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『惡の華』は、絵のことばかり言われるけど、昨夜の第9話は、音声だけ聞いていて涙腺が緩んでしまった。
今までは、伊瀬茉莉也のセリフを何度も聞いて楽しんでいたのだが、日笠陽子もすごい。窓の下から叫ぶシーン、体が震えるほど素敵だった。まず、原作のセリフが中学生らしくて上手いんだろうし、実写段階での演技もいいんだろうけど、プロの声優がフィニッシュすると、こんなにも生々しくなるんだね。
だから、この作品の意地悪なところは、随所で、従来のアニメ番組のフォーマットに準拠しているところだね。もし「萌え声の声優なんか使いません」という頭の悪い強硬姿勢だったら、効果は裏目に出ていただろう。「こんなリアルな絵なのに、こんなキャリアのある声優つかってしまって、ギャップが生じないか?」と誰もが恐れただろうに、シレッとやってのけて、しかも上手い方向へ転んでいるのだから、心憎いとしか言いようがない。
みんな、ロトスコープがどうとか、分かりやすいところ、見えやすいところで欠点を探そうとするけど、探せば探すほど、別の場所で驚かされる。嫌味なぐらい、うまく行っている。
忘れないうちに書いておくと、佐伯さんが叫ぶシーンのラスト、スニーカーを履いた足がアップになるでしょ。あのフォルム、体重が乗っている感じが良く出ていた。カゲなしでも、線と色の面だけで、きっちり量感を出している。そういう絵の上手さが、また心憎い。
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『惡の華』は、表から見ても裏から見ても、アニメ番組でしかない。タネも仕掛けもあるとしたら、それは「アニメ番組でしかない」ことだろう。
ロトスコープを使っているけど、あんな原始的な方法はない(僕もゲーム会社にいた頃、やってみたことがある)。「このアクションには、スタントマンを使っています」程度のことでしかない。つまりは、レギュレーションの範囲内だ。
この番組を「例外」扱いしたい人は、そこでイライラしてしまうのだろうな。
最終的にインタビュー原稿からカットしたのだが、主題歌の間奏部分に本編映像をカットインさせる演出を、長濱博史監督は『レイズナー』と呼んでらして、そのミもフタのなさが、ようは強みなんだろうな。
主題歌も次回予告もあるし、無いのはアイキャッチぐらい。結局、絵やストーリーで勝負している。「試みはいいんだけど、話が面白くない」と思ったら、僕は今ごろ脱落していると思う。
だから、目的地には着いてるんだよね。毎回。目的地に着ければいいのであって、そのためなら、普通に歩いても後ろ向きになって歩いてもいいはずだよね。後ろ向きに歩いている人がいたら、みんな振り返るよね。だけど、誰にでも後ろ向きに歩くことは出来るんだよ。
「あれっ、どうしてみんな後ろ向きに歩かないの? ちゃんと目的地に着けるのに」という、開き直りの勇気をもっていることが、『惡の華』の素晴らしさだ。
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例えば、アニメ映画と実写映画のDVDをレンタルしてきたら、僕は「疲れているから、アニメのほうを先に見よう」と思う。アニメは、情報が整理されているから、見るのが楽なのね。「見ていて疲れない」とか「絵だから分かりやすい」、それは疑いようがないと思うよ。
だから、アニメ好きで現実に適応できてない人って、分かりやすい。その程度のことを、傷みたいに言わないでほしい。アニメだけ見て実写映画を見ないのは、現実が怖いか嫌いって程度の理由でしょ。積極的にアニメを選択したように、虚勢を張らないでほしい。
ことほどさように、アニメは、現実に対する退避所として機能している。その依存の構図に、たまに自己嫌悪になる。ちゃんと現実に対峙して、その上で、息抜き程度にアニメを見るのが理想……なんだけど、なかなか乳離れできない人、俺のほかにもいるんじゃない?
そこで『惡の華』を見ると、ちょっと現実に戻れたように錯覚できるんだよ。だけど、佐伯さんはもちろん、仲村さんも、セル絵、キャラ絵として綺麗にまとまってると思う(この程度で「気持ち悪い」と思ってしまうのは、自分の好きな絵しか見てないせいです)。
そのうえで女性声優の演技、声を聞いていて気持ちいいのだから、やはり依存の構図は断ち切れてない。だから、後ろ向きに歩いているだけで、着地点は変わらないんだろうね。快楽が形成される手続きが違うってだけで、快楽の質そのものは、意外と他のアニメと同じではないか……。
いや、つまんないところに話が行っている。『惡の華』を見ていて、胸を突かれるのは、もっと思いも寄らないことを、気づかないうちにやられているからだろうな。
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