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「石黒昇監督を送る会」に、出席してきました。
僕を招待してくださったのは、片渕須直監督です。会場の写真を何枚か撮ったのですが、記念冊子の表紙を載せるにとどめます。
手元にある、日経BP社「メガゾーン23 マニューバ・ブック」の発行日は2007年4月9日である。
僕は、この本で初めて、石黒昇監督にインタビューした。ということは、たった、5年間のお付き合いだったわけだ。
「マニューバ・ブック」を出した後、新宿ロフトプラスワンでのトークイベント「メガゾーン23 リバイヴ!」を企画・司会し、石黒監督にも出演していただいた(他の出演者は柿沼秀樹さん、冨永みーなさん、本田保則さん)。
そのイベント以降、「スタジオに、遊びにおいで」と誘っていただくようになる。アートランドまでは歩いて行けるので、僕は「同人誌の取材です」「ファンを紹介します」など、いろいろな理由をつけては、アートランドに通いつづけた。
『マイマイ新子と千年の魔法』の吉祥寺バウスシアターでの上映に、石黒監督が駆けつけてくださったのは、2010年春。
上映後の飲み屋で、片渕監督との「ヤマト対談」が実現した。そのときに生じた両監督の縁が、今回の「送る会」に連鎖したのだから、人と会うこと以上に、「人と人を会わせる」ことも大事なのではないかと、漠然と思う。
果たして、僕が石黒監督に紹介した友人・知人たちは、自由気ままに枝葉をのばし、僕の知らないところで、監督と交友を深めていった。
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「仕事」として、石黒昇監督にお会いしたのは、双葉社「グレートメカニックDX13」の「グレメカ人生波止場 第七回」。2010年6月15日発行。
これが二度目にして、最後のインタビューだった。
この時は、取材に同行したカメラマンが、撮影データを無くしてしまった。だから、カメラマンが、後からひとりで撮影しなおしに行った。編集からは「廣田さんも同行してよ」と頼まれたけど、「カメラマンのミスなのだから、僕は関係ない」と意地を張った。
出来上がってきた監督の写真を見ると、いやな顔ひとつせず、笑顔ばかりだった。
その程度で、怒るような方ではなかったのだ。
僕は、自分の狭量さを恥じ、その次にお会いしたとき、お詫びした。
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いつの頃からだろう、監督からは「家にいるのが気まずくて、スタジオに来てます」「こっちが忙しくなる前に、話しに来ませんか?」と、メールが来るようになった。
何しろ、歩いて行けるほど近いので、よく出かけていった。
僕は40歳をとっくに過ぎていたので、「大きな仕事ができるとしても、あとひとつかふたつでしょう」と言うと、「その歳で何を言うやら……」と笑われたことがあった。
個人誌に書いた小説を、丁寧にほめていただいたことがあった。母が死んだ後、焼肉をおごっていただいたことがあった。
頭をはなれないのは、アートランドから武蔵境駅前へ向かう道、小さな店の櫛比する夕暮れの雑踏。監督は歩く速度をゆるめ、何度か僕のほうを振り返った。
そのように、僕に話しかけようとしては、フッとやめてしまう瞬間が、実は何度かあった。多弁な監督が言葉をつまらせる瞬間、余白のような時間。「あのとき、何を言いたかったのだろう」「どんな気持ちだったのだろう」と想像できるのは、嬉しいことだ。
あるいは、そういう瞬間こそ、僕のほうから話しかける必要があったのかも知れない。
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昨夜の会には、石黒監督の遺作といってもいい『エンジェルスキャンディーズ』(■)の声優さんたちも来ていた。
この作品のことを、監督は「長年やろうとしていことが出来て、とにかく楽しい」とメールに書いてらした。
スピーチの中では、小原乃梨子さんの話してらしたことが、自分の心境に最も近いと感じた。すると、帰りのエレベータの中で、小原さんと2人きりになることができた。
おかげで、素晴らしいスピーチのお礼をいうことができたのだが、このとき、小原さんが、ちょっと不思議なことをおっしゃった。内容は、ここには書かない。
僕は、人の死はおろか、生にすらきちんと対面できていないのではないかと、焦りに似た不安をおぼえた。■
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