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2011年1月 1日 (土)

■ラブリー・ボーン■

身内に急な不幸があり、新年のご挨拶は、失礼させていただきます。
お請けしている仕事は、つつがなく継続しますので、ご安心ください。


大晦日の深夜に見た映画は、『ラブリー・ボーン』という、今の私にとって、たいへん象徴的な映画でした。ピーター・ジャクソン監督は、『乙女の祈り』でも独特の死生観を披瀝しましたが、この映画では主人公の少女が、変質者に殺されてしまいます。
Thelovelybones03_3それが映画の中盤です。そこからあとは、生と死の間にある世界から、少女が「自分のいない現実」をえんえんと見つめるだけです。
まずは、その映像が不気味なれど、美しい。ディテールはグロテスクでも、ぜんぶ同じ画面に入れると、不思議に綺麗というか。
金色の草原が、だんだん泥沼になっていくとか、怖いんだけれど、ずっと見ていたいような光景ばかり。

そして、この映画はファンタジーではあるけれど、少女がよみがえったりはしません。ずーっと、死んだままです。
では、殺人犯が捕まるかというと、そういう分かりやすい解決もありません。
少女が、自分の遺体のはいった金庫が埋められるのを見ながら、「自分のいない現実」を受け入れて、幕となります。


こういうストーリーを「理屈に合わないから、納得しない」という人もいますが、映画を、自分の身体の外に置いている採点マニアは、いつもそうですね。
その後に、『色即ぜねれいしょん』というのを見たのですが、面白くないとかいうより、「身体が受けつけない」という表現がピッタリ。

見ているときに、必ずパッタリと寝てしまうような映画は、実は、身体に合いすぎているのかも知れない。だって、タルコフスキーの映画は、寝てしまうけど、つまらなくはないもの。


葬儀屋さんに、母の名前を教えるとき、あらためて「私の名前は、母の名の一部から取られているのだ」と気がつきました。

だから、私が生きているかぎり、母は死んでいないんです。
手続きを終え、ひとりで食事をしたとき、「さあ、チャーハンが来たよ。おいしそうだね」「ギョーザが熱いから、気をつけてね」などと心の中で語りかけていたのは、私が母の名を継ぎ、ともに生きているからです。
腹が立つぐらい、私は元気です。

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コメント

 お悔やみ申し上げます。心痛、お察しいたします。

 大晦日はゆっくりお話もできず失礼しましたが、また話せる機会があろうと思います。本年もよろしくお願いします。

 ご無理をなさらぬよう、ご自愛ください。

投稿: 地元記者(ナ) | 2011年1月 1日 (土) 23時07分

※メールくださった方、こちらからの返信が届かないトラブルが起きています。
ちゃんと読んでいますので、ご安心ください。

■地元記者(ナ)様
ありがとうございます。

私は変わり者だし、一体どれだけ数奇な運命を歩んでるんだよ、と思うのですが、自己流に、タフに生きていくしかありません。

『新子』にかぎらず、面白いことがあれば、何だってやっていきましょう。
いつまでもクヨクヨしているのは、むしろ先立っていった方たちに、失礼だと思うのですよ。

投稿: 廣田恵介 | 2011年1月 2日 (日) 03時20分

親子が名前でつながっていると、ずーっと手をつないでる感じでいいですね。

私の名にも我が子たちにも親の名はなく考えた事なかったですが、
お母さんだけじゃなくてみーんな生きてますね。
体の半分は母で、もう半分は父で、それぞれの半分は…
祖父母も曾祖父母もその前もみーんな。
この体への感謝を今自覚しました。

投稿: kyasリン | 2011年1月 2日 (日) 12時20分

■kyasリン様
ごめんなさい。一般論でいえば、そうだと思います。

ただ、私の家系、特に母方の係累は複雑でして、唾棄すべき者どもも、います。
母を苦しめた連中は、もちろん、葬儀に呼んであげません。そいつらと血がつながってるとは、私自身、思ってませんので(笑)

私は、母を救えなかったので、せめて俺の身体を貸すから、一緒においしいもの食べて、長生きしようや。そんな気持ちなんです。

ご意見を否定しているつもりは、ありません。私が、偏屈なだけでしょうね。

投稿: 廣田恵介 | 2011年1月 2日 (日) 12時42分

いえ、否定でも廣田さんが偏屈(とは思わない私も偏屈なんですかね?)でも構いませんが…
複雑な事情があるとは知らずに余計なことを書いてしまい、すみません。

母と子が名前でつながってるっていいなぁと初めてそういうのをうらやましく思ったとき、
私にはそのつながりがどこにもないぞ、どうすれば一緒に過ごせるんだろう、と考えた結果が私の場合はそれでした、というだけですね。
迷いつつも、みんないるよと励ますつもりがKYでした。
うーん…消えてしまいたいかも。。。

投稿: kyasリン | 2011年1月 4日 (火) 01時52分

■kyasリン様
>複雑な事情があるとは知らずに余計なことを書いてしまい、すみません。

謝らないでください。母の死については、ただ「亡くなった」以上のことは、申し上げられません。
それは、すみませんが、許してください。

>迷いつつも、みんないるよと励ますつもりがKYでした。

いえ、ここでは空気など読まないで、思ったことをぶつけて欲しいと思っています。
(何かひねくれたような、奥歯にモノをはさんだようなコメントは嫌いですが、あなたのコメントは、いつも正直なので、好きなんです)

あなたにも、お辛い別れがあったでしょう。それを忘れていました。ごめんなさい。
また、私のコメントを読んで不快になられた方にも、お詫び申し上げます。

……人間は手足を失うと、すぐに「無くなった」と認識できず、緊急措置として、身体の別の部分に、手足の感覚を移すそうです。
私の場合、「名前」によって安心を得ました。しかし、あなたの安心を奪う権利はありません。人それぞれ、何とかしているのですね。その「人それぞれ」という部分を、大事にしようと思います。

あんなバカなことを書いてしまったから、母はそっぽを向いてしまいました。

投稿: 廣田恵介 | 2011年1月 4日 (火) 02時24分

勘違いです。お母さん、そっぽ向いてませんから。
うちの両親はまだ健在ですし、私も苦労知らずですから。それゆえにそんなことを考えた事もなかった自分を反省したのです。
今回のお話を目にしなかったら、その時がきたときに薄情な娘のままさよならするところだったなぁと。

投稿: kyasリン | 2011年1月 4日 (火) 03時07分

■kyasリン様
大丈夫ですよ。その時が来たら、自分なりの対処の仕方が、自然に出てきます。人間は、思ったより強いです。

僕は十分に薄情な息子でしたから、母を守ることも救うことも出来なかった。でもだからって、くよくよしているわけにはいかないのです。

投稿: 廣田恵介 | 2011年1月 4日 (火) 08時22分

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