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人間が最先端のものと信じ込んでいる電子キーは、実は、単純な数字の組み合わせさえ覚えれば、すぐに使えてしまう。だとすると、人間より猿のほうが、うまく使えるんじゃないか?
そう思わせるシーンがあるだけで、『猿の惑星 創世記』はエキサイティングだったし、僕はひさびさに、映画の中に没入できた。何しろ、この写真のシーンで、涙を流してしまったほどだ。
この猿が、CGであるかどうかなんて、途中からどうでもよくなっていた。チャールトン・ヘストンの『猿の惑星』に、うまくつながるかどうかも、どうでもいい。
ただ、グレッグ・イーガンの小説を読むように、ひたすら時間を忘れて、翻弄された。
主人公の猿、シーザーの幸福を願った。そう願えるラストに、満足した。
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不思議なもので、猿が映っているシーンでは、人間のことを思う。人間が映っているシーンでは、猿たちがどうなっていくのか、気になる。
だが、知恵をつけた猿たちと、滅びゆく人間とは、反比例する曲線グラフのように、はなればなれになっていく。
本当は、家畜のようなシステムから解放されねばならないのは、僕たち人間のほうなのだ。
この映画は、決して人間を救わない。ただ、怒り、悲しむ猿たちを描くことで、僕らにも少しは救いがあるんじゃないかと、期待させる。
しかし、シーザーの瞳は、どんなに怒っているときでも、悲しそうに見えた。
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どんな映画だって、自由と解放を求めるんだ。抑圧からの逃走。僕らをシートに縛りつけている罪悪感から、映画は必ず終わってくれる。「さあ、外へ出ろ!」って。
映画は所有できない。時間が来ると、消えてなくなるんだ。
映画のレビュー欄に★印が並んでいて、どうしても満点をつけられないヤツ。さんざん誉めておきながら、なぜだか「95点」と書いてしまうヤツ。
君たちは、「しょせん世界に完璧などあり得ない」と、あきらめている。世界を完璧にするには努力が必要なのだが、その努力を放棄したニヒリストたち。
そういう連中は、「この映画もまた欠けている」と嘆きつづけることによって、世界を暗くしていることに、いい加減に気がついてほしい。
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私の記事の第二回は、『境界線上のホライゾン』です。→■
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