■0929 10ヶ月■
いわき市へ上映会に行ったとき、とても大きな花束をいただいたのですが、とうとうすべて枯れてしまったので、玉川上水へ、埋めにいきました。
近くに、セミの亡き骸があったので、いっしょに埋めました。
今になって、「あの上映会は楽しかったなあ」と、しみじみ思えるようになりました。
昨日は、朝から仕事の打ち合わせ、午後は完成途中のデザインを担当者と見ながら、あれこれ修正して、その間は、何箇所かに電話していたので、気がまぎれました。
やっぱり、人と話すこと、仕事することは、何よりの癒しですね。
さて、ちょっと血なまぐさいことを書きます。「お前はアニメの本に書いてるんだから、イメージを統一しろ」という声が、胸の奥から聞こえてきます。
しかし、明日が判決であり、今しか書けないことだから……
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正月の事件については、テレビやネットで知った人も、多いと思います。
そこでは、「胸に包丁2本が刺さったまま」と言われていたはずです。私は、警察では司法解剖の結果しか聞かされていませんでしたが、公判では、生々しい写真を見ることになりました。
しかし、刺し傷は、背中など計6ヶ所。つまり、逃げようと背中を向けたか、防ごうとあがいていたところを、次々と刺されつづけたことになります。
このメッタ刺しについて、被告は「覚えていません」と答えました。事件直後の証言を引用しても、「その時は、そう思ったんでしょうね」と他人ごと。
「今はどう思いますか?」と聞くと、「今といっても、考えはいろいろ変わりますからねえ」と、話をはぐらかす。
万事が、こういう感じでした。都合が悪くなると、「一般的に人間というのは……」などと、持論を展開して、煙にまこうとする。
私に尋問の順番が回ってきたときは、思わず「聞かれたことだけ、答えなさい!」と怒鳴りつけてしまったほどです。
しかし、弁護側の尋問や裁判員へ意見をいう時は、「妻との思い出の地を歩きたい」「銀婚式を祝いたい」と、泣き崩れる。まるで、自分が、被害者であるかのように。
だけど、メッタ刺しにしたことは、「覚えていませんなあ」。
私は、多くの友人・知人に、「まあ、お父さんのことは許してやれよ」と言われましたが、果たして、皆さんなら、罪から逃れようと態度をコロコロ変える肉親を、許せるんでしょうか?
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でも、あっさりと許してしまった人たちが、証人として法廷に立ったわけです。
証人のひとりは、こう言いました。「彼が、そんな酷い事件を起こすわけがない。彼が服用していた抗うつ剤の副作用が、原因だと考えました」。
抗うつ剤を服用している人は、日本に何百万人いるのでしょう? 私の知り合いにも、チラホラいますよ。抗うつ剤の副作用で、凶暴化して人を殺すなんて話、あるんでしょうか?
私は不信に感じたので、検事さんに「抗うつ剤のことを、ちゃんと調べたのか」聞いてもらいました。……案の定、その証人のオジサンは、な~んにも調べてなかったんです。
うつ病の人たちに対する偏見も、いいとこです。そんな程度の根拠で、あっさりと証人席に座ってしまう「善意の人たち」。
なぜ、そうまで「自分の正義」に無頓着なのか。被告を許したいのは勝手だが、なぜ、そうまで根拠が曖昧なのか。
――「考えない」からですよ。習慣だけで生きてるからです。
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たとえば、まだ母の火葬が終わって間もないころ、私がひとりになるたび、メソメソと泣いていたころの話。
従姉妹たちが、私の目の前で、被告に差し入れする服を、嬉々として、選んでいるんです。ユニクロで。
こっちは、被害者遺族ですよ。なのに、彼らは「おじさんは寒がりだからなあ」と、犯人のために服を選んでいる。「おじさん、ニコニコと元気そうにしてるみたいです」「ふっくらと温和な顔になってるみたいです」と、私に笑いかける。
それは、皮肉とか嫌みじゃないんです。彼らは、何も考えてないんですよ。まるで事件などなかったかのように、被告が罪など犯していないかのように、ふつうに振舞う。
事実を正面から受けとめたら、普段のように暮らせないからです。「習慣を維持できなくなってしまう」、それがイヤなだけなんです。
そういう人たちからしたら、何かを決断した人間のほうが、異常に見えるらしいんです。
事実、私は従姉妹から、「あんたのヘンなこだわりのせいで……」と、小言をいわれましたから。「習慣」にしがみついている彼らからすると、「何かにこだわっている人間は、どっかおかしい」となる(笑)。
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この10ヶ月で、多くのことを学びました。
肉親を憎んでいる、怖れている人が、世の中に多くいること。「親なんだから、許してやれよ」という甘ったるい常識は、無知と習慣にもとづく、思い込みでしかない。
なるべく多くの人と、話をすべきです。思考レベルが似たような人とばかり、つるまないこと。
話せる相手に、多様性をもたせれば、より多くの意見や価値観を聞けます。というか、まず、人の話をよく聞くことですね。自分より何十歳も若いヤツの話でも、バカにしないで聞いたほうがいい。
仕事のできない人は、たいてい、人の話を聞いてませんよね。
それから、自分が悪かったら、潔く反省すること。邪魔だと思ったら、身を引く。
だいたい、40代なんて、オッサンですから。「50代からでも60代からでも、遅くはない!」といった価値観は、高齢化社会に日和った、無責任な宣伝文句でしかない。
老いれば老いるほど、習慣にまかせず、考えつづけることです。
はっきりと当事者意識をもち、創造的な生き方をする人が増えれば、かなりの数の悲劇を避けられると、僕は思うのです。
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