■0809■
Febri Vol.18 明日発売
●渋キャラオヤジ列伝 第十一回
今回は、『惡の華』にスポットを当てて、特に誰かひとりということではなく、「桐生市の大人たち」について書きました。
あくまでアニメ版に話を限ってありますが、原作は、高校編が熱いですね。中学編で起きたすべてが、セリフのひとつひとつ、線の一本一本まで、加速しながら重量を増していくドライブ感。
人の心は、成長はしないんだね。ただ、変化するだけであって。
●クール・ジャパン社会学
これは、レナト・リベラ・ルスカさんの話したことを、私がまとめたコラム記事です。
経産省のクール・ジャパン戦略のダメさ加減が、いい具合にあぶり出されたと思います。
前号から始まった「ガールズ&ワークス」は不定期連載だそうで、今号はお休み。
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昨年夏、大飯原発ゲート前で、陣頭指揮に立った米原幹太さんの写真展が、どういう縁か、吉祥寺で開催されている。会場の「A-things」(■)は、吉祥寺というよりは三鷹駅に近いので、散歩がてら見てきた。
スライドに、祝島、沖縄など、幹太氏の参加した反対行動の軌跡がつぎつぎと映し出される。彼は関東から西日本に避難したけど、東京からは最も遠い、現在進行形の日本の風景という気がする。
すなわち、東京は形骸である。そこかしこに放射性物質が積もり、警察官が道行く人を凝視し、どこもかしこも監視カメラで見張られ、立ち入り禁止にされ、だから誰もが沈黙するこの街には、本当のことなど、一滴も残っていないかに感じる。
ただ、禁忌しか機能していない。ディストピアは、目の前にある。
さて、中学校の裏手を通って帰ろうとしたら、緊急地震警報が鳴った。
公会堂に集まっていた女子中学生の間から、「やだ、怖い!」と声が上がる。前を歩いていた主婦が、あわてて自宅に電話をかける。
僕は、近くの図書館に飛び込んだ。図書館前の公園では、男たちが呑気にタバコを吹かしている。危機を察知しているのは、またしても女性ばかり。ドブゲロの国、日本!
そのときは、「奈良で震度7」という誤報さえ見逃していた。僕は公会堂のガラスが割れたら、すぐそこを歩いている子供たちが危ないぞ……と、焦っていた。
幼い彼らには、警報なんて聞くすべがない。警報を聞いた大人たちが、何とかしなきゃならないのだ。
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『希望の国』が、レンタルで出ていたから、借りてみたよ。
……あのさ、もういい加減、原発事故を「平凡な家庭」に照らすことで矮小化し、免罪符みたいにほのぼのとした平和的なタイトルつけて公開するの、やめにしない? 思考停止だし、当事者意識を希薄にするよ。
映画の後半で、酪農家のおじいさんが、飼育していた牛を撃つシーンがあるけど、どうして猟銃なんて持ってるんだろう? そして、その猟銃で、20頭ぐらいの牛を皆殺しにできるんですか? ライフル銃でも、装弾数は5発以下と定められてるはず。
牛の死骸もでなければ、血も流れない。そういう本当に見たくない、しかし見るべきものを「イメージです」「象徴です」と受け流してきたから、こういう、曖昧な国になったんじゃないの? 原発や放射能を扱っているくせに「泣かせる愛のドラマ」で、うやむやにしてしまう。「己殺して国生かせ」や「食べて応援」と、程度は変わらない。根拠不在の精神論なんだよ。
この映画の解説を読もうと思ったら、「大震災」「地震」だけで、どこの映画サイトにも「原発」「放射能」とは書いてないんだけど……こういうのは「圧力」なんかではなくて、くだらない萎縮・自粛にすぎない。そんな臆病かつ無責任な態度によって、映画サイトの執筆者も、表現の自由にションベンをひっかけている。『希望の国』がどんなにつまらなくても、この作品を見る・語る・伝える自由だけは、死守しないといけない。
宮崎駿なんて、「あの国のあの戦車の砲弾数が……」って、何時間でも議論してるでしょ。そういうリアリストが、愛を語るからこそ、凄みが出るわけ。(逆を言えば、愛すら語れないリアリストほど退屈なものはない。)
みんな、もっと暴れないとダメ。でないと、暴れられて終わるから。
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