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2012年4月15日 (日)

■0415■

なぜか、「フリーメーソンを扱った映画の解説を書いてほしい」という依頼が来た。何本か、その手の映画を見なくてはならないので、レンタルしてあった『ベンダ・ビリリ !~もう一つのキンシャサの奇跡』を消化せねばならない。
B1_largeコンゴ民主共和国の首都・キンシャサで、路上生活する障害者たち。彼らが道ばたで結成したバンドが、やがては、フランスの音楽祭に招かれるまでを追ったドキュメンタリーだ。

彼らは貧しいが、現実から逃れるために、音楽をはじめたわけではない。
彼らは「今日は皿で食べたが、明日は道ばたで食う」とか、「この広場で寝泊りする子どもたちをバカにするな」とか、生活に密着したことしか、歌わない。
映画の途中から、バンドに加わる少年は、空き缶と木の枝でつくった楽器を奏でる。しぼりだすような、哀切な音色がする。

それは「文化」などという、糊のきいたシャツの襟なんかではない。心からの怒りや嘆きは、筋肉を経由せざるを得ないのだ。
だから、「ヨーロッパへ行くぞ」とはりきり、その夢をかなえた彼らは、路上で歌っていたころの迫力をそがれ、ちょっとずつ仕組みに取り込まれていく。取材クルーはフランス人なので、なんだか気味が悪い。

コンゴ民主共和国は、ヨーロッパの植民地だったじゃないか。
この映画に登場する誰もが、そんなことは忘れてしまったかのようだ。「成功する」「豊かになる」とき、そこには、何かしらの支配と被支配の仕組みが関与している。今の僕には、そう思える。


「金の卵」と呼ばれて、東京の経済成長を支えた少年や少女たちは、『三丁目の夕陽』の中でファンタジー化される。あんな映画が、なんと三本もつくられるぐらい大ヒットしてるんだから、悠々自適に東京に暮らしているだけでバカにされても、僕などは仕方ないと思ってしまう。
何も知らずに、このまま安穏と死んでゆくのは、イヤだなあとも思う。

「あれは、映画の中でのことだよ」と割り切れてしまえる人が、僕にはおそろしい。誰が何をどのように描いたか、それは現実ではないか。
「現実とフィクションの区別をつけましょう」という言葉そのものが、フィクションを最もバカにしているんだよ。そんな考え方が、現実を動物園のオリの中に閉じ込める。


どうして、東京の路上で歌うミュージシャンがウソっぽいかと言うと、そんなことしなくても、実は生きていけるからだ。
たぶん、脱原発デモも抗議集会も、そんな風に見えるんだと思う――。2012年の三鷹駅前には、24時間営業の食べ物屋が何軒かあるし、僕は好きな時間に、そこへ入れるぐらいのお金は、ポケットに入っている。東京電力の電気に照らされながら、ちょっとセシウムの混じったご飯を食べるぐらい、そんな生活を維持していくのは、楽に決まっている。

だから、「東京に暮らしているなんて最低ですね」と誰かに責められても、僕は何も言い返せない。それは、奴隷の生き方に似ているもの。
少なくとも、僕がデモに参加するようになったのは、「システムの奴隷はイヤだな」と思ったからだ。「誰か、意見のある人は?」と先生が聞く。誰も手を上げない、あの小学校の教室から出なくてはならない。

『ベンダ・ビリリ !』のメンバーの何人かは、障害者シェルターで暮らしていた。ところが、シェルターは火事で全焼し、住む場所がなくなってしまう。
彼らはフランスのホテルに泊まって、こんな会話をする。「タバコを吸うときは気をつけろよ」「ホテルの天井に火災感知器があって、水が降ってくるぜ」「ここは、キンシャサじゃないんだ」。

家が燃えるにまかせておけばいい……とは言わないけど、タバコを吸いたいのに勝手に水が降ってくるような歪んだ便利さは、願い下げだ。
そういう歪みが複合的にからみあって巨大化した施設、それが原発なんだ。

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