■作品に対して何かしてあげたい■
昨年末は、特に仕事もなくてのんびりしていた気がするが、今年はどうかしている。4本同時進行、そのうち二つは今月締め切り。
でも、原稿に必要なので、吉祥寺で『十三人の刺客』、見てきた。谷村美月、今回もまた容赦なく「酷使」されている。映画のために、身を捨ててるよなあ……いや、いつものことなんだけど。
じゃあ、ずっとこの路線を行くのか?と思いきや、12月公開の『海炭市叙景』では、十八番ともいえる健気な妹役を、しっとりと演じている。
次に何をやるのか、どうしても気になってしまうのが谷村美月という女優。こんな僕は、果たしてファンと呼べるものかどうか。
『十三人の刺客』を見たかった理由は、もうひとつ。全裸で立ちションしている少年の映像に、何の加工もされていない、という映倫のデタラメさを確かめたかった。
「未成年者の性器の描写については、一般の映画館で上映するために修正する必要があると申請者に伝えてあり、修正の方法は申請者にまかせております。」という映倫の嘘が、また裏づけされたというだけなんだけどね。
僕が解せないのは、どうして嘘ばかりついている第三者機関に、すべての映画を密室で検閲させているのかという、システムの部分。
これに関しては、配給に聞いても興行に聞いても、必ずデッドエンドとなり、真相を聞くことができない。
だから、この国では、素直に映画を楽しめないのも事実。国内で何をどう撮ろうが、どの国のどんな映画を買い付けようが、映倫がダメといったらダメなんだもん。
こんなことばかり言いつづけて、足踏みしている自分にも嫌気がさす。
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いまや、唯一の娯楽となりつつあるファミリー劇場の『アルプスの少女ハイジ』。おじいさんが、村へ下りていってパン屋とケンカになってしまうシーンは、よく覚えていた。
無理解な大人を、悪役ではなく、相対化して描くというだけでも、かなりの筆力だと思う。ハイジのことをよく知らずに「かわいそうだ」「変わった子に決まっている」と噂する大人たちを、単なる愚か者に描くのは簡単なんですよ。でも、彼らがそう言わざるを得ないことを、この脚本は否定していない。
逆に、自分に都合のいい価値意識を無限に絶対化する物語は、いちばん幼稚だと思う。
もうひとつ、ハイジの気持ちが急いているときは、おじいさんの話をろくに聞いていない。これもまた、リアルだ。「雨が降って大変だったろう」「雷が怖かったろう」とおじいさんが心配しても、ハイジは口笛を吹けたことが嬉しいから、その話ばかりしようとする。
小鳥に夢中になったハイジに、どうしてペーターがへそを曲げてしまったのか理解できない…というやりとりにも、唸らされた。
ハイジ、おじいさん、ペーターの善意のあり方が、ぜんぶ違うんですよ。ハイジが山の夕陽の美しさに感動しても、ペーターは「こんなの、毎日のことだよ」と味気ないことを言うし、おじいさんは「太陽が、山に挨拶をしているんだ」と詩的な説明をする。リアリティの階層が最低でも3個あるから、世界がギュッと密度を持ってくる、生き生きしてくるわけです。
こちらが登場人物の心をのぞこうとすると、彼らもこちらの心をのぞこうとする。フィクションって、われわれと心のやりとりをしてくれるものなんだよね。
だから、作品に対して何かしてあげたいという気持ちになる。それは丁寧に見つづけることかも知れないし、「こんな作品があるよ」と、人に教えてあげることかも知れない。
(C)2010『十三人の刺客』製作委員会
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