« ■届かないかも知れない石■ | トップページ | ■映画に追われ、アニメに甘えて■ »

2010年11月11日 (木)

■虚構と現実は、互いに支えあい、溶け合いながら、「私」を形づくる。■

2時間あいたら、その間に見られるかぎりの映画を見ていく日々。
『茶々 天涯の貴妃』、宝塚出身の主演女優がいい。明日は早起きできたら、『十三人の刺客』だ。


2008年版『櫻の園』、これが予想外に良かった。中原俊、まだまだ枯れていない。むしろ、こういうものは若い監督には撮れないのだろう。1990年版が好きとかいうと、なんだか通ぶって聞こえるんだけど、俺は2008年版のほうが好きかも知れない。

Img20081014_p主役の福田沙紀は、バイオリニストへの道を自ら蹴って、名門校へ転校してくる。
この小エピソードのおかげで、福田が強引なまでのリーダーシップを発揮する説明ができている。途中で、『櫻の園』の上演をヤケクソ気味にあきらめる理由も、納得がいく。

映画の中盤、福田は、一度は自らやめると宣言したはずの『櫻の園』上演を、あっさりと再開することにする。そう決意するシーンは、ぽっかりと穴が開いたように描かれていない――が、男友達から作曲の才能を認められ、「俺たちのバンドに入ってくれないか」と誘われるシーンが、直前にある。
彼の誘いに対して、福田は「ありがとう」「でも、がんばるって決めたから」「迷っちゃいけないんだ」と、抽象的なことしか言わない。そこで、シーンは切れる。……でも、これで分かるよね? バンドに入って作曲するより、自分にはもっと大事なことがある、それが『櫻の園』上演だって、福田は気がついたわけだよね。
でもだからこそ、『櫻の園』がどうの、といったことは決して口にしない。

そして、福田は、一度は解散したメンバーを公園に集める。その小さなステージの上で、福田は『櫻の園』の一節を口にする。「あなたを縛りつけている世界から、出ていきなさい。風のように、自由になりなさい!」 
メンバーたちは、セリフが頭に入っているから、彼女が上演を決意したことが、パッと分かるわけです。そして、舞台劇のセリフの数々が、まるで自分のことを言っているように思えてくる。

このシーンで、公園のステージに上がった福田や他のメンバーたちは「虚構と現実の区別」をつけていない。そんな区別は、つける必要がないんですよ。虚構と現実は、互いに支えあい、溶け合いながら、「私」を形づくる。形づくっては、壊す。
この映画を見ていると、何だか人生に必要あるようなないような「フィクション」という不思議なものの効力が、よく分かるような気がする。


この映画は興行的に失敗したそうだが、鬼の首でもとったように、そのことを記事にしているヤツがいたな。そしてまた、作品を見もしないで、付和雷同する連中の多いこと。
その記事によると、この2008年版『櫻の園』は、1990年版の「後日譚」だそうだが、一体どこが? 他人の失敗を笑うのは自由だが、せめて自分の目で見てから書こうな。

ところで、男友達が福田沙紀の家を訪ねてくるシーンで、福田はインスタントの鍋焼きうどんを茹でている。玄関のドアを開けるとき、うどんを茹でていた菜箸を、さっと背中に隠すんだ。「なんて人間くさい芝居だろう」と思って。
たったそれだけの発見が、なんだか嬉しいんだよね。

(C)2008櫻の園製作委員会

|

« ■届かないかも知れない石■ | トップページ | ■映画に追われ、アニメに甘えて■ »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: ■虚構と現実は、互いに支えあい、溶け合いながら、「私」を形づくる。■:

« ■届かないかも知れない石■ | トップページ | ■映画に追われ、アニメに甘えて■ »