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2012年7月30日 (月)

■0730■

昨日のワンダーフェスティバル2012夏、『輪廻のラグランジェ』トークショーにお越しの皆さま、ありがとうございました。
06(そう、お客様には「お疲れさま」ではなく「ありがとうございます」です。)
トークショーの具体的内容は、GIGAZINEさんが記事にしてくれました!→

終盤、あさのまさひこさんが、客席にいたバンダイホビー事業部の狩野義弘さんを登壇させてしまったので、ゲストは計4名でした。
「なぜ、バンダイはウォクスをキット化しないのか?」という流れだったので、狩野さんは決していい顔はなさっていませんでした。
インジェクション・キットで出せないという理由と、ウォクスやターンエーが「アニメとしての落としどころ」で作画されてしまう理由は、なんとなく通底していると思うのです。宮武一貴さんは、『オーガス』を無慣性メカとして設定し、動きまで計算していましたが、アニメの中では、フワフワ浮いているだけでした。
生体メカのオーラバトラーが「爆発」してしまうのも同様で、「いつものアレ」的な手法を使わないと、週一のテレビシリーズは回せない……ということなんだと思います。

前半のトークで、鈴木利正監督が好きなロボットとして「レイズナー、ボトムズ(AT)、ウォクス」と仰っていましたが、前二者が独創的な「動き」をしていたことは忘れてはいけないと思います。
いや、動きというよりは「機能」「フォルム」なんですね。レイズナーだったら、地形を記憶することで敵を陥れたり、AIがサポートしてくれたり、脚本や演出レベルでも「機能」を感じさせてくれましたね。
そうなると、設定画にもとづいたキットは、番組のファンからは「違う」ということになり、そこがまた、模型(というかインジェクション・キット)の面白さだと思うのです。「違う・ダサい・ヘボい」という部分も含めて、模型なのです。文化なのです。

むしろ、インストどおりに組み立ててるのに、「俺の解釈と違う!」と思った瞬間、文化が発生すると言ってもいい。「なぜ、ここでパーツ分割するのか、バカモノ!」も含めて、メーカーとのコミュニケーションだと思うのです。


……というようなトークを「今のワンフェスで話しても大丈夫なのか?」と思ってしまったのも、悲しいことで。監督や声優さんが出演した第一部のほうが、お客さんは多かったです。
Cam1q1ve限定品をダッシュで入手したり、転売するヤツが「勝ち」の空間になってしまってやしないか……だから、あえて僕は「ワンフェスでは、キットを作った人が圧倒的に勝ち」「コンペに参加した人たちは、全員合格」みたいな発言をしたわけです。
この世界まで、「何はともあれ、得したヤツの勝ち」になっているとしたら、それは堕落としか言いようがない。

ガレージキットに接する人は「目利き」にならなくてはいけない。そこがインジェクション・キットにはない、たしみなですね。「大手メーカー並に出来がいい」なんてのは、評価軸にならない。逆に、「原型がヘボい」程度の感想しか出てこない人は、目利きとは言えない。
昨日は、30センチぐらいの大きさのビオランテがあって、原型師だった頃に手がけたことのある怪獣だし、その心意気に打たれましたね。
同時に、「こんなデカいもん、どうやって持って帰るの?」とも思ったけど、つまりは「無理を通して、道理を蹴っ飛ばす」ところにしか、可能性は見えてこないし、感動もないのではないか……たとえば、『ボトムズ』の第1話では、本物のカメラのレンズが合成してある。そういう無茶をやると、少なくとも、志向性は明確になるじゃないですか。

話は戻るけど、ウォクスがインジェクション・キット化されない理由も、ちゃんと考えてみるべきだと思います。「売れるわけないじゃん」みたいな、ジジイの言いそうな理由ではなく、ね。


トーク後は、デザイン・メイキング本『LAGRANGE DESIGNS』を編集されたカースタイリングの方が、話しかけてくださいました。
ウォクスをデザインされた大須田貴士さんのところには、未完成のウォクスを持参したモデラーの方が、アドバイスを受けていました。ステージを降りたほうが創造的な空間になるという(笑)。

僕は、『ラグランジェ』の公式ライターではあるけれど、5月のマチアソビもボランティアだし、今回もそうです。「お疲れさま」とさえ言われないですよ。
唯一、バンダイビジュアルのプロデューサーさんが、終電近くまで酒に付き合ってくれました。そして、やはり何か物足りなかったのか、吉祥寺でガールズバーとキャバクラをハシゴ。ガールズバーでは「お腹が空いた」という子のためにスナック菓子を注文し、太っていることを悩んでいるキャバ嬢には「気にするな」と声をかけ……まったく、自分は欠けた人間だと思った7月の終わり。

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2012年7月28日 (土)

■0728■

昨年秋公開の『がんばっぺ フラガール!~フクシマに生きる。彼女たちのいま~』、レンタルではなく、いきなりDVDを買ってしまった。
1009422_01スパリゾートハワイアンズが、どれだけ物理的ダメージを受けたか、よく分かる。だが、フラガールのサブリーダー・大森梨江さんが双葉町出身であったことから、映画の軸足は、どんどんブレていく。
大森さんが、双葉町へ一時帰宅するのに同行し、警戒区域内にどんどん入っていく。大森さんの家は、福島第一から2キロ地点。部屋から、原発の煙突が見えるような場所にある。

彼女は、「家をビデオカメラで撮っておきたい。未来に残したい」と言うけど、その気持ちまでは分からない。安易に、感情移入しないほうがいい。「分かった気」になっても、誰のためにもならない。
ただ、監督は彼女の心境を分かろうとする努力はした。でなきゃ、防護服を着て、原発のすぐそばまで、着いていくはずがない。
理解はできなくても、思いをはせることぐらいは出来るはず。思い入れた挙句に、かんちがいして傷つくほうが、まだマシだ。


イベント臭がぷんぷんして、足が遠のいていた官邸前抗議。
昨夜は、「ふくしま集団疎開裁判の会」主催の抗議と、原子力規制委員会の人事に反対する抗議が同時開催。イベント屋の開催する「人さえ集まれば、どうでもいい」抗議とは違う。
Ca7iwfdmとはいえ、さんざん迂回路を歩かされた挙句、鉄柵で居場所を決められてしまった。これが、日本の、東京のデモの限界なんだろうな。
僕の横のオジサンが、警官に向かって怒鳴り、鉄柵を蹴飛ばしていたけど、おとなげないぜ……。しょせん、このような場所に足を運んだ自分の、運の尽きだよ。自分の非力さは、認めないとダメですよ。

そもそも、「ふくしま集団疎開裁判の会」は郡山市でも、同時刻にアクションを起こしていて、官邸前は、彼らを応援するぐらいの意味しかない。少なくとも、僕は応援するつもりで行った。
本来なら、お金を出したり交渉したりするのが「実効力」であって、抗議やデモは予備段階にすぎない。いつまでも、足踏みをつづけているわけにはいかない。

そして、ここは『フラガール』の踊る地から、あまりに遠い。
双葉町の実家から、自ら疎開しながら、いわき市で踊る彼女を、今はとてもまぶしく感じる。原発被災したのに、悲嘆することなく、他人を楽しませようとする大森梨江さん。彼女は、自分にできることを、その瞬間その瞬間に、やり尽くしている。

彼女は、自己主張も問題提起もしない。「分かってほしい」とさえ、言わない。
ただ、笑顔でダンスするだけなのだ。


幸せな幼年期をすごせなかった人は、ニヒリズムで世の中に復讐しようとする。
人は、皮膚一枚でしか、現実と接することができない。醜形恐怖、自己臭恐怖、あらゆるコンプレックス。「自分の肉体を変えられない以上、現実もまた、変わらない」。

大学のころ、「あなたは自分の性格の欠点を、すべて顔のせいにしている」と、ある女性に言われた。どんなセリフでフラれたか――それをコレクションしておくと、意外と彼女たちの捨てゼリフが出口へ導いてくれたんじゃないか?と、気がつくことがある。

どんどんフラれるのも、ひとつの手だ。

(C)「がんばっぺ フラガール!」製作委員会

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2012年7月25日 (水)

■0725■

「ワンフェス2012夏」のパスが届いた。
Cal35vsv29日(日)のトークイベント参加のため。詳細、下記。

●15:15~16:00@「輪廻のラグランジェ」ブース内ミニステージにて
≪『輪廻のラグランジェ』スペシャルトークショー≫ 出演/佐藤竜雄総監督、鈴木利正監督、ラン役:瀬戸麻沙美
●16:15~17:00@「輪廻のラグランジェ」ブース内ミニステージにて
≪『輪廻のラグランジェ』デザイナーズトークショー≫ 出演/オービッドデザイン 大須田貴士・菊地宏幸、オービッドデザイン&カラーリング監修 8月32日(晴れ)

以上、司会をやらせていただきます。特にデザイナーズトークショーは、「このメンツを集めるのは最初で最後」とも言われているので、ファンはお見逃しなく!


『おおかみこどもの雨と雪』の投げかける問題は、僕にとっては切実だ。

手元にある「王立宇宙軍制作記録集」(1987年発行)から、プロデューサーの岡田斗司夫さんの言葉を引用する。
「早いとこね、10代のガキどもはみんなピーピー喜んで、私が見て全然わかんなくて腹を立てるようなものを作って欲しくて欲しくてウキウキするんですけど(笑)」。
今のアニメは理解できない、見てないという同世代(30代後半~40代後半)は、僕のまわりに結構いる。「昔のアニメなら、今でも見られるんだけどね」……という人もいる。
それが、自然なんだと思う。

アニメ映画は、いつか実写映画と肩を並べるものと思っていた。タレント起用も作家性の発露も、映画に比肩するためのものならば……と歓迎した。
しかし、それらの試みは【アニメ映画】の垣根を強化しただけで、実写映画とのジャンル差を際立たせるのみだったのではないだろうか?

『おおかみこども~』は、表現の面で、アニメ映画とは言い切れない部分がある。既存の、どんな映像にも似ていない。「しょせん、人物はセルじゃないか」という問題ではない。
あの世界には、空気がある。ディズニーはマルチプレーンで物理的に空間を創出したが、もっと本質的に、細かなモチーフの見せ方によって空気感をかもし出す試みが、『おおかみこども~』では為されている。セルは、その一部にすぎない。
Sub2_large「しかし、アニメならではの手法で可能になっている構造でもあるので、アニメ映画というレッテルを貼られてしまうのが、無念ではある。」……またもや富野由悠季さんの言葉を引用するが、そのジレンマが、本当に悩ましい。


花が、古い日本家屋を修理していく。
彼女は、ガラス戸の模様の美しさに気がつく。ガラスの向こうに手をかざす――透き通った模様の向こうの、彼女の手。花の視線を追うように、あそこにもここにも――、ささやかな日本家屋の意匠が、短くインサートされる。
その一連のカットは、バンソウコウでつぎはぎのようになった花の手のひらのアップで終わる。カッティングが、リズムを刻んでいる。映画が呼吸している、といってもいい。

ようやく、「アニメ映画」ではなく「アニメをつかった映画」に出会えたのじゃないか?
磨かれるべきは、様式を叩き壊した向こうにある表現だったのだ。――しかし、僕は待ちすぎた。『幻魔大戦』で「何かが変わるのではないか」と予感してから、30年も経ってしまった。僕は、結婚どころか離婚まで経験して、もう何年にもなる。

今夜はプチ同窓会なので、母親になった同級生たちに『おおかみこども~』を薦めてみるか。
この映画は、僕のものにはならなかったし、するつもりもない。おこがしまいよ。

(C)2012「おおかみこどもの雨と雪」製作委員会

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2012年7月24日 (火)

■0724■

『おおかみこどもの雨と雪』、好調なスタートにつき、東宝は興収40億を狙っているとか。
Ookamikodomo01そして、いくつかネットの感想を読んだのだが、やはり「恋愛の予定なし、結婚の予定もなし……」な人たちには、評判がよくない。そういう人たちは、この映画の外に置かれているので、映画と関係を結ぶことが難しい。
それは、巡り合わせが悪かったのだ……程度のこととして、あきらめるしかない。「どうも、俺の見る映画じゃなかったらしいな」と思ったら、僕は、その日のうちに映画のタイトルすら忘れてしまう。

実体験の少ない人たちは、理屈と常識で作品をねじふせようとする。
深夜アニメは、実体験の少ない人に向けてつくらているけど、『おおかみこどもの雨と雪』はそうではない。実体験がなくとも、これから体験できるかも?という、若い可能性に向けてつくられているのだ。
だから、あらかじめ人生の可能性を放棄しているような人は、見ても無力感を味わうだけだろう。

(いくら実体験があっても、ジブリや宮崎駿しか評価軸のないオールドタイプは、やはり未来と関係のない人たちなのだと思う)

映画って、「その歳に見た」ってことが、すごい重要なの。
「年老いて見ても傑作」とか「何度でも見られる」なんて、思い出の映画をフリーズドライして冷蔵庫にしまっておきたい、高齢者のたわごと。
年寄りは、「自分の審美眼は、どんどん肥えていく」と思っているだろう? 違うんだよ。歳をとればとるほど、審美眼や感受性なんて減衰していくんだよ!

だから、低空飛行でもいいから地面に落下したくなかったら、地道に勉強していくほかない。そして、勉強しても、低空飛行が精一杯なのだと認めること。
いつまでも若い気でいる年寄りほど、見苦しいものはないよね。

そして、恋愛も結婚もする予定がないからといって、他人の幸福を妬んではいけない。嫉妬という感情は、やがて、行動のすべてを支配してしまう。若いうちに、捨てておいた方がいい。


『おおかみこども~』特集の「アニメスタイル」を、株式会社スタイルから送っていただいたんだけど、二回目を見て、ようやく読む気になれた。
小黒祐一郎さんは、インタビューの最初で「アニメーション的だし、映画的でもあるし、映画そのものでもある。ところが、アニメ映画ではない!」と言っている。
これは、富野由悠季さんの「アニメ映画というレッテルを貼られてしまうのが、無念ではある」と、同じ意味のことだろう。

「アニメだから、見ておかなくちゃ」という心理は、僕にもある。僕は免罪符のように「実写映画も、ジャンル問わず見てますよ」とアピールするけど、どうしてアニメに肩入れするのかは、自分の心身が知っている。
「体育が苦手で、絵を描いているほうが好きな小学生だった」とか、思い出したくもないコンプレックスが、バックボーンにある。高校のころは、わずらわしい人間関係からの火除け地として、アニメに逃げ込んでいた。

でも、「どうせなら見たことのないものを見たい」という好奇心に、『おおかみこども~』は想像をこえた領域で答えてくれた。アニメという形式を逸脱し、予定調和を破壊しながら、まったく新しいルールで、作品を統べてくれた。
とても嬉しいんだけど、「あなたが思春期の頃から知っているアニメ映画は、そろそろ別の段階に行きますよ」と、正面からキッパリ、別れを切り出された気分でもある。

だから、まだまだアニメに依存したかった人にとっては、そうとう厳しい映画だと思う。
こうもあっさりフラれると、相手が手の届かないほど高いところにいるだけに、いっそ気持ちいいけどな。

(C) 2012「おおかみこどもの雨と雪」製作委員会

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2012年7月23日 (月)

■0723■

月刊ホビージャパン 9月号 25日発売予定
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●ラグランジェ・アンヴェール Vol.4
連載第四回は、「義賊同盟キッスの軍備」について。
ロボットよりも、船舶をどうやって集めたのか。まずは勝手に考えますが、アニメ本編のストーリーや設定を侵犯しないよう、製作委員会のチェックは入ります。

そして、ワンダーフェスティバル2012夏の『ラグランジェ』トークショウ(2本)で、司会をやります。→
次の日曜日です。


やっぱり、我慢できなくなって、吉祥寺プラザまで歩いて、『おおかみこどもの雨と雪』、見てきちゃった。二回目。この映画は、一生に一度、しっかり見ておけば十分と思うんだけど……。
Sub14_large水の表現が、どれも素晴らしい。それは、「水を緻密に、リアルに描きたい」欲求があるというよりは、水という存在に敬虔な気持ちがあるからだろう。
その本質に気がつかないかぎり、ただのCGにしか見えないと思う。

以下に書くのは、非常に瑣末なことなので、これから見に行く人は忘れてしまう程度のことだろうけど……。


雨が学校に行くのを嫌がるとき、雪は「学校はこっちよ」と、左の道を指す。
その後、雨が「先生」に会いに行くときは、道の右方向へ歩いていく。単純に考えると、右側に野生の世界があって、左側は人間界。
だから、雨と雪が机をはさんで口論するシーンで、雨は右側(野生)に座り、雪は左側(人間界)に座って、学校の宿題をやっている。
台風のくる日の朝、「お母さんと一緒にいてやりなよ」と言う雨は、右側。学校へ急ぐ雪は、左側に立っている。

ただ、雪が画面の右側に、かなり意図的に立つシーンがある。
それは、転校生の男の子に、正体を見せるシーン。雪の正体は野生のおおかみだから、右側に立っている。男の子は人間だから、左側に立つ。
こういうのは、「限定されたシーンにだけ役立つ、映画の見とり図」みたいなものであって、全編がそうなっているわけではない……けど、おおかみおとこが正体を明かすシーンで、彼はどっちに立っていたか?
やっぱり、画面の右側に立っていたはず。

少なくとも、野生と人間界の境目については、そのようなルールが敷かれていたと考える。さっさと答えを見つけるよりは、自分で考えたほうが、はるかに面白い。


「どうであれ、本作の前では、もはや過去の映画などは、ただ時代にあわせた手法をなぞっているだけのものに見えてしまうだろう。」「アニメ映画というレッテルを貼られてしまうのが、無念ではある。」(
富野由悠季さんの言葉だけど、非常に納得がいく。アニメばっかり見ている人が見ても、あまり意味はない。僕のような、子育ても知らないオジサンが、愛好すべきものでもない。
「拒絶された」感は、初見時よりも、はるかに強かった。細田守の冷徹な手さばきは、世間のごくつぶしたる独身中年を、周到に排除しもするのだ。

結局、人の営みの中で許され、祝福されているのは、子育て以外にないのではないか。
熊と出会ってしまった花が、どうして襲われなかったのか、見た人なら分かると思う。同じ頃、雪の前には、彼女の正体を知っても許してくれる男の子が現われる。だから、野生と自然の両方それぞれに、「許すもの」がいるわけです。物語のきっかけからして「許す」ことから始まってますからね。

その「産む」と「許す」の巨大なサイクルに気がついたとき、ただ呆然としながら、映画館から追い出されるよりないわけです。

(C)2012「おおかみこどもの雨と雪」製作委員会

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2012年7月20日 (金)

■0720■

某誌『一発必中!デバンダー』取材。笹川ひろしさんと大河原邦男さん。
Image0051249x300いくらでも濃くすることは出来るんだけど、専門誌ではないので、あくまで柔らかい質問を。
それでも、大河原さんの「さっきまで旋盤を回してたんだけど……」の一言は、あの工作室を知らなければ分からない前フリだったし、ベテラン2人のぶっちゃけトークは楽しかった。

タツノコとは関係ないけど、『おおかみこどもの雨と雪』は、明日から公開。
僕は、子どもを生んだ経験のある女友だちと見に行こうと決めた。独身中年がひとりで見るのは、建設的ではないと思ったからだ。


品川区の放射線プレミアムドックセンターへ、内部被曝の調査へ行ってきた。
Ca5iekz1検査方法はスクリーニング、機器はベラルーシ製。6,300円と安かったので期待はしてなかったのだが、検出限界値が高すぎるんだよな。
セシウム137が159Bq、セシウム134が140Bq。これ以下は検出されないのだ。検査の結果、これらはND。
カリウム40のみ検出されたが、これは自然界にもともと存在するので、検出されないほうがおかしい。僕の体からは、4240Bq、出てきた。
トータルで、予想年間内部被曝量は、0.00806mSv。カリウム40しか出なかったんだから、そりゃ低いだろう。

僕は、今でこそ西日本から検査済みの米を取り寄せているけど、この一年、ほとんど外食ばかりだった。マスクをするのは、主に風の強い日。うっかり忘れてしまうことも多かった。
外食は、野菜と魚とキノコ類だけは避けた。学生たちと居酒屋で飲んだとき、シイタケの揚げ物がでたので「やめときなよ」と言ったところ、ひとりだけ、メニューからシイタケだけ外してもらうよう、店主に頼んだ学生がいた。
そういう、柔軟性の高い若者ばかりなら、未来も明るいのだが……。

食品の放射能検査に関しては、林野庁と厚生労働省から各自治体に出された「業務連絡」を、何種類か入手している。
それによると、ほとんどの食材は、週に一度、1~3検体しか検査されていない。牛肉については「農家ごとに三ヶ月に一回程度」。しかも、「可能な限り検査を実施するようお願いします」だからね。
「お願い」だから、別に検査しないで出荷しても、罰せられないわけですよ。

そんなグタグダな状態なのに「国のやることに間違いはない!」と思いたい人は、どうぞご自由に。


「放射脳」、「反原発派は在日」と蔑むことで溜飲を下げている人は、上を目指すことなく、「自分以下」を設定することで、安心を得ている。
USTREAMでデモの中継を見ていると、「何万人死のうが、関係ない」とか「さっさと殺してしまえばいい」と書き込んでいる人がいる。よくよく彼らの発言をさかのぼってみると、現実――特に、自分の生い立ちに、深く絶望していることが分かる。

「現実がひどすぎるから、現実は変えられない」。そう考える彼らは、現実を変えようと行動する人々を嫉妬し、罵倒する。そのくせ、マゾヒスティックなまでに、既成のルールに従順なのだ。
クレームの電話をかけることを「威力業務妨害」などと言ったりする。「自分は、そんな悪さをしないお利口さんだ」という、窮屈な立場に留まろうとする。

若いうちは、まだいい。というより、若いころは、そんなもんだ。
だが、30歳、40歳、世間を恨みながら過ごしていると、生きていく選択肢が限られていく。何でもいいから、うまいドロップアウトの方法を見つけることだ。人生に成功しなくていいから、自分に適した逃げ道を探す。
逃げ道さえ確保できれば、かなり気楽に生きられるはずだ。

(C)タツノコプロ・デバンダー製作委員会 2012

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2012年7月18日 (水)

■0718■

東京ウォーカー 24年8/3号 発売中
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●『おおかみこどもの雨と雪』レビュー
1ページ、まるまる細田守のミニ特集で、『おおかみこども~』のレビューだけ担当しました。
編集者は、僕のブログを読んでいたらしく()、「書き足りないんなら、ストーリー部分を削って書いてもいい」と気をつかってくれたのですが、アニメに興味のない女性読者がメインと聞いていたので、あまりマニアックな話題には走らないよう、セーブしました。

なんと言っても、良識の問われる映画ですから。
そりゃあ、『海猿』なんかよりはヒットしてほしいわけです。21日公開です。


昨夜は、関西電力・東京支社前での抗議活動。
Ca1vrtfq参加者20名に満たなかった。こういう小さな集まりは、微力ながら応援するつもりで行って、たいてい「この人はいない方がいいなあ……」という気まずい空気を残してしまい、ひっそりと帰ることになる。
つまり、僕は敵意をむきだしにしすぎるのだ。

今夜、大飯原発4号機が稼動する。
ここで怒鳴っても、何も止まらない。そもそも、いちど動き出した原発は、そう簡単には止めることができない。ちょっと調べれば、分かることだ。大海原に、小石を投げている気分になる。

僕は、電力会社の人間とは、話なんて通じないと思っている。だから、ハナっから対話する気などなく、滅ぼすべき相手としか思っていない。
しかし、参加者たちは滅ぼすどころか、「一緒に反原発運動をやりましょう」「内部から変えませんか?」と、関電に語りかける。そして、その場では、大きな拍手が起こるのである。
電力会社を仲間に抱きこむなど、「原発を止める」本質からは、いちじるしくかけ離れた甘ったるい夢想に感じられるのだが……その場、その瞬間には必要な甘さではないか?と思える。

敵に対する親しさ。僕には、そんな柔和な感情はない。欠けている。
実の父親を、屠殺場へ送り込むように、刑務所に叩き込んで、まるで後悔していない。怒りや恨み……いや、悪意だけが、血液のように僕の心臓を動かしつづけた。

離婚してから、僕には誰かを愛した記憶がない。「食事に行こう」と誘ったことはあったが、誘いにのってくれた相手に、感謝したことすらない。
そこに殺人事件が起き――、僕は、自分の命を軽視するようになった。原発事故からしばらく、この軽い命をどこでどう捨てるべきか、ずっと考えている。

原発事故に対しては、獰猛な怒りしか感じない。


「できることなら、繊細な感性を弄んで一生を終わりたい」――押井守『コミュニケーションは、要らない』より、僕の胸を、深くえぐる一節である。

40歳をすぎてからは、若いころの思い出だけをデザートにして、平穏に老いていけると信じていた。
「センチメンタルに、昔の恋愛話や昨夜の夢を語っているほうが、よほどお前らしいよ」、いまや連絡のつかなくなった友達ならば、そう言うだろう。

月に一度ぐらい、ガールズバーで会ったばかりの女の子を指名し、ゲームをしてカラオケを歌い、翌日は放蕩したことへの罪悪感と、二日酔いに苦しむ。
それでも、香水のかおる夜の街にしか、安らぎを感じられない。母の話を聞いて泣いてくれたのも、何もいわずに手をにぎってくれたのも、夜の女たちだった。

しらふの目で見れば、それは酒ににごった不埒な楽園だ。本当の楽園は、きっと、張りつめた神経と冷や汗の中で、ふいに現われてくるんだと思う。

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2012年7月16日 (月)

■0716■

『 輪廻のラグランジェ』 第5巻 27日発売
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●ブックレット編集・執筆
この巻は、イゾたち三人組が鴨川の人たちと交流を深めてしまう第9話が収録されています。
それと、第10話は、ようやくアステリアの顔がかわいく描かれます。第8話は、ほんと作画が良くなかった。プロデューサーに三回ぐらい、文句を言いました。
season 2は、キャラ表が変わったのかと思うぐらい、アステリアがかわいく描いてあって、一安心です。


『ヒトラー ~最後の12日間~』。155分、画面に釘付け。
001この映画を見るものは、誰しも、死と破壊を期待する。睡眠薬を飲まされ、眠っている間に毒を盛られる子どもを見て「ナチスだから仕方ない」と思うだろう。
追いつめられ、自殺するよりなかった士官たちを見て、「自分は彼らよりはマシな人間だ」「自分には、自殺しなくてはならない理由などない」と言い聞かせ、安心しようと努める。
つまり、この映画を見ている間、誰もが自分の罪、自分の死について考えはじめる。ナチスドイツは、ただソ連軍に壊滅させられたのではなく、自らを裁いて死んでいった。「では、自分はどんな死に方をするのか」と、誰もが震えながら、考える。

状況が特殊であればあるほど、死は純化され、均質化され、誰にとっても平等なものとなる。
気をつけねばならないのは、死は平等であっても、生は不平等だということ。「いかにして死んだか」では、人の価値は推し量れない。「いかに生きたか」、それだけだと思う。

……つづいて『Uボート』を見るつもりが、DVDの盤面が紙やすりをかけたような状態で、20分で停止してしまった。
TSUTAYAに持っていったら、盤面を磨いたうえでレンタル料はタダ、さらにもう一枚、タダでレンタルするという。三鷹北口店、いい仕事する。


吉祥寺、夕方。友人と待ち合わせる。
カフェ・ゼノンは、何かの打ち上げで貸切だったので、ちょっと歩いてマクドナルドへ行く。

最近は、『ガンダム』も『ヤマト』も原点回帰。原点回帰しないと、客も満足しない。オッサン向け懐古ビジネスになってない?という話。
Cacz6jh2_2(←海洋堂の「ネオ・カプセル」をもらいました。ガシャポンまで原点回帰か!)

まあようするに、早い話、歳をくうほど変化についていけなくなるので、中年ユーザーが懐古に走るのは、やむを得ない。
それはそれとして、最近は、若い人も100パーセントの保証を求めているように思える。何かを否定するとき、客観性や数字を根拠にしたがる。
それは、主体性の放棄だ。

アニメであれ何であれ、趣味というのは、人格を反映する。「しょせん趣味」と言い捨ててはいけない。
「アニメと現実の区別をつけよう」というスローガンの裏には、「どうあがいても現実は変わらない」という、覚めた諦念が感じられる。


今月は何も記事を書いてないのだが、「EX大衆」の見本誌がとどいた。
「さよなら夏の日」「君の声に恋してる」「いつか晴れた日に」「世界の果てまで」――グラビア・ページのタイトルは、なぜこんなにも感傷的なのだろう。

Newmarket/Photofest/MediaVast Japan

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2012年7月12日 (木)

■0712■

『キングダム・オブ・ヘブン』、194分がアッという間。
321655view004予備校に通っていたころ、講師から「モチーフを描くんじゃない、モチーフを使って空間を描くんだ」と言われた。
この映画で、とりわけ意識させられるのが、風の存在だ。静かに降る粉雪、戦いとともに舞い上がる土煙、かすかな炎のゆらめき――それらのモチーフがある方向、あらゆる方向へ運動することで、風の強さ・弱さが伝わる。
扉から差し込む強い光が、暗い室内にグラデーションをつくり出し、初めてそこに“光景”が出現する。光は、ただ光であることをやめ、“光景”の一要素となる。

あらゆるノイズが調和して、世界を育む陶酔の194分。
「この生々しい感覚、どっかで味わったよな」と思ったら、『おおかみこどもの雨と雪』であった。このアニメは、別の表現領域へ踏みこんでしまっている。
「実写に近づいた=リアルだ」とか、そんな単純な問題ではない。「撮る」というのは、意外に不自由なことであって、先ほど例にあげたように「モチーフ」を見るのではなく「モチーフを使って描かれたもの」を、見極めなければいけない。


今年4月に、福島県産きゅうりを「山形県産」「岩手県産」と偽装して販売した悪徳業者、株式会社大兼文喜。(こちらのサイトが非常に詳しい。→
私は、不正競争防止法の適用を東京地検に求め、5月30日、同社を刑事告発しました。
その後、大兼文喜は東京都中央卸売市場条例にもとづき、6月12日より、一ヶ月の業務Cimg0144停止。本日より業務再開なので、様子を見に行ってきました。

場所は、北足立市場内。13時ごろに着いたので、青果棟の内部は、閑散としていました。
大兼文喜も店じまいしていましたが、裏側の搬入口は空いていたし、「大兼文喜」と社名の入ったフォークリフトも数台。午前中は、営業していたのでしょう。

先ほどのリンク先を見ていただければ分かるように、取引先には病院も含まれています。
この事件を知った足立区在住の友人は、あわてて学校に「大兼文喜の食材を給食に使っていないか?」と、問い合わせたそうです。
Cimg0145幸い、 給食には使われていなかったそうですが、「病人に福島産きゅうりを食わせるのは、ぜんぜんオッケー」なわけですよ、大兼文喜は。
福島県の野菜が危険であるかどうか以前に、「福島産と表示したら売れないだろう」という自己中心的かつ薄っぺらな発想、自らは努力せずにエゴだけ押しとおそうとする醜悪さ、とても看過できません。

なので、私は刑事告発もします。こうして、相手のところへ足も運びます。
自らの職を汚した業者どもは、覚悟しておきなさい。しつこいよ、僕は。


大兼文喜や、他の産地偽装業者、放射能検査を怠って子どもに汚染食材を食べさせた自治体、給食利権を手放せない学校、教師……でも、彼らだけじゃないですよ。
僕はこの前、「読者をだましてでも、金をせしめたい」と豪語した編集者のことを書きました()。

「仕事=金儲け」、「濡れ手で粟」が常態化している。
僕が本を書いて、ギャラをいただけるのは、何はともあれ、まずは読者さんに奉仕しているからですよ。「まあまあ面白い」「そこそこ暇つぶしになった」、そう思ってもらうために書いてるんでしょ。本を書くのは、自己表現でも自己実現でもないですよ。「面白い本をつくって、ちょっとは世の中を明るくしたい」、だからでしょ?
その対価として、謝礼としてギャラをいただけるわけですよ。そこをクソ業者ども、順番をとり違えている。「ユーザーが損してでも、まずは金」。逆なんだよ、ボケどもが。「まずはユーザーさんが得をして、金をもらえるのは、一番最後」。

どんな仕事だって、そうだよ。「顔も知らぬ誰かに、プラスになること=仕事」です。
「俺や、俺のクライアントが儲かること」が仕事ではない。そこを決して忘れてはいけない。誰かひとりが「とにかくカネだ」と走り出すと、世の中ぜんぶが不幸になるんだ。お前が楽したぶん、どこかで誰かが泣いてるんだよ。

負の連鎖を断ち切ろう。そのためには、皆が誠実に仕事をする、社会を明るくすることだ。
ふだんから本を読み、たくさん映画を見て、心を豊かにしよう。その豊かな心を、あなたのエゴのために消費するのではなく、どこかの誰かにつながっている仕事に生かしてほしいのです。

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2012年7月10日 (火)

■0710■

取材の合間、2時間ほど待ち時間ができたので、『宇宙戦艦ヤマト2199 第二章』。
Yamato2199_b_03_03_webあいかわらず、ディテールのアレンジ・センスは、素晴らしい。ヤマト側が「ワープ」を使うのに対し、ガミラス側が「ジャンプ」なのは、『ギャラクティカ』へのリスペクトが感じられた。

ただ、肌の色の違うシュルツを、占領された他惑星の軍人と設定したのであれば、もっと彼の苦悩を描いてもよかったんだよ。原作がどうであろうが、それは関係ない。
その及び腰な態度が、この作品を「作品」ではなく、「企画」に踏みとどまらせているような気がする――だからこそ、イベント上映で見たわけだけどね。

やっぱり、『2199』は二周目の航海なんだよ。原作からこぼれ落ちた部分を埋め合わせるのは、決してディテールの密度ではないと、僕は思う。


ここのところ、仕事が詰まったり、急に空白時間ができたりで、何かしら映画をレンタルして見ているのだが……『ジャンヌ・ダルク』が、割と良かったかな。
159314view001かつては、ネオ・ヌーヴェルヴァーグ三羽烏のひとりと目されたリュック・ベッソン。彼は広末涼子主演の『WASABI』の製作と脚本も手がけているけど、いつしか映画に「女性キャラ」を求めはじめた。『ニキータ』の頃から、そうだったよね。

いかつい鎧に、長いブロンドの髪をなびかせて……それだけで、十分にキャラ立ちしている。だけど、当時は男装しているだけで、異端審問にかけられたのね。
ジャンヌは、反抗の意志を示すため、牢屋で男の服を着る。
性差を自在に行き来する彼女の頭上には、空いっぱいに、自由の旗がたなびいている――。

ミラ・ジョボヴィッチの吹き替えは、朴璐美さん。朴さん以外には、出来なかったと思う。


ここのところ、霞ヶ関には足を運んでいない。
三鷹市のゴミ不法投棄は、メールを送っただけで解決したし、散歩中にゴミを拾って歩くのは苦ではないけど、官公庁で怒鳴っても、汚染地域の子たちは救われない。原発も止まらない。
この徒労感は、何度も抗議活動に行ってみないと、分からない。

大飯原発のゲートを不法占拠した彼らのやり方は、具体的で効果を狙えるものだった。
(あの夜、エネルギッシュにドラムを叩いていた女性のブログ「PIKALOGGG☆!!!」→ 文章もいいが、写真も素晴らしい。)

大飯原発の再稼動が迫る中、福島第一・4号機の温度が急上昇。僕は、ガスコンロとカップラーメン、ミネラル・ウォーターを確保し、一週間ほど屋内退避する覚悟を決めていた。
友人に「何か準備してる?」と聞くと、妻子のために飛行機のチケットを用意し、自身は東京にとどまるつもり……とのことだった。

――生きたここちがしない。311以降、東日本で地震のない日はない。
僕は、右の目で破滅を覚悟し、左の目で311前の世界を見つめながら、生きている。


関西電力は、やれ原発再稼動だ、やれ節電要求だ、やっぱり計画停電も準備中だと、やりたい放題。
関電に怒っている人たちは、まったく正しい。東京のような、折り目正しい怒り方をする必要はない。存分にやってほしい。

具体的・実践的な行動としては、カンパするという方法もある。
僕はさっき、「新潟保養プロジェクト」に、カンパしてきた。→
デモで「子どもを守れ」と叫んだ以上、実際に「子どもを守る」活動をしている人たちの横を、素通りするわけにはいかない。

(C)2012 宇宙戦艦ヤマト2199 製作委員会
JACKENGLISH/GAUMONT/TheKobalCollection/WireImage.com

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2012年7月 7日 (土)

■0707■

オトナアニメ VOL.25  10日発売予定
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●佐藤竜雄監督が『モーレツ宇宙海賊』を振り返る
●小池 健(キャラクターデザイン・作画監督) 『LUPIN the Third -峰不二子という女-』

上記、ふたつの記事のほか、「私が選ぶ旬のクリエイター」みたいな企画で、『坂道のアポロン』『宇宙戦艦ヤマト2199』の結城信輝さんについて、ちょこっと書きました。

佐藤監督は、『キャラ☆メルFebri』につづいて二回目なので、もう少し雑然とした話を。
小池健さんには、キャラ表にカゲ指定がないこと、カゲを斜線で表している意味や工程など、テクニカルな部分を中心に、お聞きした。
(小池健さん自選の作監修正も掲載!)


いろんなアニメ誌(定期刊行物も含む)が、創刊されては消えていった。
本というのは、一冊をつくるのに関わる人数が少ないので、意見を言いやすいし、ケンカする意味もある。議論のすえに獲得したものは、ありありと誌面に反映される。関わっている少数の人間にさえ志があれば、本はいくらでも良くなっていく。

ところが、議論を避け、向上心を捨て、残ったカネのためだけにつくられる本もあった。
その本には“編集部”が存在せず、ライターや編集者がバラバラに企画を持ち寄って、取材先への交渉、取材、ラフ、原稿、すべて一人でやる。中には“編集”と“ライター”が分かれている記事もあった。
どうやら、“編集”に名を連ねるだけで、ギャラがもらえる仕組みらしい。

それに気がついたのは、僕が自分の記事をつくろうと準備しているとき、その本に創刊初期から関わっている女性から、電話があったからだ。
「廣田さんの好きなように記事をつくってもいいので、“編集”の名前だけ、私にくれませんか?」という。まったく意味が分からず、理由を聞く。「私を“編集”にしてくれれば、(その本を発行する)出版社から、カネを巻き上げられるんですよ」。

僕は、その本に書きはじめて間もなかったので、「他の編集者と組んだほうが、新しい発見があるかも」と思い、その女性に、取材先との打ち合わせ日程を伝えた。
ところが、彼女は打ち合わせには来ず、もちろん取材にも立ち会わない。何もせずに、ただカネだけが欲しい、ということのようだった。

そんな人間が中核にいるのは問題だろう、と思った僕は、次の会議から積極的に意見を出すことにした。「次号から、編集者を立ててはどうか?」という真っ当な意見が、他の心ある編集者から出はじめた。
そんな折、僕は出版社に呼び出された。


出版社の担当は、「この本から外れていただきたい」と無表情に言った。
「カネを巻き上げられる」と言っていた女性編集者は、以前にいた出版社の同僚であり、彼女の収入を最優先に守りたいのだ、と担当は理由を話した。

「彼女の編集者としてのレベルは、この辺りなんです」と、担当は手のひらを腰のあたりへ下げた。「彼女に対して、廣田さんのレベルは、これぐらい」、今度は手のひらを頭の上にかざした。
僕は、思わず吹きだした。「だったら、低いところにいる人を上のレベルに引き上げるべきでしょう!」「それは、彼女にとっては酷なんですよ」。
つまり、「同じ出版社の友だちだから、収入を守ってやりたい」とは思っても、「編集者としての向上心を喚起し、ともに良い仕事をしよう」などとは、微塵も考えていないようだった。

僕を排除した後、編集会議で「廣田のヤツ、どんな顔してましたか?」と、笑われていたらしい。
清い水を探そうとせず、濁った水溜りで満足する魚たちもいる――。彼らは、ただ一匹でいることはない。似たような仲間と群れをつくる。群れのほうが安心できるからだ。

ほどなくして、その本は休刊になった。悪は滅びるのだ。しかし、例の編集者は、絵を描いている人向けのポーズ集などをつくって、いまだに出版界にいる。

彼女は「若い読者をだまくらかして、自分にもアニメをつくれるかのように誤解させ、カネをせしめる」とまで言っていた。
そんなことを口に出しても、殴られない環境で育ってきたのだろう。


僕は、実力以外で評価してほしくない。「昔のよしみで」なんて気持ち悪い理由で仕事をもらいたいとは、思わない。
身内への情だけで、仕事を回している大人がいたら、そんな連中に近づいてはいけない。たちまち、毒をうつされる。

顔を上げて、青空を見よう。君の志を、つまらない場所でくさらせるな。

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2012年7月 4日 (水)

■0704■

映画『ガンジー』、恥ずかしながら、今ごろレンタルで見た。
4998view005「非暴力、不服従」は、なかなかねちっこく、いやらしい戦法で、気に入った。殴りかえしてくるヤツより、どんなに殴られてもどかないヤツのほうが、怖いに決まっている。
今まで、期限つきの「ハンスト」というのが分からなかったのだが、ガンジーの断食は徹底している。「お前らが争いをやめない以上、この老いぼれが無意味に餓死するけど、それって後味悪いよな? な?」「このまま俺が死んだら、お前らの責任になっちゃうけど、いいよな?」と言わんばかり。
ようするに、抗議している相手を、加害者に仕立ててしまうのだ。

やっぱり、目的完遂のためには「(相手にとって)ものすごくイヤなヤツ」にならないと。
イギリスにイヤな思いをさせるため、イギリス製の服を燃やす、イギリス産の塩を買わずに自分たちで作って売る。それで殴られても、決して抵抗しない。「あれ? あんた、無抵抗の人間を殺すのかい?」……非暴力は、相手を卑怯者に仕立てあげる。これは強いよ。

さらに言うなら、非暴力とは「その場に暴力がない」状態ではなく、「相手には暴力をふるわせる」わけですよ。命をくれてやる勇気がないと、できないですね。


それで、大飯原発ゲートを占拠した、先日の彼ら。ずらりと並んで道をふさぐ警官のポケットに、花をさす。傘をさしだす。これ、卑怯でいいよね。相手は戦意喪失するよ。
機動隊がなだれ込んできたときも、「暴力反対! 暴力反対!」のコールを連発して、相手を押し戻すときは、「そっち、誰か回って」「そろそろ来るぞ」と冷静に指揮をとる。いやー、ずるくていいわ。
(もっとも、現場で機動隊と組み合った人は、むちゃくちゃ痛くて怖かったそうだけど……)

そもそも、彼らは再稼動されてからも、どかなかったもの。
夜中すぎ、ようやくゴミを片付けて解散か?と思ったら、マイクをもった年配の人が「……わっしょい!」と静かにコールをはじめた。応援しているつもりのこっちまで、ゾッとしたよ。
彼らは、「警察ではなく関西電力と話したい」と言っていた。逃げ出した関西電力のほうが、卑怯さでは一枚上手だったってことなんだろう。
それでも、若い警官たちに何もかも押しつけて逃げ出す電力会社の汚らしさは、実証できた。

せっかくやるのなら、相手を叩きのめしたい。
母を殺されたとき、「犯人に対しては、1ミリたりとも手加減しない」と決めた。そのためには、「被害者遺族」の立場を徹底的に利用し、与えられた権利を全投入する。出られる裁判には必ず出て、発言の機会は、ひとつ残らず使わせてもらった。
遺族の発言は、判決におおきく影響するので、これを利用しない手はない。「犯人をブタ箱にぶちこむ」、それに徹したから、勝てた。

――僕は、判決が出ること、刑が確定することを待ちわびた。
結果が出るまで、警察や検察と仲よくしていなければならないのは、猛烈な足かせだった。権力を味方にしておかなければ、犯人を追いつめられなかったからだ。
刑の確定した今、おとなしくしている理由はない。


ある雑誌に、『おおかみこどもの雨と雪』のレビューを書きました。
依頼してくれた編集者は、ブログの記事()を見てくれたようだけど、雑誌の性質を考えて、ちょっと大人しめの記事にした。

吉祥寺でも、21日から公開されるんです。
Cardssfp しかも、吉祥寺駅からもっとも遠いマイナー映画館、吉祥寺プラザで! これなら、初日に行ってもいいかも知れない。

チャンネルNECOで『マイマイ新子と千年の魔法』やってるんだけど()、『サマーウォーズ』も『新子』と同じ2009年の公開。
そこから、『REDLINE』公開の2010年秋までは、『宇宙ショー』や『カラフル』もあって、すごくエキサイティングな一年間だった。
『おおかみこども~』は映画数本分のバイタリティを持った映画で、これをあと二回も見たら、お腹いっぱいという気がする。

columbia/Photofest/ゲッティイメージズ

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2012年7月 2日 (月)

■0702■

土日は、家でゆっくり『俺の艦長』の原稿を書いていました。
Cajrw77i正確には、USTREAMで大飯原発ゲート前での抗議活動を見ながら……です。現場にいないかぎり、あの壮絶な攻防について、多くを語る資格はないと思います。ネットで見聞したことは、すべて(仮)なのだと思います。「行って、会って、話す」、これが揺るぎのない基本です。
それを前提に――。

中継を見はじめたのは、土曜(30日)の16時ごろです。抗議活動が終わったのは、月曜(2日)の2時頃。30時間以上、大飯原発前の関電敷地内の道路を占拠し、逮捕者ゼロでした。
最初に、乗用車とチェーンを使ったバリケードを見たとき、「こりゃ捕まるな」「うまいやり方じゃないな」と思いました。だけど、「逮捕される危険のあること=悪いこと」という先入観が、僕らの行動を、思っているより遥かに抑圧しているんだと思います。
いや、普段から抑圧されつづけていることに気がついてすらいないんでしょう。何のリスクもなくUSTREAMを家で見ながら、「こいつら射殺しろよ」とか「殺しちゃっていいよ」と書き込んでいる人は、ネットを通じてしか、抑圧から逃れる方法を知らない。

「俺が殺す」なら、主語が自分だから、まだ分かるんです。人に「殺せ」とリクエストしてるんだもん。
自分の負うべきリスクを避けつづけているから、他人が行動していると、それが癪にさわってしょうがないんだろうね。


大飯原発のゲート内、前後を挟まれながら、抗議者たちは最初は怒鳴り、あるいは語りかけることで警察を追い返していた。
深夜になり、関西電力が話し合いに応じないと分かると、「再稼動反対!」のコールが沸きおこり、パーカッションやドラムがリズムを刻み、ついにはギターによる荒々しい伴奏がくわわった。
僕は、生まれてはじめて「音楽」というものに触れたような気がした。
夜が明けてもコールは絶えることなく、昼間になると、女性たちが笑顔でダンスをはじめた。嘘か誠か、百姓一揆のときの踊りだと聞いた。

「こいつら、ヤクでもキメてるんだろう」という書き込みがあったけど、そういう連中にかぎって、大麻も覚せい剤もいっしょくたに「所持していると逮捕されるもの」程度にしか考えていない。ドラッグと文化の関わりも知らないし、なぜ暴動のおきる場所でダンスが発祥するのか、考えたことすらない。なぜ身体を使うのか、なぜ筋肉をつかって声を出すのか――分からないから、「バカ騒ぎ」などと自分の理解しやすい次元に事象を引きずりおろし、安心しようとする。

さっきの「こいつら射殺していいよ」も同様で、責任も罪悪感も、現場にいる警官たちになすりつけようとしている。やたら「法を犯している」とわめきたてる連中は、車が通っていないのに赤信号なら立ち止まってしまう、家畜のような生き方をしている。
人間の尊厳に泥を塗っておきながら、法を遵守したと得意になっている。

法を遵守する、それは檻の中だけの自由だ。「エアコンを存分に使いたいから、原発を動かしてもいい」、それは家畜の発想。


「踊っているんじゃない、戦っているんだ!」――映画『RIZE』のキャッチコピー。
東京でぬくぬく過ごしている僕は、大飯原発まで出向いて、雨の中、不眠不休で戦いつづけた若者に対して、「よくがんばった」なんて言えないです。
僕もやっぱり、行動力にとぼしいオタクなんだと思う。ただ、怒りを音楽やダンスに変えて、最前線で戦った――いや、いまでも戦いつづけている若者たちがいることを、ひとりでも多くの人に知っておいてほしい。→

地面の底からわきおこるような、原初的な「再稼動反対!」のリズムを脳の奥で聞きながら、僕は目の前の原稿を、少しでも読んだ人の人生に貢献できるものにしたい、と思う。
今月はトークショーの依頼も来ていて、今から打ち合わせなんだけど、唾のかかるぐらいの距離で話すような仕事も、どんどん増やしていきたい。

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