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血なまぐさいことを書きますので、嫌な方は、もっと楽しいブログへ。
本日、廣田年亮被告、控訴審。東京高等裁判所。罪状は、私の母を殺したこと。
控訴審は一時間もかからないと聞いていたのだが、弁護人から被告への質問はあった。これは、被告にとっては格好の弁解のチャンスだ。
被告の証言はパターンが決まっていて、「裁判官へ話すとき→泣き声で、感情的に」「検察官に話すとき→とぼける、はぐらかす、高飛車」。今回も、その作戦どおりだったが、あまりに話を横道にそらしたため、裁判員に注意を受けていた。
まあ、どんな進行だったかは、別にいいんです。被告は「執行猶予なし懲役6年6ヵ月はキツすぎるので、軽くしてちょ」と言いたくて、控訴しただけで、それ以上でも以下でもないのだから。
「妻を包丁でメッタ刺しにしたのは、精神耗弱状態だったので、まあ、見逃してちょ」。それだけです。
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私がショックを受けたのは、犯行直後の様子を知ったときです。
――われわれは、事態が深刻であればあるほど、「実際はたいしたことないんだ」と思い込みたがる。人が車にはねられた、と聞けば、なんとなく骨が折れたとか、頭から血がダラリと流れて失神……と、きれいな方へ考えたがるんじゃないでしょうか。
私は、母が刺殺されたと聞いた当初、「寝ている間に刺されて、即死」程度に考えました。
その後、実は病院に搬送されてから死亡したことを、警察から知らされます。その間、一時間も苦しんだわけです。
包丁2本が両胸に突き立てられていたことは、なぜか警察では教えられず、ネットのニュースで知りました。そして、ずっと後に、地裁で写真を見せられることになります。
同時に、胸をいきなり刺されたのではなく、全身数箇所を深く刺されていたことを知らされ、母が「抵抗したか、逃げようとしていた」ことが分かりました。
――裁判では、その残虐性は争点になりません。なぜなら、被告が犯行当時のことを「忘れた」と証言しているからです。
今回、弁護側から提出された証拠を、裁判のあとで見せてもらいました。
被告が警察に電話したとき、母は「うめき声をあげたり、ときどき動いている」と、被告自身が語っているのです。
早く119番に電話していれば、助かったかも知れないのに、被告は「殺した」「死んだ」と110番に電話した。そのすぐ後ろで、包丁を刺されたままの母は、まだ動けるほど体力があり、苦しみの声を上げつづけていたのです。
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傍聴席には、原審で証人に立った被告の妹と友人がいました。彼らは知らない。母の遺体の写真も見ていない。痛々しい刺し傷の写真も。
彼らは、きれいな部分しか見ていないのです。だから、「人殺しだけど兄だもの」「友人だもの」と、浅はかにも証言台に立ってしまい、殺された母には遠慮会釈のない証言をくり返し、被告を「助けたい」などと言う。
死者の出ている裁判なのに、被告の弁護人は紫のスーツに真っ赤なネクタイをしてきた。どこの営業マンかと、常識を疑ってしまう。
あの学生みたいな弁護人は、「お仕事」として法廷に来たにすぎない。
僕が本当に絶望を感じ、母を浮かばれないと思うのは、彼ら証人や弁護人の顔を見るときです。
まったく悪びれない、後ろめたさのカケラもない、その晴れやかな顔。普通の人。一般人の顔。感じないんだよ、彼らは。母がどんな怖かったか、苦しかったか、無関心なんだ。
だから、平然と法廷に現れるんだ。
僕は、被害者遺族として意見陳述を行ったが、彼ら証人や名前も知らない傍聴人たちに、「何だ、あの男は……実の父を、よくもああまで憎めるな」と後ろ指をさされる覚悟ぐらいは、してくるさ!
自分に正義があるなんて思ってない。悪役で結構。母の名誉を守れるのは、もう俺しか残ってないから、そのために法廷に出たんだ。
罪悪感を忘れたら、人間には1グラムの価値だって残ってない。
それを、この事件を知る皆さんに、忘れてほしくない。
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霞ヶ関まで来たので、経産省前の脱原発テント村へ。「カンパに来ました」「ああ、どうもありがとう」「最近、右翼は邪魔しにきますか?」「たまに来るけど、大丈夫だよ」
僕には、どうしてテントが国有地になければならないか、分かったような気がする。
いつでも排除されるリスクを負うことなしに、いかなる主張も説得力を持たないからだ。
風は強かったけど、空は青い。立ち止まって、青空を見上げたら、足が動かなくなった。
そのときの感情は、説明できない。空から宙吊りにされているような感じだった。「後ろめたさのない、善意ある人々」がいるかぎり、母は救われないのではないか――。
青空はきれいだったけど、きれいなものが正しいとも優しいとも限らないのです。
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