きていても、芽生えてこないです。愛は寛容さから生じる能力なので、さまざまな体験をへて、心が磨かれてないと。


さて、高橋裕一さんといえば、『ガッチャマン クラウズ』のキャラデ・作監として、がんばってらっしゃいます。第8話です。
Photo8_3僕のまわりでも、チラホラと『クラウズ』はすごい!という声が聞こえるようになってきました。
なかなか絵に馴染めなかったのですが、こういうフワッとした絵だからこそ、社会性という見えづらいテーマを扱えたのだと思います。話を、いい塩梅に抽象化できるのは、絵が軽めだからです。

あと、やっぱり「バッカじゃねーの?」と笑えるところがないと、作品に入っていけないね。ベルク・カッツェが変身前に「バババ、バババ……」と歌ってたのは、あれはOPテーマのイントロだよね。あそこで「いやいや、カッツェは怖いヤツなんだから、主題歌なんて歌わないよ!」とシリアスに演出してしまったら、ちょっと引いてしまう。
カッツェは、十分に怖いヤツに描けているんだけど、どこかで「あいつ、笑えるよねー」と逃げられる状態にしておかないと、視聴者は辛いわけです。

第7話が修羅場だったので、その影響を、すべてのキャラクターが、しっかり受け止めているのが心地よい。特に、O・Dの気配りが大人っぽくて、もう大好き。
大人は「大人」という役割を意識してやっていかないと、たちまち存在意義がなくなってしまう。そんなことを分からせてくれるドラマも映画も、日本からは、なくなってしまったように見える。

テレビアニメ、特に深夜アニメは、不思議に作品として純度が高い。『惡の華』みたいな、世界でも類を見ないような実験作を放映できたりとか。
純度が高いから、悪口もいいやすいし、没入感も強い。そこがワナでもあるんだけど、不思議な文化だと思う。


さて、9月になりましたか。抱えている仕事の量がものすごいわけですが、一ヵ月後にはクロアチアです。
テレビで、クロアチアの特集をやったようだけど、僕は地上波の番組はアニメしか見ないんで。しかも、CMは飛ばします。アニメ以外では、ムービープラスで外国映画しか見ない。

外国映画を見るのは、小さな旅行みたいなもの。ワンシーンだけ見ても、気分転換になる。

(C)タツノコプロ/ガッチャマンクラウズ製作委員会

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