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2013年8月10日 (土)

■0810■

「人前で戦わない」「既存の組織と協力しあわない」古典的ヒーローを、かなり意識的に「役に立たない」存在として描いてきた『ガッチャマン クラウズ』が、面白くなってきた。
Photo5_1この世界で「人前で」「協力して」事件を解決するのは、選ばれたヒーローではなく、ソーシャルメディア「GALAX」で繋がった一般人たちだ。GALAXを運営している天才少年、累のセリフがふるっている。

「私はヒーローにもリーダーにも、興味がありません。そんなものがもてはやされる社会は、まだ未熟です。ヒーローでもリーダーでもない、ひとりひとりの人間が意識を変えて立ち上がらなければ、世界は永遠にアップデートできない。」

リーダーの立場を否定するがゆえに孤立を深めていく累を見ていると、「悪意は伝播するが、正義は受け継がれない」という、神山健治監督の言葉を思い出さずにいられない。

「金や名誉、地位や報酬など、外発的なもののためではなく、同じ志をもつ誰かとつながり、困った人に手を差しのべ、その手を取りあい、ともに間違ったことを正していく。本来人間が持つ内発的な喜び。その輪が広がって、やがて誰もが無償で助け合う世界になる。そこには、ヒーローもリーダーも存在しない。みんな並列に、平等に、自らの行為を誇ることなく、ゆるやかに世界を変えていく――それが、GALAXの目指す革命です。」

このあたり、累役の村瀬歩のしぼりだすような哀切な演技とあいまって、胸に迫るものがある。
ことあるたびに例に出しているが、ニコニコ動画で曲を発表する人たちは、過去のアーティストのようにCDを何万枚も売って儲けようなどとは、最初から考えていない。ただ、見知らぬ人たちによって勝手に再生され、勝手に広まり、勝手に評価されることを許している。金銭はもちろん、ひょっとしたら名誉すらも期待していない――このような価値観は、僕の若い頃には、ほとんど見当たらなかった。
名乗らず、誇らず、ただ曲を発表するだけのアーティストたちに「本来人間が持つ内発的な喜び」を、僕は勝手に見い出していた。

なぜなら、僕の若い頃に「アーティストになる」「曲を発表する」といえば、とにかく有名になってテレビに顔を出し、プロになってバリバリかせぐことを意味していたからだ。本人が稼ぎたくなくても、業界がほうっておかない。
つまり、旧来的な、古典的なヒーローのように「選ばれた存在」になることが、唯一の成功と見なされていた。
だから、「選ばれず」「ヒーローにもリーダーにもならず」、みんなで協力して世界を変えていきたい累の思想を、とても今日的に感じる。ところが、累の理想は、GALAXユーザーたちの名誉欲によって、早くも蔭りが見えはじめている――。


「誰もが無償で助け合う世界」は、「ボランティアは迷惑だ」「あいつら、役立たずだ」とささやき合う、ネットの無責任な悪意と表裏一体だ。
『ガッチャマン クラウズ』の世界は、大震災を経ている。累の理想も、それに向けられた悪意や憎悪も、すべては大震災時・大震災後のネットの状況から、取材されたものであろう。

そのような切迫感を持った作品が、またしてもテレビアニメから出てきたことを、僕は誇りに思っている。美少女キャラの媚態から実社会に取材したリーダー論まで、清も濁も区別なく吐き出す深夜アニメの存在を、心強く感じる。
ディスクが売れなくて赤字になっても、それでも無くならない深夜アニメの、すがすがしいまでの図太さ。僕らが見ているものは、実はまだまだ、長い歴史の通過点にすぎないのだ。

もし、誰か偉い年寄りが「こんなものは『ガッチャマン』ではありません」と止めたとしたら、その瞬間、アニメの歴史は古びてしまう。玉手箱を開けたければ、年寄り同士でやればいい。
アニメも漫画もゲームも、いつまでも傲慢で、無作法なままでいてほしい。

(C)タツノコプロ/ガッチャマンクラウズ製作委員会

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