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2011年1月30日 (日)

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コメント欄で話題になったので、『フラクタル』第2話を見直す。
最初に見たとき、「主人公(クレイン)の自転車から女の子(ネッサ)が落ちるのは、木陰」と書いた。木陰ってことは、ぜんぶカゲ色なんです。キャラの色がね。そこに注目してみる。

まず、ネッサが初登場する冒頭シーン。クレインの屋根裏部屋で、窓から朝陽が差し込んでいる。ネッサは「新しい朝に、おはよう」と言って、一度だけ、窓のほうを向く。だけど、そのあと、クレインに頭を触らせるあたり、ずーっと逆光なんです。だから、顔はカゲ色。

クレインは、ネッサを施設にあずけようとする。そのとき、ネッサの笑顔を「こわい」と思う。ここは順光なんです。カゲ色は、ほとんど使ってない。その順光のシーンで、クレインはネッサに触れなくなってしまう。

それから、ラスト近く。クレインが夕陽の中を走っていると、ネッサが駆けてくる。ここで、カメImageラがゆるやかにPANしているのが気持ちいいんだけど、冒頭と同じく、ネッサは逆光なんですよ。
そして、逆光のまま、ネッサはクレインに抱きつく。

ようするに、「クレインがネッサに触れるシーンは、すべて逆光か、木陰」。それには、いろんな解釈を付与できると思う。単純に、カゲ色で芝居させたほうが印象が強くなる、ということかも知れない。木陰で「触って」と頼むシーンなんて、ちょっと淫靡な雰囲気が出てますよね。

ヒロインのアップ顔でも、カゲ色にすることをいとわない。さすがに、冒頭とラストのアップ時は、少し柔らかいカゲ色になっているけど(それでも、撮影でけっこうな手間をかけてる)。


さて、クレインが「怖い」と感じた、ネッサの笑顔。ここは、順光だったでしょ。でも、クレインが夕陽の中で回想するとき、今度は怖くないわけですよ。同じ絵を使っているのに。
瑣末なことを言っているようだけど、映像作品って、そういう部分が面白いわけですよ。そもそも、面白くなかったら、2度も見ないし、カゲ色がどうだろうと気にしないよ。

あと、塔に登るシーンで、カメラが2度だけ、塔の中に入る。両方とも、効果が違うんですよ。最初は位置関係の説明のため、次は感情表現のため。面白いよねえ、このアニメ。本当に、丁寧に組み立てられてる。

(C)フラクタル製作委員会

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コメント

廣田さま

このエントリーを拝読し、僕も再び第2話を見ました。
確かに触れることができたシーンは全て影でした。
逆光の方が、柔らかい印象の絵に仕上がると聞きますが、この場合は絵作り的なものよりも、心象的な効果を感じます。それが「何か」は今は分からないのですが、とにかく作り手の「心」は感じますね。

ネッサは、あの着物のデザインといい、見たり触れたり出来る人間が限定されているなどの設定が、ちょっと「座敷わらし」っぽいイメージですね(笑)


投稿: かまタロウ | 2011年1月31日 (月) 21時47分

■かまタロウ様
>逆光の方が、柔らかい印象の絵に仕上がると聞きますが

あ、なるほど。
冒頭とラストは、ちょっとレフ板を当てたような、グラビア風の逆光なんですよね。普通のカゲ色ではないです。

ラストなんて、東から走ってくれば、西日を受けてキラキラした「明るい顔」を簡単に描けるのに、やりませんでしたね。
「どうすれば、本当にキャラに親しみを持ってもらえるのか」、真剣に考えたんだと思います。

>ちょっと「座敷わらし」っぽいイメージですね(笑)

なるほどね(笑)
でも、見てもらえない、触ってもらえないのをネッサ本人が「イヤだ」と感じる描写が、見直すたびに、心に刺さるんですよね。

拡張現実という設定を使いながら、実は途方もないスケールの、それこそ、妖怪なんかも含めた文化人類学的な「萌え」をやっているような気がするんですよ。
ねんどろいどは、あまり興味ないけど、リアルタッチのフィギュアも出るそうなので、それは買ってあげたいな……とさえ、思います。

投稿: 廣田恵介 | 2011年1月31日 (月) 22時16分

廣田さま

>「どうすれば、本当にキャラに親しみを持ってもらえるのか」、真剣に考えたんだと思います。

なるほど!この前の発言とは正反対となりますが、「カワイイだけでもダメ」なんですね^^;
単にキャラデザイン、声、仕草だけではなく演出(っていうんですか?)にも心を砕いているようですね。

>見直すたびに、心に刺さるんですよね。

自分も、スンダが飛行船内で「ただのデータだろ」って言ったときに、そんなこと言うなよ!と思わず口にしちゃいました(笑)
あと、接触、会話、心さえも通じることが出来るのに、「一緒に食事出来ない」ってのも断絶・絶望を感じさせます。自分が望んで、一緒に飯を食う相手って大切な存在ですもん。家族、親友、恋人とか。

>妖怪なんかも含めた文化人類学的な「萌え」をやっているような気がするんですよ。

面白いですね!
確かにドッペルのデザインなんて、明らかに妖怪の体ですよね。

>リアルタッチのフィギュアも出るそうなので

本当ですか!
自分もちょっと欲しい・・・ネッサのフィギュアが家にあったら、いいことがありそうな気がしますね(笑)

投稿: かまタロウ | 2011年2月 1日 (火) 00時07分

■かまタロウ様
『王立宇宙軍』のとき、山賀博之監督は「アニメ・ヒロインが現実にいたら、こんなに苦労しているんだ」ということを描きたいと思ったそうで、ネッサは、割とそれに近い試みであるように思います。

>自分も、スンダが飛行船内で「ただのデータだろ」って言ったときに、そんなこと言うなよ!と思わず口にしちゃいました(笑)

もちろん、見ている側はそう思いますよね。
でも、劇中人物は、クレインですら最初は「ドッペルだから平気だろう」とぞんざいに扱っていたし、これからも酷いことをするかも知れない。

だけど、彼女は味が分からない。かまタロウさんが言うように、物理的断絶がある。それをクレインの側から埋めようとしたとき、データ以外の別のものになるんですよね。つまり、「関係」を育むことによって、愛着が生じる――こんな当たり前のことを、今さらアニメに教えられるとは。

恋愛も友情も、相手(他人)のことを思って、何か行動したとき、初めて生じるものじゃないですか。だから、クレインが自由気ままな、ひとり暮らしをしていたのも、ちゃんと意味がありますよね。
第2話のラスト近く、息切れしてへたりこんでしまうところなんて、本当に「ああ、ちゃんと生きてない。俺みたいだ」なんて思って。

自分の、今までの体感、人生のマイナス面までもが、このアニメの中でちゃんと汲み取ってもらえていると感じています。

投稿: 廣田恵介 | 2011年2月 1日 (火) 00時47分

廣田さま

>「ドッペルだから平気だろう」
思い返してみれば、自分も木陰のシーンではクレインと同じように思いましたね。。。
ドッペルは生きた人間の投影みたいな設定なので、ぞんざいに扱ってもOKってのがあの世界の常識のようにも感じました。

自分もクレインを通してネッサが「データ以外のもの」になるのを体験しているようです。

>「関係」を育むことによって、愛着が生じる

こうして言葉されるとほんと当たり前のことなんですがね・・・何故か忘れがちです。
僕自身がこういう行為を得意としない性分というのもありますが。
クレインも同じタイプの人間のように思えます。
ネッサに味を伝えるシーンとか面白いと思いつつ、不器用で恥ずかしくて、自分を見ているようで冷や汗が出ましたね。なんか昔こんなことがあったなって(笑)

投稿: かまタロウ | 2011年2月 1日 (火) 23時15分

■かまタロウ様
>ドッペルは生きた人間の投影みたいな設定なので、ぞんざいに扱ってもOKってのがあの世界の常識のようにも感じました。

それも、飽くまでも「作中人物たちの常識」なんですよね。でも、僕らから見たら「それは無いだろう!」と思える。
フラクタル・システムが人間の実感を奪った、というのも、スンダたちがそう主張しているだけで、別に作者のメッセージではない。早とちりしている人が、多いように感じます。

>ネッサに味を伝えるシーンとか面白いと思いつつ、不器用で恥ずかしくて、自分を見ているようで冷や汗が出ましたね。なんか昔こんなことがあったなって(笑)

やっぱり、作品の中に自分を見てしまったとき、もうその作品は自分とは無縁ではなくなりますよね。
他人がどう言おうと、自分の身体がいちばんよく知っているわけで。

僕は、作品を「体感」したいと、常に思っています。この作品は、それに応えてくれそうで、とてもワクワクしています。

投稿: 廣田恵介 | 2011年2月 2日 (水) 00時15分

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