■1107■
昨日は、吉祥寺駅前で脱原発デモ。朝まで仕事して、目覚めたのが13時半だったので、小雨の中、駅前に急ぎました。せめて、沿道から応援しようと……。
日曜日の吉祥寺は、あんまり好きじゃないです。混みあっているから。
それと、最短コースをとろうとすると、見たこともないような店の間を、突っ切ることになる。幼いころから見知った風景は、ほとんど消えてしまっている。
PARCO前で、隊列に出くわしました。隊列は真っ二つに分断され、なんだか元気がないように見えます。横断歩道を渡り――「何アレ」「原発だってさ」など、あざ笑うような声を耳にしながら――、間近にプラカードを見ました。
いま稼働中の原発の数、全電力に占めるパーセンテージ。暫定規制値、食べもの・飲みもののこと。
とりわけ目をひいたのは、確か、こんな言葉だった。「汚れた土地を、返せ」。
福島のことじゃないですよ。東京が汚れてるってことです。
■
1000人ぐらい、軽く集まるだろうと思ったら、小雨と猛烈な湿気のせいか、700人とのこと。
ツイッターで検索したら、デモに腹を立てた若い男が、小学生の女の子のすぐ後ろの看板を蹴飛ばして(女の子が蹴られたわけではありません。訂正し、お詫び申し上げます)、走り去った――との情報。だから、手続きを踏まない怒りは、デモよりも反社会的だというのですよ。
「デモうざい」「邪魔だ」と書くしかなかった人たちは、「無関心な人を振り向かせたい」というデモの主旨に、ちゃっかり乗せられてしまっているわけで、まあ、いいでしょう。
あの高円寺デモからも、もう半年以上たったんですよね。僕は理念だけのデモには興味を失い、東電や経産省など、明確にターゲットを決めた活動にだけ参加した。それも、替え歌をうたう気軽なムードには、もはやついて行かれず……。
東京で、同じ考えをもつ人を見つけるのは、不可能に近いです。
岩手県の瓦礫が東京都に運び込まれた問題で、友だちと意見が合わず、たがいに黙ってしまいました。こういう断絶を、事故以来、何度も何度も経験してるんです。
いちばん辛いのは、それなんですよ。
■
今日は昼過ぎに起きて、東京都環境局に電話しました。
なぜなら、ツイッターで「高橋」という局員が、「子供が放射能汚染を受け入れるのは運命」と言い放ったとの噂が広まり、ことの真偽を確かめたかったからです。
まず、そのセクションに「高橋」という局員はいないとのこと。別のセクションでも、高橋姓は多いので、抗議電話が誰に対するものなのか、特定しづらいと。僕は、お礼を言って、電話を切りました。
――わざわざ、見えない敵をつくることはないですからね。
「原発の取材をしていると思うのだが、本当の敵は電力会社ではなく、日本国民全体的な他者への無関心だなと強く思う。」
写真家の小原一真さんの、このツイートが忘れられません。
宮崎駿さんの「本へのとびら」を読みました。
「何かが起こるだろうという予感は、みなが持っていたように思います。それでも、どんなに立派な戦争より、愚かな平和のほうが尊いと思うようにしていました。」
愚かな平和――これほど、グサリとくる言葉は、ありませんね。特に、惰眠をむさぼってきた東京という街にいると……ねえ。
天皇陛下は身体を壊されたし、もう首都移転でいいじゃないかって思います。いまの東京は、昔ほど好きではありません。
このブログに、オチはありません。
本当に思っていることを書くと、それこそシャレにならないので、西日本にいる友人に、ちょこちょこメールしてるんです。彼らには、疑わしい食品は口にせず、元気に生きてってほしいんです。
■
| 固定リンク
この記事へのコメントは終了しました。
コメント
原発とは直接関係が無いのですが、他人に無関心というのは社会的縁が無いという事だと思うんです。
東京のアパート暮らしの時は毎月の市報も届かず、町内会のような物とは無縁で、独身賃貸住まいは世帯として認められていないという印象でした。
人は面倒くさがりで、ある程度強要された環境でしか縁を構築できないのではと思う事が有ります。仕事というのは縁の場を提供できる場所であったはずですが昨今はそうでも無いようですよね。
誰も知人がいない、ど田舎に越して世帯主となって10年ですが、面倒くさい町内の事やPTAの事で顔見知りになり友人もできました。しかし正直仕事の障害にもなり
わずらわしいのも事実です。しかし集会やボランティアを強制される場所というのは大概の人に必要なのかなあとも実感しています。
しかし時としてコミュ二ティは原発村のようないびつな物を生み出す事にもなるのですが、怪しき物には NOと言えるのもコミュニティの力だと思うのでバランスよくやっていきたいですね。
投稿: ハム船長 | 2011年11月 8日 (火) 06時14分
■ハム船長さま
ありがとうございます。私のように、ほとんど東京から離れたことのない者にとって、大変ためになるお話です。
>独身賃貸住まいは世帯として認められていないという印象でした。
結婚していれば、いやでも相手の親戚と関係が出来ますよね。子どもが出来れば、ママ友やパパ友が出来ます。
独身で子供もいないと、まず人と挨拶する機会そのものが減ります(勤めている人は別でしょうけど)。
スーパーでもコンビニでも、無言で用事がすんでしまいます。
>しかし集会やボランティアを強制される場所というのは大概の人に必要なのかなあとも実感しています。
そうだと思います。だから、都会でデモに集まってくるのは、断絶した「縁」の埋め合わせのようにも思えますね。
デモを「うざい」「邪魔」「しょせんガス抜き」とさげすむのも、人との縁や強調、共闘を構築できないことへの、焦りや嫉妬でもあるのでしょう。
そうすると、東京で毎週、デモやパレードが行われているのは、実は思想的な動機だけではないのでは……と思えてきます。
「地域」という単位で人と接することが、特に独身だと、皆無に近くなってしまう。何十万、何百万という「他人」だけが存在している。
>怪しき物には NOと言えるのもコミュニティの力だと思うのでバランスよくやっていきたいですね。
バランスをとりたいのですが、なかなか難しいですね(笑)。コミュニティそのものが無いので。
自分はフリーランスで独身で、おまけに中年という特例すぎる存在なので、ちょっと呆然としてしまいますね。
投稿: 廣田恵介 | 2011年11月 8日 (火) 07時50分
11月のデモに関する記事を読ませていただきました。
今回のデモはお子さんやパパママが中心の私たち市民が立ち上げたデモです。
お子さんを蹴り飛ばした男がいたという事実は一切聞いておりませんし、参加者からもスタッフからもそのような話は聞いておりません。
同じ日に行われていた別のデモの話ではないですか?
しかし、もしそれが事実なら主催者としての責任がありますので、見過ごすわけには参りません。
もしお分かりでしたら詳しい中身について教えていただけますか?
投稿: 主催者の紫野です | 2011年11月 9日 (水) 13時14分
■柴野様
大変お疲れ様でした。賛同したにも関わらず遅刻してしまったことをお詫びいたします。
さて、情報ソースは、この発言です。
https://twitter.com/#!/baburoco/status/133081394195857408
よく読むと、「子供の後ろの看板」を蹴飛ばした、ということですね。
お騒がせしました。記事のほうも訂正させていただきます。
投稿: 廣田恵介 | 2011年11月 9日 (水) 13時30分
>明確にターゲットを決めた活動
こういうデモなり何なり参加したいと思っているけど、その廣田さんのいう「理念だけのデモ」でないと子供連れて行くのは無理かなって勝手に思ってる。どうなのかな...。
こういうこと言ってる時点で、「甘い」のは分かってる。けど、本音として日本でどんなカタチであってもデモが無くなってしまったら怖いよ。デモの情報をみるとホッとする。
>いちばん辛いのは、それなんですよ。
そうだよね....できれば今まで親しくしてきた人達とで、こういう辛い気持ちにはなりたくない。
>愚かな平和
言葉がでない...
投稿: ごんちゃん | 2011年11月10日 (木) 21時43分
■ごんちゃん様
世論を形成するには、今回のように、明るくて家族連れの多いデモも必要不可欠だと思う。
ハードルの低いデモは、ずーっと常にあるべき。
反対に、霞ヶ関を圧迫する本格的なアクションも必要。いろいろな活動が、あらゆる場所で起きている――それが何より必要なことだろう。
>デモの情報をみるとホッとする。
僕もそうだよ。どんな小規模でも、「ああ、やってるなあ」と思う。
宮崎駿が、小さなプラカードを下げて、スタッフ数人と近所を歩いたけど、あれもカッコよかった。
>そうだよね....できれば今まで親しくしてきた人達とで、こういう辛い気持ちにはなりたくない。
「日本人が自分の意見を持ちはじめた、というだけで大きな進歩」と、友だちは言ってくれた。意見が違っていて、それを戦わせるのが民主主義である、と。
この八ヶ月で、何も変わってない人間のほうが異常です。
投稿: 廣田恵介 | 2011年11月11日 (金) 00時47分