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2011年9月29日 (木)

■0929 10ヶ月■

いわき市へ上映会に行ったとき、とても大きな花束をいただいたのですが、とうとうすべて枯れてしまったので、玉川上水へ、埋めにいきました。
近くに、セミの亡き骸があったので、いっしょに埋めました。
今になって、「あの上映会は楽しかったなあ」と、しみじみ思えるようになりました。

昨日は、朝から仕事の打ち合わせ、午後は完成途中のデザインを担当者と見ながら、あれこれ修正して、その間は、何箇所かに電話していたので、気がまぎれました。
やっぱり、人と話すこと、仕事することは、何よりの癒しですね。

さて、ちょっと血なまぐさいことを書きます。「お前はアニメの本に書いてるんだから、イメージを統一しろ」という声が、胸の奥から聞こえてきます。
しかし、明日が判決であり、今しか書けないことだから……


正月の事件については、テレビやネットで知った人も、多いと思います。
そこでは、「胸に包丁2本が刺さったまま」と言われていたはずです。私は、警察では司法解剖の結果しか聞かされていませんでしたが、公判では、生々しい写真を見ることになりました。

しかし、刺し傷は、背中など計6ヶ所。つまり、逃げようと背中を向けたか、防ごうとあがいていたところを、次々と刺されつづけたことになります。
このメッタ刺しについて、被告は「覚えていません」と答えました。事件直後の証言を引用しても、「その時は、そう思ったんでしょうね」と他人ごと。
「今はどう思いますか?」と聞くと、「今といっても、考えはいろいろ変わりますからねえ」と、話をはぐらかす。

万事が、こういう感じでした。都合が悪くなると、「一般的に人間というのは……」などと、持論を展開して、煙にまこうとする。
私に尋問の順番が回ってきたときは、思わず「聞かれたことだけ、答えなさい!」と怒鳴りつけてしまったほどです。

しかし、弁護側の尋問や裁判員へ意見をいう時は、「妻との思い出の地を歩きたい」「銀婚式を祝いたい」と、泣き崩れる。まるで、自分が、被害者であるかのように。
だけど、メッタ刺しにしたことは、「覚えていませんなあ」。

私は、多くの友人・知人に、「まあ、お父さんのことは許してやれよ」と言われましたが、果たして、皆さんなら、罪から逃れようと態度をコロコロ変える肉親を、許せるんでしょうか?


でも、あっさりと許してしまった人たちが、証人として法廷に立ったわけです。
証人のひとりは、こう言いました。「彼が、そんな酷い事件を起こすわけがない。彼が服用していた抗うつ剤の副作用が、原因だと考えました」。

抗うつ剤を服用している人は、日本に何百万人いるのでしょう? 私の知り合いにも、チラホラいますよ。抗うつ剤の副作用で、凶暴化して人を殺すなんて話、あるんでしょうか?
私は不信に感じたので、検事さんに「抗うつ剤のことを、ちゃんと調べたのか」聞いてもらいました。……案の定、その証人のオジサンは、な~んにも調べてなかったんです。
うつ病の人たちに対する偏見も、いいとこです。そんな程度の根拠で、あっさりと証人席に座ってしまう「善意の人たち」。

なぜ、そうまで「自分の正義」に無頓着なのか。被告を許したいのは勝手だが、なぜ、そうまで根拠が曖昧なのか。
――「考えない」からですよ。習慣だけで生きてるからです。


たとえば、まだ母の火葬が終わって間もないころ、私がひとりになるたび、メソメソと泣いていたころの話。
従姉妹たちが、私の目の前で、被告に差し入れする服を、嬉々として、選んでいるんです。ユニクロで。
こっちは、被害者遺族ですよ。なのに、彼らは「おじさんは寒がりだからなあ」と、犯人のために服を選んでいる。「おじさん、ニコニコと元気そうにしてるみたいです」「ふっくらと温和な顔になってるみたいです」と、私に笑いかける。

それは、皮肉とか嫌みじゃないんです。彼らは、何も考えてないんですよ。まるで事件などなかったかのように、被告が罪など犯していないかのように、ふつうに振舞う。
事実を正面から受けとめたら、普段のように暮らせないからです。「習慣を維持できなくなってしまう」、それがイヤなだけなんです。
そういう人たちからしたら、何かを決断した人間のほうが、異常に見えるらしいんです。

事実、私は従姉妹から、「あんたのヘンなこだわりのせいで……」と、小言をいわれましたから。「習慣」にしがみついている彼らからすると、「何かにこだわっている人間は、どっかおかしい」となる(笑)。


この10ヶ月で、多くのことを学びました。
肉親を憎んでいる、怖れている人が、世の中に多くいること。「親なんだから、許してやれよ」という甘ったるい常識は、無知と習慣にもとづく、思い込みでしかない。

なるべく多くの人と、話をすべきです。思考レベルが似たような人とばかり、つるまないこと。
話せる相手に、多様性をもたせれば、より多くの意見や価値観を聞けます。というか、まず、人の話をよく聞くことですね。自分より何十歳も若いヤツの話でも、バカにしないで聞いたほうがいい。
仕事のできない人は、たいてい、人の話を聞いてませんよね。

それから、自分が悪かったら、潔く反省すること。邪魔だと思ったら、身を引く。
だいたい、40代なんて、オッサンですから。「50代からでも60代からでも、遅くはない!」といった価値観は、高齢化社会に日和った、無責任な宣伝文句でしかない。

老いれば老いるほど、習慣にまかせず、考えつづけることです。
はっきりと当事者意識をもち、創造的な生き方をする人が増えれば、かなりの数の悲劇を避けられると、僕は思うのです。

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2011年9月27日 (火)

■0927 Untile The End of The World■

丸2日間に及ぶ公判が、終わりました。30日が判決です……と書くと、俺が犯罪をおかした26caldavhqかのようですが、分かる人だけ、読んでください。
どちらにしても、裁判の詳細を書くつもりはなく、何となくの雑感です。

初日は、ヘトヘトになりつつも、地元の安いラーメン屋でチャーハンを食いました。
気がつけば、今年元旦、犯行のあった日も、同じ店・同じメニューでした。まあ、偶然だろうけども、「あの日」に戻ってしまったような寂しさは、やっぱりあった。

ただ違うのは、この事件について、(ネットを通じて)僕に好意的な人が増えたこと。
若い検事3人が、ギリギリまで頑張ってくれたことだ。むしろ、金で雇われたはずの被告側の弁護人コンビ(就活中の大学生かと思ったぜ)は、可哀相だったね。
まあ、事務所から押しつけられたんだろうな。サラリーマン以上でも以下でもない。


しかし、本当に怖ろしいのは、「市井の人の善意」さ。
「だって、私は普通の人だし、普通に困ってる人を助けたいと思ってるし、それのどこが悪いんですか?」――これが、いちばん怖い。ゾッとした。

そういう「善意の一般人」は、自分を疑う視点を持っていないから、何も調べないよ。気分だけで出廷してしまう。矛盾したことを指摘されると、怒る。「だって、当たり前のことでしょ!」といった具合に。

ちょっと前から、反原発の人たちに感じていたのと、同質の怖さ。彼らにとっては「自分を疑わない」ことこそが、正義なんだ。自分を疑うのは「悪魔のささやき」なんだろうな。
「正しいことをやっているのだから、正しい結果になるはず!」――だから、それが怖いんだって。客観が欠けている。平穏に生きてきたオバチャンって、自分を客観視なんてしたことないから。

だから、「なんとなく同じ方向を向いているかも知れない人」同士で、安易に結託する。疑わない。
ま、そんな輩が、弁護側の証人たちでした。


そういう「普通の人」たちが傍聴席にいたので、僕は、いちばんのヒールだったと思うよ。
目つきは悪いし、ハゲだしヒゲだし、声は怖いし、被告に対する尋問は容赦ないし。
だけど、俺は好感度を得たいから、出廷したわけではない。その場にいる全員から嫌悪されてでも、母の名誉を守りたかった。母が、好きなように「殺されてもしょうがない女」にされていくのを、絶対に看過できなかった。
母の名誉のためなら、俺は鬼にもなるよ。

被告が、ぺらぺらと図にのって自説を展開しはじめたから、俺は「質問にだけ答えるように!」と何度か怒鳴った。奴さん、まるで反省してないからな。
そういう厳しい言動は、公平で穏やかな裁判を求める人には、ヒールに映ったと思うよ。俺は、弁護人も証人も、被告と同じぐらい激しく責めたから。

裁判員の心証を害しようとも、俺は「怒り」に徹した。
被告の「泣き落とし」戦略を、先に見せてもらっていたから、なおさらだ。泣くのは、楽。死者を悼むのも、楽。センチメンタルに自分語りするのは、この世でいちばん、楽な道なのだ。

俺は、被告はもちろん、証人も弁護人も、憎んだ。そういう、陳述をした。しかし、彼らには分からないわけ(笑)。憎まれることに対する、受容体がないから。
ヒールに徹したつもりだが、その効果は、判決まで分からない。


思うままに書く。
たとえば、あなたがストーカーに追われて悩んでいるとする。そして、とうとう、ストーカーがブチ切れて、あなたを殺してしまう。
そのとき、世の中の温厚な人たちは、将来あるストーカー少年の味方につきますよ。「死んだ人は、あきらめろ」「死人のことを考えても、しゃあない」と、そういう考えの人たちが結束します。彼らは、べつに悪人ではないんです。自分を疑えない人たちなの。

そんな連中を寄せつけないためにも、夫婦になった以上は、せめて仲良く暮らしてね。恋人同士でも、もし不安なら、友人に頼ってほしいよね。
いろんなルートを残しておいて、最善の道がつくれるようにね。こんな、世界の果てまで、来なくてすむように。こんなところに来るのは、私ひとりで最後にしよう。

元旦から、ずーっと思っていたことです。まとまりがなくて、すみません。

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2011年9月25日 (日)

■0925 塔の上のラプンツェル■

地震の翌日に公開された『塔の上のラプンツェル』。いまごろレンタルで見たが、ヒロインがキュートで良かった。動物が、喋らないところもいい。
25img_270830_2602090_0(海外でのキービジュアルはこれ←で、ラプンツェルの猛々しい表情が、かなり物議をかもし出したと聞く。)

ディズニー映画って、子ども向けのように見えて、ティンカー・ベルのように、「なんで?」と思うぐらい、妖艶な描写があるところ、闇にちかいところが散見されるのが、隠れた魅力のように思う。
『ラプンツェル』の髪の表現も、ずいぶんフェティッシュな感じがする。髪の表現のために、専用のソフトウェアを開発したそうだけど……。

3DCGの背景は、箱庭のように閉じた印象を与える。限りなく美しい、秘密の隠れ家のような。
それが心地いいのだから、しょうがない。3Dアニメに、ちょっと目覚めてしまったかも知れない。


明治大学へ行って、レナト・リベラ・ルスカ講師と会う。
24cawgen6l当初、電子書籍としてスタートした企画だが、あちこち、フラフラしすぎた。
とどこおってしまう企画には、必ずなにか理由がある。それはたいてい、自分のせいなので、もう一度、足元を見直す。

その後、レナト氏の教え子も合流して、ちょっと酒。
コミックス・ウェーブのプロデューサーを取材したとか、なんだか元気のでる話を聞けた。本当にできる若いヤツは、口先ではなく、黙々と行動している。そして、人の話をよく聞こうという姿勢が、根本にある。

その後、レナト氏が眠そうなので解散して、僕だけ吉祥寺に移動。二回も誘いを断ってしまった、ガールズバーで知り合ったM氏を、メールで呼び出す。


M氏は、行きつけの店がたくさんあるらしく、前回とは違うバーで、バーテンと仲良く話していた。
僕は、すでに飲みすぎていたので、ビールのハーフサイズ。それ以降は、えんえんと水を頼みつづけた。

コースは前回と同じく、ガールズバー→キャバクラ→ガールズバー。モビルスーツ好きのボーイがいる店では、『Zガンダム』から『ガンダムSEED』あたりまで、モビルスーツの名前当てをして、遊ぶ。
M氏のついてこられない話なので、彼はヘソを曲げてしまったらしい。

最後に行ったガールズバーは、僕のお気に入りのはずだったのだが、一ヶ月以上も間を空けたせいか、気持ちが覚めている。
M氏が、「俺たち、いっしょに暮らしてるんだぜ」と冗談を言うと、女の子は「本当にゲイなの? だったら、出て行って」と、ちょっと信じられないことを口にした。ガールズバーは、女の子の地が出てしまうところが、魅力でもあり、欠点でもある。
(キャバクラが高いのは、徹底的に女の子に演技をしてもらえるから……と納得)

僕らは、言われたとおりに店をあとにした。いつもなら、僕だけ店に戻るところだが、M氏と一緒にタクシーに乗って帰った。まだ、2時すぎだった。
M氏に、すっかり奢られてしまった。なので、タクシー代だけは、多めに払うことにした。僕が先に降りると、M氏が、大声で僕の名前を呼んだ。
――男にだけはもてるなあ、と苦笑するしかなかった。

横になると、映画の試写会へ行く夢を見た。放射能汚染された未来の地球で、モビルスーツに乗った若者が戦う、SFX映画だった。


月曜・火曜と、いよいよ公判です。
この2日間、たぶん仕事している時間はないであろうことと、精神力を奪われるのが、大変に癪だが、知らんぷりは出来ない。

この国の大人、とくに自分の過ちを認めようとしない楽観主義の老人たちを、もう見過ごしてはいけないと思う。
戦う姿勢をしめすことは、僕らの世代の義務でもある。若い世代は、僕らの背中を見ている。それを、決して忘れてはいけない。

(C) Disney Enterprises, inc. All Rights Reserved.http://cinema.pia.co.jp/piaphoto/title/240/153229_1.jpg

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2011年9月22日 (木)

■0922 キャラ★メル Febri Vol.08 ■

キャラ★メル Febri Vol.08  24日発売予定
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●渋キャラオヤジ列伝 第三回「河地大吉」
この連載は、オヤジ・キャラを通して人生を語る……という地味なもので、今まではモノクロだったんです。
それが、今回は『うさぎドロップ』特集があるので、それに合わせて、カラーページに出張です。先に知っていれば、もうちょっとビシッとした原稿にしたのになあ。お恥ずかしい。

しかし、『うさぎドロップ』を第1話から見直す、いい機会になりました(ラスト二話は、シナリオのみ先に読みましたが)。
やっぱり、アニメの魅力って、「情緒」を、メカニカルに組み立てていることだと思うんですな。『うさぎドロップ』は30歳のオッサンと、6歳の少女のバディ物。『ペーパームーン』とか『都会のアリス』みたいなもの。

それをアニメでやって、何が面白いのかっていうと、大人たちのシーンは動きが少ない。アップの切り返しで、会話させることが多い。
いっぽう、子ども達のシーンは、作画枚数をふんだんに使って、ちょこまか動くところを、ロングでとらえている。
その対比を見るだけで、面白いわけです。今号の「キャラ★メル Febri」には、原画も載るそうなので、すごく楽しみですよ。

――もうひとつ言うと、子どもたちの動きを細かく描くために、大人たちのシーンは枚数を削っている制作上の事情もあるんだけど、それがそのまま、作り手の思想に直結しているところが、またアニメの面白さでもあるのです。


連休最終日の19日、都内で、大規模な脱原発デモが行われました。
主催者発表が6万人、警察発表が2万7000人と大きく食い違うのは、まあ、それほど気にすることではないです。「原発事故以来、最も規模が大きい」ことが肝心であって。
人・人・人で埋めつくれさた明治公園の写真を、ツイッターで見ながら、素直に感激していた。

ところで、僕が高円寺デモに参加したのは、沿道の人々にアピールするためだし、「東電前アクション」は、東電なり経産省なり、ターゲットが決まっていたからこそ、参加した。
19日の大規模デモに関して、とても違和感があったのは、「報道の扱いが小さい!」と激怒している人たちが、かなり大勢いたことだった。
――テレビや新聞に訴えるために、デモやったのか? ふだんは「マスゴミは信用できない」とか言っているくせに、なぜ、いまだに手を切ろうとしないんだろう?

もっと驚いたのは、「NHKニュースでの取り上げ方が不満だ」として、「次はNHK前でデモするぞ」と、電話しちゃった人がいたこと。
さらには、毎日新聞が一面でデモをとり上げたら、「いい新聞だ」と賞賛されてしまう(笑)。それじゃあ、「マスゴミ」に踊らされてることと、まったく変わりはないよ。

マスコミに期待できないからこそ、自分の肉体を使うんじゃないのかな。
経産省前で、240時間のハンスト(10日間、本当に水と塩しか摂取しなかった)した若者たちは、エネルギー庁の職員に「見てたよ」と言われて、とても嬉しかったらしい。
彼らは、マスコミに取り上げられたいから、命をかけたわけではないんですよ。

――ずーっと家にいて、何も行動しなかった身なので、これぐらいで黙ろう。


用事があって、立川からモノレール一駅分、歩いてみた。
22caf0wjxk_2シネマシティのあるビルの裏へ出ると、荒涼とした風景が広がりはじめる。
こんなところを歩く人間は、僕ぐらいなものだ。この孤独癖が、いつから身についたのかは、分からない。

用事をおえてから、また、シネマシティの裏手まで歩いた。
『くまのプーさん』を見てから帰ろうかと思ったが、そんな気分でもなかった。

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2011年9月19日 (月)

■0919 魔法少女マガジン■

別冊オトナアニメ 魔法少女マガジン 22日発売予定
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●『魔法少女まどか☆マギカ』全12話をつらぬく演出哲学
以前に本誌でやった、絵コンテ解析の再録ではなく、まったく触れることのできなかった第10話のコンテを大きく取り上げながら、全12話の演出的見どころを、8ページで解説しています。

……ぎっしり詰まった感じにしたかったので、字がものすごく小さいです。
解説が、えらく難しいんです。キャラが会話している前後に、完全に止め絵の背景が、パカッと入る。
「……これ、どういう効果か、分かるよね?」とは書けないわけです。
時間経過でもあるし、場所移動の省略でもあるし、もっと言うと、「これからドラマが転調しますよ」という合図でもある。
つまり、「絵を止めることで、動きを表している」。それを説明するのが、大変。

それと、許可が下りないかぎり、画像のキャプチャはできない。手元にある場面カットで、うまく構成するしかないのですが、そこは腕の見せどころ。
魔法少女ベスト5アンケートでは、『アクビガール』を第一位にしておきましたよ!


先月号の「Cut」誌を、なんとか入手。宮崎駿インタビューが、抜群に面白い。
0919ca6rkj27以前からそうだったといえばそうなんだけど、いきなり「原発利権集団の愚かさ」「原発村の愚かしさがねえ、吐き気がするぐらい、もう、嫌でしたね」と、バッサリだからね。

だけど、ジブリの横に保育園があって、子どもたちの顔を見ると「正気に返らざるを得ない」と。
あのね、東北・関東は、学校給食を拒否して、子どもにお弁当を持たせられるだけで、一喜一憂している、そういう世界ですから。
それを笑っている人たちは、「学校をやめてください」「日本から出ていってもらうしかない」と言いすてた教師たちと、頭の程度がかわらない……ぐらいの自覚は、持ってほしい。

素人が線量測定していることを、いかにも愚かしい、と笑っている人もいるけど、新聞・テレビで報道された、横浜市のホットスポット()。
これを見つけたのは、まさに素人ですよ。

とにかく、怖れている人を嘲笑するのは、単に品性の低さ、理想の不在を証明するだけ。
西日本にも汚染は広がっているけど、いちいちリンクは貼りません。過激派だとか言われるから(笑)。


ガールズバーで知り合った男が、また誘ってくれた。
そりゃあ、猛烈に行きたかったよ。この前、断ったばかりなのに、また誘ってくれたんだから。
だけど、断らざるを得なかった。一週間後、公判があって、その準備があるから。

同様の理由により、すでにブースを押さえてもらっていた25日のスーパーフェスティバルの参加も、見合わせた。スーフェスは、大好きなんだが……。
せめて宣伝しておくと、ブース名はHard Pop Cafe」、卓番は「F-8」。
時祭組の『メガゾーン23』同人誌「フェスティバル・タイムズ」のバックナンバー販売はもちろん、ギムレット氏お手製のレゴ・ブロック作品展示()もあり(たぶん)!

25日は、スーフェスへ! 次回は、僕も参加するよ!

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2011年9月15日 (木)

■0915 徳島へ■

徳島県で開催される、町ぐるみのイベント「マチ★アソビ」に、また参加することになりました。

前回(一年前)は、氷川竜介さんに聞くライターの役割というテーマでしたが、今回はバンダイビジュアルのDsc01565 プロデューサー、大河原 健さんをお招きします。
(←去年の様子。お客さんは30人ぐらい)

大河原さんと私の接点は、今はちょっと書きづらいんですけど、とにかく「東京では聞けないような、おもしろい話を!」と盛り上がっています。

日時は10月8日、13時から。眉山山頂パゴダ広場でやります。
マチ★アソビに行かれる方で、「その時間はヒマだよ」という方は、ぜひ聞きにきてください。


ご両親が、屋久島に移住した友人の一家が、里帰り(?)してきたらしい。→
僕は少なくとも、リンク先に映っている子ども達に、最低一度は会っている。だから、なおさら、「良かったね」という気持ちになれた。

ここのところ、不思議な夢を見る。
温泉旅館のようなところへ、腹をわって話せる友人たちが、集まっている。それは旅行に来ているというよりは、みんなで、そこで暮らしていこう――ということらしい。

なんか、生命が居住可能な、新しい惑星が見つかったらしいんですけど。→
みんなで、ここに移住しちゃえば?と、『ギャラクティカ』みたいなことも、夢想する。
10万年もたたないうちに、35光年ぐらい、ジャンプする技術が開発されるんじゃないか……。


そうまでして、人類に生き残る価値などあるのか?と、『ギャラクティカ』は最初から訴えてもいた。
Admiraladamaone_288x288「しかし、疑問がある。なぜだ。なぜ、われわれ人類は、救うに値するのか? 人はいまだに、欲や恨みや妬みから、殺し合いをつづけている。そして、いまだに昔のツケを、子ども達に背負わせている。自分がやったことの責任を、いっさいとろうとしない。
たとえば、サイロン。われわれは、神になりきり、命をつくった。その命が裏切ったとき、自分たちのせいとは言い切れないと、われわれは、自らを慰めた。神のふりをして作りだしたものと、手は切れない。
人類が、過去の罪から逃れられなくなる日が、いずれ来るだろう」。

このドラマは、9.11から三年後に制作され、世相を反映しすぎるとの批判もあったという。
「われわれは、神になりきり、命をつくった。その命が裏切ったとき」――それが、何を暗喩しているか、僕はもう書かない。もう十分に、書きすぎるぐらいに書いてきた。

だから、今後は、「不言実行」に努めたいと思う。たとえ、どんな行動をとったとしても、近しい人にしか、話さないだろう。
黙っている、というのは、案外つらいものだ。思っていることを、何でもネットに書くのは楽だったよなあ……と、半年間をふりかえる。


「マチ★アソビ」では、こんな難しい話は、しませんからね。
震災後、はじめての西日本だし、徳島ラーメン食って、のんびりしてきます。

Film © 2006/2007 Universal Studios. All Rights Reserved.

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2011年9月12日 (月)

■0912 四本足のモビルスーツ■

ガールズバーで知り合った男から、夜中すぎに電話があった。
「廣田さん……、四本足のモビルスーツって、本当にいるんですか?」 あまり酔っている風ではない。バーのボーイが、古今東西のモビルスーツにやたら詳しいので、ちょっと議論になったらしい。

その時間に行けば、モビルスーツ好きのボーイが、何万円分か、おごってくれるという。し6882かし翌日、どうしても外せない取材があったので、やむなく断った。
(←これが四本足のモビルスーツ)

「例の、大きな仕事は終わったんでしょう?」と、彼は聞く。ちょっと、ロレツが怪しい。
「大きな仕事って?」「福島県へ行くって言っていたでしょう?」――ああ、いわき市の映画会のことか。
「それだけじゃなくて、この前のお礼がしたいんですよ」。彼は、シラフの時でも、そんなことを言っていた。僕は、酔いつぶれた彼を、タクシーへ押し込んだことしか、覚えていない。

彼は、父親を亡くして、最近ようやく、飲みに出る気分になれたらしい。
僕の家庭がどうなったかも、彼は知っている。
――だから、嬉しかったよ。誘ってもらえて。


ここ最近、血なまぐさいことを書いてきたが、コメント欄の一言で、冷静になれた。

『とある飛空士への追憶』もそうだし、何本かのアニメにも、とげとげしい心を受け止めてもらえた。『輪るピングドラム』、『うさぎドロップ』、『花咲くいろは』――いずれも、放送時間には仕事の手を休めて、リアルタイムで視聴した。

細かく言うと、僕は「ストーリーが」「キャラが」というよりは、「絵づくり」を見ている。そこに、人の「手わざ」みたいなものを感じて、ホッとするんだと思う。
それ以上に、やっぱり、「セル画」の柔らかみ、語弊をおそれずに言うなら、ぬり絵的な「幼稚さ」みたいなものも、安心感を生み出していると確信している。
セル画の甘い質感が、心を内側に向けさせてくれる――絵本を読むような感じで。

いわき市での『マイマイ新子と千年の魔法』上映会のときに、幼児が足をとめるんですよ。セル画のポスターの前で。だから、「セル画は現代の浮世絵」とかいう前に、子どもの目にアピールする要素が、強烈にあるはず。
「アニメは嫌い、見ません」という人は、まずセル画のもつ幼児性に、抵抗があるのではないか。

逆をいうと、被災地で『マイマイ新子』を上映したのは、内容は深くあるけど、やっぱり「セル・アニメ」なら、子ども達が集まってくれる……と踏んだから。
傷ついた人、疲弊している人でも、アニメなら見られるんじゃないか。そう考えた。『うさぎドロップ』でやっていたけど、薬をジュースに混ぜて、飲みやすくしてやるようなもの。


……と、ここまで書いたところで、ショッキングなニュースに出会った。
上関原発反対に協力してきた、10~20代の若者たちが、昨日から経産省前でハンガーストライキを開始した。→

俺も、巷の反原発運動に関しては、この半年間で、いろいろ考えた。
でも、このハンストには(若者に任せてしまっているという罪悪感も込みで)胸を打たれた。彼らが黙殺されず、あちこちから取材を受けているのは、いいことだと思う。それらの取材に、彼らが笑顔で答えているのも。

独身中年男としては、深く静かに、確実なことをこなしていくのみ。

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2011年9月10日 (土)

■0910 とある飛空士への追憶■

試写会にて、10月1日より公開の『とある飛空士への追憶』。
Toarub086b30eb51268f381a6fc1e583d_3最初の10分ぐらいは、何だか深夜アニメのような絵づくりで、見ているのが辛かった。
世界観の作りこみも甘いし、絵も淡白。――だが、「貧民層出身のパイロットが、お姫様を祖国まで届ける」というメイン・プロットが走り出すと、何もかもが、変わる。血が、かよいはじめる。

メイン・プロットと書いたが、実は、2人が一機の飛行機で旅をする以外のエピソードは、皆無といっていい。
だから、高密度な世界観の設定や、詳細なメカニックの描写は、すべて余計だったのだと分かる。

パイロットと王女の、身分差をこえた恋愛も、まあ、予想通りの展開なのだ。
「こういうシチュエーション、山のように見てきたよなあ」と、心の半分ではしらけながら、しかし、鼻のすじがシクシクと痛むような、今にも涙が流れそうな、不思議な心境だった。
「いやいや、ここでこの絵はないでしょう」とツッコミを入れながらも、なぜか、ずーっと涙腺がゆるんでいる。

主人公にも王妃にも、これといって、強い個性があるわけではない。でも、だからなのだ、と思う。この物語の半分を、自分でつくっているかのような、一体感……としか、今は言いようがない。
「明らかに記憶の底にあったんだけど、目の前にしたことのなかった映画」とでも言おうか。ラストシーンを見ながら、(僕の歳では、もう遅いかも知れないが)「こんな風に高潔に生きてみたい」と思った。

絵柄が一般向けとは言えないかも知れないが、ヒットしてほしい。
それと今後、異世界モノというか、ファンタジーの需要は、高まる気がしている……日常を舞台にしたアニメには、何らかのエクスキューズが必要になってしまったと思うから。


ここ数日、思うこと。
公判に向けて、誰も助けてくれないことが、いよいよ明らかになってきた。相手は人殺しなのに、鉄壁のガード。この差は、何だ。怒鳴りだしくなる。

今だって、怒鳴りだしそうな気分だ。
震災で多くの無実の人、子ども達までが亡くなったのに、なぜ、老いぼれの人殺しの生存権だけが、死守されているのか。

廣田年亮被告を守っている弁護士、証人たちは、自分の手を汚したくないだけの偽善者だ。自分たち自身が「人殺し」になりたくないだけ。わが身が、かわいいだけの卑怯者だ。

(被害者遺族救済制度があるらしいが、僕は加害者の息子でもあるので、適用は難しいらしい……よって、10分程度の意見陳述しか、許されていない)


「原発事故は、日本人のセコさが、事態を悪化させた」というツイートを見て、思い当たることがあった。

セコさ、とはちょっと違うかも知れないが……、都内の多くの駅では、高齢者用にエスカレーターが設けられている。階段をのぼる人は、ほとんどいない。高校生まで、迷いもなくエスカレーターへ引き寄せられていく。
電車の中では、携帯電話はマナー・モードに設定し、シルバーシート付近では、電源を切ることになっている。だが、誰も電源なんか切らない。(病院の待合室でケータイを使っている若者を見たことがある)

前にもブログに書いたように、高齢者のほとんどは、トイレで手を洗わない。それどころか、駅のトイレの床は、小便でベトベトに濡れているのが、当たり前の光景だ。
みんな、ハンカチを持っているくせに、ジェットタオルを使う。紙タオルがあれば、何枚でも、遠慮なく使う。

道路でタバコを吸い、火のついたまま、地面に捨てていく人がいる。
高校の制服を着て、駅でタバコを吸っている高校生がいる。誰も、注意しない。駅の職員に通報すらしない。

「どうせ、誰かが始末してくれる」――このズボラさが、原子力マフィアの跳梁を許し、許しつづけている。
反原発、東電と政府は許せない……といいながら、署名サイトのリンクだけ貼って、自分は署名しない人がいる。「どうせ、誰かが署名してくれる」。


以前、『地球少女アルジュナ』のセリフを書き写したことがあった。→
「期限切れの売れ残った弁当は捨てられてしまうことがある。なぜだ?」「その方が、管理が楽やから」――これが、暫定基準値に疑問をもたない、流通業者の本音だろう。

もちろん、暫定基準値を放置せず、自費で測定器を導入している食品業者もあり、そういう会社の店舗は、積極的に応援していきたい。(応援というのは、わざわざ、その店に足を運んで、お金を使うことだ。ツイッターに「応援します」と書くのは、応援ではない。)

世の中が、どんどん便利になり、「誰かがやってくれる」が当たり前になった。
その「当たり前」と手を切らないかぎり、原発はなくなりはしない。いや、原発がなくなっても、日本人は、根本的に、何も変わらない。

(C)2011犬村小六・小学館/「とある飛空士への追憶」製作委員会

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2011年9月 7日 (水)

■0907 ヱヴァンゲリヲン■

いわき市に行っている間は、なぜかアニメ番組が多く、多数予約していた。
Evab002hk3hwe『ヱヴァンゲリヲン 新劇場版:破』のテレビ放映版もそうで、昨夜、やっと見られた。
ちなみに、二年前の公開時の感想は、なかなかキモいですよ。→


やっぱり、シンジが綾波にふるまう味噌汁から始まって、指にケガしてまで料理にいそしみ、アスカも同じように指にケガして……加持が、ミサトに持ってくる缶コーヒーとかさ。「他人のために食べ物を用意する」ってところが、とにかく泣かせる。

人のためにしか動かないのが、たぶん、完成された人間なんだと思うよ。

それと相反するように、子ども達を先頭に立てないと、守りきれない世界の不条理。真っ赤な海を洗浄して、もともとの青い海と海生動物を再生させた巨大施設……それすらも、世界を救う切り札には、なり得ないという絶望感……。
ダミープラグはじめ、次々と投入される新技術……が、ことごとく失敗して破滅へ連鎖していく有り様に、かつて感じたカタルシスはない。

最悪状況と楽観が共存した結果が、『ヱヴァ』の世界なんだ。
その中でも、子ども達同士の触れあいは、絶望なんかとは無縁のところで、必ずありつづける。
その強度に、ゼーレやネルフ、大人たちの策謀は、ことごとく敗北しているかに見える。

世界が、絶望とともに崩壊しようとも「キミとボク」の世界を守りきれれば、それはそれで幸せなのかも知れない。
ボクには、キミがいないけれどね。


ブログに書ける段階ではないのかも知れないが……、私の母が元・父親に殺された事件。
公判が近づいている。己の無実を信じてやまない廣田年亮被告は、弁護士と策謀し、証人をつぎつぎと揃えはじめた。
――ショックなのは、母の葬儀に参列してくれた親戚が、被告側の証人として出廷することだ。こともあろうに、敵に寝返ったか……。
でも、俺からすれば、人殺しの擁護をする人間は、人殺しと同罪です。親戚だろうが、そんなものは関係ない。情け容赦はしない。

対する検察側。遺族として出席するのは、俺だけです。つまり、母の名誉を守り、被告を追いつめられるのは、もう僕しか残ってない。

僕は、この裁判に、十年分ぐらいの寿命を注ぎこむ。母は、胸に2本もの包丁を突き立てられ、苦痛のうちに死んだのです。
私が、母に贈った白いニンテンドーDSは、彼女の血で真っ赤になっていた。

それを「仕方がないこと」とする人間たちを、あなたなら、許せますか?

(C)カラー

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2011年9月 6日 (火)

■0906 チェルノブイリ・ハート■

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2011年9月 5日 (月)

■0905 ゴジラ■

上映会で活躍してくれた映像ディレクターの加納真氏が、「いま、最初の『ゴジラ』を見ると、結構すごいよ」と語っていたので、1954年版と1984年版をつづけて見た。

1954年版は、高校3年のとき、文化祭で上映した。ちょうど、1984年。つまり、30周年記念Gimagesで新作が公開される年だ。
文化祭実行委員長と生徒会副会長を兼務していたので、「どうせなら、話題性があるやつを上映しよう」と、ほぼ独断で決めた。
つまり、17歳かそこらの頃に見て、手堅いつくりに、ぞっこん惚れこんでしまったのだ。ノベライズも読んだし、レコードも買った。

いま見直しても、セリフは覚えていた。無駄のない、誠実な映画だと思う。


最初にゴジラに沈没させられる船は、第五福竜丸がモデルだろうけど、船が被曝した形跡はない。
代わりに、ゴジラが初上陸した島で、巨大な足跡が、放射線を発している描写がある。「この付近の井戸は、危険なので使わないように」と、志村喬(考生物学者)の助手が、住民を下がらせる。ところが、もうひとつの井戸が使えるのは、おかしな話だ……というやりとりがある。
つまり、54年当時は、放射能を含んだ雨が降るのが当たり前で、「原子マグロに、放射能雨」というセリフまである。その世相が、「放射能をもった怪獣」にリアリティを与えたのだと思う。

志村喬は、ゴジラの足跡から三葉虫を発見し、さらに、付着していた泥からストロンチウム90を検出する。
足跡に近づいていてはいけないぐらいだから、ゴジラに蹂躙された東京は、この世界では死の街となっているはずだ。実際、病院で子どもにガイガーカウンターを向けた医師が、絶望的に首をふるシーンがあるではないか。

ところが、ゴジラ上陸から30年後を舞台にした、84年版『ゴジラ』。東京は、どこも汚染区域になっていない。
有楽町マリオンもあるし、新宿副都心の高層ビル街も出てくる。


1984年でしょ。流行語大賞が、所ジョージの「すごいですねえ~」だよ。テレビCMは「ハエハエ、カカカ、キンチョール」だよ。マハラジャの一号店も、オープンした。
日本は豊かになったんだよ。そのことに、後悔はないよ。平和な時代を生かせてもらったと、今は感謝している(これから先は、わからない)。

1984年版では、原子力発電所が「ゴジラのエサ」と呼ばれる。ゴジラが日本に上陸するのGimagesca8r9rxlは、原発があるから……という設定に変えられている(1954年には、まだ日本に原発はなかった)。
だから、ゴジラが最初に上陸するのは、東京ではなく、静岡県の「井浜原子力発電所」なのだ。――浜岡原発のことだろうね。76年運転開始で、新しい原発だったし。

さて、ゴジラは原子炉建屋を破壊し、格納容器を取り出す。そんな大変なことになっているのに、生物物理学者の夏木陽介たちは、生身で至近距離まで近づくんだけど(笑)、ゴジラが放射能を吸い込んでるから、無事だということらしい。
……でも、それで納得したと思うよ。311までは、誰もが。

もうひとつ面白いのは、夏木陽介が、帰巣本能を利用して、ゴジラを火口に落として眠らせようとしているのに対して、日本政府はカドミウムを飲ませて、「ゴジラ体内の核反応を抑えよう」と考えるところ。
発がん物質のカドミウムに、そんな効果があるとは初耳だけど、政府はゴジラを「生きた原子炉」と捉えている。夏木陽介は、「ゴジラは殺せない」と、反対の立場をとる。

1954年版でも、志村喬は、ゴジラ抹殺に反対し「殺さずに研究すべき」。この辺りのゆがんだ感覚は、今でいうと、「放射能安全厨の総大将」山下俊一教授(刑事告発ずみ)を思わせて、ちょっとギョッとさせられる。


いずれにせよ、「原発があるから、ゴジラは日本に来る」設定は、途中でボカされてしまう。
1984年には、原発なんて見えないところにあったし、「爆発なんてしないだろ」と思われていたし。
僕が4月ごろに書いていたように、80年代の日本(特に東京)は平和すぎて平和すぎて、だから、『AKIRA』のように大破壊を前提にした物語が、普遍化されていった。
宮崎駿の言葉を借りると、「平和な時代こそ、破滅はファンタジーになり得る」。今は逆になってしまったわけなんだけど……。

だけど、街にでると、1984年と変わらない風景が広がっている。
1984年版『ゴジラ』は、前作のように骨にもならず、火山に封印されるだけ。「クサいものにはフタ」なんだ。
眠りにつくゴジラを見て、なぜか総理大臣が泣くんだけど、そんな安いセンチメンタリズムは、反原発の人こそが、抱きがちじゃないか。その感傷を、今むしろ、リアルに感じてしまう。
それぐらい、みんな、ヌルく「脱原発」と言っているだろう。本気で脱原発運動をやったら、人生を捨てねばならないと分かっただろう?

日本人がリアルに放射能を浴びていた1954年版のラスト、「水爆実験がくり返されるかぎり、第二第三のゴジラが、世界のどこかに現れるはずだ」。このセリフを痛切に感じなくてはならないはずが、「それだ!」と言い切れない。なんだか、違うんだ。

仕事が終わったら、『チェルノブイリハート』を見にいく予定。もうちょっと、悩む。

(C)TOHO CO.LTD

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2011年9月 4日 (日)

■0904 東京の空気■

いわき市での最終日は、復活したアクアマリンふくしまへ。
Icak6cmoe(←環境を再現するため、熱帯温室のようになっているのがスゴイ)
震災後、多くの魚や海獣たちが、全国の水族館へ移されたり、あるいは復旧のために、新たに寄贈されたりしたそうです。そういうネットワークができてるんですね。

そして、多くの生き物を見ているうち、「ああ……人間は、彼らの仲間ではないんだな」と、つくづく思いました。
昨年、友人の出展しているTシャツ展で知ったのですが、縄文時代って一万年もつづいたんですよ。放射性廃棄物は、その十倍、百倍も管理していかないといけない。

ちなみに、この日、駐車場で待ち合わせたS氏は、線量計をかざして「0.07です」と笑っていました。いわき在住の方から、「0.12ぐらいに上がってしまった」と聞いていたのですが、日によって、半分ぐらいになる。海に面しているせいなのかな。


「いわき市に、上映会に行く」と言ったら、不動産屋のおばちゃんは「福島県? あら、危ないじゃないの」と目を丸くしていた。……まあ、この人は、いつも飄々としてるから、これでいいんです。
でも、「福島県」というエリアが危険なのではなく、人間が決めた県境なんて無視して、放射性物質はふりそそぐわけですよ。だから、同じ東京でも、場所によって違う。
いわき市だって、建物の中は低いけど、FMいわきの発表では「0.17」と言っていました。東京・葛飾区では、その値を、はるかに超えている箇所がある。
どこが安全とか危険とか、一概には言えない。

だから、ツイッターで見かける「福島県から、ただちに逃げよ」という叫びには、ちょっとクエスチョンマークがつく。避難せねばならない箇所がある……というのが、正確だと思います。
ちょっとビックリしたのは、「私が首都圏に住んでいたら、原発事故後、三時間で脱出した」と豪語している方。関西にお住まいの方でした。ま、そんだけ離れてれば、何とでも言えますわな(笑)。

そもそも、原発事故から三時間後? まだ帰宅できない人が、東京中にひしめいていましたよ。余震がつづいていたから、外に出るのも怖い。誰も、放射能のことになんて気が回らなかった。いつ輪番停電が来るのかと、そればかりですよ。

むだに優越意識をむき出しにすると、同じ国の中で対立を呼びかねない、と思うのですよ。


いわき市からの帰途、なんとなく、原発や放射能に対するイライラが、すーっと消えていったように感じた。
でも、それはたぶん、気のせいで(笑)、東京駅から中央線に乗ると、東京独特の「何が起ころうが、われ関せず」という沈黙の空気が、むわっと漂ってきた。

ツイッターにあふれる、反原発・脱原発ツイート……。
たとえ自己満足でも、デモはつづけた方がいいと思う。黙っているよりは、絶対にマシだから。しかし、知っていながら黙っている権利も、また認めなくてはならない。僕には、その視点が欠けていた。
人それぞれに、事情というものがある。

「今すぐ廃炉に」と、僕にはもう言えない。今日から、全国の原発の廃炉が始まったとしても、30年かかる。それは、僕らの子どもの世代が作業するということ。
その罪深さを呑み込んで、初めて「廃炉に」と言える。でも、脱原発を叫ぶ人の中で、「被曝を覚悟して、俺たちが廃炉作業します!」と言える人が、はたして何人いるだろう。
結局は、自分より若い世代に押しつけるんだ、という罪悪感こみで、初めて「脱原発」と言えるのです。

状況を変えたいのなら、具体的に。
たとえば、電力会社から、送電線を取り上げるんですよ。すごく良い署名があったので、読んでほしい。→
そもそもね、原発推進の旗をふってきた経産省は、東電から電気を買ってないよ。「東電は高いから」と、他社から買っている(一般家庭では買えません)。原子力マフィアたちのワガママ勝手な振る舞いを、叩き壊したいんだ、私は。

それは、「自然エネルギーにしたい」というよりは、エゴを生み出す独占体制を葬り去りたいからです。
意見をどんどん口にできる空気は、とても大事。しかし、どうせリスクをおかすなら、実効性のあることをやっていこう。

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