■0402 カヤの外■
駅前の喫茶店で、打ち合わせ。けっこう揺れた(茨城で震度5)のだが、店員も客も、平然としていた。スーパーには、水もカップラーメンも並んでいる。計画停電や水道水の危険を知らせる市内放送は、もう何日も聞いていない。
この町は、311以前に戻りつつある。「まだ、ここに残っていても大丈夫なのか?」という神経症的なピリピリした空気は、霧散したかに見える。
被災地に送るため、カイロを買いに行ったのだが、薬局からも百均ショップからも消えていた(東京が暖かくなったためである)。
僕の立っている場所は、またしてもカヤの外であったか。どうして、何度も何度も、僕ばかりが生き残るのだろう。
原稿のシメキリは、ゴールデンウィーク進行で、18日後と決まった。
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かつて『マイマイ新子と千年の魔法』を取り上げてくれた『MAG・ネット』が、NHK総合でリニューアル・スタートした。第一特集は、「震災とネット」。
東浩紀さん、ついに言ってしまったか。「こちらと西日本では温度差がある」……というような意味のことを。同様の声は、西日本に仕事に行った人、2名ほどから聞いていた。
しかし、私もまた、カヤの外に立っている。
だからこそ、募金と救援物資、署名の呼びかけ以外のお節介はしないし、出来ない。「断食して、人に優しくすると、少しはマシな気持ちになれます」と言ったのは、稲垣足穂だった。
何ら不自由なく、無傷でピンピンしていることに、罪悪感をおぼえない人間はいない。善意などではない。自分だけが生き残ってしまったという罪悪感が、僕を焦らせる。
そして、自分にばかり注意が向くのは、人間ができていない証拠である――。
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「無用者」という言葉を聞くと、ギクリとするようになったのは、いつ頃からだろう?
欲をいえば、感謝とも栄誉とも無縁のことを成したい。
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コメント
「無用の用」。無用者の用、も有りではないかと。
「温度差」は仕方ないと思うんですよ。
今回はあまりにも広範囲かつ大きすぎる事例だったので、多くの人の関心を集め、私もまた行く先々で募金箱に反応していますが、行動を起こしている人ですら、つい最近のニュージーランド地震のことは忘れてしまっている人がほとんどでは?
私は阪神・淡路のときも、故郷の大洪水のときですら、身内が被災しなかったというだけで、わずかな募金で済ませてしまいました。
被災した人、特に大切な人や物を失った人にとっては、事例の規模に関係なく、辛さは同じはず。
と、気づいて反省&所詮自分はその程度の人間だったのだと開きなおり中。
そんな私にまずできる簡単なことは、知ること、忘れないこと、かな、と。
これもまた、低温な話でしょうね…
投稿: kyasリン | 2011年4月 4日 (月) 18時27分
■kyasリン様
僕だけでなく、無用になった人は、日本に大勢いると思います。某都知事とか。
友だちの受け売りですが、「東京が巻き込まれたことが、今回は特殊なのではないか」とのことです。「巻き込まれた」というのは、放射性物質の件ですが、そこに妬みややっかみも混じっているだろう、と。
腐っても、首都なんです。ホントに腐っていると思うこともあります。
僕がムカムカしたのは、安全地域からの「忠告」です。ネットで寄せ集めた情報をリンクして「東京の皆さん、ご注意ください」。おおきなお世話です(笑)。
震災直後にツイッターに跋扈した「皆さん、笑顔を忘れないでください」も、クソうるさかったです。
しかし、おかげで、「被災地に対して同じことは決してするまい」と思えました。
あとはもう、実際に役に立つ募金、救援物資。それをコツコツとつづけていくことですね。
見ず知らずの人間の死を想像しようと努める時間があれば、凡人としての義務を果たします。
投稿: 廣田恵介 | 2011年4月 4日 (月) 19時46分
私自身、宮崎の口蹄疫禍の時ほど必死になっていないのがわかりますので、ご指摘は胸に刺さります。
ただ、自分を庇う訳ではありませんが、一般人の温度差を責めてはならないと思うんですよ…
宮澤賢治は「世界ぜんたいが幸福にならないうちは個人の幸福は有り得ない」と書きましたが、その感情が自身の「修羅」としての在り様に由来するものだということを自覚していました。
裕福な地主の長男として生を受けた後ろめたさ、それが「善行」の動機であることにすら罪悪感を覚え、「みんなの幸いのため」と言いつつ誰の益にもならない「焼身」に最高の価値を夢見た彼の辛さに、廣田さんが同化してしまうような惧れを感じてしまいます。
上手く言えないんですけど、「淡々と日常生活をおくることも一つの務め」なのではないかなと。
災害は誰の上にも起こりうることをきちんと踏まえたうえで、「非日常」へ大きく針が振り切れてしまった人達がいつか戻っていく「日常」を保持していくことにも、何かしらの意味があるのではないでしょうか。
ただ、何もかも昔と同じというのではなく、「新しい日常」を模索する、そういう仕事を課せられているのだろうと思います。
投稿: やや矢野屋 | 2011年4月 4日 (月) 21時06分
■やや矢野屋さま
国内で温度差があるのは、『MAG・ネット』でも、僕の身のまわりでも「まあ、仕方ないよね」と笑って終わりです。
だから、「西日本のヤツラも必死になれよ!」なんて言わないし、思ってもないです。しかし、当てハズレなお節介をしたがっていた人とは、距離をとらせてもらいました。
>上手く言えないんですけど、「淡々と日常生活をおくることも一つの務め」なのではないかなと。
それこそが、僕がひとつ上のレスに書いた「凡人の義務」だと思うんです。
僕の友人で、北関東に住んでいるのに、震災にも放射能にも一切触れず、淡々と模型を作り、淡々とブログを更新している人がいます。肝が座ってて、いいなあと思って(笑)。
そういう人は、何も言わなくても、逃げるときは逃げるので。
>ただ、何もかも昔と同じというのではなく、「新しい日常」を模索する
はい、今回のことを「正常化する」と信じている人は、実は東京のほうが多いように思います。
決して正常化はしません。もっと悪くなっていくんです。それが10年、20年、僕らの死後もつづいていくんだよ、という覚悟が必要だと思います。
投稿: 廣田恵介 | 2011年4月 4日 (月) 21時23分
これもまたお節介ではありますが…
お気の毒な結果になってしまったようですが、相手のことを思ってこそ時間を割いて行動したことがマトをはずれてしまっていてかえって傷つけてしまったことのショックといったら、どん底ですよ…自分がつけてしまった相手の傷をとり繕おうとすればするほど事態は悪化するし。
逆もまたあり、で、私は直後の該当地域への友人への安否確認の連絡は控えることにしていて(遠方では自分が安心するためにしかならない安否確認のためにもっと大切な人との連絡がとれにくくなると思っているから)、このごろになって思い出した順にメールなどしているのですが「10日目にやっと水が使えるようになった」という友人が「こうして遠方からメールをもらうとすごいパワーになる」と喜んでくれて、これはまたこれで、もっと早く連絡してあげればよかったと、なんだかショックで。
自分で「頑張る」という言葉を使っている人以外の頑張っている人にこれ以上「頑張って」と言ってはならないとか、いろいろ考えると語彙が少ない私などは沈黙で逃げましたが、そうすると誰にも責められずに済むんですよね…。
投稿: kyasリン | 2011年4月 5日 (火) 10時22分
■kyasリン様
もちろん、個人差はあって当然です。
そして今、「こうしておけば良かった」と過去の話をすることに、あまり意味は感じません。うるさかったら、一時的にシャットダウンしてしまえばいいだけのことです。
冷たいようですが、私は「傷ついた」「傷つけた」ではなく、「役立つ」「役立たない」を判断基準にしています。
相手が「役立つ」と思いこんで発言しているノイズは、積極的にカットしましたし、これからも遮断します。
私から出来る「役立つ」は、募金と(求められた場合の)救援物資、あとは、協力を呼びかけられた署名ぐらいです。
募金に関しても、余裕があるときは多めに。自分の生活を維持するので手一杯のときは、1円でも5円でもいいと思っています。
それらは「相手のため」というよりは「自分のため」なんです。そう自覚すれば、少し心が軽くなります。
投稿: 廣田恵介 | 2011年4月 5日 (火) 12時32分