■ないものを規制することによって、問題があることにしてしまう■
Twitterを検索していたら、興味ぶかいツイートを見つけました。
今やってる『エル・トポ』にはエル・トポJr.のイチモツにボカシが入っているらしいです。現在大人気の『十三人の刺客』の立ちション少年にはボカシ無しなのに変な話です。映倫って、思い付きでボカシや年齢制限を決めてんですかね?
答え→その通りです。
思いつきというか、映倫の審査委員のうち「誰が担当するか」で、審査結果が違うそうです。「Aさんなら通してくれたのに、Bさんが来たからダメだった」という、クジ引きのようなことが起きているそうです。
ふだん、審査で苦労させられている人から聞いたので、間違いないでしょう。
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またこんな話をすると、「読まなかったこと」にしてスルーされるんでしょう。
みんなが「まあ、しょうがないね」と通りすぎること、それがつまり、「抑圧」だというのに。
『ぼくのエリ』については、スウェーデン大使館が沈黙しましたよね。全興連が黙りましたね。そして、観客は抗議すらしない。
ふと、気がついたんですよ。「ああ、児童ポルノ法が規制強化されたり、都の青少年育成条例が改正されると、こういう空気になるのか……」と。
なんだ、もうとっくに始まってたんだ、と拍子抜けしました。もはや法改正するまでもない。そんな必要はないんです。先に、みんなが口をつぐんでくれるから。
だから、表現規制って、現在、稼働中なんですよ。
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『ぼくのエリ』は、公開館数が少ないので、なかなか理解してもらえないのですが……。エリという少女の股間がアップになったとき、無数のひっかき傷が入って、性器があるとおぼしき部分が隠されるわけです。
だけど、あちこちで画像がアップされていますが、モザイクの下には、女性器も男性器もありません。特殊メイクかCGか分かりませんが、「去勢された後の傷」があるだけなんです。
つまり、エリは、少女でも少年でもない。
だけど、女優が演じていますから、観客は「女性器が映った」と誤解してしまう。「ないものを隠す」ことによって、「ある」ことにしてしまう。
――こういうミスリードって、これまでも歴史の中で、何十回、何百回、何千回と行われてきたんでしょうね。ナチス・ドイツがそうでしょう、魔女狩りがそうでしょう。
「非実在青少年」のように、「ないものを規制することによって、問題があることにしてしまう」。
それがまず、『ぼくのエリ』という小さな映画の中で、試みられた。僕もてっきり、未成年の性器が映ったのだと思い込んでしまった。怖ろしいことに、映ってもいない、存在すらしていない「エリの性器」が、脳の中で像を結んでしまうのです。制作者の意図とは、無関係に。
事実とは正反対に、「あの映画には、未成年の性器が映ってるんだぜ」と、観客は刷り込まれてしまう。
表現規制の何がおそろしいかって、「思考に影響を与える」ことです。
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昨年、アグネス・チャンが国会に招聘されたとき、「そんなに子供の裸、見たいですか?」と、恫喝めいた発言をしてましたよね。
『ぼくのエリ』のモザイク問題に関しても、まったく同じ反論が成立してしまう。私は、スクラッチ(引っかき傷)のない、プレーンな状態で映画を見たい。だけど、「どうせ、エリの性器を見たいだけなんだろ?」と反論されてしまう。
その羞恥のために、みんな黙ってしまう。為政者にとっては、ますます都合がいい。
しかし、僕は黙らない。みんなが黙っているぶん、発言しつづけます。
(C)EFTI_Hoyte van Hoytemahttp://pia-eigaseikatsu.jp/piaphoto/title/240/154212_1.jpg
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