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2013年8月29日 (木)

■0829■

シメキリは、早い時期に言ってほしい、と思う。早ければ早いほど、対策も早く立てられるから。グズグズと言いよどんだ挙句、「……実は、明後日までなんです」なんて言われたら、他の仕事に、ぜんぶ影響してしまう。

僕の歳になると、「体力がある」前提ではなく、「体力がない」前提でスケジュールを考えないといけない。猪突猛進は、しない。寝る時間を、まず確保。眠る前に、チャッチャッとできる仕事もある。同じ「書く」仕事にも、種類がある。それを把握しないとダメ。


先日、「勇気を持つ」とは「残酷さと正直さを、同時に持つこと」と書いた。

正直に、なおかつ冷酷なまでに事実を直視せねば、勇気を持つことは出来ない。どんよりとした優しさなら、誰でもすぐ手にできる。
この国は、なんとなく甘ったるく、事実を感情でくるんで曖昧にする傾向がある。仕事がデッドエンドに向けて突進しているのに、「気合いで乗り切れ!」みたいなことを叫んでごまかす。

放射能汚染に危機感を持っている人でも、ぼんやりとネットの情報を眺めている人と、自ら数値を求める人とでは、対応が違ってくる。
早い時期から、海外製のガイガーカウンターを買った人は、機械のクセなどを折り込んで「この数値はアテにならない」「こういう場所では、高めに出て当然」と、自らの手で事実に触れている。(ちなみに、僕はエステーのエアカウンターしか持ってないので、危機感もそれなりである。)

「自分で調べる」といえば、市民測定所の「にっこり館」さんは、かなりのつわものだ。
僕は身のまわりの汚泥、公園の土、水道水などを測ってもらったのだが、数値しか言わない。ただ、今までの実測データと比べて、高いか低いか示してくれる。
以前、「避難すべきかどうか」と、悩んでいるお母さんが来館していた。にっこり館さんはデータを示しつつも、「でも、避難するかは、僕が決めることじゃありません」と冷徹だった。それが「勇気」ってことじゃないか……。


ところが、放射能に危機感を持っているくせに、市民測定所に検体を持ち込むでもなければ、まして金銭的な支援などまっぴら……という人たちがいる。「金はらってまで、情報を得たくない」人の感覚は、それなりにアバウトで無責任だ。

同様に、「東電、絶対に許さない」「自民党、本気で許さない」とネットに書いて、許してしまっている人がいる。
本気で許せなければ、告訴・告発すればいい。方法は、ネット検索すれば、山ほど出てきます。「法テラス」に電話すれば、相談にのってくれます。そんな手間すら惜しんでいるくせに「許さない!」とは、片腹いたい。

同様に、「放射能なんて恐れるに足りない」という人も、手間と金を惜しんではいけない。
僕は、「カリウムなら安全だ」と言える。品川の放射能プレミアムドックセンターで、自分の体内を調べてもらって、カリウムがいっぱい検出されたから(笑)。
「セシウムが大量に出たら、どうしよう?」と怖かったけど、これぐらいはやらないと。ネットの受け売りで「バナナにカリウムが入ってるから、放射能は安全」と念仏を唱えている人は、むしろ可愛らしいぐらいだ。

品川の施設が信頼できるかどうか、ではない。「測りに行った」「数値を見た」という個々のプロセスが、説得力になるのだ。


半藤一利と宮崎駿の『腰抜け愛国談義』を読むと、「どうして、この飛行機は落ちやすかったのか?」という話題で、盛り上がっている。
そういう具体的な事実から入らないと、戦争は語れない気がしてくる。みんな、初めから漠然とした理想から入りすぎなんだよ。「金より命!」と、よく脱原発デモのコールで聞いたけど、無粋なツッコミを入れるなら、金がないと命は守れない。貧乏は、生きていく気力すら、容赦なく奪う。

だから、仕事がうまく進まないけど、「気合いで乗り切ろう!」というのは、勇気ではないですよ。コレとコレが致命的に足りないから、○日後をメドに……と具体的に計画しないと、乗り切れない。
目の前の惨事を、グッと真正面から見つめないと、対応策なんて出てこないです。

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2013年8月27日 (火)

■0827■

旅行直前ですが、9/29の「スーパーフェスティバル63」()に参加予定です。
Sufes63_nira旅行の支度もあるし、その頃だったら、いまの仕事が、9割ぐらい終わってないと、困るわけですが。

いま抱えているのは、ムック本、丸一冊分のテキスト。
定期刊行物のインタビュー2本と、テキスト6ページぐらい。これはまあ、それほど重たくない。
あと、年末発行の単行本のテキストが、半分ぐらい。100ページ程度かな。

細かいのを入れると、もう何ページかある。だけど、それは連載だったり、好きな作品を好きに書ける仕事だったりするから、問題にはならない。


たまに、複数の編集者と話すことですが。

「俺より若くて、バリバリ仕事できるライター、他にいるでしょ?」と聞くと、「……いません」。ファン心理で、声優さんのインタビューだけ行くライターなら、結構いるんだって。
ところが、インタビュー相手が、監督やプロデューサーになると、もうお手上げだそうです。いや、監督にだったら「テーマは?」とか「あのシーンの意味は?」とか、観念的な話に持ち込めるから、まだインタビュアーはいる。僕も、何人か思い当たる。

だけど、技術的な質問が出来る人は、もう本当に少ないらしい。僕を知ってる人なら分かるだろうど、僕だって、技術には詳しくない。
でも、かろうじて「知りたい」とは思っているわけ。自ら「知りたい」と思わなければ、永遠に分からないですよ。「僕は、タイムシートをいじるんです」と演出家が話してくれたら、「タイムシートって何ですか?」と聞けばいいんじゃない? あわよくば、「ちょっと、実物を見せて説明してください」と言えばいい。次からは、質問のレベルが上がるから。

だけど、「タイムシートなんて知らなくていい」と思ってる人に、「勉強しろ」とは、俺は言わないですよ。その代わり、俺のような引退寸前の出来損ないのオッサンのところに、いっぱい仕事が来るけど、それでいいよね?って話です。
「仕事ない」「金がない」のは、向上心がないからだよ。出版不況のせいなんかじゃないですよ。
『アニメスタイル』が、美術手帖の増刊だったころの1号と2号、見てみればいい。あと、ジブリの絵コンテ集なんて、中古で安く売ってるんですよ。用語なんて、それで覚えればいいじゃん。「あ、俺、ジブリは嫌いなんで」とか言ってる場合じゃない。

そこそこ知識がついて、シメキリを死守できるようなら、仕事は来ます。
来なくなったら、社会から求められなくなった、ということ。僕も、年末にはどうなっているか分からない。だから、金のあるうちに、海外旅行するわけで。


結局、勇気のある人は、世の中に少ないと感じる。「この仕事の仕方は、間違ってる」と思っても、勇気がなければ、上司に進言できないでしょ。

勇気がある、とは、残酷さと正直さを併せ持つこと。
インタビューしていると、「……あなた、ホントに分かって質問してます?」という目をされることがある。「私は、ちゃんとしたインタビューを受けたいので、あなたの誤解を正しておきたいんですが……」って目だ。そういう相手が、好きです。
とたんに、場に緊張感が生まれる。僕が反省するチャンスがあるとしたら、その一瞬なんだよ。謙虚になれるとしたら、一瞬しかチャンスはない。


今夜は疲れているので、仮眠したら、『ガッチャマン クラウズ』の仕事をしますよ。

みんな気がついてるかも知れないけど、はじめが変身した姿は「G-101」、ハンドレッド・ワンなんだよね。つまり、壊滅したハンドレッドの次の一人……という意味じゃないか。
この話はコラムに書けそうもないので、ここにメモしておきます。

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2013年8月24日 (土)

■0824-2■

アニメ系の編集者に会うたび、「『ガッチャマン クラウズ』、すごいですよ!」と語っていたら、シナリオが送られてきて「次号、『クラウズ』について書いてみて?」という話になってしまったわけですが、第7話です。
Photo7_1白眉は、丈が「フレイム・フェザー!」と武器の名前を叫ぶたび、「ふれぇ~むふぇざ~」と茶化すベルク・カッツェですね。もう、ムチャクチャ気持ち悪いし、ムカつく。
というか、このシーンだけは、いちおう「ヒーロー物」のフォーマットに則ってつくられている、大事な対決シーンだと思うんだよな。それなのに、決めゼリフをいちいち茶化す、一種の「楽屋落ち」を挿入することの、居心地の悪さね。自分たちで「これ」と決めたフォーマットを、自ら陵辱しているわけですよ。(だから、肉体派ヒーロー物の元祖である『ガッチャマン』の名を冠する必然性が生じてくるんだよね。)
あまり好きな言葉ではないけど、この演出として折り込まれた「批評性」を楽しめないと、『クラウズ』は不愉快な番組だろうな。

ついに、カッツェは丈に言う。「ねえ…ねえ、まだそんなことやってんの? 地球救わなきゃーとか、俺がやらなきゃーとか、マジで出来ると思ってるの? …ねえ、バカなの?」
カッツェの挑発が、実は正論であることは、これまでのエピソードが裏づけている。そうでなくとも、単独、あるいは少数の超常者が危機を救うヒーロー物(『幻魔大戦』とかさ!)が、いかにリアリティを欠いてしまっているかは、311を肌身に感じた僕らなら、分かっているはず。旧『ガッチャマン』直撃世代は、「それとこれとは別だろう!」と言いたいだろうな。


現実とフィクションは、相乗り状態で共存しているわけで、「現実とフィクションの区別をつけましょう」という詭弁は、むしろ、フィクションを直視できない軟弱者の言い逃れだと思う。
「選ばれたヒーローが、地球を救う」というオジサン好みのフィクションを、「だけど、現実はもっと無慈悲だったじゃん! アンタ、その目で見ただろう!」と切りかえしているのが、『クラウズ』なんだ。

だから、カッツェの言う「まだそんなことやってるの?」って、予定調和のヒーロー物の様式美を楽しみたかった視聴者に突きつけられた言葉なんだよね。
『クラウズ』の底知れぬところは、カッツェの価値観さえ肯定しかねない、冷徹なまでのバランス感覚なんだ。少なくとも、丈に向けられた「ヒーローなんて、実効力ないじゃん」という嘲笑には、首肯せざるを得なかった。
だから、カッツェを倒して、彼の価値観を否定すれば終わるような、甘い話ではない。宮崎駿のアニメは、常にニヒリズムを回避することで救われてきた。だけど、『クラウズ』の登場人物たちは、いつでもニヒリズムに陥りかねない危うさを持っている。それは、『クラウズ』が、311以降の状況と相乗りしているからだよ。
どんな作品のテーマでも、いつでも、ずっと以前から、僕らの胸にあるということ。つまんないヤツは、どんな作品を見ても、「つまんない」って言うもんなんだよ。

俺は『クラウズ』のキャラクターたちが好きで、瞳をウルウルさせながら見ている。
第7話は、作画がいつもの緩さと違っていて、なかなか良かったな。作画って、つまりレイアウトが広角ぎみで、ビシッと決まっていた。CGも、大盤振る舞いだったしね。
変身を決意したO・Dの表情も、すごく良かったよね。というか、あれだけウザかったO・Dが、こんなにも頼もしく見えてきたんだから、シナリオや演出、声優の演技でキャラ立ちさせる手腕も、相当なものだと思うよ。
(……というわけで、このエントリは号外でした。)

(C)タツノコプロ/ガッチャマンクラウズ製作委員会

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■0824■

モデルグラフィックス 10月号 明日発売
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●組まず語り症候群 第10夜
今回のサブタイトルは、『たいへんジョーズにできました』。
タイトルこそストレートな駄洒落ですが(副編集長作)、内容は、例によって屈折しまくっていますので、よく噛んで味わってください。


アルゼンチン映画『オリンダのリストランテ』。夜中2時から見はじめたけど、眠らずに最後まで。だけど、「眠れないほど面白かった」のとは、ちょっと違う。
言葉が通じない異国へ旅する映画は、たいてい面白いです。

『旅の指さし会話帳 クロアチア』、こんな本、あったのか! 即座に注文した。
Cah2ongy_4僕は挨拶以外、英語で押しとおすつもりなんだけど、いちおう持っていきますか。

3月のツアーのとき、一大観光都市・ドゥブロヴニクで、日本語で話しかけてくる人がいた。
午前10時半に、早くも腹が減っていたので、僕は「MOBY DICK」という小さなレストランに入った。(後から知ったのだが、有名なお店らしい。)
ビールを頼んでから、「アイム・ベリー・ハングリー」と言ったら、白いヒゲのおじさんが、メニューを持ってきた。「ムール貝? オイスター……牡蠣?」と、彼は日本語を使いはじめた。その仕草が、まるで昔話でも語るかのように、楽しげだったのを覚えている。

結局、僕はラム肉を頼んだ。おじさんは、もじもじしながら「もう一皿、何か頼まないか?」と言いたい様子だ。「Do you like French fries?」と聞かれて、やっと意味が分かった。「オーケー、アイ・ライク」とか返事したと思う。
ところが、出されたラム肉が、ものすごく美味しかった。パンにもビールにも合うので、黙々と口に運んでいたら、オジサンが「おいしい~?」と、踊るような身ぶりで話しかけてきた。
日本語で、「おいしい!」と答えてあげれば良かった。「ベリー・グッド」とか、つまんないことを言ってしまった。

その夜、「日本語メニュー、あります」と話しかけてきたレストランに入った。
その店では、料理を出すたびに「めしあがれ」と言うので、やや白けた。若い男は、どこか冷たいんだよな。
基本的に、クロアチアは、白髪のオジサンたちは働き者で明るく、かわいらしい印象。彼らだって戦争体験者だろうに、あの陽気さはなんだろうな?

それにしても、ほろ酔いで夜のドゥブロヴニクを後にしようとしたとき、「お楽しみはこれからだ!」とばかりに、大勢の観光客がライトアップされた城壁内になだれ込んできた、あの光景は忘れられない。
美女ばかりの聖歌隊が、正装して夜のバーに駆け込んでいく。彼女たちは、薄暗い店内に整列し、賛美歌をコーラスしはじめる。みんな、呆気にとられたように、彼女たちの澄んだ歌声に足をとめていた。


福島第一原子力発電所の事故そのものがレベル7なのに、同施設の汚染水漏えいはレベル3(重大な異常事象)。海外メディアは「一昨年のメルトダウン以来の危機」と騒いでいるのに、東京でオリンピックだって?

「三無主義」「シラケ世代」と呼ばれていたころ、気がつくべきだった。誰も、本気じゃないんですよ。東京電力の「どうせ無駄だろうけど、一応やっときますか」という、のらりくらりと責任をかわす態度を見ていると、東電体質というより、国民性だと思えてくる。

こんな事態になっても、オリンピックで盛り上がれる日本人の無責任さが、何より僕は怖ろしい。
原爆も怖いけど、原爆を二発もくらったくせに「まだまだ戦えます、勝てます」と胸を張っていた軍部が、いちばん怖いじゃないですか。

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2013年8月21日 (水)

■0821■

レンタルしてきたものの、ぐっすり眠ってしまった映画、2本。

『ネバーランド PART1 ピーターパンと魔法の石』。劇場未公開のDVDオリジナル。アルバトロス発売なので、まあ、察してください。
一見、スキンヘアに見える、全身銀色のティンカー・ベルに、びっくり仰天(しつつ、寝た)。

『トータル・リコール』(2012版)。とにかく、CG満載の映画が見たかったので。
Total10美術が『ブレードランナー』リスペクトで、雨の降りしきるアジアめいた未来都市は、なかなか良い雰囲気だった。
ミニチュアのような雑然とした街並みの、はるか奥のほうに、小さく薄紅色に染まった空が、かすかに見えている。そのセンチメンタルな構図。SF映画、特撮映画にしかあり得ないはかなさが、そこにはあった。

……と言いながら、二回見て、二回ともぐっすり寝てしまったわけだが。
三回目に見たら、やっぱり途中で飽きてしまった。だいたい、「未来の車」が大活躍するSF映画は、要注意です。『ブレードランナー』のスピナーは、ちょっとしか出なかったでしょ。

頭から見て、まるでつまんなかった映画はさておき、「うっかり寝てしまった映画」には、何らかの値打ちがあるような気がしている。
本日借りてきた映画は、『オリンダのリストランテ』。さて、眠れるか?


3月のクロアチア・ツアーでは、ドーハ国際空港から、ブダペストを経由した。
僕は、窓際の席に座っていて、隣には金髪のお姉ちゃんと、その彼氏だか旦那だかが座っていた。窓際の席で、隣に外人のお姉さん。46歳にもなっても対人恐怖を克服できない僕にとっては、最も緊張するシチュエーションのはず。
だが、僕は居眠りしたり、機内上映の『ピーター・パン』を見たりして、リラックスできた。これが、旅のマジックというやつだ。

そのお姉さんは、長旅で疲れているらしく、一言も話さなかった。機内食が来たとき、英語で「○○料理って何のこと?」と、CAに聞いていたぐらい。
ブダペストで駐機したとき、降りるお客さんも大勢いた。なので、通路側に座っていた彼氏が、僕に「君は、ここで降りなくていいの? ザグレブまで乗るの?」と聞いてきた。英語だったけど、なんとなく、ニュアンスで分かった。
僕は「イエース、サンキュー」とだけ答えた。

その時の、おどおどした彼氏さんの顔が、忘れられない。
席が空いたので、金髪の彼女は、無言で別の席へ行って、眠ってしまった。彼氏さんは、そんな彼女に声もかけられず、気まずそうにしていた。ケンカでもしてたんだろうか。

僕の人生の友。それは、対人恐怖と計画性の無さ。
どちらも、海外旅行とは相容れない。でも、だから行くんだよ。


国内のことを書くと、どうしても暗くなるので、もう少しクロアチアの話を。

ツアーの最後に、トロギールという小さな島のような形の観光地へ寄った。
Cayew4n7その時に地元のスーパーで買ったのが、この本だ。タイトルを『クロアチア語常用6000語』で調べると、「熱帯」という意味のようだ。
中身は動物図鑑なのだが、それぞれの動物のペーパークラフトが付いていて、最後のページに付属する熱帯雨林のジオラマに、ぜんぶ飾れるようになっているのだ。装丁も凝っていて、インクの染みや褪色した跡が、印刷で再現されている。
これを買ってきたら、同じツアーの女性たちが「うわあ……」「きれいな本!」と寄ってきた。だけど、最後のページが破れていたんだよな。

すると、女性たちは「まだバスの出発まで5分あるから、取り替えてもらいなよ!」と口々に言う。
僕は、ダッシュでスーパーへ戻り、日本語で「ここ破れてるから、新しいのに替えてもらっていいですか?」と訴えた。何を言わんとしているかは通じたらしく、レジのおばさんは「ああ、どうぞ」みたいなことを言って、すんなりと取り替えてくれた。

僕がひとりで頼りなさそうに見えたのか、同行した女性たちには「ちゃんと本、とり替えてもらった?」「廣田さん、時計は買ったの?」と、何かと気をかけてもらった。
だけど、今度はひとり旅だ。寂しい思いを、することになるんだろうな。

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2013年8月19日 (月)

■0819■

10月のクロアチア旅行の宿、すべて予約完了した。
ホステルは敷居が高いので、アパートメントか、ホテルばかりになってしまった。リエカは貿易港のせいか、ホテルは少ない。やや、料金の高いホテルを予約するしかなかった。

今回、もっとも役に立っているのは、新婚旅行でクロアチアの主要都市を回りきったカップルの旅行記『ドブロ!クロアチア!』()。
初の海外旅行で、ここまで個人で手配してしまった手腕は、すごい。さぞかし、手堅く豊かな人生を送っていることだろう。


手堅い人生といえば、友人が、家族……というか一族まとめて、西日本に移住することを決定したそうだ。
彼は福島県出身だ。だから、収束まで70年といわれる原発事故が、彼に故郷を捨てさせたことになる。まだ子供も小さいので、そりゃ、当然の選択です。

いまだに、自然放射線を引き合いにして、「放射能って安全なんだぜ!」という人がいる。「原発がなかったら江戸時代に逆戻りだぜ!」と同じぐらい恥ずかしいので、そろそろやめた方がいいと思うけど……。
「大丈夫! 放射能は怖くないよ!」と豪語する人は、この短いプロモーション映像だけでも見てほしい。『NHKスペシャル 被曝治療83日間の記録 ~東海村臨界事故~』(

「……放射能って、こんなにヤバイの?」と戦慄したのは、2001年の放映当時のことだ。臨界事故そのものは1999年に起きているが、そのときは関心をもたなかった。
このドキュメンタリーを見ていなかったら、今でも「放射能なんて、人体に被害はないよ~」と笑っていたかも知れない。

(「飛行機に乗っても、被曝するんだぜ!」と豪語している人は、文部科学省が航空機乗務員の健康管理の必要性を認めたことぐらい、知っておいてほしい。2005年の話です。)


アニメ・ファンが放射能を気にしない理由を、「アニメというフィクションを見慣れているので、現実とフィクションの区別を、ちゃんとつけられるから」と、自己正当化している人がいた。つまり、放射性物質による健康被害を、「フィクション」と断じているわけだ。
まあ、それは彼の自由だ。だけど、僕は暗い気持ちになる。彼は、アニメには十分に親しんでいるだろうけど、現実とは上手く付き合えていないだろうと、あまりに容易に想像がついてしまうからだ。

例えば、人と付き合う範囲が狭いと、子供を育てるのに必死な人の気持ちが分からない。
子育てに懸命な友人が周囲に増えてくると、むしろ彼らにこそ、心を開放するフィクションが必要なのだ、と思えてくる。
つまり、地に足をつけざるを得ない生々しい暮らしと(アニメ、映画などの)フィクションとは、相互に支えあうものなのだ……という理解が生じる。生活実感が薄いと、フィクションに対する感受性も、また薄くなるのではないか?

実体験のとぼしい人は、何百本とアニメを見ていても、幼稚な感想しか言えない。
相手にされないから、ますます実社会との接点を失っていく。たまに政治的な発言をすると、「朝鮮人をぶっ殺せ」だとか、ネットからコピペしただけの過激なワードしか出てこない。
(……うーん。いや、そんな単純ではないだろうから、ますます重たい気持ちになるんだけどね。)

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2013年8月17日 (土)

■0817■

『ガッチャマン クラウズ』第6話。まったく接点がないかに思えた累とガッチャマンが、ついにPhoto6_3邂逅。第1話時点では、単にとっちらかっているようにしか見えなかった、いくつかのベクトルが、少しずつ一本にまとまろうとする様は、美しい。
累がガッチャマンを「少数精鋭のヒーローなど、より良い世の中には不要」と言い切るのも、清音が「分からなくもないが……」と言いよどんでしまうのも、彼らのこれまでの言動が、カッチリと裏づけている。

何より綺麗なのは、すべてをオープンにしたほうが気持ちいいと考えるはじめ、自らのルールに縛られていくガッチャマン、ネットを過信する反面、世の中の事象に疑いを捨て切れないGALAXユーザーたち、いずれの価値観も相克するだけでなく、「よりよい社会の実現」という一点では、共存可能なところ。
これら、相乗りしながら並存している価値観の分岐点に、累だけが立っている。それは、累だけが上下左右、どちらにも転ぶことが出来るからだ。「汚れる可能性がある」のは、心が綺麗な証拠だから。


『SHORT PEACE』を見てきたので、その感想でも書こうと思ったが……。

松江市教育委員会が、『はだしのゲン』を「閉架」処分にした()。
日本の教育なんて、この程度のものだと思っているから、別に驚きもしない。松江市の子供たちは、教育委員会の方針など無視して、『はだしのゲン』を回し読みすればいい。規制に対する強力な対抗手段は、作品を見つづけることだ。

そもそも、僕が小学生だった70年代から、『はだしのゲン』は隠れて読む漫画だった。「おい、○○の家に『はだしのゲン』全巻あるらしいぜ」と、エロ本のように扱われていた。
あきらかに、僕らは残虐な描写を楽しんでいた。世の中には、救いがたいほど酷い現実がある。小さな動物が、意味もなくなぶり殺しにされるような。子供たちは、虫を殺して楽しむ。その密かな楽しみが、やがては、罪悪感へ成長していく。

教師や教育委員会に、子供たちをコントロールするような力はない。力がないから、決まりをつくるのだ。
世界の凄惨さから目をそむけようとする臆病者は、世界の平和も安寧も、イメージすることが出来ない。


『はだしのゲン』は、内容が「反日的」だとして、市民から撤去をもとめる陳情書が出ていたらしいね。
教育委員会なんかに要望を通してもらって、それが嬉しいという、甘ったれたクソ庶民感覚が、俺には分からない。
俺は、恵まれない作品にスポットを当てたいと思っているけど、「国が保護すべき」「自治体が推薦すべき」なんて、一度も考えなかった。ただ、誰もが自由に見られる状態にしたい。誰も見たくなかったら、やっぱり、作品は埋もれていくだろう。そういう、吹きっさらしの風の中で、作品それ自体の力で、立ちつづけてほしい。それが、俺の愛情だよ。

たとえば、原発事故をテーマにした映画の監督さんが「上映してくれる映画館がない」と、嘆いていた。映画が面白ければ、味方は現れるはずだろ? それを「圧力がかかっている」などと、陰謀論に落とし込むヤツがいる。ぜんぜん、援護になってないよ。

そんな組織や機関の力関係で、作品が立ったり折れたりするものかね? たとえ焼き払われても、「こんな映画があったんだぜ」「こんな漫画、知らないだろ?」と、語りつぐことは出来る。それこそが、ファンのみが持てる力だ。
俺なんかが雑誌に書くより、あなたが熱く作品を語ることが、なにより作品のためになる。「そこまで面白いなら、見てみようか!」と、相手に思わせる。それが、最も気高い戦い方だと、俺は信じる。


追記。『ぼくのエリ 200歳の少女』はPG-12区分で、理由は「肉体損壊等刺激的な暴力描写がみられる」となっている()。
だとするなら、なぜエリの股間の手術痕を、配給会社に消させたのだろうか? このように話をそらす幼稚なズルさ・不誠実さに、僕は腹を立てている。

(C)タツノコプロ/ガッチャマンクラウズ製作委員会

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2013年8月15日 (木)

■0815■

オトナアニメ Vol.31 23日発売
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●『ガッチャマン クラウズ』取材記事
ちょっと早いけど、告知しておきます。聖地巡礼特集の一環ではありますが、『クラウズ』の設定構築の工藤孝雄さんを中心に、お話をうかがってきました。
「根本的帰属の誤り」、「ゲーミフィケーション」……作品を読みとくキーワードが、いくつか載っています。

●『パシフィック・リム』レビュー
実写映画は、「こんなこと書くな!」「こんな感想を持つな!」などと説教されないから、自由でいいなっと。
公開前に書いたので、作品を見た方からは「何をいまさら?」と言われるかも知れないけどね。


取材の帰り、編集者が『ガッチャマン クラウズ』を見てないというので、「ソーシャル・ネットが発達した世界で、古典的ヒーローたちが行き場を探す話だ」と、力説してしまった。
だけど、違う角度から見れば、ソーシャル・ネットの危うさを描いてもいるし、また別の角度から見れば、ガッチャマンたちは話の遡上にすら、のぼらないだろう。その多面性が、何よりの魅力だ。

第4話では、ようやく変身した丈とベルク・カッツェの、短い戦闘シーンが好きだ。
Photo4_1丈のようなニヒルな二枚目の変身後の姿が、全身から排煙し、頭に煌々と炎を灯したスチーム・パンク調の戦闘スーツ! このセンス、たまらんね。
武器は両腕に取り付けられたマシンガンだし、羽を広げたと思ったら、なんと足首からのジェット噴射で飛ぶ。この骨董品じみた無骨さが、丈のクールさとミスマッチしている。

カッツェがガッチャマン同様に変身することは、取材で聞いて知ってはいたのだが、宮野真守の声で「バババババ、バード・ゴー!」 この胸がムカムカするようなカッコよさ。ヒーローとライバルが対峙したときの高揚と悦楽を、宮野の怪演が際だたせている。

そして、カッツェの正体も知らされぬまま、彼を「敵」と決めつける丈の短絡と勘違いも、噛めば噛むほど、舌の奥でジワリと効いてくる。
ソーシャル・ネットにお株を奪われた丈は、酔いにほてった頬を自分で打って「正義の味方なら、ここにいるぜ。ガッチャマン、なめんなよ」。
カッツェとの対決を決意した丈。その目指すベクトルは、あくまでもサブ・プロットに見える。丈には、カッツェを倒すほどの力はないはず。では、丈から発したベクトルは、一体どこへ伸びるのか?

美は乱調にあり。より混沌たれ、『ガッチャマン クラウズ』!


いま、ファンド(石粉粘土)で、2体目のフィギュアを作っている。
一体目は、10月の旅行の前に完成させたい。でも、電車に乗っている時でさえ、「今夜は耳を形にして、明日の朝は指にヤスリをかけよう」と工程を考えているぐらいだから、きっと間に合う。
仕事がなかったら、寝ないで作っていたいぐらいだよ。「ひとりで酒飲むぐらいなら、フィギュア作ろう」とまで思うもん。

フィギュアのいいところは、ガンプラの改造と違って、人に「変態」と呼ばれかねないところ。
今風のキャラを、今風の作り方でやっても、必ず若者に負ける。だから、「勝てる場所」を自分で確保しなきゃならないのが、オッサンのフィギュア作りの醍醐味であり、陥穽であり、業でもある。
何度も何度もバージョン・アップされる初代ガンダムを、ありがたそうに作ってれば、平穏で退屈な人生を送れるんじゃない?

「この歳で、恥はかきたくねーな」と思った瞬間から、人生は縮退していく。俺は、死ぬまで踊っていたい。 

(C)タツノコプロ/ガッチャマンクラウズ製作委員会

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2013年8月13日 (火)

■0813■

10月の旅行で、ロシアのシェレメチェボ空港で、一泊しなきゃならない。
空港から2キロほど離れたホテル(一泊8,000円)を予約したので、トランジットビザが必要。ところかが、ロシア大使館(領事館)の窓口では、旅行業者優先で、3時間待っても順番が来なかった。

お盆休みを待って、今朝は早くから出かけ、再びロシア大使館前に並ぶ。
ところが、窓口で「この申請用紙は、今はもう使えません」と、つっ返される。では、なぜダウンロードできるようになっている? まぎらわしい。

ばかばかしいので、ホテルもキャンセルして、空港に泊まろうと決めた。ところが、「もしホテルをキャンセルしても、返金はしません」と言われる。……こりゃ、「ロシアは観光客に来て欲しくないのか!」と、旅行者が憤るわけだよ。
もしビザを取得できても、ロシアルーブルしか使えないとか、いろいろ不都合はありそう。8,000円ドブに捨てて、悪名高いシェレメチェボ空港に泊まるしかないのか……。

ただ通過するためだけに一泊するのに、どうして、こんなに苦労しないといけない?


もうひとつ、「もうロシア大使館に来るのはイヤだ」と思わせる理由があります。
国内の旅行業者たちが、個人の申請者には分からないようなローカル・ルールを、勝手につくっているからです。例えば、個人で初めて来た人は、なんとなく領事館の入り口付近に立っています。業者たちは、自分のカバンを壁際に並べて、「こっちが正規の列!」みたいな顔をしている。

僕より早く、最初に入り口に到着していた女性が、「あそこにカバンを置かないと、ダメなんでしょうか?」と聞く。業者の人は、「カバンを置いておけば、申請の順番でモメずにすむからね」と答えていた。だけど、知らない人からすれば、「自分が間違ってるんじゃないか?」と不安になるよ。
20代の頃、土木作業のようなアルバイトもしたんだけど、あの雰囲気に近い。基本、「誰かがズルをしないように」「勝手に横入りしないように」って程度の、たったそれだけのルールなんです。
そういうルールを課せられたときって、人間の「昆虫性」みたいなものに気がついてしまうよね。バスの番号札をとるときの屈辱感、とかさ。基本的に「他人を信用しないルール」だから。


僕が覚えている、美しいルール。
手塚治虫の『漫画の描き方』で、女性を描くときに気をつけること。「直線を使わない。」「小指を離すと、女っぽい。」


サンリオの人形アニメ『くるみ割り人形』を、ひさびさに見た。
1077878_org_01「ゆりかごに 花いっぱい…」で始まる、あの魅力的な主題歌は、寺山修司の作詞だったのか。寺山は、前衛的な作品だけでなく、こうしてポピュラリティのある「仕事」をこなしているのが、すごいと思う。
主演声優は、杉田かおる。『金八先生』に出演する前です。

1979年といえば、『ガンダム』が放映された年だけど、80年代はアニメの思春期だったんだと思う。だから、あの頃にうまくいったことは、今でも生かすし、失敗したことは二度とやらない。
80年代のものを見て、簡単に「懐かしい」と口にしてしまう人は、あの頃にトライアルされたあれこれが、今でも重層的に流れていることに気がついてない。ピンポイントだけしか見てないんだと思う。

(C)1979 SANRIO CO,LTD.

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2013年8月10日 (土)

■0810■

「人前で戦わない」「既存の組織と協力しあわない」古典的ヒーローを、かなり意識的に「役に立たない」存在として描いてきた『ガッチャマン クラウズ』が、面白くなってきた。
Photo5_1この世界で「人前で」「協力して」事件を解決するのは、選ばれたヒーローではなく、ソーシャルメディア「GALAX」で繋がった一般人たちだ。GALAXを運営している天才少年、累のセリフがふるっている。

「私はヒーローにもリーダーにも、興味がありません。そんなものがもてはやされる社会は、まだ未熟です。ヒーローでもリーダーでもない、ひとりひとりの人間が意識を変えて立ち上がらなければ、世界は永遠にアップデートできない。」

リーダーの立場を否定するがゆえに孤立を深めていく累を見ていると、「悪意は伝播するが、正義は受け継がれない」という、神山健治監督の言葉を思い出さずにいられない。

「金や名誉、地位や報酬など、外発的なもののためではなく、同じ志をもつ誰かとつながり、困った人に手を差しのべ、その手を取りあい、ともに間違ったことを正していく。本来人間が持つ内発的な喜び。その輪が広がって、やがて誰もが無償で助け合う世界になる。そこには、ヒーローもリーダーも存在しない。みんな並列に、平等に、自らの行為を誇ることなく、ゆるやかに世界を変えていく――それが、GALAXの目指す革命です。」

このあたり、累役の村瀬歩のしぼりだすような哀切な演技とあいまって、胸に迫るものがある。
ことあるたびに例に出しているが、ニコニコ動画で曲を発表する人たちは、過去のアーティストのようにCDを何万枚も売って儲けようなどとは、最初から考えていない。ただ、見知らぬ人たちによって勝手に再生され、勝手に広まり、勝手に評価されることを許している。金銭はもちろん、ひょっとしたら名誉すらも期待していない――このような価値観は、僕の若い頃には、ほとんど見当たらなかった。
名乗らず、誇らず、ただ曲を発表するだけのアーティストたちに「本来人間が持つ内発的な喜び」を、僕は勝手に見い出していた。

なぜなら、僕の若い頃に「アーティストになる」「曲を発表する」といえば、とにかく有名になってテレビに顔を出し、プロになってバリバリかせぐことを意味していたからだ。本人が稼ぎたくなくても、業界がほうっておかない。
つまり、旧来的な、古典的なヒーローのように「選ばれた存在」になることが、唯一の成功と見なされていた。
だから、「選ばれず」「ヒーローにもリーダーにもならず」、みんなで協力して世界を変えていきたい累の思想を、とても今日的に感じる。ところが、累の理想は、GALAXユーザーたちの名誉欲によって、早くも蔭りが見えはじめている――。


「誰もが無償で助け合う世界」は、「ボランティアは迷惑だ」「あいつら、役立たずだ」とささやき合う、ネットの無責任な悪意と表裏一体だ。
『ガッチャマン クラウズ』の世界は、大震災を経ている。累の理想も、それに向けられた悪意や憎悪も、すべては大震災時・大震災後のネットの状況から、取材されたものであろう。

そのような切迫感を持った作品が、またしてもテレビアニメから出てきたことを、僕は誇りに思っている。美少女キャラの媚態から実社会に取材したリーダー論まで、清も濁も区別なく吐き出す深夜アニメの存在を、心強く感じる。
ディスクが売れなくて赤字になっても、それでも無くならない深夜アニメの、すがすがしいまでの図太さ。僕らが見ているものは、実はまだまだ、長い歴史の通過点にすぎないのだ。

もし、誰か偉い年寄りが「こんなものは『ガッチャマン』ではありません」と止めたとしたら、その瞬間、アニメの歴史は古びてしまう。玉手箱を開けたければ、年寄り同士でやればいい。
アニメも漫画もゲームも、いつまでも傲慢で、無作法なままでいてほしい。

(C)タツノコプロ/ガッチャマンクラウズ製作委員会

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2013年8月 9日 (金)

■0809■

Febri Vol.18 明日発売
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●渋キャラオヤジ列伝 第十一回
今回は、『惡の華』にスポットを当てて、特に誰かひとりということではなく、「桐生市の大人たち」について書きました。
あくまでアニメ版に話を限ってありますが、原作は、高校編が熱いですね。中学編で起きたすべてが、セリフのひとつひとつ、線の一本一本まで、加速しながら重量を増していくドライブ感。

人の心は、成長はしないんだね。ただ、変化するだけであって。

●クール・ジャパン社会学
これは、レナト・リベラ・ルスカさんの話したことを、私がまとめたコラム記事です。
経産省のクール・ジャパン戦略のダメさ加減が、いい具合にあぶり出されたと思います。

前号から始まった「ガールズ&ワークス」は不定期連載だそうで、今号はお休み。


昨年夏、大飯原発ゲート前で、陣頭指揮に立った米原幹太さんの写真展が、どういう縁か、吉祥寺で開催されている。
Ca3y15c9会場の「A-things」()は、吉祥寺というよりは三鷹駅に近いので、散歩がてら見てきた。
スライドに、祝島、沖縄など、幹太氏の参加した反対行動の軌跡がつぎつぎと映し出される。彼は関東から西日本に避難したけど、東京からは最も遠い、現在進行形の日本の風景という気がする。
すなわち、東京は形骸である。そこかしこに放射性物質が積もり、警察官が道行く人を凝視し、どこもかしこも監視カメラで見張られ、立ち入り禁止にされ、だから誰もが沈黙するこの街には、本当のことなど、一滴も残っていないかに感じる。
ただ、禁忌しか機能していない。ディストピアは、目の前にある。

さて、中学校の裏手を通って帰ろうとしたら、緊急地震警報が鳴った。
公会堂に集まっていた女子中学生の間から、「やだ、怖い!」と声が上がる。前を歩いていた主婦が、あわてて自宅に電話をかける。
僕は、近くの図書館に飛び込んだ。図書館前の公園では、男たちが呑気にタバコを吹かしている。危機を察知しているのは、またしても女性ばかり。ドブゲロの国、日本!

そのときは、「奈良で震度7」という誤報さえ見逃していた。僕は公会堂のガラスが割れたら、すぐそこを歩いている子供たちが危ないぞ……と、焦っていた。
幼い彼らには、警報なんて聞くすべがない。警報を聞いた大人たちが、何とかしなきゃならないのだ。


『希望の国』が、レンタルで出ていたから、借りてみたよ。
……あのさ、もういい加減、原発事故を「平凡な家庭」に照らすことで矮小化し、免罪符みたいにほのぼのとした平和的なタイトルつけて公開するの、やめにしない? 思考停止だし、当事者意識を希薄にするよ。 

映画の後半で、酪農家のおじいさんが、飼育していた牛を撃つシーンがあるけど、どうして猟銃なんて持ってるんだろう? そして、その猟銃で、20頭ぐらいの牛を皆殺しにできるんですか? ライフル銃でも、装弾数は5発以下と定められてるはず。
牛の死骸もでなければ、血も流れない。そういう本当に見たくない、しかし見るべきものを「イメージです」「象徴です」と受け流してきたから、こういう、曖昧な国になったんじゃないの? 原発や放射能を扱っているくせに「泣かせる愛のドラマ」で、うやむやにしてしまう。「己殺して国生かせ」や「食べて応援」と、程度は変わらない。根拠不在の精神論なんだよ。

この映画の解説を読もうと思ったら、「大震災」「地震」だけで、どこの映画サイトにも「原発」「放射能」とは書いてないんだけど……こういうのは「圧力」なんかではなくて、くだらない萎縮・自粛にすぎない。そんな臆病かつ無責任な態度によって、映画サイトの執筆者も、表現の自由にションベンをひっかけている。『希望の国』がどんなにつまらなくても、この作品を見る・語る・伝える自由だけは、死守しないといけない。

宮崎駿なんて、「あの国のあの戦車の砲弾数が……」って、何時間でも議論してるでしょ。そういうリアリストが、愛を語るからこそ、凄みが出るわけ。(逆を言えば、愛すら語れないリアリストほど退屈なものはない。)
みんな、もっと暴れないとダメ。でないと、暴れられて終わるから。

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2013年8月 7日 (水)

■0807■

ムービープラスで、『レイチェルの結婚』。
Rachelgettingmarried_6全編を手持ちカメラで撮影した、ジョン・カサヴェテス『アメリカの影』のスタイル。半年ぐらい前、たまたま途中から見て「これは、好きなタイプの映画だ」と直感した。。
今回、冒頭から見られてラッキーだった。もしも出会うきっかけがあったなら、ちょっとの時間、この映画のために割くだけの価値はある。

レイチェルは、主人公の姉の名前だ。主人公は、キムという。いかにも神経質そうな顔つきの彼女は、麻薬中毒の更生施設を出たばかりだ。
キムは、結婚式の準備の進む実家へ、施設から直行する。ところ構わずタバコは吸うし、態度も粗暴。式の前夜、姉と大喧嘩になってしまう。
そんなキムには、幼い弟を事故死させてしまった、消すことのできない過去がある。

カメラは作為を排したように見えて、実は、そっとキムの背後に寄り添っている。
結婚式の準備の進む、にぎやかな家。台所にも、芝生の広がる庭にも、いつでもどこかに、誰かがいてくれる。誰かが、きっと笑いかけてくれる。甘えさせてくれる。その中には、犬を連れた少年や赤ん坊の声も混じってはいるのだが、不思議と、キムがいちばん幼く見える。
――おそらく、キムは弟を事故死させた罪悪感ゆえに、ぴたりと成長を止めてしまったのだろう。彼女は、こんなことを呟く。私だけは、神様に許されない。私を許してくれるような神様を、私は許さない。

結婚式を終えた姉が新しい家庭の第一日目を歩みだすその朝、グレーの夜明け、キムは友達の車に乗って、まだ喧騒の余熱の残る我が家を後にする。さみしく、温かいラストだ。


『惡の華』の仲村佐和流に言うなら、日本は「ドブゲロの国」。
来月、ふたたび国内の全原発が停止する。この猛暑でも電力が足りてしまっているため、「原発が止まったら、江戸時代に戻る」と言うと、さすがに笑いものになる。
再稼動は電力会社と政府の都合でしかないのだが、「今まで続けてきたことを、自分の代で変えたくない」現状追認・責任回避の空気が、それを後押ししているように思えてならない。つまり、福島の事故を理由に原発をやめてしまっては、「まるで事故が深刻なことのように思える」から、原発をやめたくない。

「あたかも、深刻な事態が発生しているかのような発言をしている者は、さっさと目のつかないところへ追いやってしまいたい」。少なくとも「黙らせたい」。
脱原発デモを「うぜー」と言うのと、山本太郎議員をあの手この手で引きずりおろそうと躍起になっているメディア、根は同根だ。心の底では、原発が動いていようが止まっていようが、放射能が安全だろうが危険だろうが、どうでもいいのだろう。ただ、「自分が生きている間に、大きな選択を迫られるのが、怖い」。
だから、保守的な生活をつづけてきた人間にかぎって、原発や放射能の話題を忌避する。

歳をとると、変化に適応できない人間のオスは、今の生活がすべてになってしまう。
オッサンやジジイが、やみくもに原発維持にこだわるのは、柔軟な選択能力を失った証だ。汚染食材を我が子に食べさせたくないママさんたちの苦労を笑い、叱り、「離婚するぞ」と脅すのは、何よりオッサンたちの思考が硬化し、にっちもさっちもいかなくなったからだ。

自らの老いと焦りを弱者に押しつける「使えない大人」が大手を振っているのだから、この国は「ドブゲロ」というわけだ。


バイト先の飲食店やコンビニで、食材で遊んだり冷蔵庫に入った挙句、その「証拠写真」をネットにアップする若者が、後をたたない。
即座に、勤務先ばかりか実名までがネット上の「有志」たちによって調べ上げられ、バイト先の企業が謝罪するオチ……この流れがパターン化していることに、不気味さをおぼえる。

ネットで騒ぎになりそうな写真を、あえてわざわざアップする。しかも、「冷蔵庫に入る」行為は、明らかに模倣犯だ。その創造性のなさに、慄然とする。「ルールを破っている」爽快感もなければ、無論、メッセージがあるわけでもない。
バイトを解雇されたところで、彼らは経済的に追い込まれない。前科がつくわけでも、将来にキズが残るわけでもない。しかし、ネットの世界で仮想的に追い込まれること、仮想的に抹殺されることを自ら望んでいるかに思える。
ネットを介して、無傷のまま、自滅することができる。その甘っちょろさが、薄気味悪い。

絶望も幻滅もない、とは、すなわち創造性から最も遠い生き方だ。
若ければ、やり直しはできる。だが、やり直すためには、むき出しの痛み、容赦のないマイナスが必要なのだ。怪我をしない生き方、それは畜生以下のニヒリズムだ。

(C)2008 SONY PICTURES ENTERTAINMENT INC. 

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2013年8月 5日 (月)

■0805■

「アニメスタイル004」を、株式会社スタイルからいただいた。
今号で通算10冊目。次号から、さらにリニューアルするというから、もはやライフワークだ。
Caxrbfeu『惡の華』のページも良かったが、『ヤマノススメ』の第5話のレイアウト。僕のいちばん好きなカットが、大きく載っていた。この前後のカットも掲載されていたので、あの「絵」の切れ味を分かる人が他にもいたのか、と嬉しくなる。

実写映画のキモは、「いかに語るか」という描写に尽き、描写の中に風景も俳優の顔も含まれると思うのだが、アニメは、どんなに映画を模そうとも「絵」だ。
「絵」としての切れ味がよければ、好みなど関係ない。ろくに「絵」を見ていない人に限って、好みを口にしたがる。


明治大学の講義、今年は、お断りすることにした。
理由は、いまの19~20歳の大学生に、伝えるべきことがないからだ。それなのに高額のギャラを受けとるのは、後ろめたい。彼らに「君たちは祝福されている」などとウソは言えない。「祝福どころか、呪われた時代に漕ぎ出すのだ」と本音を語ったところで、それはあまりに無責任だ。
僕も役立たずなら、危機感を若さの中に埋没させて楽観・諦観している君たちも、大概だ。ところが、僕のような逃げ腰の大人を殴ってもらったところで、誰のためにもならない。

そんな煮え切らない態度で教壇に立つ理由は、もはや「ギャラをもらえる」ぐらいしか残らなくなる。それだけは、嫌だった。

ごく少数だが、僕と仕事をしたがってくれる若い編集者がいる。彼らとなら、責任感を分けあえる。彼らになら、応える術も、覚悟もある。


大学卒業後、一年間は近所のコンビニとレンタル・ビデオ店までしか、足を伸ばすことが出来なかった。引きこもりに毛の生えたような、陰気な23歳だった。
家で、たいした金額にならない模型づくりのアルバイトを機械的にこなし、一日に2~6本の映画を見て、執拗にメモをとった。メモをとっていたからには、何がしか野心は灯っていたのだろう。
ところが、日々陰鬱で、あの気だるい気分のまま、なぜ一人暮らしの決心がついたのか、自分でも説明がつかない。親に養われているのが、情けなく感じられたからだろうか。家賃7万の部屋に引っ越し、それでも開放感にはほど遠く、陰鬱の日々は継続していた。

下北沢の熱帯夜、クーラーのないバーの窓際の席で、友人と酒をあおった。
八王子に転居し、工場のアルバイトを転々とする24歳になると、苛立ちや欲望が、くっきりと輪郭を持ちはじめた。すると、自分から離れていく者、近づいてくる者も歴然と分かれてくる。

僕は、痩せこけた野良犬のような若者だった。いつでも腹が空いていて、からっぽの胃が、僕の人生を駆動させていた。
そんな貧しい経験があるので、僕は飢えた若者にしか、話す言葉を持たない。自分の無力さに歯ぎしりしているような相手になら、かける言葉も見つかるだろう。

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2013年8月 2日 (金)

■0802■

8月だ。何はともあれ、二ヵ月後には、再びクロアチアの地に立っている。
Cimg0929(←3月の旅行で、最初に立ち寄ったのは、ザグレブの大聖堂だった。途中から路地裏散策のほうが楽しくなってしまい、この手の写真は一枚しか残っていない。)

ロシアのトランジット・ビザは、お盆休み中に申請しに行くつもり。しかし、ロシアのホテルでは、ユーロが使えるのだろうか? ロシア・ルーブルしかダメなのか?

クロアチア国内では、ちゃんと目的地に向けたバスに乗れるのか?
こうして、この国で茫洋と過ごしているだけでは、決して考えないような悩みが、頭をかすめる。


福島第一原発では、「事故以来、最高値」とも言われる、超高濃度の汚染が観測された。
しかも、トリチウムという放射性物質。これが、どれほど厄介な物質かは、ググってみてください。僕はもう「気をつけろ」とは言いません。

そして、東京電力は、不安になるような情報を先のばしにするのはやめたと、事故から二年半もたって、今ごろそんなことを言っている。→
別に、彼らは隠蔽体質とか陰謀組織ではないです。天敵がいないと、こうまでダラシなくなるってだけの話です。
「これを言ったら、自分に悪い印象をもたれるな。だったら、聞かれるまで言わないでおこう」。これって、仕事できないヤツの典型ですよ。どこの職場にも、かならずいる。その「仕事できないヤツ」の王様が、東京電力。

だから、僕は、このまま何年も、何十年も、「これは言うべきか」「いや、言わないでおこう」とモジモジしているだけで、フクイチは改善されないと思っている。廃炉なんて無理でしょ、海に汚染水を流しつづけていたのを、今ごろになって認めているぐらいだから。


気をとり直して、たまたま見つけた直江和由さんのインタビューでも。【直江和由】レゴが築く“ソウゾウ”力 「制約の中の自由」に醍醐味
「何か問題にぶちあたった時、その情報から想像し、工夫することで解決することがあると思うんです。レゴブロックで遊ぶことで、制約の中でも工夫をしたら道が広がることを学んでほしいですね」
2011年5月の記事だから、原発事故から、たいして時間が経っていない。直江さんは、どんな気持ちだっただろう?

直江さんに、オススメのレゴ製品を紹介してもらうコーナーをつくった。
Cak83xyeしかし、レゴ本社は「新製品をプッシュしてもらいたい」と、条件をつけてくる。僕は、飽くまでも、直江さんご自身がオススメする製品だけを掲載したかったのに。
悩んでいると、直江さんは「いいですよ」と、新製品を手にとった。どんな製品にも、優れたところはある。それを、直江さんは、必ず探し当てる。物事のプラス面を見つける天才だった。

他人のあら探しをやめて、いい部分を見つけよう。
人の間違いばかりが目にとまるのは、学校で、他人を蹴落とす教育を受けてきたせいです。
違っていると思ったら、本人に言えばいい。ネットで晒すことは、誰のプラスにもならない。言葉にしよう。肉声にしよう。ケンカになってもいい。

目の前では黙っているくせに、背中から撃つようなマネだけは、してはいけない。


毎晩、寝る前には、『エイリアン』か『エイリアン2』のDVDを見る。
あのシリーズは、眠りにはじまり、眠りに終わる。起きている間は、ずっとエイリアンに追われつづける。
無事にコールド・スリープ装置に入りさえすれば、そのときは、エイリアンを消し去った後なのだ。その単純なプロットを、おとぎ話のように美しく感じる。

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