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2012年2月26日 (日)

■0226■

ムービープラスで、『リービング・ラスベガス』を途中から。
Cs0000000000002569000アル中男と娼婦の、疲弊していく恋路。「君は僕に、酒をやめろとは絶対に言えないはず」と、男は娼婦に告げる。彼女は、これからもずっと、客をとりつづけなければならないからだ。

人生の99%までをあきらめた人たちが守りつづける、残り1%。それが何であるかより、「いかにして1%を残したか」、そのやり方で、人間は愚かにもなるし、気高くも生きられる。
どうせあきらめるなら、綺麗にあきらめなさい、ということだ。

テレビのスイッチをひねったら、飲んだくれたニコラス・ケイジが、エリザベス・シュー演じる娼婦を、ろれつの回らない口で食事に誘うシーンだった。
娼婦は、一度は誘いを断るが、結局は自分から深夜のレストランへ誘い返す。その気だるく、甘いムードに、思わず目が覚めた。映画を頭から見なきゃいけないなんて、誰が決めたんだ?


ワタミの女性社員自殺については、いろいろ思うところがある。
端的に言うなら、「そんなに辛ければ、逃げてもいいんだよ」ということになる。

……僕のような自由業、しかも40代だと、逃げられない場合が多い。だから、辛くならない程度に、仕事の量を読むんです。何日も徹夜しなければ終わらないようなら、初めから受けない。
だけど、会社員で、まだ若かったら、たちまち追い詰められてしまうかも知れない。

自分の20代のころを思い出すと、最下層のアルバイトを転々としていた時期がある。八王子~立川は、工場が多かったので、よく分からないバイトしてたよ。カーオーディオの部品組み立てとか、まったく関心のない退屈な作業。
たぶん、こう思って、やり過ごしたんだ。「今は工員かも知れないけど、本当の俺はクリエイターだぞ」って。
30歳をすぎて、そんなふうに考えている人は、もはや手遅れだと思うけど、20代なら妄想で乗り切れる。その歳なら、水だけで何日間が生きてられるし。妄想でいいから、「本当の俺は違うんだ!」と思い込むこと、現実逃避することだ。
(それを「潜在的転職希望者」と呼ぶそうです)

ただ、僕を結果的に出版界に近づけてくれた恩人の言葉が、僕を焦らせた。「才能があるくせに、30歳を過ぎても世に出られないヤツは、性格に欠陥がある」。
その言葉が、いろいろあきらめさせてくれた。「ここまで努力してきたけど、誰からも相手にされないのは、才能がないからだ」って、すっぱりあきらめられた。28歳ごろ。
「求められることだけ、やろう」と開き直ってから、今の仕事で食えるようになった。

だけど、20代前半の若い人が「求められることだけ、やろう」では停滞してしまうか、逆に過労になってしまう。「家に帰ると、ゲームばかりしています」では困ってしまうが、才能がないかも知れない方向へ、全力で挑むことは、僕は無駄とは思わない。
つまり、才能が必要とされる分野って、「ああ、自分は向いてないんだ」って、クルッとUターンして戻ってこられるんです。戻ってくるときは、恥ずかしいかも知れないけどね。
「明日のために、今日の屈辱に耐えるんだ」って、沖田十三も言ってるよ。


この土日、あちこちで反原発デモが行われた。
デモの参加者を批判するのは構わないけど、「放射能に汚染されると、あんなみすぼらしい格好になるのか」という無神経な発言には、悲しくなった。なぜなら、その人は東京に住んでいるから。

食事にも気をつけてないだろうし、マスクもしてないだろう。運よく吸引してないにしても、靴の裏にはベッタリとくっついているはず。いま、東京に暮らすとは、そういうことだ。
原子炉の中にしかないはずのものが、自分の家の玄関やベランダにある――誰も認めたくないだろうけど、「東京は別」と思っている人に出会うと、もはや、かける言葉も見つからない。

(C) 1995 Initial Productions

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2012年2月23日 (木)

■0223■

月刊モデルグラフィックス 4月号 25日発売
Mg201204
●10分で分かる『機動戦士ガンダムUC』 “オールドガンダムファン向け”楽しみ方
オールドファン向けというより、メカ描写にかたよった解説です。見開き2ページ。
もうひとつ、『ガンダムUC』はイベント上映、ストリーミング配信などで視聴方法が広がっているので、そこへ至るまでの道筋を1ページで解説。こっちの方が「どうやったら見られるの?」と迷っているオールドファン向けかも。
もう一本、コトブキヤの「1/35ガンヘッド」について、ヘッドライントピックスに書いてます。ちょっとだけですが、キットの仕様情報あり。

巻頭記事のために、初めて『ガンダムUC』のソフトを買いました。三鷹駅前のTSUTAYAへ走ったら、DVDしか置いてなかったので、「これ下さい」とレジにもっていく、最も原始的な方法で。
しかも、スリーブケースが地味だったので、「これ、本当に最新巻ですか?」と店員さんに問い合わせるなど、いかにも時代に置いていかれたオヤジの体たらく。
でも、「見られないからいいや」とあきらめてしまうのは、意外と、僕ら40代だったりするそうです(『ガンダムUC』で、最も盛り上がっているのは、30代との話)。

今度の『宇宙戦艦ヤマト2199』もイベント上映からスタートするけれど、仕事も家庭もあるオジサンたちは、いかにしてアニメと接するのが理想なのか?
老いていくファンたちを、いかに現役にとどまらせるか……実は、そこにアニメの将来(未来とまでは言わない)がかかっているような気がする。

40~50代は、いい作品にも数多く出会えたけど、失望や裏切りにも慣れているので、意外と柔軟性があるんじゃないか。


先週土曜日の『アーチ&シパック 世界ウンコ大戦争』のトークショーの内容が、公開されています。→
今石洋之監督の愛情のこもったトークを、お楽しみください。
Fdbb48f6あとはモラルってあるじゃないですか。小学生じゃないんだから人前でウンコっていわないとか(笑)。でも言いたいじゃないですか(笑)」って、いい発言だよねえ、これ。

吉祥寺バウスシアターでの上映は、3/2まで。


本日は、あるアニメ監督の入院先へ、お見舞いに行った。
0223caztjjru雨のアスファルトに、花束。コーヒーショップで時間をつぶす。

監督は、僕がお付き合いのある人の中では、おそらく最高齢。入院といっても、リハビリ病棟に移されているので、それほど心配する段階じゃない。
散歩に出かけたいというので、車椅子で雨上がりの歩道へ。

「廣田さんに、相談があったんだよ」と、監督は新しいアイデアを口にした。それは、思わず脳裏に映像が浮かぶような、みずみずしいものだった。
「いま、うちのスタジオが○○(作品名)やってるだろう」「もうすぐ、□□(イベント名)のシーズンじゃないの」と、どうしても業界の話になるのは、こちらに気をきかせてくださったのかも知れない。

友人30代、僕40代、監督70代。「君らは、ひとり身だろう。入院なんてことになったら、どうすんの」と聞かれて、返事につまる。
でも、まあ……「大人になって、結婚できなかったら、どうしよう」なんてことは、中学の頃から考えていたように思う。だから、「自分の面倒は、自分ひとりで見る」程度の、乾いたセンチメンタリズムぐらいしか、残っていない。

病院って、どこかに似ているなあと思ったら、窓から見える風景が、放課後の教室なんだよな。

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2012年2月21日 (火)

■0221■

霞ヶ関に、二日つづけて通う。

昨日20日は、経産省前の抗議集会へ。
0221caz2kc0n平日昼間で、人が少ないだろうから、ちょっとでも応援になれば……。案の定、夜になってからのほうが、仕事帰りの人が集まって、盛り上がったようです。
マイクを握った人が、「僕だって今日、仕事があるんです。プロ市民じゃないんですけど、どうせマスコミには市民団体って書かれちゃうんでしょ?」と言っていたけど、その通りだよ。
「プロ市民」とくくることで、「俺はプロ市民ではない」「彼はプロ市民だ」と二項対立の図式に当てはめたがる。特に、ネットの前から動こうとしない評論家たちは。
現場の空気を吸えば、そんな単純なものじゃないって分かるよ。

高浜原発3号機が定期検査に入ったから、稼動中の原発は54分の2基。「原発が止まると、日本は江戸時代に逆戻りだ!」と叫んでいた人は、そろそろ髷でも結っといてほしいんだけどな。

……かと言って、「電気は余ってます」という言い方には、ちょっと抵抗を感じる。
311直後の節電ブームは、今までの生活を見直すキッカケになったはず。果たして、便座を暖める必要なんてあるのか? 手を洗ったらジェットタオルではなく、ハンカチを使えばいい。

やっぱり、今までの生活は過剰だったんだって、特に都会の人は反省すべきだと思う。


そして、本日21日。東京高裁で、廣田年亮被告の判決。
控訴棄却で、懲役6年6ヵ月の判決は変わらず。弁護人、証人の皆さん、朝っぱらから、ご苦労様でした。無駄骨でしたね。

若い弁護人は、へらへら笑いながら、赤いデイバッグを法廷に持ち込んだ。あいかわらず、非常識なヤツだ。
そして、何となく分かったよ。70歳をすぎた被告の妹や友人は、このニヤケ顔の弁護人から「応援に来てくださいよ~」と、呼びつけられたフシがある。そして、老人たちは「弁護士先生の言うことなら」と信用して、何度も足を運んでしまったのだろう。
彼らが主体的に考えようとしないから、被害者どころか加害者すら救われない。

俺は何も、正義を証明しようとして、出廷するわけじゃない。
殺されて、口もきけなくされた母の無念と苦痛は、誰にも計り知れない。この世から、追い出されてしまったのだから。彼女の代理として、被告たちと戦っているだけだ。

年亮被告は、ふっくら太って、真新しい服を着せてもらっていた。「外で暮らすより、拘置所の中の方が楽だ」と証言してたっけな。
母は焼かれて、真っ白な灰になってしまったというのに。体中、刺し傷だらけで。


昨夜、山口県光市の母子殺害事件の実刑判決がくだった。
ところが、ただ一人残された被害者遺族が再婚していると知るや、非難がよせられた。ご本人は、13年間も果敢に戦われて、外野の声など気にもしていないと思うが――。

僕には、こう聞こえるんだよ。「何だよ、お前は、お前だけの人生を堂々と生きやがって! 俺たちは俺たち自身の人生を生きられてないのに、どうしてお前は自分の人生を生きてやがんだよ!」――そういう、苦しまぎれな嫉妬の声に聞こえる。
「他人の不幸は蜜の味」よりも根深く、「他人の幸福がねたましい」者たちがいる。凄惨な事件の被害者遺族が再婚することは、彼らにしてみれば「分相応で許しがたい幸福」なのだろう。

己に課せられた苦労、肌身に感ずるべき痛みは周到に回避するくせに、他人には、限度をこえた忍耐と努力を要求する人々。
とりあえず、「自分の人生が満たされてないからといって、それを他人のせいにすんなよ、みっともない」……としか、言いようがない。

僕は、この事件の被害者遺族が尽力してくれたおかげで、被告や証人に尋問ができた。すべてを奪われた母の代わりに、法廷に立つことができたんだ。
……言葉も出ない。感謝している。

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2012年2月19日 (日)

■0219■

昨夜は、今石洋之監督のトークショーin吉祥寺バウスシアター。
0219caa0pqza上映された映画は『アーチ&シパック 世界ウンコ大戦争』。約40名の入りなので、「もう、ぶっちゃけ話にしちゃいましょう」と楽屋で打ち合わせて、本番へ。
『DEAD LEAVES』から『ブラック★ロックシューター』の話題まで……『アーチ&シパック』を、かなりの勢いで置いてけぼりにした感も(笑)。「アニメスタイル」の話まで出したのは、ちょっとやりすぎだったかも知れない。
配給会社やトリガーのプロデューサーさんは「いいトークでした」と喜んでくれたのだけど。

40名のお客さんは、どう思われたのでしょうか。少し心配。
100名だったら、もうちょっと緊張感も違ったと思うんですけどね。『アーチ&シパック』は、まだまだ公開中。少ない入りながら、毎日、ちょっとずつ客足は伸びているそうです。


さて、吉祥寺バウスシアターには、意外な知り合いが来ていたので(『アーチ&シパック』は、もう三回も見に来ているそうです)、そのまま飲み会に付き合ってもらいました。
飲み会というか、ガールズバーで知り合った飲み友達に、店を予約してもらっただけなんだけど。
やっぱり、じかに顔を合わせないと、イカンですね……人間関係は。

飲み友達と二人きりになってからは、吉祥寺のガールズバーを経由、三鷹のダーツバーへ。
0219ca27yrs3_2ダーツなんて、ほとんど投げられないんだけど、店員さんや女性客も巻き込んでチームを組むと、なかなか盛り上がった。人が集まると、自分が下手クソでも楽しい。
メガネをかけた小柄な女性は、男性客と待ち合わせていて、途中からチームを抜けてしまった。明け方4時に、ダーツバーで待ち合わせるなんて、なんて素敵なんだろうと、この歳になっても思う。

「もう朝だし、帰ろうか」と、僕らが階段を下りると、さっきのメガネの子がドアのところまで出てきて、「ありがとう、またね!」と、ずっと手をふってくれていた。彼氏(?)と話しこんでいたのに、なんていい子なんだろう、と思ったよ。

夜の街って、そういうことがあるんだよ。ひどい目に合ったことのほうが多いけど、ごくまれに、心の綺麗さみたいなものに出会うことがある。


ひさびさに、母の夢を見た。
正確には、母自身は登場しない。別の部屋にいるか、近所まで買い物に出ているようだ。母の気配だけが、海沿いのマンションに漂っている。
母が飼っているハムスターに水を与える。その横の水槽には、母が嫌いだったはずのヘビなどの爬虫類が飼われている。彼らにも、水を与えてやる。

僕の足元には、一匹の小さな犬が座っていた。それは、結婚時代に妻の連れてきた犬だが、夢の中では、母の飼い犬ということになっている。
僕は、犬を抱き上げて、窓をあけた。窓の外は、遊園地とプールが一緒になったような施設で、青空の下、親子連れがたくさん遊んでいた。

――あれは、夢というよりは、天国だったのかも知れない。
水平線の見える部屋の中は、なぜか生き物にあふれ、窓の外には数え切れないぐらいの人々、笑顔……。とても静かで、ちょっと寂しいけれど、心はとても穏やかだった。

僕には信仰心というほどのものはないけど、あの静かな部屋に母がいるのだと信じたい。
僕が死んでも、あそこには行けないような気がするんだけどね。

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2012年2月16日 (木)

■0216■

仕事の都合で、『さらば宇宙戦艦ヤマト 愛の戦士たち』を見た。すると、同じプロットを踏襲しつつ、「若い者が自ら命を絶つのはよくない」という、まったく別の結論にいたったテレビシリーズ『ヤマト2』に興味がわいてきた。

期待にたがわず、『ヤマト2』第一巻(6話収録)は面白くて、一気に見られた。
0216img_1022599_29223463_1_4特に、空間騎兵隊の斉藤がヤマトに乗り組む第6話のラストでは、涙を流してしまった。『さらば』で、長官のサシガネで送り込まれた斉藤には、ヤマトに乗り組む動機がなかった。
ところが、『ヤマト2』での斉藤以下、空間騎兵隊は、太陽系外周の第11番惑星の警護につかされ、敵の攻撃で全滅寸前である。そこを、ヤマトに救われるわけだ。

空間騎兵隊は、ならず者の集団だ。ヤマトに乗り込むなり、貪欲に食料をむさぼる。しかし、その食事の席に、斉藤の姿はない。
彼は、艦尾から氷の星である第11番惑星を臨みながら、死んでいった仲間たちに「俺は逃げるんじゃない。必ず、帰ってくるぞ」と呼びかけているのだった。

――やっぱりね、陽気な人間が、実は繊細な心を持ち合わせていた……って、グッとくる。それは生身の人間でも、絵に描かれた人間でも、まったく変わらないよ。

それと、老朽艦ヤマトと最新鋭艦アンドロメダの衝突は、モロに「ギャラクティカvsペガサス」で、アンドロメダのプラモデルが欲しくなってしまったなあ。


月曜深夜の「テレメンタリー2012」は、「誘惑の原発マネー~佐賀・玄海町崩れたシナリオ~」だった。深夜とはいえ、民放でも原発関連番組をやるようになったか。

そして、ツイッターでは「番組を見たけど、玄海町の漁師さんたちを可哀相とは思えなかった。むしろ、憎いと思ってしまった」と戸惑っている人がいた。
それが、普通の反応ですよ。原発立地に暮らす人たちの生活を知りつつ、「脱原発」を叫ぶのは、罪悪感を抱え込むということ。大人なら、罪悪感のひとつやふたつ、抱えて生きないと。

僕も、原発労働者がいないがために(玄海原発は停止中)、ガラガラの焼肉店や旅館を見て、複雑な思いにかられた。
同じ商売人として「お気の毒に」と思いながらも、「儲からなかったら、工夫して道を開いてはどうでしょう? 原発立地以外の人たちは、みんなそうしてますよ?」と諭してやりたいような気持ち。
労せずして、自動的にカネが入ってくる暮らしは、人を腐らせるよ。

14日付けの東京新聞、4月から大幅に厳格化される食品規制値について。
雪印メグミルクは、牛乳に対するお母さんたちの厳しい視点に「神経質過ぎるのでは」と戸惑っているらしい。その一方で、日本乳業協会の検査方法は「原発事故以前からの検査法で、批判には当たらない」……消費者に対する考慮は、ゼロだよな。

俺は、彼らに恨まれても蔑まれても、やっぱり原発は止めるべきだと思う。
なので、20日は経産省前の抗議活動に参加する。

土曜日が『アーチ&シパック 世界ウンコ大戦争』のトークイベント。月曜日が経産省前抗議活動。ひとりの人間、この程度の幅をもって動いていなきゃ、アカンですよ。


昨年秋の初公判前もそうだったが、廣田年亮被告が釈放される夢を見るようになった。
被告は、何ごともなかったかのように、人々と歓談している。「この男は、自分の妻を刺し殺しておいて、何もなかったことにしている」「だまされてはいけない」と、僕は夢の中で叫んでいるが、声が出ない。

名著『脳の中の幽霊』によると、腕を失った人が「無くしたはずの腕を痛がる」のは、視覚情報が欠落するからだという。目に見えさえすれば、人間は痛くなるまでこぶしを握ったりはしない。見えなくなるから、限度をこえて、こぶしを握りしめてしまうのだ。
これは、相手の顔が見えないインターネットで、際限なく相手を憎んでしまう場合にも当てはまるのではないだろうか。

同じように、人間は死んで目の前から消えた者に対しては、容赦がなくなる。
代わりに、目の前に見えている人間なら、殺人犯だろうと許したり、かばったり出来てしまうのだ。僕が、廣田被告を擁護する証人たちを「愚かだ、憎たらしい」というのは、そういうこと。

くり返すが、人間は目に見える腕は、痛くなるほど強くにぎったりはしない。しかし、目に見えない腕ならば、悲鳴が出るほど強くにぎってしまうのである――。

(C)東北新社

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2012年2月14日 (火)

■0214■

吉祥寺バウスシアターでレイトショーの始まった『アーチ&シパック 世界ウンコ大戦争』。
0213top_image18日(土)21時からの上映後、トークイベントを開催することになりました。ゲストは、今石洋之監督!
「トークイベントやりましょう」と言い出したのは私なので、司会も私がやらせていただきます。
当日は、整理番号付チケットを販売するそうなので、詳しくはこちらへ。→

バウスシアターさんとは、『マイマイ新子と千年の魔法』上映で仲良くなって、『REDLINE』では特製パネルを作成して、今回は『世界ウンコ大戦争』……なんとも、いろいろ複雑な思いがよぎりますが、皆さま、よろしくお願いします。


12日付の東京新聞、「放射能汚染を追う/給食編・上」。保育園の給食から、お弁当にかえたお母さんの話。
汚染給食を避けるためのお弁当づくりなのに、「給食と同じメニュー」をつくらされ、保育園についたら「園の食器に移し、皆と同じ給食に見えるようにする」。
それが、保育園との約束なんだそうです。「皆と同じ」――気味が悪い。

幼児にまで同調圧力をかけてしまう窮屈な社会を、まずは止めないといけないんですよ。
「皆と同じ」なんて、子どもを満員電車に押し込んで、「みんなが我慢してるんだから!」と言いきかせるようなもんだよ。


埼玉県の上田清司知事が、東電に大激怒している。→
「これだけ満天下に迷惑をかけて誰ひとり警察のご厄介にもなっていない。自首するやつはいないのかと言いたい」……すばらしい、よく言った。ウチの80歳後期高齢知事とは、雲泥である。

そういえば、石原ジイサンの原発住民投票をめぐる暴言について、知事本局に電話しました。
「知事は、独断で条例案を却下できるのですか?」と、丁寧に聞いた上で、「そのような裁量がないなら、ああした発言はするべきではないと思います」と話した程度だけどね。ツイッターで「許せん」とか書いてるよりはマシでしょ?

やっぱり、ネットはヴァーチャルな情熱処理装置であって、ネットに書くと、本来は声に出して言うべき熱量が冷まされてしまう。


BBCのネイチャー・ドキュメンタリー、『ライフ ―いのちをつなぐ物語―』。
02141009083_01映像に集中したいので、日本語で見はじめたが、これには耐えられなかった。原語では、渋いオッサンのナレーターのみなのに、日本語版は松本幸四郎と松たか子。
特に、松たか子は、こういう大自然の映像には「優しいおとなしい声で」ナレーションしなきゃいけないと思い込んでいる。そういう、テレビ的な薄っぺらな刷り込みは、我慢ならない。

いま劇場でやっている日本製ネイチャー・ドキュメンタリーも、アイドル・グループのタレントたちにナレーションやらせてるでしょ。
自然にたいして、畏怖の念もなければ、厳粛な態度で臨んでもいない。自然は人間の支配下にあると思っているから、下世話なテレビの理屈でやってしまう。
心の底から、うんざりする。

世界のどこへ投げ出されても、ちゃんと評価されるものをつくろうよ。こんなの、日本国内、しかもテレビを見ている人間にしか通じないじゃないか。

(C)Studo2.0 all rights reserved.
(C)BBC Worldwide Limited 2011

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2012年2月11日 (土)

■0211■

ミシェル・ゴンドリーが監督しているというので、『グリーン・ホーネット』を見る。
0211sub2df11625_large人によっては、このダラダラした軟弱なノリが許せないとは思うが、ゴンドリーの映画だと思えば、とても責められない。
むしろ、この甘っちょろさが、疲れた心にジワッと染みるではないか。

派手なアクションも多いのだが、僕は、主役二人が仲間割れするシーンで、声を出して笑ってしまった。部屋の中なのにバイクで走ったり、あまりにも幼稚っぽい。
この人は、ティム・バートンみたいに屈折していない。「本当の俺は……」とか「子ども時代のトラウマが……」とか、まったく関係ないんだろうな。

ただ、「こんな風に愉快に生きられたら、人生もマシになるのにね」とでも言いたげな、ちょっとセンチメンタルなところがある。
ゴンドリーの軟弱さが嫌いな人もいるだろうけど、映画の中ぐらい、面白おかしく生きさせてやってくれないか?という気分。


そして、またヘビーな話題から。
原発銀座と呼ばれる福井県の高校生たちは、やはり原発関連の企業に就職したいのだそうだ。→
「生まれたときから原発が身近にあり、私たちは現実と向き合ってきた。福島の事故があってから厳しい目で見られがちだけど、電気は生活に欠かせない。不安はない」
――俺には、言い返す言葉は、ないですよ。
この40数年間、俺は原発なんて、あってもなくても同じだと思って生きてきたのだから。先日、「脱原発は汚い」と書いたのは、「後だしジャンケンで卑怯だ」って意味です。

だから、原発を容認しようが、推進しようが、あるいは無視しようが、みんな共通の罪を負っている。それは、これから生まれてくる世代に、危険な作業を押しつけるんだ、という罪。
反原発デモを「うるせーなー、よそでやれよ」と嫌がっている人さえ、その罪からは逃れられない。稼動させようが廃炉にしようが、必ず生け贄を必要とする。もう、それは分かりきっていることだ。

その上で、態度を決定しなくてはいけない。……来月、三鷹でデモがあるので、ちょっと行ってみようかと考えている。


21日、広田年亮被告の判決がくだる。
道を歩いていて、ふと思う。ここにいる人たちに「こんな事件があったんですが、どう思いますか?」とアンケートしたら、全員が被告を許すんだろうなって。「もう、お歳なんでしょ」「殺したからには、よほどの理由があったのよ」「神経が参っていたなら、仕方ないよ」って感じに。
血のついた包丁やベッドを見ても、たぶん冷静に「お父さんだろう、許してあげなよ」とでも言うんだろうな。実際、血痕が点々と残る犯行現場を見てきたはずの被告の妹が、シレッと弁護側の証人に立ったものな。

世の中のすべてが、僕と正反対を向いている。
一年前の今ごろは、立川検察に呼ばれ、ようやく被告が起訴されると分かって、ホッとしていた。今はもう、あの頃の気持ちさえ、懐かしい。
誰もついてこられない場所まで、僕はひとりで来てしまった。


さて、賛否両論ある「原発国民投票」だが、30万人の都民が署名したらしい。僕も昨年、『けいおん!』を見に行ったとき、立川駅前で署名した。
ところが、石原おじいちゃん(80歳)は「条例つくれるわけないし、つくるつもりもない」。→
「原発も原爆のトラウマがあるから、みんな一種のセンチメントで恐怖感を抱いている」って、福島第一の事故で仕事や故郷を失った人、自殺するしかなかった人にも、「センチメント」と言えるのかね、このジイさんは。

ちなみに、石原ジイさんは「原発に反対するのはサルと同じだ」という発言を引用しているけど、発言元は吉本隆明。87歳だよ!
だけど、原発好きは老いぼればかりではない。「危険と隣り合わせに生きるのがカッコいい」「人間の技術の進歩は無限である」と考えている人は、チラホラいる。彼らの「美学」は、他人の悲惨をいっさい顧みてない。人の目を見て言えないから、匿名でネットに書き散らすしかない。

とにかく、東京都には抗議をするとして……もう、我慢する必要はあるまい。人をなめきった後期高齢知事は、とっととくたばれ。

(C)2010 Columbia Pictures Industries, Inc. The Green Hornet, related characters and hornet logo TM & (C) 2010
The Green Hornet, Inc. All Rights Reserved.

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2012年2月 9日 (木)

■0209■

以前に見た『フード・インク』の姉妹編のようなドキュメンタリー、『ありあまるごちそう』。
0209wefeedtheworld03食の裏側をえぐったドキュメンタリーは何本か見たが、どれも、今の日本の食品流通のルーズさには、かなわない。どれだけ残虐にニワトリを処理していようと、ぜんぜん清潔に見えてしまうな。

ブラジルの熱帯雨林が伐採されて、どんどん大豆畑にされていく様子が出てくる。
それらの大豆は輸出用であって、ブラジルの国民の25%は貧困層なのだという矛盾。まともな食材は、やや裕福な人から借りているヤギの乳だけで、飲み水はドブから汲んでくるのである。当然、子どもは病気になる。
さらに言うなら、ヤギの乳は人間の子どもに飲ませるので、引き離された子ヤギは、つねに飢えている。――そうまでして、人間が生きていく理由とは、何なのか。

最後に「世界中の飲み水を、すべて製品として扱いたい」「そうすれば、消費者は水の価値が分かる」と、ネスレの社長がのたまうので、もう絶望的な気分になるよ。


沖縄そばから、258ベクレルのセシウムが検出されました。加工の段階で、福島産の薪を使っていたそうです。
その福島産の薪を沖縄県内へ売ったのは、岐阜県の業者。何度も書くけど、社会があちこちで分断しているから、こういうことが起きる。


昨日は、大飯原発のストレステストの意見聴取会。反対集会に出るつもりだったけど、僕が行くまでもないかと思い、途中で引き返してしまった。
そのような行為をとがめるツイートを、帰宅してから見て、猛省させられたのだが……。(そのような厳しいツイートをしてくれるのは、やはり女性なんです)

経産省へ行くのをやめて、途中下車して、ひとつだけ分かったことがあります。
ものすごく、楽なんです。自分のことだけにしか、意識が向かわないから。「ああ、これが“無関心”ってやつか。確かに楽だな」と、ちょっと怖くなった。

靴の修理を、どこへ出そうか。クリーニングに出しているシャツは、もう出来ているだろうか。古本屋にも、寄っていきたいな……ものすごく、エゴイストになれます。
原作の『ナウシカ』で、彼女は「シュワの墓所」という地獄のような場所へ、被爆しながらたどり着こうとします。が、その手前に夢のように穏やかな楽園があり、あまりに居心地がいいので、自分の目的を忘れかけてしまう。あの「楽なんだけど怖い」感じ。

無関心もニヒリズムも、自分の胸の奥に、いつでも口を開けて待っている。


僕は、懲りずに「原発やめろ」「今すぐ廃炉」と怒鳴るでしょう。
だけど、潔癖症から言うわけではないですよ。廃炉作業は、僕の生きているうちには終わらない。まだ生まれてもない人たちに、後のことを押しつけて死んでいくんだ。
虫のいいことを叫んでいるという自覚ぐらいはある。

脱原発はね、汚いんですよ。分かった上で、叫ぶのです。

そもそも僕は、母を殺した犯人への憎悪で、真っ黒に汚れている。今さら、綺麗なフリなどするもんか。
後ろ指をさされ、罪悪感も何も背負い込んでいって、それが僕の人生なんだ。

(C) Allegrofilm 2005

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2012年2月 7日 (火)

■0207■

仕事の合間をぬって、『ヴィヨンの妻 ~桜桃とタンポポ~』。
0207004何しろ、広末涼子が浅野忠信の浮気相手、心中相手だからね。松たか子はさておいて、広末の登場シーンになると、ハッと目がさめる。
なぜか、丸いメガネをかけたインテリ風のいで立ち。松たか子に「熱燗ですか、冷ですか?」と聞かれて、「あたしは、冷に決まってるんだよ」とアダな返し方。たまらんですね。
女優が酒を飲むシーンは、映画を見る楽しみのひとつですから。

ただ、登場シーンが少ない。この後は、浅野から心中に誘われ、温泉へ旅行、簡単なセックスシーンのあと(このシーンのためか、映倫様はPG-12に指定)、もう心中だからね。
トータルで20分ぐらいじゃないだろうか。

広末涼子は『子猫の涙』のキャバ嬢役も良く、意外と夜の世界が似合う人だ。


太宰治は、高校から大学のあいだに、あらかた読んでしまった。読み直す気にはなれない。
男は、つくづく無駄な存在だと思ってしまう。ある人によると、反原発運動に参加しているのは、半分が女性。原子力利権に群がっている9割までが、男なのだという。
この『ヴィヨンの妻』でもそうなんだけど、男には柔軟性がない。一度決めた考えを、なかなか変えられない。女は、たとえ子どもがいようが……いや、子どもがいるからこそ、「ここで働かせてください」と、どんどん自らの環境を変えていく。

別に、ニートでもいいんですよ。いつまでも、親の厄介になっているという自覚さえあれば。
だけど、自分には家族をつくるつもりがない、結婚するつもりもないから、社会なんてどうにでもなれ……という考え方には、吐き気がします。
人の目が怖い、社会に組み込まれるのが苦痛なら、僕は無理に溶けこむ必要はないと思う。僕だって、ドロップアウトしてる。でも、それは「他人の幸せなんて、どうでもいい」と投げ捨てる理由にはならないよ。

太宰の小説の主人公は、情死しようとして生き残り、「つらいのです」とか言いながら、結局は女に甘えて、何も変わらない。
アニメとゲームだけで一日を終えても、俺も人生のある時期をそうして過ごしていたから、理解はできるんだよ。でも、そのうえで「つらいのです」と自己憐憫に逃避していたら、それこそ何のために生きてるんだ?と思ってしまうな。


日本の自殺人口は、1998年から、三万人を切ったことがない。
そして、自殺者の七割が男性なんだよ。なぜなら、男は生き方を変えられないから。頑迷固陋で己のケチな「信念」に固執し、すぐ袋小路に入りこんでしまう。
「日本の自殺者の七割は、男」。これは、男の役立たずぶりを示す、何よりの数字だよ。

「男らしくあれ」なんて、クソみたいな言葉でしょう? いま、女の子同士が仲良くするアニメが、増えている。それを征服欲で見ている人は、あんまりいないと思う。みんな、彼女たちのように、感情をオープンにしたいと思ってるんじゃないの?
弾力性のあるアニメの世界に比べると、男の身体は、なんと窮屈なんだろうと、俺は思う。歳くうと、ちょっとしたことで疲れちゃうしさ。
だからせめて、自分が役立たずであればあるほど、女性を大事にしてはどうか?と考えるようになった。

行き詰まった男がニヒリストになるのは、楽なんだよ。直結してるから。行き詰まって先のない人間は、他人のことを考えるだけで、ちょっとは救われるんだ。
自分のことしか考えられないのは、ガキンチョ。それは、男も女も関係ないけどね。

(C)2009 フジテレビジョン パパドゥ 新潮社 日本映画衛星放送

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2012年2月 6日 (月)

■0206■

昨日の京都市長選。投票率は36・77%、脱原発を訴えた新人候補は負けました。
僕らは、震災直後の都知事選で、石原おじいちゃん(今年80歳)を勝たせてしまったから、「やっぱり西日本は意識低いな」とは言いません。

東京人って、地方から上京した人から見ると、やっぱり異常なんですって。
大雪が降っても、いつもの靴で出かける。友人に言わせると、「長靴って便利なのに、どうして東京の人は使わないのかな?」と。
ようするに、東京人は「平時」に慣れすぎ、「有事」に備える心がまえ……というより、「有事」という概念そのものがないように思います。

僕は福島出身の友人に強く勧められて、カセット式ガスコンロを購入しました。


昨年、給食に汚染牛肉が出されました。何人の子どもたちが食べてしまったと思いますか?
18万人です。18万人の親御さんが立ち上がれば、こんな危険だらけの給食制度など、打倒できましょう――各地の市民運動の成果で、お弁当を選べる制度も、自治体ごとに進みつつあるようです。だけど、お弁当をつくるにしても、西日本や外国の安全な食材を厳選しないと、意味ないわけです。

そのような苦労をしなければならなくなった原因は何かというと、原発ですよ。
僕は、東京に降下した放射性物質の量を考えると、草っぱらに寝転びたくはありません。ETV特集で海洋汚染の実態を見てしまったので、魚は口にできません。
気をつけてきたつもりだけど、マスクしない日も多かったし、確実に内部被爆しているでしょう。だから、再婚もしませんし、子どももつくれません。

原発に反対する理由は、それで十分です。
抗議デモに参加すると、後ろ指をさされますよ。「アイツ、過激だ」って。これから、仕事も減っていくんじゃないでしょうか。「何もなかった」ことにするのが、賢いのでしょう。
僕は賢くないから、思うことを実践します。それで仕事がなくなるなら、それまでの縁だったのでしょう。


小学校のころ、先生がひとりの生徒を指さして「姿勢がよくない」って言うんです。
そのたびに、指されてもいないクラスの全員が、わざとらしく椅子をギシギシ鳴らして、姿勢を正すフリをする。
――気持ち悪くてね。なんでいっせいに同じ行動をとるんだろう? 「前へならえ」「小さく前へならえ」「気をつけ」「休め」とか、毎朝の朝礼で、さんざん強いられてるのに。あの号令で、みんな去勢されてしまった。

義務教育からして、「みんな同じ」「変わったヤツは排除」だったでしょ。そのくせ、成績で順位だけはつけられるから、どんどん嫉妬がたまっていく。嫉妬が渦巻いてるのに、表面では同調してないと、排除されてしまう。
テストのたびに、「何も勉強してないよ、どうしよう」「もう、あきらめよう」とか、心にもないことを口にして、周囲から浮かないように努める。テストの直前まで教科書をにらんでないと、「余裕だねー」とか言われる。
原発抗議デモに参加すると「過激だねー」と言われるのと、まったく同じじゃないか。

たぶん、本気で原発に反対して行動している人は、日本国民の百分の一にも満たないでしょう。だったら、その百分の一でがんばるしか、もう道はないと思います。

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2012年2月 3日 (金)

■0203■

今夜は仕事で参加できないのですが、私が積極的に参加している抗議デモに「東電前アクション」があります。
なんとなく、このブログのアクセス解析を見ていたら、「東電前アクション 馬鹿」で検索してきた人がいました。今朝の9時53分です。IPアドレスは「tproxy108.tepco.co.jp」……って、東電社員ご本人じゃないですか。
就業時間中だろうに、何をやってるんだか……。

たぶん、東電前アクションが気に食わなくて、「誰か馬鹿にしている人はいないかな」と検索をかけたのでしょう。
こういう「他人に悪口を言わせて安心する人」って、東電社員にかぎらず、ネットにいっぱいいます。「ああ、俺以外にも同じ考えのヤツがいるぞ」と安心したいんだろうね。
せめて、悪口ぐらいは、自分の意志で書けばいいのに。「自分独自の意見」を背負って立つことすら、ビビって出来ないのか、と。

来月の東電前アクションには参加予定なので、東電社員さん、よろしく。


どういうわけか、加害者に優しい世の中です。
東電に関しても「まあ、責めても仕方ない。彼らも人間だよ」と思っている人が、日本人の9割ぐらいじゃないでしょうか。
原発事故が原因で自殺してしまった人、福島第一で亡くなった作業員の方たち。あるいは福島から疎開してきて、「絶対に東電だけは許さない」とデモで絶叫していた女の子。――皆、弱者を振り返ろうとしない。

昨日のブログに書いた母の事件だって、まったく同じことです。
傍聴席に被告の妹とその娘、被告の友人の三名。そして、弁護人一名。計四名が、人殺しの被告を助けるため、集まってきました。
彼らは、被害者である母のことを、どう思っているのでしょう? 「死んじゃったんだから、仕方ないよね」「もうこの世にいないんだから、人権なんてないよ」。こんな程度ではないかと、私は予想する。
事実、被告の妹は「これは夫婦の問題だから(殺された妻にも責任がある)」と、私に言ったことがあります。

人殺しだろうがなんだろうが、生き残った方の味方をする。これは、楽です。
法廷に出られず、もちろん証言も出来ず、それどころか存在すらしなくなった母の味方をする。不名誉な死をとげた彼女の代弁者となる。それには、被害者の無念と恐怖、肉体的苦痛を想像する力が必要です。
「愛」などという不明瞭な概念ではなく、想像力でその場に立ち、意志を発揮しつづけなければならない。

目に見える者の味方をするのは、実に簡単なことです。しかし、忘れられれば存在すらしなくなってしまう死者を、弱者を、心から思うことが生きる者の義務だと思います。


『マイマイ新子と千年の魔法』の上映でお付き合いのできた吉祥寺バウスシアターで、『アーチ&シパック 世界ウンコ大戦争』という韓国アニメが公開されます(11日~)。
02031009561_01トークイベントが予定されているのですが、その司会を、配給会社から頼まれました。

結局、「お前は、まだこっちの世界にとどまりなさい」「この世の中でやることが、まだ残ってますよ」と引き戻してくれるのは、いつだって仕事なのです。
仕事がなくなったとき、家族のない僕には生きていく理由がありませんから、せめて誰かの役に立てる道を探すのでしょう。

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2012年2月 2日 (木)

■0202■

血なまぐさいことを書きますので、嫌な方は、もっと楽しいブログへ。
本日、廣田年亮被告、控訴審。東京高等裁判所。罪状は、私の母を殺したこと。

控訴審は一時間もかからないと聞いていたのだが、弁護人から被告への質問はあった。これは、被告にとっては格好の弁解のチャンスだ。
被告の証言はパターンが決まっていて、「裁判官へ話すとき→泣き声で、感情的に」「検察官に話すとき→とぼける、はぐらかす、高飛車」。今回も、その作戦どおりだったが、あまりに話を横道にそらしたため、裁判員に注意を受けていた。

まあ、どんな進行だったかは、別にいいんです。被告は「執行猶予なし懲役6年6ヵ月はキツすぎるので、軽くしてちょ」と言いたくて、控訴しただけで、それ以上でも以下でもないのだから。
「妻を包丁でメッタ刺しにしたのは、精神耗弱状態だったので、まあ、見逃してちょ」。それだけです。


私がショックを受けたのは、犯行直後の様子を知ったときです。
――われわれは、事態が深刻であればあるほど、「実際はたいしたことないんだ」と思い込みたがる。人が車にはねられた、と聞けば、なんとなく骨が折れたとか、頭から血がダラリと流れて失神……と、きれいな方へ考えたがるんじゃないでしょうか。

私は、母が刺殺されたと聞いた当初、「寝ている間に刺されて、即死」程度に考えました。
その後、実は病院に搬送されてから死亡したことを、警察から知らされます。その間、一時間も苦しんだわけです。

包丁2本が両胸に突き立てられていたことは、なぜか警察では教えられず、ネットのニュースで知りました。そして、ずっと後に、地裁で写真を見せられることになります。
同時に、胸をいきなり刺されたのではなく、全身数箇所を深く刺されていたことを知らされ、母が「抵抗したか、逃げようとしていた」ことが分かりました。
――裁判では、その残虐性は争点になりません。なぜなら、被告が犯行当時のことを「忘れた」と証言しているからです。

今回、弁護側から提出された証拠を、裁判のあとで見せてもらいました。
被告が警察に電話したとき、母は「うめき声をあげたり、ときどき動いている」と、被告自身が語っているのです。
早く119番に電話していれば、助かったかも知れないのに、被告は「殺した」「死んだ」と110番に電話した。そのすぐ後ろで、包丁を刺されたままの母は、まだ動けるほど体力があり、苦しみの声を上げつづけていたのです。


傍聴席には、原審で証人に立った被告の妹と友人がいました。彼らは知らない。母の遺体の写真も見ていない。痛々しい刺し傷の写真も。
彼らは、きれいな部分しか見ていないのです。だから、「人殺しだけど兄だもの」「友人だもの」と、浅はかにも証言台に立ってしまい、殺された母には遠慮会釈のない証言をくり返し、被告を「助けたい」などと言う。

死者の出ている裁判なのに、被告の弁護人は紫のスーツに真っ赤なネクタイをしてきた。どこの営業マンかと、常識を疑ってしまう。
あの学生みたいな弁護人は、「お仕事」として法廷に来たにすぎない。

僕が本当に絶望を感じ、母を浮かばれないと思うのは、彼ら証人や弁護人の顔を見るときです。
まったく悪びれない、後ろめたさのカケラもない、その晴れやかな顔。普通の人。一般人の顔。感じないんだよ、彼らは。母がどんな怖かったか、苦しかったか、無関心なんだ。
だから、平然と法廷に現れるんだ。

僕は、被害者遺族として意見陳述を行ったが、彼ら証人や名前も知らない傍聴人たちに、「何だ、あの男は……実の父を、よくもああまで憎めるな」と後ろ指をさされる覚悟ぐらいは、してくるさ!
自分に正義があるなんて思ってない。悪役で結構。母の名誉を守れるのは、もう俺しか残ってないから、そのために法廷に出たんだ。

罪悪感を忘れたら、人間には1グラムの価値だって残ってない。
それを、この事件を知る皆さんに、忘れてほしくない。


霞ヶ関まで来たので、経産省前の脱原発テント村へ。
0202ca4dk7hf「カンパに来ました」「ああ、どうもありがとう」「最近、右翼は邪魔しにきますか?」「たまに来るけど、大丈夫だよ」

僕には、どうしてテントが国有地になければならないか、分かったような気がする。
いつでも排除されるリスクを負うことなしに、いかなる主張も説得力を持たないからだ。

風は強かったけど、空は青い。立ち止まって、青空を見上げたら、足が動かなくなった。
そのときの感情は、説明できない。空から宙吊りにされているような感じだった。「後ろめたさのない、善意ある人々」がいるかぎり、母は救われないのではないか――。

青空はきれいだったけど、きれいなものが正しいとも優しいとも限らないのです。

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2012年2月 1日 (水)

■0201■

朝からの打ち合わせが終わってから、『ももへの手紙』マスコミ試写へ。
0201main_large僕は実写映画でも、テーマを気にすることは滅多にない。
これは、父を失った娘と夫を失った妻が傷を癒していく物語。それ以上、何か深く考えると、大事なものが逃げていくような気がする。

「父の不在」と「見知らぬ土地」への違和感は、キャラクターの表情や芝居に、つまり表現として、見事にあらわされている。
あと、妖怪たちのデザインは、かなり好悪が分かれそうだけど、なんとなく漠然と「やはり、日本には種々雑多な神様がいるのだ」と感じさせる。そのバランス感覚も、なかなか良かった。僕は、妖怪の造形は、ちょっと苦手だったけどね……(骨格や筋肉まで描いてあるところが、ちょっと)。


絶対に崩れそうもない端正なデザインのももが、妖怪たちと出くわすたびにとるリアクションが、意外と大胆にディフォルメされていたり、かと思うと、色気を感じるほどリアルだったり、「動けば可愛いヒロイン」。

そもそも、ももの周囲で妖怪たちが可視化されていくプロセスそのものが、かなりの見せ場となっている。僕は、作画とCGの総力戦であるクライマックスより、古い町でオタオタと逃げ回るももを見ていた方が楽しかった。
何しろ、ひとつひとつのカットが、ぴたっと決まるんだ。「このパースでこう撮れば、緊迫感が出るだろう」とか「こういう間の抜けたカットを入れれば、ちょっと笑いが出るだろう」とか、その辺はテクニックに酔わされる、めくるめく快感。

動いてばかりでなく、ピターッと止めの絵が入ったりね。小道具の使い方も、上手い。中盤のアクションよりも、僕は前半のじわじわ迫る感じが好き。
僕からすれば、それが映画の「ネタ」なのであって、それこそ公開まで具体的には書かないよ。

公開は、4月21日。長いなあ。
ラストは、途中まで見ていけば「だいたい、こんな感じかな」と予想がつくだろうけど、死者が蘇る数年前の邦画のような、下品なことはしません。
死を取り扱う神妙さでは、アニメのほうが、ずっと上を行っているのです――『マイマイ新子と千年の魔法』や『カラフル』を見ていると、そう思えてきます。


試写会まで間があったので、三鷹から吉祥寺、西荻窪から荻窪まで歩いた。

はるか先に、スケートボードを抱えた女の子が歩いている。たまに、ボードを歩道において、軽く地面を蹴る。両手でバランスをとる危なっかしさが、いかにも女の子らしい。
人通りが多くなると、ボードを抱えあげて、普通に歩き出した。その遠慮のしかたが、彼女特有の慎みぶかさをあらわしているように感じられた。

それは、ずっと昔の出来事のようにも思える。
ふと気がつくと、かつては親しみをおぼえることの出来たこと・ものが、ずっと遠くへ行ってしまっている。無くなりはしないけど、僕とは関係のない世界へ離れてしまっていることが、たまにある。

(C)2012「ももへの手紙」製作委員会

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