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『K』第5話、スケボーvs剣のアクション・シーンが素晴らしい。
カメラは基本的にスケボーを追い、静止していた背景が、スピードを増すとともに流背になったりする(撮影で置き換えているのだろう)。「建物の陰でスケボーに着地→その衝撃でスケボーが後ろに下がり→キャラに光が当たる」なんていう小技もある(これは普通にカゲを塗り分けている)。
作画は、激しく動き回るスケボー側に重みを持たせ、あまり動かない剣を持ったキャラ側には軽やかさを与えて、対比させている。剣は右手で構えているので、左手を揺らして、繊細さを出している。左手は、落としたメガネをひろう芝居にも使われる。
……で、スケボー少年とメガネ剣とが戦う理由が、“文学的には”必然性ないのがカッコいい。それが映像の文法だと思う。映像の本質は、被写体の動きとカメラワーク。そして、アニメーションは被写体を描くことによって、(存在しないはずの)カメラワークを生じさせる。
つまりは、アクションを成立させるためのシチュエーション、キャラの対立関係に説得力を持たせるための設定が用意されていれば、“文学的に”ストーリーが静止しようと、たいした問題ではない。
むしろ、ワンカットの内部、カットとカットの間に生じるドラマをこそ、見落としてはいけないのだ。
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ていうか、前述のアクション・シーンも入った『K』のプロモ映像を見てほしい。→■
「映像はすごいけど、話がイマイチ」という人は、映像作品に対して思い違いをしている。阪本順治の『王手』という将棋映画は、シナリオどおりに撮影しておきながら、編集段階ではシーンの前後を入れ替えて、何がなんだか分からない“物語”にしている。それは、シナリオという“文学”に対する、映像によるアンサーなのだと思う。
起承転結が破壊されることにより、役者の魅力はいっそう引き立ち、撮影の、シーンの美しさも際立つ。
人生を「線」と考えるか、「点」ととらえるか? 線、一本のラインと考えると、僕らの人生は、たちまち過去に緊縛されてしまう。夕陽の美しさは、人生を点、ポイントとして考えるからこそ味わえる。
……シナリオをがっちり組み上げることは、一手段である。映像の連なりによって、観念的なドラマが、頭の中で像を結ぶこともある。しかし、いかなるドラマであれ、映像の「印象」によってしか伝えられないことに、もっとよく注意したほうがいい。
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大きな仕事を依頼されたとき、「一年後、もっと力をつけてから」などと躊躇する人は、その一年後に大きな仕事が来ても、やはり「もっと力をつけてから」と断るのだろう。
いま頑張ってくれない人が、「次にがんばる」と言ったとしても、僕は信用しない。だから、いま来た仕事は、いま頑張ってやるしかない。それ以外に、信用を獲得する方法を、僕は知らない。
逆をいうと、「いま頑張れない仕事」ならば、断ったほうがいい。自分も苦しんで、相手にも迷惑をかけるぐらいなら、その仕事を請ける理由はない。断るのも、誠意のひとつ。
(C)GoRA・GoHands/k-project
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