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2013年1月22日 (火)

■0122■

年末放映の『猫物語(黒)』、ようやく見た。
20121207210222057実写だったら、バラバラに撮影した演技を、アクションが重ならないように編集して繋ぐわけです。前カットで手を伸ばしているのに、次のカットで曲げていたりしないよう、フレーム単位でつまんでいく。アニメも同じ。コンテで尺を決めて、アニメーターが演技を描いても、そのままでは絵が繋がらない。だから、何コマか削ったり、逆に、描き足すこともある。
『物語』シリーズは、誰もが苦労してなし得ている「芝居を繋ぐ」ことを、積極的に排除している。絵を繋ぐまい、繋ぐまいとコンテを組み立てている。

そもそも、僕らは映像を通して、何が映って、誰が何をしているかを視認しながら、「ストーリー」や「テーマ」といった文学的概念を頭の中で組み立てていく。
バラバラのカットを頭の中でアッセンブルし、「何が起きたか」を理解する――。幼い頃からテレビを見ている僕らが身につけた習慣を、『物語』シリーズはキャンセルしてしまう。
絶対に繋がらない演技が、平然と繋がっている。芝居と芝居の間に、跳躍がある。だのに、セリフ(口パク)だけは継続している。
挙句、感情や芝居をテロップで挿入している。つまりは、「絵で伝える」という原則を壊している。いや、それらのテロップすら読めないような速さで編集しているのだから、もはや「映像を、真面目に見るな!」と言っているのに等しい。

にも関わらず、ワンカットごとの充実感、完成度は素晴らしい。
(写真家のウィリアム・クラインが撮った『ポリー・マグー、お前は誰だ』が、そんな感じの映画だったと記憶する。カットごと、ひとつひとつデザインされているというか。)


では、なぜ『猫物語(黒)』はこんな話でしたよ、と他人に説明できるかというと、原作の言語力をバックボーンにしたセリフのお陰なんだろうな。
シナリオの教科書には、「モノローグの多い脚本は、要注意」とか書いてあるけど、『物語』シリーズは逆をやっている。セリフの掛け合いとモノローグで、最初から最後まで「何が解決すべき主題か」「いかにして解決されたか」、論理的に言い切っている。言語的には、気味が悪いほどに破綻がない。

だから多分、『物語』シリーズは、「見ている」と錯覚しながら「聞かされている」のよ。セリフを。そのねじれた構造に気づかず、映像の意味・整合性のみを追っていると、猛烈なストレスになる。「絵の連続を解読する脳」を起動させられたのに、「耳に入る言葉で説得させられる」のだから。
だが、そうした二重構造こそが『物語』シリーズを、一粒で二度おいしい、過剰で贅沢な表現へ高めているのだろう。


ラッパーのエミネムが、自らを演じた『8 Mile』。
自動車工場で働きながら、デビューを切望するエミネム。デトロイトの荒涼とした風景に、ブリタニー・マーフィーのケバいメイクが、切ないほどに似合う。

そのブリタニー・マーフィーが、若くして病死したと知った。


俺の艦長()は、amazonよりも近所の書店に注文した方がいいかも。刷り部数は、決して多くないし。
Fこの本は、当然のごとく沖田十三から語りはじめているのだが、石黒昇監督が生きてらっしゃる間に書き終えて、よかった。監督が亡くなってからでは、とても沖田のことは書けなかっただろう。

14万8千光年の旅に臨んだ沖田は、誰も挑んだことのない表現にチャレンジし、やがて若者にバトンを渡しおえた石黒監督そのものだったと思う。

(C)西尾維新/講談社・アニプレックス・シャフト

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