■0417■
見なきゃいけない映画があって、眠たくても、意識のあるあいだはズーッと決められた映画を見ていると、せっかくの眠りは、濃くて苦しいものとなる。
アニメーションは、視覚情報が整理されてるので、息抜きにいいなあと思う。『坂道のアポロン』は、ライブ感があって良かった。
渡辺信一郎監督は、『アニマトリックス』で、完成作品では残らない原画のラインを生かしたくて「キッズ・ストーリー」をつくったわけだけど、『坂道のアポロン』の格闘シーンも演奏シーンも、「一回見れば分かるだろ?」と言いたげな思い切りの良さが、気持ちよかった。
多分、最初に動きを描きはじめる第一筆を、渡辺監督は大事にしたいんじゃないの? その後は、果てしなくトレスして、完成してから何度再生しても同じ動きだから。
「次やったら、もう違う動きになっちゃうんだよ」って、そんなことは原理的にはあり得ないんだけれど、そういう気分は濃密に伝わってくるじゃん。「ライブだから、一回きりだぞ」って。
原理にあらがう矛盾と葛藤が「作る」ことなわけで。
「ものをつくる」って、それまであったものを破壊すること。つまらないものって、たいてい、それまで売れてたものにプラスオンしてるだけでしょ。
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日曜の夜の、何かをあきらめたような駅前の雰囲気って、けっこう好きで。
そんな諦念の気分のただようファミレスで、深夜まで友人と話すのは、すごく楽しい。会ってしゃべることって大事だなーとも思うし。
「自分」というのは、やはり、「自分の肉体」が発生させるものであって。世界と接するツールとして、手足があるわけではない。
僕は、バレエを生で見たことは一度しかないんだけど、刻々と変わる動きを、一ミリ逃さず全部ひっくるめて、ようやく「ひとつ」になる。僕らは、はいはいからヨチヨチ歩きに変わって、喉と舌をつかって喋ったり、筋肉をつかって、どこかへ走っていったりした結果を、あえて言うなら「人生」と称しているだけであって。
身体が勝手に動き出す瞬間って、それは「本物」だって気がする。たいてい僕らは、先に頭で想定したことを、あとから身体にやらせているだけだからね。
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後期高齢者・石原老人が、今度はワシントンで「放射能にトラウマがあるのは分かるが、原発を全廃して、とたんに生活が貧乏になって、それでいいんですかという話だ」とか言ってきたそうで、この人も、北海道の一基をのこして、原発が全停止してることを知らないのかな?と思ってしまう。
裏で原発再稼動に暗躍してきた仙谷由人は、「止めた場合、経済と生活がどうなるかを考えておかなければ、日本がある意味で集団自殺をするようなことになってしまうのではないか」と言い出した。「脱原発依存が実現するまで、真っ暗な中で生活を送るわけにはいかない」とかさ。
東北も関東も関西も九州も、一基たりとも原発は動いてないので、まあ聞き流してるんだけど、こういうのをテレビのニュースでタレ流すと、「やっぱり原発は必要だよ」となってしまう。
311前、僕も「日本の電気は、ほとんど原発でつくっている」と、根拠なく信じていたもの。5月5日に、原発が全停止することが確実になったけど、そんなの、国民のほとんどが知らないのではないか。
正確には「電気があれば、どうでもいいよ」「原発事故なんて、去年の話だろ」と思っているから、「知らない」に過ぎないのだが。
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とは言え、関西の電力供給は、夏場は厳しくなると見ている。
脱原発は、そんなに甘くないし、きれいなものでもない。廃炉作業だって危険だし、何十年かかるかも分からない(東海発電所は廃炉作業中だが、全部で23年もかかる)。
それほどの大地震は、めったに起きないだろうと楽観もしている。でも、それは僕が生きてる間のこと。僕が死んだ後、50年もしないうちに、大地震は起きるだろう。
そんなのはイヤだから、今のうちに原発の廃炉作業をはじめよう。そういう話です。石原とか仙谷みたいに、子孫に何もかも押しつけて平気な恥しらずな老人には、絶対なりたくないじゃない?
(C)小玉ユキ・小学館/「坂道のアポロン」製作委員会
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