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2013年8月17日 (土)

■0817■

『ガッチャマン クラウズ』第6話。まったく接点がないかに思えた累とガッチャマンが、ついにPhoto6_3邂逅。第1話時点では、単にとっちらかっているようにしか見えなかった、いくつかのベクトルが、少しずつ一本にまとまろうとする様は、美しい。
累がガッチャマンを「少数精鋭のヒーローなど、より良い世の中には不要」と言い切るのも、清音が「分からなくもないが……」と言いよどんでしまうのも、彼らのこれまでの言動が、カッチリと裏づけている。

何より綺麗なのは、すべてをオープンにしたほうが気持ちいいと考えるはじめ、自らのルールに縛られていくガッチャマン、ネットを過信する反面、世の中の事象に疑いを捨て切れないGALAXユーザーたち、いずれの価値観も相克するだけでなく、「よりよい社会の実現」という一点では、共存可能なところ。
これら、相乗りしながら並存している価値観の分岐点に、累だけが立っている。それは、累だけが上下左右、どちらにも転ぶことが出来るからだ。「汚れる可能性がある」のは、心が綺麗な証拠だから。


『SHORT PEACE』を見てきたので、その感想でも書こうと思ったが……。

松江市教育委員会が、『はだしのゲン』を「閉架」処分にした()。
日本の教育なんて、この程度のものだと思っているから、別に驚きもしない。松江市の子供たちは、教育委員会の方針など無視して、『はだしのゲン』を回し読みすればいい。規制に対する強力な対抗手段は、作品を見つづけることだ。

そもそも、僕が小学生だった70年代から、『はだしのゲン』は隠れて読む漫画だった。「おい、○○の家に『はだしのゲン』全巻あるらしいぜ」と、エロ本のように扱われていた。
あきらかに、僕らは残虐な描写を楽しんでいた。世の中には、救いがたいほど酷い現実がある。小さな動物が、意味もなくなぶり殺しにされるような。子供たちは、虫を殺して楽しむ。その密かな楽しみが、やがては、罪悪感へ成長していく。

教師や教育委員会に、子供たちをコントロールするような力はない。力がないから、決まりをつくるのだ。
世界の凄惨さから目をそむけようとする臆病者は、世界の平和も安寧も、イメージすることが出来ない。


『はだしのゲン』は、内容が「反日的」だとして、市民から撤去をもとめる陳情書が出ていたらしいね。
教育委員会なんかに要望を通してもらって、それが嬉しいという、甘ったれたクソ庶民感覚が、俺には分からない。
俺は、恵まれない作品にスポットを当てたいと思っているけど、「国が保護すべき」「自治体が推薦すべき」なんて、一度も考えなかった。ただ、誰もが自由に見られる状態にしたい。誰も見たくなかったら、やっぱり、作品は埋もれていくだろう。そういう、吹きっさらしの風の中で、作品それ自体の力で、立ちつづけてほしい。それが、俺の愛情だよ。

たとえば、原発事故をテーマにした映画の監督さんが「上映してくれる映画館がない」と、嘆いていた。映画が面白ければ、味方は現れるはずだろ? それを「圧力がかかっている」などと、陰謀論に落とし込むヤツがいる。ぜんぜん、援護になってないよ。

そんな組織や機関の力関係で、作品が立ったり折れたりするものかね? たとえ焼き払われても、「こんな映画があったんだぜ」「こんな漫画、知らないだろ?」と、語りつぐことは出来る。それこそが、ファンのみが持てる力だ。
俺なんかが雑誌に書くより、あなたが熱く作品を語ることが、なにより作品のためになる。「そこまで面白いなら、見てみようか!」と、相手に思わせる。それが、最も気高い戦い方だと、俺は信じる。


追記。『ぼくのエリ 200歳の少女』はPG-12区分で、理由は「肉体損壊等刺激的な暴力描写がみられる」となっている()。
だとするなら、なぜエリの股間の手術痕を、配給会社に消させたのだろうか? このように話をそらす幼稚なズルさ・不誠実さに、僕は腹を立てている。

(C)タツノコプロ/ガッチャマンクラウズ製作委員会

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