■0811 リトル・ランボーズ■
今日一日まで、暫定的夏休みなので、『モールス』でも見に行くべきなのだが、27・28日の上映会が終わるまでは、とにかく節約。
TSUTAYAでの200円レンタル二本目は、『リトル・ランボーズ』。新潟シネ・ウインドの会報「月刊ウインド」で、いい感じに紹介されていたからなんだけど……僕はもう、『ランボー』の公開されていた少年時代に、そこまでシンプルな郷愁は、いだけない。
僕の過去は、ほんの静かに、だが、決定的に変わってしまった。変化は歓迎したいから、なんの後悔もないんだけど。
『ランボー』に刺激された少年たちが、こっそりと自主映画をつくる、こじんまりとしたお話です。
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冒頭近く、主人公の少年の家。「台所で、ママが調理している→窓を抜けると、ダイニングで、妹と祖母が過ごしている→さらに窓を抜けると、少年の好きな納屋が見える。」
少年のところへ行くのに、ふたつも窓を抜けねばならないわけ。ママから少年への距離は、それだけ遠いんだってこと。「映像の文学性」って、こういうことなんです。
もうひとつ、主人公が悪ガキと出会う(初めて出会う廊下のシーンも、カメラワークが素晴らしい)。
その悪友が、主人公を物置に案内する。天井の電気がチカチカして、物置にある珍しいあれこれに、スポットライトを当てる。
そうした照明と編集で、ひとつひとつの物が鮮烈に見える。映画に「自由な筆致」があるとしたら、そういう演出の手練手管のこと。
映画評では、「自主映画をつくる少年たちは、映画の中だけは自由なんだとメッセージを伝えてくれる」とか書かれているけど、どこに目をつけてるんだよ? そんなのは、シナリオ・レベルのことでしかない。映像を見なさいよ。
どうして、そこでカメラがドンデンになるのか、ドリー移動になるのか、ちゃんと意味があるんだからさ。
同じように、「アニメ表現の可能性」を語るとき、なぜかストーリーやテーマのことばかり持ち出す人にも、首をかしげてしまうけどね……。
『乙女の祈り』なんて、映像表現の宝庫だよ。だから俺は、「オトナアニメ」の特集でオススメ作品として挙げたんだ。アニメの特集でアニメをオススメするなんて、視野が狭すぎるだろう。
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27日・28日の福島県いわき市での『マイマイ新子と千年の魔法』上映会(■)は、毎日、「ええっ?」と驚くような展開で、着々と進んでいます。
すべてが終わったら、裏話を書きます。
これは、東京といわきのコラボレーション。だけど、被災地の人たちに見せるためにやっているので、大騒ぎはしないでほしい。僕らは、先方から見れば「ボランティア」という扱いです。家を失った人たちも、市内の避難施設で暮らしています。
それを忘れてはいけません。
あと、忘れずにマスクの寄付をしてくださる方、ありがとうございます。
(C)Hammer&Tongs, Celluloid Dream, Arte France, Network Movie, Reason Pictures
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