■0401 フラクタル■
昨夜、藤津亮太氏と申し合わせて、Twitter上で「オヤヂ酒場」をゲリラ的に展開してみました。ネタは『魔法少女まどか☆マギカ』。最初は氷川竜介さんがリストにして下さったのですが、終了後に雪駄(@H926)さんが、toggeterにまとめて下さいました。→こちら
ご興味のある方は、どうぞ。最後の氷川さんの落とし方が効いてますね(笑)。編集、上手です。
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さて、『フラクタル』。関東では最終回を迎えました。
俺が押井守さんを好きなのは、押井さんの作品が素晴らしいというより、トライしていることが面白いからなので、『イノセンス』を誉めろと言われても、それは「押井さんが演出してるんだから、面白いに決まっている」ということになってしまう。
山本寛さんを好きなのも、ちょっとそれに近いものがあるのかも知れない。
だから、トータルバランスは、初めからどうでも良かった。Twitter上での、氷川竜介さんとの対談でヤマカン氏が「ボーイ・ミーツ・ガール」と言ったときは、「?」と思ったんだけど、ラストシーンを見て納得。いや、物語全体から見たら「どういうことなんだ?」と首をひねるよ? だけど、試みとしては腑に落ちる。
「出会ったときから、ずーっと好きだった」と抱き合える、その一刹那のために、説明不足の世界設定や解決不能の問題提起が散りばめられていたとしたら――それはそれで、やはり美しいのではないか、と僕は思った。
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世界の問題を留保したまま、愛らしいキャラを描いて、視聴者に愛らしく感じさせて、愛らしい彼らの幸福をもってエンドマークを打つのも、それも作品の「在り方」なんだよ。
そもそも、キャラを可愛く描くこと自体が、「技術」なんだし。
僕が好きなのは、クレインとフリュネが夜の坂道を、競い合いながら登るシーン。
あのエピソードで、何が主眼であったかは、もはや覚えてない。それは大した問題ではない。そんなこととは無関係に、クレインとネッサが抜きつ抜かれつしながら、坂をのぼる、その楽しさね。そこに愛情が熟成されていく。「命を救われたから好きになる」とかいうのはウソであって、無駄なことしてる間に、好きになっているんだよ。
だって、どっちの表現に力が入っているかを見れば、一目瞭然じゃん。
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じゃあ、『フラクタル』は恋愛物だったのか、というと、そこまで完成されてもいない(笑)。それは、アニメというものを文学的にとらえすぎ。
あそこまで大風呂敷を広げておいて、やっぱり畳み切れず、それでも、少年と少女をしっかり抱き合わせる……そこがキュートなんじゃん!
(C)フラクタル製作委員会
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