■0910■
日曜は、地元の祭。駅前にいくと、近くに住む友人の家族と会った。息子さんは、彼そっくりの笑顔だった。今から、子ども神輿を担がせに行くという。
町の空気が違う。このような日には、風のゆらぎひとつさえもが、完璧に思える。
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僕に近づいてくる若い人の動機は、なんとなく、パターンが決まっている。
最も多いのが、「この程度のヤツなら、俺にも倒せそうだ」というもの。彼らは、なるべく低い跳び箱をさがしていて、「こいつなら、楽に跳べそうだ」と値踏みする。
そして、たいていは密かに「廣田さん、僕の勝ちですよ」と勝利宣言して、こっそりと去っていく。勝利宣言の最たるものは「相手にしなくなる」こと。
恋愛でも仕事でも、熱心に追い回していた相手を、ある日、急に「手ばなす」。これで勝利は手にできる。
勝つためには、「相手を見かぎる」のが最も手っとりばやくて楽ちんで、かつ効果のある方法である。
「どうしちゃったんですか?」という言い方も、相手に屈辱感を与えるのにもってこいなので、覚えておくといい――僕自身は、誰にも使ったことはないし、使うつもりもないが。
「どうしちゃったんですか?」は、「私は正常なままだが、あなたは理解不能な領域へ行ってしまいました」と、優劣が逆転したことを相手につきつける。不必要な丁寧語が、気に触るよね。
先日の「石黒昇監督を送る会」の帰り、友人といろいろなことを話しながら帰った。
僕らが、たまに出会う若い人たちとの間には、かなり明確な断絶がある。若い人たちは、あきらめが上手い。
「あきらめまい」とあがくのが、僕の世代からすればカッコいい。だが、この「あきらめまい」は、上の世代から借りてきた価値観に、すぎないような気がする。
僕らと僕らより上の世代には、いわば安全協定みたいなものがあって、その中で綱引きをしているだけではないのか?
ジジイたちは、絶対に自分の生命権が侵されることはないと信じきっているから、僕らが何をわめこうが、まるで脅威に感じない。
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脱原発デモや官公庁への抗議活動に行くと、年上の人が多い。
僕は45歳で、頭もハゲているのに「若い人」と呼ばれてしまう。それが、古い世代のつくったリングの上でしか戦えていないという、何よりの証拠だ。ルールは、とうの昔に出来上がっているのだ。
出来上がったルールだから、警官や機動隊に、あっさりと包囲される。予定調和なのだ。警官たちの挑発のパターンも、逮捕への流れも、60年代のマニュアルどおりだという。
デモで自己主張の仕方を思い出すのはいいことだが、決められたリングの中でしか動けていないことは、よく知っておかねばならない。
リスクをおかすのは構わないが、マニュアルどおりに逮捕されるのなんて、俺はイヤだ。
脱原発デモは、何十年も前につくられたルールを、愚直にトレースしている。座り込みやハンストも、きわめて二次元的な戦い方でしかない。
もっと、思いもよらない角度、次元から攻めなくてはならない。いや、攻めずして相手を倒す、倒さずして滅ぼす方法があるのだろう。それこそ、「相手にしない」ことで、相手は自滅してくれるのかも知れない。
本当の意味で「若い」人たちは、その不可視の方法を、探りあてはじめている。彼らは、デモになんか来ない。選挙にも行かない。老人たちのつくったリングには、彼らは近づこうともしないのだ。選挙制度なんて、老人に最も有利なように、しつらえられているんだから。
僕は、若い人を最前線に立たせることを恥に思い、勝手に責任を感じている。
だが、頭がよく勇気のある若者は、リスクをものともせずに綱渡りをして、ちゃんと帰ってくるのだ。僕の知るかぎり、彼らは「勘がいい」としか、言いようがない。
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何よりも大事なのは、人に認められることだ。
親に愛されなかった者には、得恋が必要だ。恋愛でなくとも、誰かに「お前は、すごい男だ」「俺たちには、お前が必要だ」と認められるだけで、もう世の中を恨む必要はなくなる。
誰からも認めらなかった者は、知識や思考で、優越感を得ようとする。それにすら失敗すると、何はともあれ「自分より格下」の人間たちをプールし、コレクションし、「あいつらよりはマシ」と思うことで、心のバランスを保つしかなくなる。
その過程で、心はどんどん冷えていく。愛され、認められるチャンスは閉ざされていく。
「あなたは、他人にされたくないことを、他人にしてしまっている」。大学時代に、僕をふった女性の言葉だ。そう言ってくれただけでも、彼女には感謝している。
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コメント
お世話になります。
>僕らが、たまに出会う若い人たちとの間には、かなり明確な断絶がある。若い人たちは、あきらめが上
>手い。
あきらめまい、と思えなくなるような前例があるというのも有るからなのかもしれません。学生運動なんかはその最たる例示なのかも。「どうせああなる」みたいな思考はなんにしてもどこかにあると思いますよ。
いまの制度だの何だのは長老の方々(特に団塊の世代)の生きやすい世の中を作るための頭固いルールになりつつあって非常にやりづらいですね。まるでファトワーのような強制力が有る気がします。それらを打開するドラスティックな何かがあってもいい気はしないでもないですが、なかなか・・・。
>勝つためには、「相手を見かぎる」のが最も手っとりばやくて楽ちんで、かつ効果のある方法である。
でもそれやってる人ってホントの意味で「勝利」している人では無いですよね。清々しい勝利ではなく禍根が残るなんとも言えないやり方だと思います。そういうことをやれるような人間は果たして本当に信用できるのか?答えは否だと思います。
投稿: あいすぴっく | 2012年9月10日 (月) 11時31分
■あいすぴっく様
おはようございます。
>「どうせああなる」みたいな思考はなんにしてもどこかにあると思いますよ。
「学生運動の失敗だけは繰り返さないように」と、デモでも抗議活動でも、みんな口々に言っています。
だけど、失敗は避けられても、成功のフォーマットはないわけ。デモや抗議活動には、勝つための道すじが、最初からない。「勝てないフォーマット」だけを継承してして、いまだにそれを使いまわしている。
だから、そういう活動に参加するたび、徒労感はすごいですよ。
>長老の方々(特に団塊の世代)の生きやすい世の中を作るための頭固いルール
彼らのルールは完全にスルーして、別次元から叩こうという若い人たちは、います。
「悪い議員は、次の選挙で落とそう」なんて言っても、ジジイ世代に阻まれるのが恒例なのに、僕ら世代は、いまだ選挙制度にファンタジーをいだいている。
問題も標的も、もはやそんなところにはないんですよ。
>清々しい勝利ではなく禍根が残るなんとも言えないやり方だと思います。
はい。だから、「こんな勝ち方はイヤだな」と、自己嫌悪はしてほしいと思っています。
自己嫌悪があるなら、それは自分を改善する道が、まだ開かれているということです。
もっと高いところを目指すためなら、僕なんか踏み台にしてもらって、まったく構わないんです。
投稿: 廣田恵介 | 2012年9月10日 (月) 12時17分