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周囲から「どうして見ないの?」と薦められていた『パッチギ!』井筒和幸は「日本映画をダサくした張本人」と偏見をもっていたけど、見終わってすぐ、もう一度頭から見直すほど、セリフもカッティングも音楽的で、素晴らしかった。
「在日朝鮮人と日本人は共存できるか否か」という、いちばん見てみたいテーマを臆せずに扱っていて、そのミもフタのなさは爽快だった。「このクソ日本人!」「道理でキムチ臭いと思ったわ!」と、怒鳴りあいながらの殴り合いだからね。
「この問題は、微妙だから触れてはならない」とか「映画として採点不可能」とか逃げ回るヤツがいる中で、誇張しようが美化しようが、とにかく映画にしてしまって、公開した側の勝ち。
映画とは関係のない、出演者や監督のスキャンダルをネットに書かねばならないのは、この映画に売られたケンカを、知らずに買ってしまった証拠だと思う。
娯楽映画なのに、民族問題なんて扱っちゃいけないと、みんな思っているわけ。邦画は、もっとバカで社会性がなくて、日本人だけが楽しめる幼稚なもんでいいんだって、みんなでおとしめてきたんだよ。
「映画なんて、テレビの延長でいいじゃん」と、作り手も送り手も線引きしてきた。
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真木よう子、江口のりこも良かったが、冒頭のバスをひっくり返すシーンでは、沢尻エリカの友人役の、ちすんが可愛かった。登場シーンは少ないんだけど、「可愛い子が出てるぞ」という下世話な興味は、映画を見つづけさせる持続力になる。
真木よう子は、ラスト近く、看護婦の姿のまま飛び蹴りして、左手で尻をさすりながら、右手で「生まれたで!」って手招きするところ。その仕草、フォルムが良かった。
駅のホームで松永京子と話すシーンでも、後ろ姿が、独特のフォルムをつくっていて、その人の肉体、生理を感じさせる。映画で女優を見る面白みは、そこに尽きる。
出産が近づくにつれて、どんどん艶っぽくなる松永京子も良い。彼女がレオポン(ヒョウとライオンの雑種)のことを話していたのは、日本人と朝鮮人の混血を生むから。
光石研が、どういうわけかロシア人のストリッパーと付き合っていたのは、「北海道もロシアになっていたかも知れん」という別シーンの会話に、かかってくるわけだ。
『イムジン河』を、京都の川と重ねてみたり、そういう細かいフックが鼻につく人もいるだろうけど、無知な僕には面白く感じた。
のっぺりと日本人だけしか描かない映画は、知らず知らずに白人しか出てこない映画をトレースしてしまっている。ちょっといいアイデアが出ると、簡単にハリウッドに持っていかれてしまう。
単なる「互換性」を、「普遍性」だと信じ込まされてきた。
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確かに、「ちょっと井筒監督の思いが走りすぎでは?」というシーンもあった。そこから先は、自分で調べて、考えればいい。一から百まで、映画に教えてもらおうとするな。
無知な僕は、「クソ日本人!」と殴られたほうが、いっそ気持ちいいけどね。
放射能をバラまいておいて、それを子どもに食わせるような国は、北朝鮮といい勝負だしね。
「いま、ここ」でしか通用しないテーマというのは、常にあるんだよ。それを見つめるか、無視するかだけの差だ。
(C)2004「パッチギ!」製作委員会
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