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2012年10月31日 (水)

■1031■

『伏 鉄砲娘の捕物帳』を見てきた。パンフとシールを買ってしまった。ムックが出そうもないなら、買うしかないでしょう(シールは、色指定を流用したものらしい)。
最初の10分ほどは、「えーっ、この絵を2時間も見るの?」という気分。フォルムはぐにゃぐにゃしているし、カゲはついてない。枚数がかかっているのかも知れないけど、キャラが良くないとか、最初の10分は、もう不満しかなかった。
モブキャラを、あえてグロテスクに描いてるのも、「流行には迎合しない」姿勢が露骨すぎるんではないか……などなど。

僕が思っていたのは、「せめてヒロインは可愛く!」 だって、『チキチキマシン猛レース』だって、ミルクちゃんが出ていたから、欠かさず見ていたのであって、最後にアニメを救うのは、ヒロインだと思う。
Main_large『伏』のヒロインは、浜路というんだけど、最初はポニーテールで短パンみたいなものを履いている。色気がない。「ちょっと、足がぶっといんじゃないの?」と思っていたんだけど、ふと、「こういう、ぶっとい足が好みの男子もいるかもな……」と想像したあたりから、脳内補正がかかっていった。
浜路は、男装させられたり、かと思うと、桜色のきれいな着物をプレゼントされたり、最後には、その着物姿で、ぶっとい足を丸出しにして走るからね。女っぽい着物から、たくましいフトモモを出して走る姿は、そりゃあ可愛い、カッコいいです。
その頃には、もう「この絵がいいんだよ」「この絵じゃなきゃイヤなんだ」「もっと見ていたい!」とノリノリになっていたんだから、人間、わからないものだよね。

クライマックスでは、浜路が素足(つま先)でふんばるところが、素晴らしい。作画もグーだった。
あと、(あまり書きたくないんだけど)ずっと束ねていた髪がほどけて、爆風でパッと広がるところ。そのカットは、男装までさせられた浜路が、乙女になる瞬間だからね。絵がドラマを語っている。
何より、色っぽいカットだった。


もうひとりのヒロインとしては、下ぶくれの眼鏡っ子、冥土ちゃんも良かった。総じて、女性Meido_largeキャラが肉感的。坂本真綾さんが声をアテているメシづくりの上手いお姉ちゃんも、ムチムチしていたし……ただ、いずれも様式化された「可愛さ」からは逸脱しているので、脳内補正をかけているうちに、「いや最高だな!」と、こちらが洗脳されていく感じ。
映画を見ているうちに、新しいレセプターが出来ていくというか。

でも、クライマックスのバトルにかけて、映像がパワーアップしていったのは確かだと思う。3DCGのエフェクトも効果を上げていたし、カットも「これ以外の絵は入らない」というぐらい、カッチリと決まっていく。
「あ、セリフが粋なんだな」と気がついたり、絵に慣れようとすればするほど、いい点が見えてくる。「俺は、これは好きじゃないな」と、早々と結論を出さないことだね。


いま、シネコン中心に『009 RE:CYBORG』がヒットしているけど、同時期にテアトル新宿で『伏』をやっているのは、ちょっと象徴的な気がする。手描きメインのアニメ映画は、こうやって、マイナー化していくのかも知れない。
『おおかみこどもの雨と雪』も、デジタルで仕上げたことが決め手だったし、特に手描きであることにこだわっていたわけではない――いや、それこそ、結論を急ぎすぎないほうがいいか。

ともかく、小奇麗な深夜アニメには飽きたという人、もっと個性的な商業アニメを見たいという人は、映画館で浜路のフトモモに、大興奮してきてほしい。
見た後に、不思議な開放感が広がるよ。

(C)桜庭一樹・文藝春秋/2012映画「伏」製作委員会

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2012年10月30日 (火)

■1030■

コトブキヤの1/35 ガンヘッドのT2試作を、素組みしてます(説明書はなく、パーツ展開図に手書きの番号と矢印がついたものを頼りにして、組んでます)。
やばいですね、このキットは。あまりの楽しさに、時間を忘れます。「今日は、ここまでにしとこう」とブレーキを踏めない。マジで、仕事にさしつかえる。
Cab97xlkとりあえず、ボディから組んで、背部ウェポンラック、我慢できずに頭部まで組みました。ここまで、3時間ぐらい。
そのうち一時間は、頭部バルカン砲の組み立て。3本の銃身を組むのに、けっこう手間どりました。ダボを切りとばして接着してしまおうと思ったけど、なるべく「素組み」に徹したかったので、指示どおりに悪戦苦闘して、カッチリと組みあげました。
接着剤を使ったのは、銃身と平行しているリード線。ここは本体の受け側の穴をピンバイスで深くして、瞬着で接着。うまく開口すれば、差し込むだけで固定できそう。

あとはとにかく、「ガチッ」って感じに気持ちよく、力強くパーツを組めます。
ブロックみたいな構造で、前後にAとBのパーツが付くとしたら、上からCで押さえる!みたいな感じで、ポロリと落ちることもないし、向きを間違えることもない。すぐ形が見える(どこのパーツを組んでいるか、おのずと分かる)ところもいいです。
脳内の「こういう形になるはず」という予測に、指が追いついてくる快感。「あ、こういう変型機構だったの?」と、組み上げてから気づくのも、プラモデルならでは。

……と、ここまで書いたら、「そういう話こそ、記事にしてほしい」というオーダーが来た。


『さくら荘のペットな彼女』、第4話。
4_thなんだろう、ちょっと生真面目すぎるのかな……。あるアニメ監督の言葉だけど、「パンツを見せてお客さんが喜ぶなら、パンツを出す」ぐらいの不埒さがあった方が、いっそ健全である気がする。『ペットな彼女』には、確かにハダカもパンツも出てきたんだけど、「それはそれ」と、きっちり切り分けられている。
つまり、「パンツは表層にすぎなくて、本質は成長ドラマです」と言われている感じ。だけど、『化物語』第1話冒頭では、パンチラが表現のすべてに置き換わっていた。常に、その瞬間に描画されているモチーフこそが、アニメーションの「本質」「中身」なのだと思う。「絵である」とは、そういうことではないのか……。

だから、「たまたま、絵を使って表現しているにすぎない」という態度のアニメは、たいてい退屈に感じる。「絵を使ってはいるけど、本質は別のところにあります」という意図で描かれた絵があったら、そりゃあ白けるよね。
『ペットな彼女』のキャラクター・デザインには、フェティッシュなものを感じるので、退屈ってことはないんだけど。

明日は、『伏 鉄砲娘の捕物帳』を見にいきます。


この歳になると、唯一といっていい仕事上のパートナー、すなわち編集者は、みんな年下である。僕から見ると、彼らは徹夜もするし、体力的に無茶をやっている。だけど、「無理すんな」なんて余計なことは、決して口にしないようにしている。
有能な人間には、やりたいようにやらせた方がいい。無茶をやっても、決してつぶれない若者をこそ、僕は「有能」と呼んでいるわけで。

また、有能な編集者は毎回、必ず違った提案をしてくる。彼らが刺激をくれるから、僕は墜落せずに、まだ飛びつづけていられる。

(C)鴨志田一/アスキー・メディアワークス/さくら荘製作委員会

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2012年10月28日 (日)

■1028■

発売まで待てず、以前にもらった1/35 ガンヘッドの、T2試作を組むことにした。
Cafh0ef0モデグラ担当編集氏が組んだものを触らせてもらったが、「完成品で出せばいいのに!」というぐらい、変型はカチッと決まるし、無塗装でも重量感がある。
変型遊び用の素組みはT2で行い、製品版が届いたら、そっちは好き勝手に色を塗ることにしよう。


ゲーム会社にいた頃、学校を出たばかりの子がハマって、何度も見に行っていた『ムーラン・ルージュ』を借りてきた。この十年間、ずーっと「彼が、ああまでハマっていたからには、見なくちゃな」と思っていた。
Moulin20rouge20movie……で、果たして身を乗り出すぐらい、面白かったんです。『マクロス ザ・ミュージカルチャー』以来、ミュージカルに飢えていたし、19世紀パリの話なのに、マドンナやビートルズの曲を、流行歌のように歌うセンスが、カッコいい。粋ですね。

豪華な衣装と舞台、あと、CGも使った大仰なカメラ・ワーク。これらがすべて、成金というかキャバクラっぽいというか、決して上品と言えないところがいい。

基本的に、映画にはリアリズムであって欲しいと思う。着替えるのに30秒かかるとしたら、たとえ何カット使うとしても、30秒で収めてほしい。その30秒の中に、何をこめられるか?だと思う。
だけど、この映画はパッと衣装を脱ぐカットがあったら、次のカットでは、もう別の衣装を着ている。理屈なんかけとばして、どう美しく“魅せる”か。それだけを考えている。どう段取りをはぶいて、いかにして様式美におとしこむか?
その発想は、実写映画よりもアニメに通じている。主人公が落ち込んでいるときは、ザーッと画面いっぱいに雨が降っていて、背景はグレーとか。明るい気分のときは、画面がキラキラするとか、表現主義だよね。

『ムーラン・ルージュ』にハマっていたゲーム会社の彼は、宮崎アニメは熱心に見ていたけど、よく舞台に行っていたな。
野次馬根性でも、他人のハマっていたものを「どれどれ」と見てみるのは、意外に楽しい。自分の嗜好なんて、しょせんは他人の影響によって決まっていくものだしね。


石原慎太郎80歳が、都知事をやめてくれた。
これで、あの爺さんが暴言を発するたび、都庁に「あの意見は、東京都の総意なのですか?」と電話することもなくなるだろう。気持ちよく、都民税も支払えるだろう。
ほったらかしにされた問題は多いけど、とにかく80歳の死にぞこないが、子どもたちに原発や徴兵制を押しつける姿は、醜悪としかいいようがない……。

人間のオスは、歳をとると、ロクなことをしない。私の母を殺した犯人も、後期高齢者だ。

……ってなことを書くと、よく石黒昇監督から「老害にならないよう、気をつけます」というお茶目なメールが、来たものだった。
『アイアン・スカイ』の特番後、別件で、富野由悠季監督にインタビューする機会があった。監督は、あいかわらず勉強していたし、何よりも向上心がある。
「作家だから、当たり前」じゃなくて、歳をとっても現役でいたかったら、現役でいるための努力を怠ってはいけないということ。

(C)2001 TWENTIETH CENTURY FOX

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2012年10月25日 (木)

■1025■

『輪廻のラグランジェ』 SEASON 2 第2巻 26日発売
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●ブックレット構成
この巻から、原画を載せるようにしました。原画は普通、スキャンされないので、スタジオの手間を減らすためにも、まったく動きのない一枚絵を選びました。
アニメ誌の編集者とも話したのですが、最近は、原画マンの名前を掲載しづらいというか、掲載しても無意味に感じることがあります。というのは、ラフにレイアウトを描いた段階で作監修正が大きく入り、それに基づいて原画を描く、もっと言うならレイアウト段階でタイムシートも書いてしまい、原画そのものはラフにしか描かない場合が増えている。

だから、昔のように「原画マンの個性」などと言うよりは、作監とのチームプレイの妙味を前面に出した方が正解という気がします。


『さくら荘のペットな彼女』、第3話をもう一度、見てみた。
プロットは単純で、ヒロインがイケメンを伴って、ラブホテルの取材に行く。そのイケメンに片思いしている先輩が、主人公を連れて2人を尾行する。
ラブホテルに入る2人を見下ろす歩道橋の上、元気だった先輩は、とうとう弱音を吐く。主人公が振り向くと(ここでPAN-DOWNするのがいい)、歩道橋の手すりにもたれて、先輩は泣いている。「私、帰る」と立ち上がった先輩。歩き出してからも、「帰る」と繰り返すところがいい。情緒が出ている。
ひとり残された主人公が、ふたたびラブホの前の2人を見ると、歩道橋の手すりに先輩の涙が落ちているのが、チラリと映る――ということは、帰ってしまった先輩の感情も汲みとって、主人公は行動するわけだよね。ということを、手すりに残った涙で語っている。

ただ、僕の見方は、20代のころにATGの映画を「いい」と思って見ていたのと、そう変わらないような気がする。ようするに、見方が古いのだ。
アニメーションのカメラワーク、構図には、本当に独特の楽しみ方がある。それは秘密でもなんでもなくて、誰にでも発見できるはず。自分の目を、信じてさえいれば。


311前に、日本人が食べていたお米の中の放射性物質は、0.02ベクレルと言われる。
今は、100ベクレルをオーバーしたものさえ、流通している(自治体の測定が、いかにいい加減かは、彼らとメールをやりとりしていれば分かる)。
土壌の放射能汚染は、311前は30ベクレル程度だったが、いまは都内でも3万5千ベクレルなんていう場所がある。
先日、「放射能汚染とか、どこのSFだよ」と笑っている人がいて、ちょっと可哀相になった。そこまで割りきった人にまで「現実を見ろ」とは、僕には言えない。

東京大学のアイソトープ総合センターが、今年の春、東京と福島でマスクを使った実験を実施。→
東京都で最大、0.60ベクレルのセシウムが、マスクに付着していた。……という事実を受けとめた上で、気にしないなら気にしない。マスクしたい人は、する。他人の判断に、文句は言わないこと。

僕は、「東京は汚染されている」程度の認識はあるけど、「もう東日本には住めない」「子供がいっぱい死ぬ」という言い方は、下賤だと思う。よく調べて、よく注意して生きている人も、いっぱいいるのに。


前回の仕事が終わってから、一日に1~2本は、外国映画を見るようにしている。『ブギーナイツ』、『ジョニーは戦場に行った』、『ベンジャミン・バトン 数奇な運命』など。
ロシアのユダヤ人楽団が、フランスへ公演に行く『オーケストラ!』が、面白かった。旧ソ連でのユダヤ人排斥政策が、映画のバックボーンになっている。そういう映画は、やはり原語で鑑賞するのが礼儀という気がする(ロシア語もフランス語も、区別つかなかったけど……)。

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2012年10月23日 (火)

■1023■

モデルグラフィックス 12月号 25日発売予定
Mg
●月刊8JO
今月も『ガンヘッド』ページに執筆させてもらいました!
ひとつめは、ブルックリン役・高嶋政宏さんインタビュー。高嶋さんは、とってもフランクな方で、撮影~公開当時のトホホな状況を、ユーモアを交えて語ってくださいました。(未掲載です、すみません。)
もうひとつは、「ガンヘッド・ストーリー捕捉辞典」。あの説明不足な映画の裏側で、どれほど膨大な設定が動いていたのか、当時のムック本からデータを吸い上げ、ぎっしり書き込んでみました。

イベント上映会が行われるそうですが、僕のスタンスはやはり、「今ごろになって名作あつかいすんな!」です(笑)。


月曜・火曜とつづけて『劇場版 魔法少女まどか☆マギカ』、前・後編を見てきた。
Madokamagicaテレビ・シリーズを見て「十分に把握した」という人は、無理して見る必要はない。それほど誠実にまとめられているので、「テレビ12本を見る気力はないけど、とりあえず知っておきたい」という人向け。
もちろん、映画用に背景をガラリと入れ替えたり、エフェクトを加えているのはよく分かったし、ほほの二重線や瞳のランダムなタッチは、大画面に映える。

誰にでも伝わる話ということは、それはつまり、テキストとしての完結性が高いということでもある。このまま、戯曲の台本に使えてしまえそうだよね。
ほかの作品でも、「何よりもホンが大事」という話は、よく聞く。
シナリオって、最もお金のかからない工程だし、逆にシナリオによって全体の予算を想定できる。絵がショボくても、シナリオで救われる場合がある。大事なのは分かる。

でも、コンテを描きながら、その先のストーリーを手探りしていく宮崎駿式の「絵づくり」のほうが、なぜか信頼できる。論理ではなく、絵で説得されたいというか……。
吾妻ひでおは『うつうつひでお日記』で、『千と千尋の神隠し』後半の水上列車のシーンを、こう評している。「宮崎さんの作品には必ずこういう一見ドラマが止まってしまうようなタメのシーンが挿入されていて それが後に感動を誘う」――言われてみれば、そうかも知れない。

『劇場版 まどか☆マギカ』で言えば、さやかと杏子が初めて戦った後、水道管から水が滴る。ああいう“余韻”だけで成立したようなカットが好き。


文学性ということで言うと、『さくら荘のペットな彼女』です。
2_4_2期待どおり、すごく面白かったんです。第3話。ヒロインを天才画家だと知ってしまった主人公の動揺ぶり、周囲への視線の変化、そこから生じる逃避と焦り、すべてが完璧な必然性に支えられている――が、ドラマとして完成されているがゆえに「これでいいのだろうか?」と不安にかられる。
理に落ちすぎていると、結局は「面白くない」ですよ。「理外の理」が欲しいんですよ。

くやしいぐらい脚本はよく出来ている。だけど、りんたろうコンテのEDアニメをカットしてまで、各キャラの寝姿を映したラストが一番よかった。
ヒロインは、うずくまって寝ている主人公に、次々といろいろな色のタオルをかけていく。どんどんアクションの間隔が狭くなり、どんどんリズミカルになっていく。意味はないけど、「ドラマを止める」と美しくなる――それは、間違いない。
(絵を止めるんじゃないよ、ドラマを止めるんだよ。)

EDテーマが終わり、明け方、ラブホテルを出た2人。主人公が声をかけると、ヒロインが振り向く。そこに、まばゆい朝陽が、まだ暗いビル街から差し込む。こういう瞬間を、いつも待っているんだ。
その痛々しいほどの朝陽。それを成立させるために、ドラマが組まれるのだ……とさえ、僕には思える。

(C))Magica Quartet/Aniplex・Madoka Partners・MBS
(C)鴨志田一/アスキー・メディアワークス/さくら荘製作委員会

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2012年10月20日 (土)

■1020■

最初は「柔らか味のある、きれいな画面だねー」「いしづかあつこ監督か、なるほどねー」程度に思って見ていた『さくら荘のペットな彼女』、第2話のラストで引き込まれた。
2_1いや、ヒロインがコンビニでロールケーキを立ち食いするカット、あそこで「おっ」と思った。ロールケーキの外側の「皮」の部分が「びろん」と伸びるんだけど、それは彼女の口が、「皮」の端っこをくわえているからである……食べ物の構造で、エロチックな雰囲気をつくっている。カメラでフォローっぽくPANするところも、気がきいていた。
結局、キャラの行為・容姿は、ただひたすら、作り手の内なる美意識をあらわにしていく。それが「絵」の魅力でもあるし、裏返せば、気持ち悪さにもつながるのだろう。

「介護が必要」というより、ようは、意志の疎通の困難な異性でしょ。天才的な画家なら、なおさら彼女の内面にアクセスすることは困難なわけで、そこがいいんだろうな。
でも、本当は僕みたいなオジサンが面白がっていても意味がなくて、ラノベやアニメはニートだろうが引きこもりだろうが、若者の味方サイドに立って、彼らを赦し、はげますべきものだと思う。
そして、もし作品に救われたと思った人がいたら、オジサンになってからでいいので、少し社会に恩返しして欲しいと思う。


そこまで、アニメに責任を負わせるのか?と聞かれたら、「アニメしか見ない若者」を増やしてしまった以上、責任は生じていると思う。
愛さない、愛されない若者を抱きとめる力が、アニメにはある(つまり、アニメはオジサンを救ってはくれないし、アニメに救われているオジサンがいるとしたら、いったい何が自分に欠けているのか、立ち止まって考えてみる必要がある)。

こうしてアニメについて語れば語るほど、アニメ以外の知識や経験をさらけ出してしまっていると、つくづく感じる。
そう感じたときは、古本屋か洋書店に駆け込んで、自分のよく知らない画集を広げてみたりしたものだが……。


「茨城のコメとJAが公表しない事。」→
JAが、基準値をこえるセシウム米を、不検出の米と混ぜて出荷したとのリーク。JAといっても、地方によって放射能への対応はまちまちなのだが、とにかく関東産のコメは避けたほうがいい。
それは健康被害が出る/出ないの問題ではなく、こういうクソな仕事をしている連中の尻ぬぐいをするつもりは僕にはない、ということ。「どうせ害はないんだから、気にせず食べるよ」という奴隷のごとき態度が、彼らを増長させてきたのだから。
「自分にはどうしようもない」「まあ、仕方がない」は、人生切羽詰ったジジイだけで十分だ。

JA全中は、脱原発を決議したそうだけど、まるで切実さを感じない。
「太陽光発電や水力発電を事業化する」なんて言っている。そうして得られた電力を電力会社に売るわけだから、既存の枠組みの範囲でしか、物事を考えていない。ようするに、「原発のある社会」は存続させるけど、自分たちは再生可能エネルギーで新事業を始めますってだけでしょ。
現状維持のまま「脱原発」なんて、これほど楽で無責任な話はないよ。

JAは、まず放射性物質を含む食材の流通をとめろ。まず第一に、お前たち自身のミスを解決するんだ。でないと、何を言っても説得力がない。

(C)鴨志田一/アスキー・メディアワークス/さくら荘製作委員会

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2012年10月16日 (火)

■1016■

Amazonの『K』のレビュー・ページ、けっこう面白い。→
02まずは、「作画」「映像」だよね。「でもヨーロッパのような雰囲気を感じさせる独特の色彩。画面にかかる青がいわゆる北野ブルーに似てるような気が…。」 この指摘、いいな。見るべきところを、しっかり見ている。

一年前の自分のブログを読んでみたら、「映画もアニメも、映像という点では区別がない」と言っている。今は、アニメが「すべて絵である」ことを、かなり意識して見ている。
実写映画は、すべて自分の身体の「外」でつくられる。いかに人工的なセットで撮影したとしても、それは物理的には「スタジオ」「撮影所」という「外」なわけで。
アニメは、脳と指先でつくられる。つまり、アニメの映像は、ひとつのこらず心象風景である。アニメには「外部」がない。絵である、キャラ絵であることは、それ自体が作り手と受け手の心象、すなわち「内部」を形づくっている。

アニメが「内部」である以上、人はそこに、潔癖と完璧を求める。
映画俳優やタレントが声をアテるという「外部」の進入を嫌がる。実社会での問題、現実を統御しているルールを持ち込まれると、拒絶したくなる。
アニメは、内向的な人が独占可能な、あるいは唯一のメディアなのかも知れない。


GIGAZINEさんで、マチ★アソビのトークショーを記事にしていただきました。
『「フィクションと現実は混ぜなきゃダメ」、フリーライター廣田恵介が「俺の艦長」から「ガンヘッド」まで熱く語る』→
でたらめに話したことを上手く整理し、「自己実現」というテーマを浮かび上がらせていただいて、大変ありがたく思っています。
「仕事がくるように、コントロールしている」というのは本当で、自分のスケジュール管理ができさえすれば、ちゃんと仕事は来るんです。行き当たりばったりに、ずるずる仕事しないように、時間と労働をコントロールしているだけであって。

トークショーで話題にした『ガンヘッド』は、上映イベントやムックへ展開中ですが、これは簡単な話で、コトブキヤのプラモデルの予約数が、かなりの数になっている――ので、本ぐらいは出せる、という話に連鎖したのだろうと思います。
2006年に、やまとから「1/15 完全変形ガーランド」が発売され、予想外に売れ行きがよかったので、「それだけ数が見込めるなら、『メガゾーン23』のムックもつくってしまおう」――となった状況と似ています。ホビー商品が牽引力になる場合が、たまにある。
(でも、こういう「どうして今ごろ?」って時は、必ずいずれかの権利者が経営難だったりするんだよねえ……。)

10年前に、『ガンヘッド』ファンクラブのあったサイト「メガ80's」()を運営していた身として 531 は、なかなか複雑な気分です。
前岡和之さんの制作した、私家版DVDなんてのもあったしね……()。「サントラがオマケに付く」のは、実は前岡さんのアイデアだったのだ。一体どういう過程で、現行商品版が同じ仕様になったのか、僕は聞かせてもらえなかった。
たぶん、あまりいい話ではないからだろうな。

僕らが『ガンヘッド』の啓蒙活動していた5~10年前、いま騒いでいる人たちは何をしてたのよ?という逆恨みに近い感情もあるし……。
僕は、「お金もコネもチャンスもないけど、作品に対する愛情だけは誰にも負けないよ」って状況が好きかな。
だから、『ゼーガペイン』を本放送時から応援していた人たちが、とてもうらやましい。片思いって、あんがい素敵だと思うんだけど。


急ぎの原稿が、一日早くできそうなので、経団連会館前の抗議活動へ。
Ca2gmxpaちゃんと、こういう時間も確保できるように、自分のスケジュールを組むのがベスト。
原発ゼロ政策にイチャモンをつけた経団連会長の米倉へは、ちょっと圧力をかけてやりたかった。75歳の老い先短い老人が、若い人の生き方を決めるなんて、自然の摂理に反するよ。

主催者は「経団連の会長も、私たちといっしょに反原発に加わってくれれば、あなたは最高の経済人となるでしょう」と言っていたけど、ダメ、ぜんぜん違う(笑)。一体、なにを言っている。

ここのところ、北九州市や大阪市の動きを見ていたせいか、ますます東京はとり残れさていると感じる。

(C)GoRA・GoHands/k-project
(C)1989 東宝・サンライズ

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2012年10月14日 (日)

■1014■

何本も深夜アニメを見ていたけど、『K』が圧倒的にカッコいい。
01_2もちろんのこと、絵づくりがいい。コアに脚本があって、脚本こそが背骨で、映像表現は脚本に隷従していて、何とでも取替え可能と思っている人が多いようだが、少なくともアニメでは違う。映像が、アニメのコア。映像とは、作画やカット割だけではなく、編集や音も含めて。もっと言うなら、セリフも「映像」のうち。セリフを文学的にしか解釈できないと、世界を狭くするよ。

映像があって、映像の奥に脚本があって、脚本はテーマを形づくっているはず――その思い込みは、少なくともアニメに於いては、間違っていると思う。「絵」というものを、誤解していると思う。「絵」を、映像を語るとき、僕らは言葉を使わざるを得ないから、どうしても文学“的”な表現になるだけであって、絵や映像は文学ではない。

第1話で、スケボーに乗った少年が街中を走る、3D背動のすごいカットがあったけど、何コマかモノクロになって、次にアンバー一色になる。その瞬間、「ザッ!」と効果音が入る。このカッコよさを語る言葉は、かなり選りすぐらなければならない。
この演出は、撮影の段階で入れたんだろう。仕上がりを見て、音響効果がSEを用意したんだろう。だけど、その演出意図は、監督に聞かないと分からないのか? 言葉にしないとダメ? この世は、言葉に置換できないものだらけだよ?


『K』は、第1話しか見てないんだけど、まずは光の表現がいい。耳飾り、車のフロントガラス、あらゆるものがキラッと光を反射する。いくつもの反射光が、テンポを刻んでいく。
ほとんどのカットに、寒色系のパラフィンが重ねてあって、その色味が作品のトーンになっている。スケボー少年が、ラーメン屋にいるシーンのみ、暖簾の赤色が染みるように印象に残る。暖簾の赤が、店の柱にまで、映りこんでいる。彼の着ているジャケットは赤。つまりは、背景の暖簾の色までもが、彼のキャラクターづくりに貢献している。「絵」って、そういうもんじゃない?
背景とキャラを分けて考えるから、つまらなくなる。

敵の組織が整列し、奥から順に刀を抜いていく――のを、カメラがフォローする。「○○、抜刀!」というセリフを、何人もの声優が繰り返す。このセリフなんて、もう音楽でしょう。カメラワークも作画も含めて、音楽だと思う。
その美しさを、堪能しないと、もったいない。

「いい」と思ったシーン、カットをあげていったキリがないんだけど、お弁当のアップも良かった。テクスチャーとして貼っているんだろうけど、その写実的なタッチが違和感になっていて、シーンに馴染んでいないのが良かった。絵の違和感をも計算して使っているのが、なんとも心憎い。カッコいい。
すべての動き、音が、ひとつのトーンを形づくっていて、美しい。


レギュラー仕事Aに、飛び込みの仕事Bを割り込ませることにした。Aは、分量と時間が分かっているので、一晩で区切りのいいところまで終わらせて、先方に投げておく。「毎月やっている仕事だから」と油断して、先送りにしない。
仕事Bは、映画4本を見て1,000文字ずつ、レビューを書いていく。それプラス、資料を読んで、2,000文字の記事3本を書いてほしいという依頼。映画は、金曜・土曜と2本ずつ見て、レビューが書けたはしから、先方に送っていく。これで、日曜から木曜まで、2,000字記事×3本に集中できる。

さらに、ムック本の仕事が入ってきたが、とりあえず、他のライターに当たってもらうことにした。それでNGなら、また依頼してほしい、と。
相手にも選択肢を残しておかないと、余裕のない、ギスギスした仕事になってしまう。

(C)GoRA・GoHands/k-project

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2012年10月11日 (木)

■1011■

神山健治(文藝別冊) 25日発売
9784309977836
●5万字ロングインタビュー 聞き手・構成
タイトルは「リーダーの資質、ヒーローの条件」としました。
オーソドックスに、前半は少年時代から業界に入るまで、後半は演出家になってから最新作まで、時系列で聞いてみました。しかし、意外にビターというか、ひりひりする感触のインタビューになりました。

●神山作品を解析する5つのキーワード

これは、割と誰でも思いつくであろうキーワード、計5ページです。
ただ、考えすぎると書きづらくなるので、「寝起きの一時間で1テーマを書き上げる」ことに徹しました。
朝は脳がリセットされているので、書き出しもパッと出てきます。

いま、ちょうど印刷している頃だと思うので、見本誌は手元にないですが、対談相手や寄稿陣も豪華です。「アニメの本」ではなく、「作家の本」に徹しているところが、良いですね。


東京に帰ってきた翌日には、レギュラーの仕事と急な依頼とで、来週までがふさがってしまった。女性の編集者は、いつでも元気だ。

僕は、徳島では『マクロス ザ・ミュージカルチャー』のことを語った。
東京に戻ると、『巨神兵 東京に現る』の、あきらめにも似た絶望感にとらわれてしまう。東京は汚れている。徳島にいたときのように、土や水、食べ物に、気楽に接することができない。
(僕は、母に供えた花を、地面に埋めることをやめた。マスクを二重にしても、東京で土を掘り返すのは危険な気がする。単なるセンチメントのために、そこまでやる必要はない。)

福島県と沖縄県で、産地偽装が発覚した。一部は、もう学校給食に使われてしまった。
だけど、僕は刑事告発しようとは思わない。この国には、彼らを裁く意志がない。
「原発ゼロ」の政府方針はブレまくり、老い先短い老人たちが「やはり原発は必要」とわめきたて、反対する市民は、無表情な警官たちに捕らえられる。

(デモや抗議活動は、しょせんは権力者側の都合にしばられているため、最後には逮捕というオチしか、あり得ない。敵のルールに従っている以上、必ず負ける構図になっている。)

原発を全廃しても、放射能を完全除去できても、人の心が代わらないかぎり、この国は30年ともたない。実は、国なんて大事ではない。人と文化しか、僕には大事ではない。
特撮でもアニメでも歌でも、それらは海外でつくられたとしても、日本の独自性は失われないと思う。人間の創造力は、本当に素晴らしい。老人たちには潰せない。


かつて、「MILO!」として公開されていた作品レビュー・サイトが、「見参!」としてリニューアル。→
僕の過去記事『ラストエグザイル -銀翼のファム-』、『境界線上のホライゾン』、『輪るピングドラム』も、読めます。
執筆陣の平均年齢は、かなり高めですが……。

49歳の男性教師が、「ジジイ」と言われて、女子中学生を殴ったそうだけど、49歳はジジイだよ。男というのは、長生きすると、本当にロクなことをしない。
40歳をすぎたら、もはや若者に駆逐される側になったと自覚すべき。だから、ちょっとは人の役に立つことをしないと、オッサンには生きていく価値がない。徳島で語ったとおりですね。

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2012年10月 9日 (火)

■1009■

スズメバチ大量発生のニュースにビビった「マチ★アソビ Vol.9」ですが、眉山山頂でのトークショーは、片足でスズメバチを踏み潰す頼もしいお客さんに恵まれ、何事もなく終了しました。→

僕自身、ほぼ初耳だった単行本『俺の艦長』の情報は……
・発売は11月下旬。今月中は無理だそうです。すみません。
・表紙イラストは、麻宮騎亜さんに決定したようです。

何しろ発売もされていない本をお題にできるはずもなく、『マクロス ザ・ミュージカルチャー』や『ガンヘッド』(のプラモデル)の話なんかも織り交ぜながら、とりとめのないトークになりました。
僕の言動について、極めてきびしい人がステージを見ていて、「良かったよ」と言ってくれた。次回は、もう少し企画内容を考えます。

ともあれ、集まってくれた十数名の皆さん、ありがとうございました。


徳島には、7日夕方に着(マチ★アソビ2日目)。
20時、ほうふ日報の社長になってしまった縄田陽介さんと合流して、駅前の居酒屋をハシゴ。防府での『マイマイ新子と千年の魔法』のその後、映画館の状況などを聞く。

22時ごろ、一迅社の小此木哲郎さんから電話。ufocafeに移動して、打ち上げパーティ。
『マイマイ新子』の、松尾亮一郎プロデューサーと再会。松尾さんとは、最終日に空港でも会い、出発ぎりぎりまで話し相手になっていただいた。
あと、すごく意外な方に「廣田さん、『俺の艦長』が出たら、買いますよ!」と言っていただく。

翌朝、シャトルバスで山頂へ。
山頂トーク終えてから、小此木さん、縄田さんと徳島ラーメンを食べる。ポッポ街、新町ボードウォークと一回りして、解散。
縄田さんは、マチ★アソビ限定グッズを買い込み、それなりに収穫があった模様。

山頂でのコスプレファッションショーを終えた人たちが、新町川の周りで、くつろいでいる。
Ca1q6s4p_3西日に照らされた川沿いは、放課後の雰囲気。おあつらえ向きなことに、対岸には、たこ焼き屋まである。――心地よい倦怠感。

ホテルに戻って横になっていると、ステージからは、最後のイベントの曲が、潮騒のように聞こえている。
やがて、最後の歌声さえ途絶えると、隣室のテレビの音が、もれ聞こえてきた。


夜中近くに起きて、徳島駅とは反対の方角へ、歩き出す。
Ca2e88ru地元の若者たちが、ダンスの練習をしている。キャバクラ街へ迷い込む手前で、朝までやっているラーメン屋に入る。勘定は、きっちり千円だった。
「BAR どんぞこ」、「スナック西海岸」――といった魅惑的な看板をやり過ごして歩く。

男たちがビールのジョッキを傾けるバーの扉は開け放たれていて、椅子と机が外にも並べられている。栗色に髪を染めた女の子が、いちばん外側の席に腰かけていた。
彼女は、前髪を銀のクリップで留め、白い額を右手で支え、左手は卓上に広げられたノートに、文字を走らせている。

ホテルに戻る途中、新町川の水面に手を浸してみた。空には、思ったより多くの星が輝いていた。

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2012年10月 6日 (土)

■1006■

Oreno
いよいよ、10月8日(月)、「マチ★アソビ」にてトークショー開催!
登壇するのは、私のほか、一迅社ポストメディア編集部の小此木哲郎さん。
打ち合わせでは、小此木さんもノッてましたからね。アニメ本出版の裏事情だけでなく、オタクの世代論、時間のゆるすかぎり、何でも語ります。
10月8日(月)、10時30分、眉山山頂パコダ広場にて……たぶん、前回()以上に暴れると思いますが、よろしく!


どこから何を書いたらいいのか、『マクロス ザ・ミュージカルチャー』()、最高。「マチ★アソビ」なかったら、確実にもう一回、行く。どこか地方で興行されたら、新幹線で行く。
Ca6mjol0_2こんな入り口のパネルなんかも、入るときは、誰も写真なんか撮らないでスルーしていたけど、終わったあとは、係のお姉さんが「立ち止まらず、中ほどでお撮りください!」って叫ぶぐらいの盛況。
最初に、マクロスの市長役の人に「皆さん、拍手や手拍子、お願いしますよ」と言われたときは「そんな恥ずかしいマネ、できるか」と思ったけど、ラストではみんな手拍子。拍手喝さい。
主演女優が、舞台袖に消えるとき、「みんな、ありがとう!」と手を振ったけど、終わってしまうのが惜しくて、惜しくて。

基本的に『愛・おぼえていますか』を知っていれば、なんとなく舞台設定は分かると思う。
一応、ゼントラーディ語やマクロス移民船団とは何か、知らない人のためにメモを渡される。「ああ、なるほど」と思う部分もあるんだけど、だんだん『マクロス』だろうが何だろうが、関係なくなっていく疾走感。
最初は強固だった『マクロス』というシェルがはがれ、「ミュージカル」というシェルがはがれ、舞台上の若者たちだけが客席に向けて、声をかぎりに精いっぱい歌っている……その原初的な構図に、胸をつかれる。

誘ってくれた友人に聞くと、ラストの歌は『マクロス』シリーズのものだったらしいけど、もうまったく関係ない。入り口は『マクロス』かも知れないけど、出るときは「歌って素晴らしい!」 それのみ!


途中で休憩が入るんだけど、第一部は舞台づくり。第二部が始まるとき、「え? ……ああ、その手があったか!」となる。
第一部までは、ステージの上だけで物語が進んでいた。第二部からは、すべてリアルタイムで、客席も巻き込んで、物語が進む。

「そんな演出、よくあるじゃん?」と言われそうだけど、よくあるんだよ。ストーリーだって、陳腐なの。セリフだって、凡庸なの。
これをアニメ化したら、見られたものではないだろう。だから、こんなシンプルなことを生身で、熱量をもって伝えられるなんて、スゲエなあ……と、呆然とさせられたし、『マクロス』って、そういう生身っぽい要素が、最初から備わっていたんじゃないの?
河森正治が、「ブロードウェイで本場の舞台を見て号泣した」という話は有名だけど、そこに戻ってこられたというか、実は『マクロス』の続編はアニメではなくて、舞台だったんだよ。

劇団四季と比べたら、演技力も歌唱力も、話にならないよ。
舞台装置だって、人力移動だよ。蜷川幸雄みたいに、舞台に自動車を走らせたりはできないよ? お金はかかっていない。でも、だからこそ歌とダンスなんだよ。『マクロス』を好きで好きで好きでたまらない演出家が、ついうっかりつくってしまった、という感じ。
『マクロス』という庶民的なコンテンツから、コスプレ文化や何かを巻き込んで、こういう表現が出てきたことを、心から喜びたい。
これは、芸能の原点だから。歌えなくなった少女、踊れなくなった少年が、目の前で歌ったり踊ったりしたら、それは半分はお芝居、半分は本物。感動する。

その「半分」がなくて、すべてコントロールしようとする表現は、つまんない。
『マクロス ザ・ミュージカルチャー』は、客席が埋まってないと、物語が完成しない。そういう構造になっている。

シンプルな情熱と真心にあふれている。心の底から、笑顔になれた。


明日7日午後から、徳島入りです。「マチ★アソビ」参加の皆さん、いろいろ話しましょう!

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2012年10月 4日 (木)

■1004■

別冊ザテレビジョン アニメザテレビジョン Vol.1 10月10日発売
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●『魔法少女まどか☆マギカ』作品解説
……と言っても、劇場版の最速レビューとかではありません。作品を知らない人向けの、基礎的な情報です。
ちょっとだけ踏み込んで書いたとすれば、まどかが「変身しない」ことこそが、実は最も効果的な戦いなのだということ。「さっさと変身して成長しなさい」という戦い方は、大人サイドの都合でしかないから。ニートという抵抗をつづける若者に「働きなさい」と説教しても、彼らは違うベクトルを向いているわけだから、まったく無意味。

それを考えると、いつまでも完結しない旧『エヴァ』は、すごく先端を行っていた。未熟な少年が、やがて巨大な敵を倒す――という物語は、95年時点で、すでに訴求力を失っていたと思う。
だから、第19話『男の戦い』で、シンジが自らの意志でエヴァに乗ったときは「昔のロボット物に戻っちゃったな」と、ひどくガッカリしたのを覚えている。あのまま終わらなくて、良かったよ。



庵野秀明さんつながりというわけではないが、明大のレナト氏と、東京都現代美術館「特撮博物館」へ再チャレンジ。
Cakb90kl改めて感じたこと。僕は海外SFXの洗礼は受けたけど、国産特撮は完全に後追いで、自分の養分になっていない。
着ぐるみ怪獣に熱中したのは、高校~大学にかけてまで。変身ヒーローは、昔も今も好きではない。

「懐かしい」という感覚は、僕ぐらいの年齢になったら、そろそろ「恥ずべきもの」と思わなくちゃいけない。自分の若いころには素晴らしい文化があったのに、それを楽しめない今の若い人たちは可哀相……なんて傲慢は、捨てるべきなんだ。

こんなこと言うと怒られるだろうけど、特撮博物館は、巨大な墓標のように感じた。


ただ、『巨神兵 東京に現わる』。これは、震えるほど素晴らしかった。
「ネタ的に、お遊びでつくったんでしょ?」と思っていたから、なおさら驚愕した。ここまでガチな映画作品とは……。

もちろん、神経質なまでにCGを避け、どんな細かな素材も手で生み出していたのは、メイキングを見て、初めて分かった。だから、特撮博物館で「特撮技術の成果物」として上映しないと、意味がないかに思われる。

ところが、「ミニチュアを壊す」という一見して分かるウソが、この作品では切実なまでに必要とされている。それは、他でもない、この東京を舞台にしているからだ。博物館を一歩出たら、そこには、現実の東京が広がっている――それを知っているからこそ、観客は「映像の中で炎の海に包まれている街が、ミニチュアで良かった」と、ホッとできるのだ。
CGで東京を壊したら、それは単なる「破壊のシミュレーション」になってしまう。誰にでも「本物でない」と認識できるからこそ、「もし本物だったら……?」という想像が喚起される。

ドキュメンタリー映像がリアルなのではなく、「これが本物だったら、どうしようか?」と脳内にイメージできる映像こそが、リアルなのだ。
つまり、本物に似せてはあるけど、どうしても感じ方にズレが生じる特撮映像は、読解力がないと受け取ることができない。CGは、読解力のないヤツでも、反射的に「本物だ」と思ってしまう(ハリウッドのCG大作が死ぬほど退屈なのは、読解力を必要としないから)。


それと、こんなにメッセージ性のある映画とも思っていなかった。
林原めぐみさんのモノローグで、避けられない破滅への諦念が、肌にカミソリをすべらせるように切々と伝わってくる。まだ、巨神兵の現われる前の東京で、ビルの間を、かすかに火の粉が舞う。このさり気なさが、怖い。

僕らは、プチ破局を体験したし、いまも破局は進行中だ。その日常と同化した破滅、音さえ立てずに訪れる終末を、まさか、こうして形に出来るとは思ってもみなかった。
園子温が、「もう一度、原発事故の起きた日本」を舞台に映画を撮ったけど、何よりもまずは『巨神兵 東京に現わる』でしょう! 本物の破局が来る前に、東京で見ておかないと。
この映画は、物理現実に顕現した悪夢そのものです。

レナト氏は、「そもそも、『ゴジラ』は原爆投下や水爆実験があったから、つくられた」と指摘した。9.11以降、『クローバーフィールド』がつくられた。
いわば、不条理な歴史へのカウンターとして、不条理な形のまま現われてきた作品。それをつくれるかぎり、人類にはまだ生き残る価値があると、俺は思う。

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2012年10月 2日 (火)

■1002■

日航ジャンボ機事故を題材にした『クライマーズ・ハイ』、邦画も実際の事故をベースに敷くと、日本で撮る意味が増す。
他には、『路上のソリスト』、『アメリカを斬る』などを見ている。

アニメでは『エウレカセブンAO』が、どんどん面白くなっていった。
ラスト2話は、11月に放映と聞く。いまや、「待たされること」自体がイベントである。『魔法少女まどか☆マギカ』は、アクシデント的に放映が伸びたが、それを「待つ」期間はエキサイティングだった。
つまりは、「毎週のテレビ放映」という予定調和を壊したほうが作品にとっても、プラスに働くのではないだろうか? 「日本中どこでも、同時刻に見られる」パブリックさは、もはや優位ではなくなっている。「何年たっても、同じものが見られる」パッケージ(特にテレビアニメ)が売れなくなったのは、「今度、いつどこで見られるのか分からない」「あの日、あの場所でないと見られない」イベント性に、まったくフィットしないからだ。

聖地巡礼も、「お茶の間で、毎週の放映を待ちつづけるだけ」のテレビの都合に合わせられるルーティンから、離脱する楽しみだったはず。(ゆえに、製作サイドがあれこれ用意するものであってはならない)
何でも東京に集まっている必要はないし、中央集権はつまらないと、ファンは気づきはじめている。


『エウレカセブンAO』に話を戻すと、小見川千明の演じるエレナが痛々しくて、良かった。
Episode21image自分を、この世界の人間ではないと信じ、その実存的孤立感から組織を裏切る過程は、とても切実に感じられる。
つまり、彼女は現実感の喪失がこわい。だから、アニメのセリフで自分を守り、アニメ的な行動で、自分をその場につなぎとめようとする。――そんな精神病理を、ピンク髪の「アニメ・キャラ」に演じさせるのは、白々しくもあり、尖ってもいる。

実は、部分部分で、アニメのあり方は先端を行っている。現実から遊離したキャラクターだからこそ、僕らの心に宿る病巣に肉迫できるのだ。


先週は、『俺の艦長』の仕上げに専念しながら、細かい打ち合わせやインタビューが入って、スケジュール調整が大変だった。

ある方の「独占インタビュー」と聞いて出かけていったのに、僕らの後ろで、競合誌が順番待ちをしていた。これでは、独占じゃなくなってしまう。
記事がバッティングしないように調整するのが、版元の役目だろうに、僕らは「たいした記事は書くまい」と、足元を見られたのかも知れない。

だけど、「絶対に負けない」という自信がある。
インタビューする相手が雑談っぽく「○○って映画があったでしょ?」と言ったとき、その映画のタイトルだけを知っているのか、ちゃんと見たことがあるか、何歳のときに見たのか、どんな興味をもって見たのか? 見た後、どんな記憶として残っているのか? その体験と感覚だけは、僕のオリジナルだから、話の返し方も、僕のオリジナルになる。他人と同じルートは、決して通らない。
「お仕事」として、狭い知識に特化してインタビューしている人には、絶対に負けないという自信がある。

――逆を言うと、狭い範囲でのお話に終始したほうが、取材が上手くいく場合がある。「お仕事」に徹さないと、取材相手が戸惑ってしまうことだってある。そういう場合は、やんわりとお断りするようにしている(声優さんのインタビューは、なるべく請けないとか)。


その辺の話は、実はテクニックとして還元可能なのだが、聞いてありがたがる人が少ない。
つまり、プロのライターとして、原稿料だけで食っていこうとする人が少ない。だから、僕のようなピークを過ぎたオッサンに、いまだに仕事が回ってくる。

(C)2012 BONES/Project EUREKA AO・MBS

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