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仕事の都合で、『さらば宇宙戦艦ヤマト 愛の戦士たち』を見た。すると、同じプロットを踏襲しつつ、「若い者が自ら命を絶つのはよくない」という、まったく別の結論にいたったテレビシリーズ『ヤマト2』に興味がわいてきた。
期待にたがわず、『ヤマト2』第一巻(6話収録)は面白くて、一気に見られた。特に、空間騎兵隊の斉藤がヤマトに乗り組む第6話のラストでは、涙を流してしまった。『さらば』で、長官のサシガネで送り込まれた斉藤には、ヤマトに乗り組む動機がなかった。
ところが、『ヤマト2』での斉藤以下、空間騎兵隊は、太陽系外周の第11番惑星の警護につかされ、敵の攻撃で全滅寸前である。そこを、ヤマトに救われるわけだ。
空間騎兵隊は、ならず者の集団だ。ヤマトに乗り込むなり、貪欲に食料をむさぼる。しかし、その食事の席に、斉藤の姿はない。
彼は、艦尾から氷の星である第11番惑星を臨みながら、死んでいった仲間たちに「俺は逃げるんじゃない。必ず、帰ってくるぞ」と呼びかけているのだった。
――やっぱりね、陽気な人間が、実は繊細な心を持ち合わせていた……って、グッとくる。それは生身の人間でも、絵に描かれた人間でも、まったく変わらないよ。
それと、老朽艦ヤマトと最新鋭艦アンドロメダの衝突は、モロに「ギャラクティカvsペガサス」で、アンドロメダのプラモデルが欲しくなってしまったなあ。
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月曜深夜の「テレメンタリー2012」は、「誘惑の原発マネー~佐賀・玄海町崩れたシナリオ~」だった。深夜とはいえ、民放でも原発関連番組をやるようになったか。
そして、ツイッターでは「番組を見たけど、玄海町の漁師さんたちを可哀相とは思えなかった。むしろ、憎いと思ってしまった」と戸惑っている人がいた。
それが、普通の反応ですよ。原発立地に暮らす人たちの生活を知りつつ、「脱原発」を叫ぶのは、罪悪感を抱え込むということ。大人なら、罪悪感のひとつやふたつ、抱えて生きないと。
僕も、原発労働者がいないがために(玄海原発は停止中)、ガラガラの焼肉店や旅館を見て、複雑な思いにかられた。
同じ商売人として「お気の毒に」と思いながらも、「儲からなかったら、工夫して道を開いてはどうでしょう? 原発立地以外の人たちは、みんなそうしてますよ?」と諭してやりたいような気持ち。
労せずして、自動的にカネが入ってくる暮らしは、人を腐らせるよ。
14日付けの東京新聞、4月から大幅に厳格化される食品規制値について。
雪印メグミルクは、牛乳に対するお母さんたちの厳しい視点に「神経質過ぎるのでは」と戸惑っているらしい。その一方で、日本乳業協会の検査方法は「原発事故以前からの検査法で、批判には当たらない」……消費者に対する考慮は、ゼロだよな。
俺は、彼らに恨まれても蔑まれても、やっぱり原発は止めるべきだと思う。
なので、20日は経産省前の抗議活動に参加する。
土曜日が『アーチ&シパック 世界ウンコ大戦争』のトークイベント。月曜日が経産省前抗議活動。ひとりの人間、この程度の幅をもって動いていなきゃ、アカンですよ。
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昨年秋の初公判前もそうだったが、廣田年亮被告が釈放される夢を見るようになった。
被告は、何ごともなかったかのように、人々と歓談している。「この男は、自分の妻を刺し殺しておいて、何もなかったことにしている」「だまされてはいけない」と、僕は夢の中で叫んでいるが、声が出ない。
名著『脳の中の幽霊』によると、腕を失った人が「無くしたはずの腕を痛がる」のは、視覚情報が欠落するからだという。目に見えさえすれば、人間は痛くなるまでこぶしを握ったりはしない。見えなくなるから、限度をこえて、こぶしを握りしめてしまうのだ。
これは、相手の顔が見えないインターネットで、際限なく相手を憎んでしまう場合にも当てはまるのではないだろうか。
同じように、人間は死んで目の前から消えた者に対しては、容赦がなくなる。
代わりに、目の前に見えている人間なら、殺人犯だろうと許したり、かばったり出来てしまうのだ。僕が、廣田被告を擁護する証人たちを「愚かだ、憎たらしい」というのは、そういうこと。
くり返すが、人間は目に見える腕は、痛くなるほど強くにぎったりはしない。しかし、目に見えない腕ならば、悲鳴が出るほど強くにぎってしまうのである――。
(C)東北新社
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