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2010年10月30日 (土)

■人は、土を離れて暮らすことは出来ない■

テレビをつけたら、『リンダ リンダ リンダ』やってた。後半40分ぐらいだけど、見るたびに発見のある作品。
D0071553_1365355香椎由宇の夢のシーン、それと彼女たちがライブの時間に遅刻して、友達が場つなぎするシーンが好きだ。体育館の外ではどしゃぶりの雨……というシチュエーションもいい。
タクシーから彼女たちが走りでてくると、ドラムスの前田亜季が片恋している相手があらわれる。他のメンバーは、その二人をおいて、雨の中を走り出す。その走りと同速度にカメラがトラック・バックして、カメラは雨の中の二人だけをとらえる。アップにしないで、逆にカメラが引く、というのがいい。
どっかこう、「カメラ・ワークが人生観を語る」という場合が、こういう予算規模の映画には、ある。局主導の大予算映画ばかり見ていては、決して気がつかないことだ。

香椎由宇は、『パビリオン山椒魚』でのオダギリジョーとのいちゃつきぶりが素晴らしかったが、『リンダ リンダ リンダ』では、身ひとつで挑んでいる気がする。ラストで、雨に濡れた主役4人が、はだしでステージに上がる。そういうディテールが、視覚というよりは身体に染み込んでいく感じがする。
何度も見たくなる、というのは、そういう映画だ。


『マイマイ新子と千年の魔法』のコメンタリーの中で、「児童映画」として挙げられていた『マイライフ・アズ・ア・ドッグ』、HDマスター版。迷ったけど、DVDにした。
101029_22390001ブックレットは、沢木耕太郎に淀川長治と、なかなか豪華(淀長さんは、もちろん再録だけれど)。まあ、僕は男子と女子のあいだを揺れ動くサガの姿が見られればいいので。
そのサガの吹き替えだけど、川上とも子だって。『ウテナ』かよ。

昨日、女性編集者にこの映画……というか、サガという少女の魅力を語ってみたけど、この分野でも僕は少数派のようだ。


さて、模型に興味があるので、立体物投稿サイト「fg」は、毎日見ている。
ランキング上位には、船舶の模型や折り紙細工なんかもインしてきて、何だかホッとされられるんだけど、美少女フィギュアも多い。「よく出来てるなー」と感心するし、マイリストに入れたりすることもあるけど、流行りのキャラを追う(売る)のに必死な感じもする。

僕は70年代のミリタリー模型ブームに、ぎりぎり間に合った世代。『ヤマト』『ガンダム』も狂ったように作ったけど、それらが児童文化から出発していることは、よく心得ていた。初期のヤマトはゼンマイ動力で走行し、ガンダムはバネじかけのロケット弾を飛ばしたものだった。キャラクター模型は、すべて児童文化とシームレスであり、『うる星やつら』だって、そうだったはず。(当ブログでも、しつこく取り上げた→こちら
ところが、ラムちゃんの下半身にパンツをモールドしたことで、青少年の内なる欲求を児童文化が容認しちゃったんですよ。

当時は、あらゆるジャンルで児童文化発のオタク・カルチャーが、思春期を迎えていたように思う。パンツ、ハダカ、何でもアリになっていった。警鐘をならす大人たちもいた。その潔癖さから、メーカーに苦言を呈する若者たちもいた。
僕はといえば、『うる星やつら』のファンだから――を免罪符に、パンツ・フィギュアの購買層に加わった。その時ですよ。30年後、衣類を外せるようなフィギュア製品に対して、「責任」が生じたのは。

みんなで、よってたかってパンツやオッパイを、児童文化とシームレスな世界へ持ち込んだ。30年かけて、こういう状況をつくってしまったんだよ。


俺は萌えフィギュアも好きですし、ガンプラも好きです。ただ、「それしかない」のは、とてもイヤ。やせてもかれても、戦車とか艦船とか飛行機の模型がつくられつづけるべきだと思う。前者は、飽くまでも児童文化を発祥に進化してきたのに過ぎないので、そのことを誰かが意識しているべきだと思う。
どこかで誰かが、畑を耕していなくてはいけない。

現実から妄想が生まれるのは、当たり前のことだ。しかし、妄想から生まれた妄想は、現実に回帰することができない。宮崎アニメ風にいうなら、「人は、土を離れて暮らすことは出来ない」。
――深夜アニメがパンツとオッパイ主流なら、それは「正す」のではなく、バランスをとればいいのではないか。マクドナルドを食べつづけている人に対して、「他にも、もっとおいしい食事がありますよ」と訴えるのは、ぼくら世代の責任なんだと思う。

(C)2005『リンダ・リンダ・リンダ』パートナーズ

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2010年10月28日 (木)

■『ギャラクティカ』完結祭■

『ギャラクティカ』完結祭、最終回のエンドクレジットで、会場内から大拍手。誰も拍手しなかったら、自分だけでも……と思っていたので、嬉しかった。
101027_18270001(←開場前、プレス席より)

でもこのドラマ、「今北産業」式に理解したがる日本人に受けなかったのも、何となく分かるんだよね。
何しろ、主人公格のアダマ艦長が、「かなりしばしば、判断を誤る」からね。息子のイケメン、アポロだって、実はかなりイヤなやつだしね。だって、宿敵サイロンを大量虐殺できる名案を思いついたとき、「ふふっ、ふふふふっ」と笑い出すんですよ? しかも、その虐殺作戦を阻止するのがアダマ艦長の優秀な部下、アガソン中尉。なのに、作戦を妨害したアガソン中尉を、アダマ艦長は罰しない。

シーズン3になると、視聴者の「このままでいいのかな?」というモヤモヤを、アポロが代弁するんですよ。「僕らが過ちに寛容なのは、もはや文化国家ではないからだ。ただ生き延びるのに必死なギャングだからだ!」……ね? イヤなドラマでしょ。だって、「人類vsサイロン」というSFドラマの体裁だったら、まず人類側を肯定するんだけれど、人類、愚劣すぎるもん(笑)。
ドラッグも出てくるし、子供を人身売買する闇市場も出てくるけど、とりあえず肯定せざるを得ないわけ。人類、度しがたし!

自分の知っている範囲、気持ちいい範囲の中だけのフィクションに耽溺したい人間にとっては、すごく面倒で厄介なドラマなんですよ。反面、「俺は間違っているのかも知れない」「世の中には、俺の知らない価値観がいっぱいあるらしい」と思っている人なら、必見。

「あ、俺、ちょっと賢くなったかも知れん」という快感、向上心が満たされる喜びを知っている人は、必ずその前に「自分はバカかも知れない」という劣等感を味わっているはずですね。
「俺は、世の中のことに無知すぎる」と劣等感を抱かせてくれたのが、この『ギャラクティカ』。いやー、バカでよかった。少なくとも、俺はバカでなければ、この作品に出会えなかったから。

あとね。『ギャラクティカ』については、すごく大事なことがある。僕はバカだから悩んだけど、製作者(兼・脚本家)は賢いのに悩んだ、ということです。その苦労のあとが胸をえぐるから、拍手せざるを得なかった。


『ギャラクティカ』上映前、原宿に寄って、「JOMO-T展」に行ってきた。原 健一郎さんの作品は、一101027_15470001 発で分かった。ポップなんだけど、原初的なパワーにあふれていて、本気感が伝わってくる。
そして、場内すぐ左側の年表を見て唖然。縄文時代の長いこと、長いこと。古代ローマなんかより、ずーっと前に、1万年もつづいていた。ホントに俺は、何も知らねえな…と思ったけど、そのスケールの大きさに、素直に感激もした。

呆然としたまま、キディランドに向かったら、キャットストリートで二階建ての小型店舗として生まれ変わっていた。
101027_16470001この界隈は、どうかすると、20代のころに見ていた夢のような趣があって、こんな夕暮れどきに歩いていると、うっかり気が遠くなる。
北海道を旅行したとき、宗谷本線の車窓から、小高い丘をのぼる長い長い階段が見えた。あの階段の向こうはどうなっているのかな、と思ったら、何だか風景から現実味が遠のいていった。

キディランドの外では、両手にぬいぐるみを持ったお姉さんが、笑顔でお客さんに話しかけていた。「ああ、いい仕事をなさっているなあ」とうらやましくなった。

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2010年10月27日 (水)

■『新子』ブーム■

廣田の同人誌、『REDLINE』特製パネルとお世話になりっぱなしの友人であり、イラストレータJomo_t_2 ーである原 健一郎さんが、ふたつの展覧会に参加しています。
ひとつは、縄文文化をテーマにした「JOMO-T展」。ラフォーレミュージアム原宿で、31日まで開催されています→詳細
もうひとつは、「20年後の未来」をテーマにした「あれから20年、これから20年」未来に届くアート展です。こちらは11月18日まで、銀座ガーディアンガーデンにて。→詳細

重たい原稿から解放されたし、ひさびさに原宿、行ってみようかな。キディランド、好きだしね。


その原さんに、「映画館以外では見る気がしないから、どうぞ」と貸してあった『マイマイ新子と千年の魔法』のDVD、故あって見なければならなくなりました。この「故あって」という部分がポイント。まだまだ終わりませんよ、『マイマイ新子』!

まず特典ディスクのメイキングから見はじめたのですが、膨大な資料をめくりながら、生き生きと構想を語る片渕監督の姿に、「ああ、俺はこの映画を応援して、間違っちゃいなかった」と変な確信を抱いてしまいました。そして、資料の山を前に「?」という顔をしている松尾プロデューサーに萌えッスよ、萌え。
あと、まだ絵も何もできてない段階で、早くも印度総督さんの姿が……「ははは、あれだけ一緒に飲んだ人が、当たり前に座ってるよ!」と、私はもう、テレビを見て笑うサル状態。ロケハンの頃は、岩瀬プロデューサー、ちょっと太ってたんだねー、なるほど。チラシづくりでお世話になった折本さんも、働いてるよ働いてるよ。

あと、監督から何度も何度も聞かされていた「水沢奈子が、福田麻由子にお団子を分ける My0シーン」、うわこれ映像あったんだ! もはや、本編より面白いよ、メイキング!
そして、監督自らの演技指導(普通は音響監督が指示だします)、これが見たかったんだ! だって、監督の演技指導がなかったら、福田も水沢も、あんないい仕事できなかったよ? 特に、奈子ちゃん(と呼ばせてほしい)の貴伊子は、早くも生涯ベストワークでしょう……。コメンタリーで、氷川さんも誉めてたもんね。

なんか今ごろ、俺の中に『新子』ブームが来てますよ!


『マイマイ新子』もそうだが、『宇宙ショーへようこそ』『REDLINE』と、トレンドとは無関係に膨大な時間を費やして完成され、銀幕という荒波へこぎ出すアニメたちを愛している。
興収20億で、ようやく「ヒット」と呼んでもらえて、80億で「稼ぎ頭」と認めてもらえる、過酷な世界だ。でも、彼らは人気原作にも、オタクにだけ通じる記号にも頼っていない。

僕らは、新しいものが好きだった。見たことのないものを見たいと思っていた。アニメという児童文化が、大人社会に属する「映画」の世界へと、力づくで壁を乗り越えていく瞬間を、固唾をのんで見守った。
そう、確かに「壁」があったのだ。今は違う。「大きくなった児童文化」を「大きくなった子供」が見ているだけだ。

この状況を、僕の嫌いな言葉であらわすならば「嘆かわしい」。
今敏さんの作品は好きではなかったが、『夢見る機械』は全力で応援したい。もちろん、同情なんかじゃないよ。
だけど、今さんがこんな時代に残してくれた「希望」には間違いないから。


今夜は、『ギャラクティカ』完結イベントです。「優待席を用意できます」と言ってもらえたんだけど、それは図々しいし、職業意識もあって、プレス席を選ばせてもらいました。
『ギャラクティカ』最後の出撃を、記者として見届けたいのだ。最前列に座ってるハゲがいたら、それが僕です。

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2010年10月25日 (月)

■憂鬱な月曜日■

『ぼくのエリ 200歳の少女』の件。
ショウゲートさんと、電話でお話させていただいた。あいかわらず誠実な対応で、これ以上は、ご迷惑をおかけするわけにはいかない……。
映倫からの回答書を読んでいただけただけで、ありがたいと思っています。
出版業界の方から「いっそ、この件を雑誌に書いてみてはどうか」とのお誘いも受けたが、今のところは、飽くまでも観客のままでいたい。記事にするのは、もう最後の手段だと思うので。

この週末から、『マイマイ新子』の巡回ポスターを貼ってくださった川越スカラ座さんで『ぼくLettherightonein1942_2 のエリ』が上映される。関東で見られるのは、これが最後のチャンスになりそうだ。→上映予定
映倫指示のモザイク(スクラッチ)、この目に、しかと刻みに行くか。
無論、初見のかたには表現規制など気にせず、一本の映画として堪能していただきたいと思っている。モザイクは問題視してほしいけど、本当に見てほしいのは映画の中身なんだよなあ……。


僕がこの件で目指しているのは、『ぼくのエリ』無修正版の国内上映です。
しかし、モザイクを外したがために、観客はグロテスクな手術痕を見せられることになる。「見たくなかった」「知りたくなかった」という人も、出てくるでしょう。むしろ「これこそ倫理に反する」と怒りだす人もいるかも知れない。しかし、それが自由の代償だと思います。

先日、初音ミクの『メルト』が嫌われている件を取り上げましたが、作品を公にした以上、「苦手だ」「キモい」という人が出てきても当然だと思います。表現の自由を守る、とは「あらゆる批判を許す」ことでもあります。

10年ぐらい前、ある友人がコミケの帰りに、「○○のエロ同人誌があった。正直、吐き気がした」と電話してきました。僕も本の内容を聞いて「確かに、気持ち悪い」と言いましたが、「でも、俺たちがどんなに嫌悪感をおぼえても、存在そのものを否定しちゃいかんよ」と、友人は穏やかに言いました。
いまこそ、彼の言葉を噛んで含めたいと思います。僕らは抑圧されるだけではなく、いつでも抑圧する側になれてしまう。そして、どっちが悪でも、どっちが善でもない。善悪で割り切れるような、そんな単純な時代を、僕らは生きていない。

せめて、迷いながら、疑いながらも、足を止めないことかな……。しんどいけど。


まったく関係ない話題ですが、あの怪作アニメ『TAMALA 2010 a punkcat in space』が、N518yd3m4ejl__sl500_aa300__2 HK総合テレビで復活していた(「マチ★アソビ」に行ったとき、徳島空港で見た)。

このアニメを一人で映画館へ見にいったときは、本当に怖かった。「悪夢のような」という紋きり表現がピッタリ。NHKでやった方も、かなり怖そうなストーリー。
でも、こういうはぐれ者というか、崖っぷちにいるような作品には、心がひかれる。

(C)EFTI_Hoyte van Hoytema
(C)2000-2008 Kinetique inc.All rights reserved.
(C)2000-2008 Kinetique inc.All rights reserved.(C)2000-2008 Kinetique inc.All rights reserved.http://pia-eigaseikatsu.jp/piaphoto/title/240/154212_1.jpg

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2010年10月23日 (土)

■自分の中の少女を探そう■

ついに買ってしまった。百均ショップで気になっていた、子供向けのキラキラしたシール。
101022_15470001何種類もあったんだけど、一枚だけしか残ってなかったやつ。よく見たら、左右の目の色の違う、ゴスロリなアリスでした。こういう狙ったやつじゃなくて、もっと抽象的なのがよかったな。花とか、星とか……。

でも、3ミリぐらいしかない、ちっちゃーいハートがラメラメで光ってたりすると、胸がドキドキしますよ。
あと、タグのところに、ウサギのような謎の動物、さくらんぼやクレヨンが描いてあって、それがまたチープで、可愛いのです。
この冬は、小さなクリスマス・ツリーを買ってしまいそう。だって、可愛いじゃん。

ところで、レジで清算してくれたのは、お気に入りの店員さんでした。
赤茶けた短い髪を、くしゃくしゃにした子でね。小さな鼻が泣きはらしたように赤くて、そばかすが散っている。どうかすると、少年のように見える。
「きれい」とか「セクシー」とかさ、女だからって、そんなもん目指さなくてもいいんだよ。

同じように、オジサンが可愛い子供向けシール買ってもさ、人前でキチッとした格好していれば、それでいいの。


初音ミク……というか、ryoさんの曲の中では『メルト』は好きです。
で、その『メルト』について、ITメディアニュースの女性記者が「そういう文脈で、メルトとか一部のメジャーなミク曲の詞がすごく苦手。男性の女性への願望を、ミクという女性に仮託して歌わせているのが・・・」とつぶやいたことについて。
「この女、潰そうぜ」とか「嫉妬だろ」とか、逆に「やっぱり『メルト』はキモイ」とか、そういうステレオタイプな反応しかできないから、オタク文化って幼稚なままなんだよ。で、私はオタク文化は市民権を得られないからこそ、エネルギッシュなんだと思っているから、幼稚なのはかまわない。

『メルト』に限らず、女性の心をボーカロイドに歌わせるという行為自体、作者が自分の中233a5896 のアニマ(女性性)に積極的にアクセスしているわけで、願望でも妄想でもない。「好きなの」とか「泣きそうなの」とか、それはryoさんの心の声。本物なんだよ。心に性別なんてないんだよ。

自分のアニマを認め、受けいれて、愛してやるんだ。性別という牢獄から、自分を解放するんだよ。


NHKの『プロフェッショナル』で、次回作をつくってる宮さんが「意地と見栄」と言っていたけど、それで生きていけるのは、あの世代だけですから。
いやいや、待った。宮さんのアニメに出てくる少女って、すべて宮さんのアニマじゃないですか。原作の『ナウシカ』が王蟲の抜け殻を見て、「すてき!」とか「きれい…」とか言うでしょ。『メルト』の歌詞と同じだよ(笑)。

自分の中の少女を探そう。その少女は、君のことをキモイなんて言わない。メールしたり、デートに誘う必要もないよ。だって、生まれたときから死の瞬間まで、ずっと君の心の中にいるんだから。
現実社会に厳然と君臨する「性別」に押しつぶされるぐらいなら、自分のアニマを見つけだして、絶望とおさらばしたほうがいい。心の中だけは、無限に自由だから。

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2010年10月21日 (木)

■日常にはない音■

今更ですが、眉山山頂秋フェスタ×マチ★アソビのトークイベント。こんな感じでした。
Dsc01568「とても、アニメの話をするロケーションじゃない!」と氷川さんは笑っていたけど、歌舞伎町地下2階とか、僕はもうそっち行きたくないし、呼ばれもしないし、青空の下でもアウトサイダーでいられたよ。

写真で確認したら、お客さんは30人を越えてました。ありがとうございます。勢いで「第二回は、藤津亮太さんをお招きし――」とか言っちゃったけど、実現したら楽しいよ、きっと。


ここ2~3日で思ったこと。
新井英樹の『ザ・ワールド・イズ・マイン』の中で、由利首相が「悪いことは悪いと、どやしつけられる大人になってください」と記者会見で言うでしょ。本が手元にないから、うろ覚えだけど。
制服姿でタバコを吸っている高校生がいたら、やっぱり注意すべきなんだよ。「隠れて吸え」と。

本音はどうあれ、社会的自由は、合法的に手に入れたい。納税者としての権利を、まず最大限に行使したい。正面玄関から、堂々と入りたいんだよ。私はね。

片や、今の僕は、シャアが隕石落としをやった気持ちも分かるし、ブレックス准将がエゥーゴを組織した気持ちも分かってしまう。あのころの『ガンダム』には、富野さんの絶望と苛立ちが見え隠れして、それはつまり、僕が歳をとったから分かるようになったんだと思います。

もうちょっと書きたいけど、またいずれ。疲れるからね。


『それでも町は廻っている』、今夜やっと第3話か。第2話があんまり面白いんで、仕事で疲れたときは、音だけでも聴いてたよ。小見川千明の声だけでも、楽しいから。

あと、会話のテンポのずれが面白い。店内でセクハラ裁判やっているのに、ババアが
「ジImg_20100809t234404390ャガイモとタマネギっつたのに…」「乳より脳みそを何とかしてくれよ」とか、状況に関係ないツッコミ入れるでしょ。シーンが一色に染まらないところがいい。豊かなんですよ。

あとは、SE。ギャグ・アニメだと、動きに合わせて状況音ではない、「日常にはない音」を入れるんですよ。何かセリフを言い切ったときに「カッコーン!」とか、よくあるでしょ。シリアスなアニメでも、カメラが寄った瞬間に「シュパーン!」とか。何の音だよ(笑)。

でも、『それ町』第2話は、それだけでなく、もうちょっと凝ったSEが入っている。
●千葉繁の警官が、歩鳥に大声で怒鳴ったとき、ハウリングのような雑音。
●商店街のオヤジ3人が喫茶店に入るときの、飛行機の飛ぶ音(エアコンの室外機の音と繋げている)。
●警官が、歩鳥に「帰れ帰れ」といわれたときの、パトカーのサイレン音。
その場にないはずの状況音が入れてある。まあ、エアコンの音は、飛行機の飛ぶカットがあるから、「その場にない」とは言い切れないけど、ドアを開けた瞬間に音が切れたり、さっき書いたババアのツッコミ同様、ミステンポというか、わざと壊してるんですよ。音の流れを。

特にギャグの場合、ズレたり壊れたりしてるのが「面白さ」であって、「よくまとまっている」のは、つまらんわけですよね。
こういうSEは、音響監督ではなく、音響効果が用意してきます。クレジットを見ると、中野勝博と書いてある。サウンドボックスだから、倉橋静男さんの会社の人だ。

だからね、たまに映像を見ないで音だけ聴いていると、アニメってすげえうるさいよ(笑)。


で、妄想なんだけど、小見川千明のだらだらした話し方、誰かと思ったら吉高由里子なんだよね。ちょっと歳いきすぎだけど、何とか女子高生役をやってもらって、監督は三木聡で実写化! 『純喫茶磯辺』なみの低予算で撮れると思うんだけどな。

(C)石黒正数・少年画報社/それ町製作委員会

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2010年10月17日 (日)

■最近、殺伐としていたのでアニメの話をするぞ■

『それでも町は廻っている』のOPは、カッコいい。
8b6052c54f6dc1883ed236298a13df23_2(←これはキービジュアルであって、OPの絵ではありません)
まず、ステージショーという体裁にして、構図に制限をかけているところがいい。ステージなんだから、カメラは基本的に正面に向けてフィックスするしかない。

冒頭で、歩鳥がトレーの裏を正面に向けたまま、水平方向にくるくる回すが、これは「平面的な動きしか出来ませんよ」というフェイントである。すぐさま、トレーを垂直方向へまわすと、手品のようにコーヒーを出す。その小さな動きで「オッ?」とつかまれる。
そして、そのコーヒーを画面手前に向けて、ドバッと大量にこぼしてしまう――ようするに、「カメラ・アングルが固定されているから、平面的な動きしかできない」と見せかけておいて、「実は、工夫次第で立体的な動きができるんだよ~」と裏切ってくれるわけ。

中盤、歩鳥が虫眼鏡をとり出して、カメラに向けると、彼女の目がレンズの中でぐわっと大きくなる――これも水平→垂直への動きの変化。
僕が好きなのは、タイトルが出た直後のカット。歩鳥がステップを踏みながら回るところ。カット頭では単調な動きに見せておいて、振り向きざまに画面外からデッキブラシを取り出し、一気にカメラ手前まで寄る――という、フェイントの効いたアクションになっている。
ところが、その次のカットでは、デッキブラシを持った歩鳥が体を「横に」動かし、デッキブラシを「水平に」回すという、平面的な動きに絞っている。
これら縦横のメリハリが、実に「ステージショー」っぽい。カメラ・アングルや画角に頼らずに、芝居でダイナミズムを出そうとしているところが、カッコいい。

OPディレクターの梅津泰臣さんは、そんなこと言ってない……じゃなくてさ、こういうのは自己流で解釈するのが、楽しいわけです。
なんかさ、「私がこのアニメに感動したのは、監督のテクニックのおかげだ」って言うの、卑怯に聞こえるんだ。感動したのは、あなたでしょ、と思う。


TBSチャンネルで『けいおん!』第一期、12話。唯が風邪で倒れて……という例によってプロットだけ聞くと「ふ~ん」という程度のお話なのだが、なんというか、このアニメは空気を描いている。
Story01_2美術予備校に通っていたころ、「モチーフを描くんじゃない。モチーフを使って、空間を描くんだ」と講師が言っていたのを思い出す。

唯が部室で横になっていると、澪が「学園祭当日まで、来るな」と言う。出入り禁止を言い渡されたとかんちがいした唯が半身を起こすと、おでこに乗せていた手ぬぐいが、ずり落ちる。まあ、よくあるショックの表現だよね。
ところが、この「手ぬぐいの落ち」を一ひねりしている。澪が「そうじゃなくて、本番までに風邪を治すこと」とオフでしゃべっているのを聞いているうち、手ぬぐいは唯の顔の前を落下する。唯は、手ぬぐいを受け止めようと、無意識に両手を出す。ところが、手ぬぐいは唯の手をすり抜け、フレーム外に落ちる。唯が手ぬぐいを受け止められなかったことで、彼女が二重のショックを受けたことが伝わってくる。
このアクションは、唯の芝居だけでは成立しない。手ぬぐいの重さ、落ちる速さ、そして落ちた瞬間の音――が加わらないと、成立しない。だから、このアニメは「キャラ萌え」なんて言葉では説明しきれないのだ。

このカットで、俺は澪の優しさに感動もしなければ、甘やかされた唯の気持ちだって理解はできないよ。でも、「ゆっくりずり落ちる手ぬぐい」によって、その世界が確かに「ある」と感じられる。アニメが面白い、というのは、僕にとっては、そういうこと。

――にもかかわらず、ギターを持ってステージに駆けつけた唯が、「こんな私のために、みんな……」って泣くシーンで、じーんと来た。あんなベタな演出なのに。そんなこともあるから、作品を見ていくのは面白い。

(C)石黒正数・少年画報社/それ町製作委員会
(C)かきふらい・芳文社/桜高軽音部

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2010年10月16日 (土)

■彼らは、われわれの倫理につけ込む■

EX大衆 11月号 発売中
Ex_taishu
●西田麻衣 グラビアポエム執筆
今回は、袋とじ。だったら、もうちょっとエロいポエムにしたのに、見本誌が来てから分かった。

ポエムを書くときは、自分を「下賎なケダモノ」にする必要があるから、気分をそっちへ持っていくのに、数時間かかる。執筆自体は、10分ぐらい。


『ぼくのエリ』のその後。ショウゲートの配給担当さんに、映倫からの回答書のコピーを送りました。話を蒸し返すようで、本当に気が引けるのだが、関係者全員が沈黙してしまった以上、やむを得ない。

コメント欄にも書いたけど、「黙っている」ということは、つまり映倫の方針に賛成なんですよね、皆さん?
全興連が、映倫に付和雷同するだけの形骸であることは分かった。それでも、このボカシは異常ではないかと、声をあげる映画館主の一人さえいないとは……。
観客にここまでさすなよ、情けない。


電車の中で、ひさびさにゾッとする広告を見た。
ビール酒造組合が05年からやっている「STOP! 未成年飲酒」キャンペーン。過去の広告ギャラリーを見ると、とにかく必死で無理やりなキャッチコピーに苦笑してしまう。しかし、今年の広告コピーは笑えない。

「10代の飲酒。どんなに価値観が多様化しても、全員一致で×です。」「社会がNO! ルールだからNO!」「お店がNO! メーカーがNO! STOP!未成年飲酒!」
Ca270219……笑えない。だって、10年後、いや5年後の日本って、いやひょっとしたら今現在、部分的には、もうこういう国になってるよね? 野暮なことは言いたくないけど、映画業界がすでに、映倫ファッショ体制でしょ?

映倫の大木圭之介委員長は、映倫のHPで「言論・表現の自由は民主主義の基盤をなすものですが、近年、メディア規制の動きが加速しています。残念なことに、市民も規制を望んでいるといっても過言ではありません。」なんて言ってるぞ?
市民が規制を望んでいる? いつ、誰が望んだ? でも、誰もつっこまないでしょ。このビール酒造組合のキチガイ広告には、さすがに抗議のメールを出した人がいるそうだけど、言論って、こうやって統制されていくんです。

だって、心の中では「確かに未成年の飲酒は、法律で禁止されてるもんなあ」とか「いくら表現の自由でも、未成年の性器を映画に出しちゃマズイかもな」とか、すでに抗えない倫理観が刷り込まれてるでしょ? その倫理観の上に、彼らは自分たちの都合を「乗っける」んだよ。みんなの心の中に漠然とある倫理の上に、自分たちの思想を、さも直結しているかのように「上乗せ」する。絶対に逆らえないように。

アグネス・チャンが「子供の裸を見なくても、死なないでしょう」と、国会で恫喝したのと、まったく同じ。彼らは、われわれの倫理につけ込む。利用する。
ああ、いつかのBOOK-OFFの強制参加ボランティアも同じだね→これ。「だって、子供たちがかわいそうじゃないんですか?」という脅迫だったからね、あれは。
こちらが黙ったら最後、「全員一致で×」「ルールだからNO」で押し切られてしまう。

沈黙は、権力者への恭順を意味する。怖れずに発言しつづけることだ。


第一期『けいおん!』の再放送を見て、あらためて、戦慄すべき珠玉のカットをいくつか発見した。『それでも町は廻っている』は、音を聞いているだけで、多幸感につつまれる。またいずれ、そんな話もできたらいいなあ。

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2010年10月15日 (金)

■映倫からの返答■

映画倫理委員会に、『ぼくのエリ 200歳の少女』でのモザイク(ボカシ)に関する質問状を、内容証明郵便で送付しました。
こちらが勝手に決めた「一ヶ月以内」という期限どおり、昨日14日に、映倫からの回答がポストに投函されておりました(普通郵便です)。

封筒の裏にも、便箋(ワープロ打ち)にも、「2010年10月12日」と明記されており、消印も同様ですから、まずは誠意ある対応と言えるのではないでしょうか。便箋には、映倫委員長の大木圭之介さんの名前の上から、押印されています。

こちらから送ったものは「公開質問状」とし、ネットでの公開も自由とさせていただいたので、以下に全文を掲載します。
文中の「当該カット」とは、例のモザイクのことです。

 

映画「ぼくのエリ 200歳の少女」に関する回答書

 

 

 

 

 

 

 

 平素は当委員会の活動につきましてご理解、ご協力を賜りましてありがとうございます。この度廣田様よりご質問がございました下記4件につきましてお答えいたします。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

質問1 私は「ぼくのエリ 200歳の少女」を配給している株式会社ショウゲートを、2010年7月23日に訪れ、当該カットが引っかき傷だらけになった経緯を聞いてまいりました。担当者から、映画倫理委員会が「何らかの方法で当該カットを視聴不可能にしないかぎり、審査はしない」と通告したと聞きました。これは事実でしょうか。

 

 

 

回答 事実と異なります。申請のあったものはすべて審査をしており、「審査はしない」と申し上げることはございません。

 

 

 

質問2 もし、映画倫理委員会の通告が事実であるとしたら、どのような観点から、そのような判断を下されたのか、具体的にお聞かせください。

 

 

 

回答 回答1の通りです。

 

 

 

質問3 「ぼくのエリ 200歳の少女」を海外で鑑賞された方から、当該カットには女性器も男性器も映っておらず、手術跡(特殊メイクであり本物ではない)が映っているだけだと聞き及びました。これは事実でしょうか。

 

 

 

回答 映倫では申請された作品について審査しております。海外で上映された作品には関知しません。

 

 

 

質問4 もし、当該カットに映っていたのが手術跡ではなく、女性器あるいは男性器であった場合、やはり、「何らかの方法で当該カットを視聴不可能にしないかぎり、審査はしない」と配給会社に通告したのでしょうか。通告したのであれば、その理由もお聞かせください。

 

 

 

回答 回答1の通り「審査はしない」と申し上げることはございません。未成年者の性器の描写については、一般の映画館で上映するために修正する必要があると申請者に伝えてあり、修正の方法は申請者にまかせております。

 

 

 

以上

 

 

 

 

 

 

 

 

 


……藪の中ですな。プランBを延期し、もう一度、ショウゲートさんに当たってみるしかないか。だって、映倫の回答が真実なら、私は配給会社にだまされたことになるわけだから。

それにしても、たったこれだけのことが、どうしてこんなにも不透明で不鮮明なのだろう? なぜ責任者にかぎって、他人に「まかせてある」などと言えるのだろう? 実体も中心もない、思想や主張すらも存在しない、この得体の知れない世の中!

だってさ、上の4番目の回答の最後の一文って、「未成年のチンコとマンコには、あらかじめ、お前らが工夫してボカシ入れて来るんだぞ、いいな」って、配給会社に通達してあるって意味でしょ?
それを表現規制というんだよ、映倫の大木委員長!

そもそも、『ぼくのエリ』には未成年者の性器なんて、出てこないだろう……。


つまり、この目に見えない霧を、僕は消し去りたいわけだ。だとしたら、霧の中を進むしかない。
ここで、『ぼくのエリ』を見失ったとしても、また別の霧の中に迷い込むだけだ。日本中、どこへ行っても、何を見ても、誰と会ってもそうなの。本当のことなんて、誰も教えてくれないの。

そんな気色悪い国に生きてしまっているという事実を認めたなら、さあ、出口を探そう。エリが200歳なら、僕は100歳まで戦う。

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2010年10月14日 (木)

■プリキュアのコンパクト・ミラー■

10/27開催の『ギャラクティカ』ファイナル・イベントのお知らせ。
1027galactica_finalevent_2
新宿バルト9にて、シーズン1第一話『33分の恐怖』と、シーズン4最終話『黎明期(前後編)』のエクステンデッド版をDLP上映。応募はこちら
実写版『ヤマト』の公開前に、ぜひ『ギャラクティカ』を! ……でも、パクること自体は、そんなに悪いことだとは思わないんだよな。単に、不勉強な評論家だかレビュアーだかが、『ギャラクティカ』を知らないで『ヤマト』を語る状況が、イヤってだけなんだ。


昨日、シビアな話をしにファミレスに入ったとき、レジ前に『プリキュア』のコンパクト・ミラー型のおもちゃが売っているのに、気がついた。
そんな物を買えば、すこしは、優しい気持ちになれただろうに。そんな愛らしいものに手を出してしまう自分を、すこしは許せただろうに。

大人らしく、男らしくアイスコーヒーなんか飲んで議論している自分より、他愛もない女児向け玩具を買ってしまう自分のほうが、僕は好きだ。
地下鉄に乗ると、いかにも「43歳の男性」らしい、単純で獰猛な気持ちが沸き起こってきた。その怒りと闘争心は、火山の噴火のようなもので、止めようがなかった。

向かい側の席では、制服姿の女子中学生が、ひっきりなしに笑いあい、手をとりあい、冗談をいいあって、なにか約束をして別れた。先に駅を降りた子が、遠く離れても手をふっている。車内にのこったほうの子は、聞こえもしないのに「明日、忘れないでね」と大声で呼びかけている。
僕も、そんな気分になりたかった。仕事であれ何であれ、人と会うからには。

こんな時、カバンの中から『プリキュア』のコンパクト・ミラーが出てきたら、きっと嬉しくて泣いてしまえただろうに。
僕は強くて獰猛で卑怯者で、しかし優しく可憐で軟弱でなければならない。そうでなければ、僕は僕を愛せない。

他人が憎いのは、きっと自分を愛しきれていないからだよ。


『STAR DRIVER 輝きのタクト』と『それでも町は廻っている』が、すばらしく面白い。このあふれ出る豊かさに、身をゆだねていたい。
言葉にすれば、この面白さは逃げていってしまう。言葉で伝えるほど、確実に何かが磨り減ってしまう。だけど、それを恐れてはいけない。伝えることって、大事だから。

Film (c) 2007/2008 Universal Studios. All Rights Reserved.

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2010年10月13日 (水)

■女とうまく付き合うよりも、自分とうまく付き合うんだ■

徳島から帰ってきた日、テレビをつけたら『プリティ・リーグ』をやってた。
Images最初に見たときは、監督役のトム・ハンクスの気持ちが痛いほど分かったものだが、今回は違う。
そろそろ、オバサンと呼んでもいい年頃の女性たちがユニフォーム姿で走り回り、互いにはげまし合う姿を見ているだけで、あまりにうらやましくて、涙が出てきてしまう。

そのあと、古本屋で『モテキ』を買ってきてしまったのが、いけなかった。親や教師、あるいは友達から刷り込まれた「男らしさ」に、誰もが押しつぶされそうになっている。
いつの間に、恋愛やセックスが、男にとって重荷になってしまったのだろう。


言っておくが、バツイチの中年男が、いつでも再婚相手を探していると思ったら、大間違いだぞ。離婚してから5年、そんな偏見にばかりさらされてきた。

去年の夏までは、僕も考えが浅かった。
古い知り合いだが、彼女は、どの角度から見ても、完璧に美しかった。背が高いことを気にしていたが、僕は彼女の、そんなところを気に入っていた。
その日、美術館を出たあと、彼女は東京の下町を案内してくれた。ナビゲーターとしても、彼女はパーフェクトだった。休憩に立ち寄った喫茶店も、凝った内装で、品格があった。

何より感謝しているのは、一緒にジェットコースターに乗ってくれたことだ。
僕は、いつでも崖っぷちに立っている。あの時も何かに怯えていて、ジェットコースターにでも乗れば、道がひらける気がしていたんだ。僕が緊張して汗だくになっても、彼女は笑って、リラックスさせてくれた。


さて、ジェットコースターを降りると、そろそろ夕食をとってもいい頃合いだ。彼女がビールを飲みたいというので、ビールの安い居酒屋に入った。
ところが、一杯だけ飲むと、彼女は「用がある」と言って、店を出てしまった。その間の悪さを、俺はどう埋めればよかったんだろうな?

別れ際、「キャバクラになんか、寄らないでよ」と、彼女は言った。いや、キャバ行くには、セット料金101012_23470001も安いし、いい時間帯なんすけど。律儀な僕は、まっすぐ家に帰った。
その後、彼女の誕生日の前後に食事に誘ったけど、もはや彼女は一滴も酒を飲まなかった。大酒のみの僕も、彼女に付き合った。苦痛だったよ。その食事は。

何かに追い立てられていたんだ。
稼ぎがあるんだから、ケチらずに高級店に誘い、誕生日にはプレゼントぐらいするのが礼儀なんだ、それが大人の男なんだと信じ込んでいた。

この前、ひさびさにキャバ嬢以外の女の子と、夜中まで酒を飲んだよ。僕がメールでも送りつけることを警戒してか、連絡先どころか名前すら教えてくれなかった。だけど、そんな偏見さえやり過ごしてしまえば、また一人に戻れる。

女とうまく付き合うよりも、自分とうまく付き合うんだ。その方が、得られるものは大きい。
僕はこれから、「男らしい」仕事に挑まなければならない。それがうまく行ったとしても、それは僕が男らしいからじゃない。自分の中の男らしさを、飼いならした結果でしかない。

一人で、うっとりと夕陽を眺めているほうが、どれだけ自分らしいだろう。

(C)1992 COLUMBIA PICTURES INDUSTRIES,INC. ALL RIGHTS RESERVED.

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2010年10月11日 (月)

■眉山山頂秋フェスタ■

眉山山頂秋フェスタ×マチ★アソビ、40代50代コンビのトークショーに来てくれた皆さん、あり101010_13070001がとうございました。あと、地面に座らせてしまって、ごめんなさい。
山のてっぺんの青空の下で、「disる」とか「信者」などのスラングを発するのは、なかなか新鮮でした。なんか、言葉を虫干しした感じですね。

メモしてきたくせに、「エヴァ破の興収は20億」と間違えるのが僕で、メモもないのに「いや、40億だよ。20億はエヴァ序」と即答できるのが、氷川竜介という人。いや、おもろかった。

初日夜、ロープウェイから見た徳島の夜景が、綺麗だった。二日目、タクシーで送ってくれた運転手さんが、いい人だった。集まった仲間たちと、まだ明るいアスファルトの上、缶ビールで乾杯したのが、楽しかった。


徳島へ出発する前夜、夜中に起きてしまったので、レンタルしてあった『マイライフ・アズ・Mittlivsomhundア・ドッグ』を20年ぶりに見た。ちなみに、これも『ぼくのエリ』と同じスウェーデン映画。

普通に暮らしていても、何かと問題を起こすヘタレ少年のイングマルが、あちこちでモテまくる話。その彼が、叔父さんの田舎で出会うのが、さっそうとしたサッカー少年・サガ。ボクシングも得意なサガは、実は女の子なのでした……という部分がキモで、演じたメリンダ・キンナマンのキュートさに、めまいがしてしまう。

特に、イングマルを好きになってから、彼の顔に雪つぶてを当てて、「フン!」という顔で通りすぎる、その表情が絶品。「いいパンチだ。次からは、もっとクールに打ちな」なんてセリフにも、クラッときます。


88年の日本公開当時は、イングマル少年が可愛いので、女性層に支持されたと聞く。
でも、膨らんできた胸を隠してまで、少年でありつづけようとし、そのくせ、イングマルを好きになってしまうサガの倒錯した美しさは、成熟した女性には、分からないんじゃないかな。
「女らしさ」を避けようとするあまり、サガは、自分のアニムス(無意識下の男性性)を最大活用せざるを得ない。ところが、彼女のアニムスが全面開花しているはずのボクシングの試合中、彼女はイングマルを抱きしめてしまう――この、矛盾した行為の美しさね。

だから、ラストシーンで、サガがスカートを履いているのは許せない。それはサガの選択ではなく、親が決めたことに違いないから。……性別って、つまんないね。

ところで、この映画には、サガがシャツを開いて、乳房をあらわにするシーンがあります。
今月末に発売されるHDリマスター版が、ちょっと心配です。映倫は、二次使用に関しても審査権限を拡大してますからね。


羽田空港の売店で、ハロウィン用商品の飾り付けが行われていた。
101009_13520001かぼちゃの形をしたプラスティックのケースに、お菓子がいっぱい詰まっている。あまりに綺麗なので、写真に撮ってしまった。

最近、こうしたキラキラしたものを見ると、涙がでるぐらい愛らしく感じる。

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2010年10月 8日 (金)

■映倫は、登場人物の自由をさえ、もぎとる■

いよいよ、徳島でのイベント「眉山山頂秋フェスタ×マチ★アソビ」の開催が、明日に迫りま0801した。
「アニメ評論家徹底トーク! アニメ業界ここだけの話 アニメ語り ここまで話すと気持ちイイ」は、10日(日)の14:15~開催です。

友人が自分用に作成した、スマートフォン対応の非公式タイムテーブルが、細かくカテゴリ別けされていて、便利かも→こちら

では、眉山山頂でお会いしましょう!


映画『ぼくのエリ』表現規制について。
全興連から、3度目の回答が来ましたが、あまりに実務的なので、載せる必要はないでしょう。向こうも面倒になったのか、事務局長の名前を外してきました。全興連は映倫の下部組織ですから、まあこんなとこでしょう。

その映倫への質問状ですが、回答期限まで、あと一週間となりました。このままバッくれた場合、プランBが発動しますので、映倫の先生方、よろしくお願いします。


私が問題にしているのは、『ぼくのエリ』のスクラッチ(引っかき傷)に代表される、過剰な自主規制の押しつけです。全国で公開される映画が、たった5人の審査委員の独断のみで平然と傷つけられ、観客の「見る権利」が侵されている。

「北米版のDVDを買えば、ノーカットで見られる」ことは解決策ではない。「日本で戦争が起Bokueli_sub1_large_2 きたら、海外へ逃げればいい」と言っているのと、同じこと。
これは、個人の自由であると同時に、国家の品位の問題なんです。

繰り返しになるが、『ぼくのエリ』で、エリの股間(手術跡があるだけで、性器は映っていない)を隠したのは、世界中で日本のみである。
この体たらくでは、「日本は表現の自由もない、頑迷固陋な規制国家」と指さされても、言い訳できない。『ぼくのエリ』を後援しているはずのスウェーデン大使館、全国の映画館の加入している全興連が役立たずである以上、映倫に抗議できるのは、窓口で入場料金を払った観客のみだ。


これから書くことは、いわば傍系的動機、私的な憤りです。

『ぼくのエリ』の「ヒロイン」であるエリは、吸血鬼であるがために、昼間は外へ出られません。また、人間の生き血を飲まないと生きていかれないので、罪のない人を殺さざるを得ない。つまり、エリは、「自然」と「社会」から拒絶されたマイノリティです。

その一方、エリは200年以上も生きており、老いや死から解放されています。
また、原作を読めば分かりますが、「彼女」はかつて少年でした。しかし、男性器を切り落とされたため、少年ではなくなりました。かといって少女でもない。しかし、少女として振舞う自由を「彼」は手に入れたわけです。

エリは、自然や社会からは忌避された存在ですが、心の中は女でも男でもない。性差にとらわれない自由さが、エリの旺盛な生命力のみなもとです。
男でも女でもないからこそ、主人公のオスカーと、恋愛や友情をも越えた、深い命の絆を結ぶことが出来たのです。
そんなエリの自由の証が、映画では「股間に残った手術跡」が映るワンカットだったはずです。
その自由のシンボルを、わが国の検閲機関は、醜く塗りつぶして、「性の自由などない」ことにしたのです。こうして書いていても、胸をえぐられる気分です。
映倫は、映画の自由だけではなく、登場人物の自由をさえ、もぎとっていく。

――このような個人への抑圧を、「そういう時流だから」程度の理由で、軽率に行っていることが、また許しがたいのです。


今さらですが、『戦場のピアニスト』を見ました。ドイツ兵は、ユダヤ人を殴るとき、いちいち理由を言いませんね。映倫も、フィルムに傷をつけるとき、何の説明もしません。

(C)EFTI_Hoyte van Hoytemahttp://pia-eigaseikatsu.jp/piaphoto/title/240/154212_1.jpg

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2010年10月 6日 (水)

■報告いろいろ■

オトナアニメ Vol.18 9日発売
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●『世紀末オカルト学院』総括
「総括」といいながら、最終回のひとつ前の時点で書いたので、かなり話をそらしています。
とは言え、セル画に統一されることで、未知の生物が「既知の生物」となってしまったことは、大変残念に思いましたので、他作品の例を交えながら、語らせてもらいました。

アニメを見ているとき、われわれの網膜がとらえているのは、視覚情報なんですよね。もっと、映像作品の「表層」に目を向けてもいいんじゃないか、と思うのです。


他誌の話で恐縮だけど、キャラ★メル[フェブリ]の『オカ学』特集は、よかった。
101006_10240001これぞ、場面カットの正しい使い方。B5サイズ1ページに、マヤ様の場面カットのみ、33枚。
というか、全8ページもあるのに、マヤ様の場面カットと版権イラストしか載っていない(笑)。他のキャラとか、ストーリーとか、一切ナシ。潔い。

作品をトータルに、客観的に捉えることが、必ずしも正しいとは限らない。作品と我々とは、個別に存在しているのではなく、互いに絡み合って、ひとつの「何か」を形成しているからだ。


今週土曜から、ついに『REDLINE』が公開されます。
『マイマイ新子と千年の魔法』でお世話になった、吉祥寺バウスシアターでも、公開されますよ!
Redline1『新子』のときに好き勝手やらせてもらったせいか、今回は劇場からの依頼で、「見どころパネル」を作成しました。デザインは、原健一郎さん。バウス用につくったので、他の劇場には、掲示されません。

2種類つくったので、もう一種類の絵柄は、劇場で確認してください。もちろん、非売品です。

この映画がキュートなのは、バカをやろうとしてバカになっているんじゃなくて、手間ひまかけてカッコよくしようとしたら、めぐりめぐって、底抜けにバカになってしまったところ。


表現規制メモ。
アメリカの映倫にあたる検閲機関「MPAA」を、探偵をやとってまで調査・告発したドキュメンタリー映画This Film Is Not Yet Rated』。日本公開の予定はないが、予告編はこちら

審査委員の名前も顔も公表しないMPAAは陰湿だが、フィルムに傷をつけさせて、その理由すら説明しようとしない映倫の大学教授や弁護士たちも、陰湿さでは負けていない。

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2010年10月 4日 (月)

■全興連、観客が規制に怒るのは「致し方なし」■

日曜夜、立川シネマシティにて『おにいちゃんのハナビ』。
100430_hanabi_main77席中、5人ぐらいの入りだったかな。
今まで、ゾンビや死霊を演じてきた谷村美月が、いまさら坊主頭になっても、あまり驚くファンはいないだろう。本人も、インタビューではケロッとしてたし。

映画の前半では、白血病の谷村が、ひたすら引きこもりの兄をはげまして、地元で有名な花火大会に出るよう、すすめる。
いやはや、これは強引な展開だ。谷村演じる妹に、そこまで兄をリードしなくてはならない動機がない。でも、無茶を納得させるのが、常に谷村美月という女優に与えられたミッションだから。

谷村美月は、野球でいうとキャッチャー。ピッチャー(制作サイド)が、どんな魔球を投げてきても、泥まみれになって受け止める。
『おにいちゃんのハナビ』も、そうですよ。明るく健気で、行動的で、ユーモアのセンスもあって……って、こんな都合のいい妹、いるわけない。でも、谷村は、パーフェクトに演じきる。パーフェクトに、客を説得してしまう。


女優って、顔がよければいいとか、演技力があればいいってわけじゃないんです。
映画のために、自分を殺せる女優こそが女優であって。「私が、私が」って、我を通すような人は、好きじゃないです。
そういう意味では、ストーリーには泣けなかったけど、谷村の徹底した仕事っぷりに泣かされた。「うわ、こんなダサいセリフ、言わなくてもいいのに……」と思うんだけど、セリフを丸暗記してくる谷村は、ちゃんと血の通ったものにしてしまう。

今年20歳。もう、女子高生役も限界でしょう。高校の制服が着られなくなってからが、勝負だと思うんだけど、どうなるかな。『明日やること ゴミ出し 愛想笑い 恋愛。』は、社会人役で主演。今週末から、新宿バルト9で公開。


さて、本日も『ぼくのエリ』関連のニュースです。
Bokueri日本のほとんどの映画館が加盟している全興連に、さらなる質問をしたところ、やや遅れて回答が来ました。眞保徳義事務局長、「全興連も黙りこんだ」などと書いてしまい、大変失礼しました。

ひとつめの質問は、私の単なる揚げ足とりだったので、割愛します(要望があれば公開します)。
問題は、ふたつめの質問「2.画面の一部を傷つけ、それを見て憤慨した観客については、どうお考えですか?」
それに対する、眞保事務局長の答えは、以下です。

2.につきましては、一部修正された映像を見せられたお客様の残念なお気持ちは分かる気もしますが、現在のありようの中では致し方ないのではないでしょうか。

致し方ない? ようするに、映倫の決めたことだから、お客様は我慢しろ、と?
そして、「現在のありよう」とは何か。なぜ、表現規制を認めた本人たちは、このような抽象的な言い方しかできないのでしょうか? スウェーデン大使館は「日本の法律に従う」と言いましたが、いったい、日本のどの法律に従っているのかは、教えてくれませんでした。

私たちも、スウェーデン大使館も、全興連も、「空気」に口をふさがれている。 
繰り返しになりますが、この状態が「規制をされている」「統制されている」ということなのです。

『ぼくのエリ』(映倫検閲バージョン)は、現在も公開中です→劇場情報

(C)2010 「おにいちゃんのハナビ」製作委員会
(C)EFTI_Hoyte van Hoytemahttp://pia-eigaseikatsu.jp/piaphoto/title/240/154212_1.jpg

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2010年10月 3日 (日)

■ないものを規制することによって、問題があることにしてしまう■

Twitterを検索していたら、興味ぶかいツイートを見つけました。

今やってる『エル・トポ』にはエル・トポJr.のイチモツにボカシが入っているらしいです。現在大人気の『十三人の刺客』の立ちション少年にはボカシ無しなのに変な話です。映倫って、思い付きでボカシや年齢制限を決めてんですかね?

答え→その通りです。
思いつきというか、映倫の審査委員のうち「誰が担当するか」で、審査結果が違うそうです。「Aさんなら通してくれたのに、Bさんが来たからダメだった」という、クジ引きのようなことが起きているそうです。
ふだん、審査で苦労させられている人から聞いたので、間違いないでしょう。


またこんな話をすると、「読まなかったこと」にしてスルーされるんでしょう。
みんなが「まあ、しょうがないね」と通りすぎること、それがつまり、「抑圧」だというのに。
『ぼくのエリ』については、スウェーデン大使館が沈黙しましたよね。全興連が黙りましたね。そして、観客は抗議すらしない。

ふと、気がついたんですよ。「ああ、児童ポルノ法が規制強化されたり都の青少年育成条例が改正されると、こういう空気になるのか……」と。

なんだ、もうとっくに始まってたんだ、と拍子抜けしました。もはや法改正するまでもない。そんな必要はないんです。先に、みんなが口をつぐんでくれるから。
だから、表現規制って、現在、稼働中なんですよ。


『ぼくのエリ』は、公開館数が少ないので、なかなか理解してもらえないのですが……。
Eliエリという少女の股間がアップになったとき、無数のひっかき傷が入って、性器があるとおぼしき部分が隠されるわけです。

だけど、あちこちで画像がアップされていますが、モザイクの下には、女性器も男性器もありません。特殊メイクかCGか分かりませんが、「去勢された後の傷」があるだけなんです。
つまり、エリは、少女でも少年でもない。
だけど、女優が演じていますから、観客は「女性器が映った」と誤解してしまう。「ないものを隠す」ことによって、「ある」ことにしてしまう。
――こういうミスリードって、これまでも歴史の中で、何十回、何百回、何千回と行われてきたんでしょうね。ナチス・ドイツがそうでしょう、魔女狩りがそうでしょう。

「非実在青少年」のように、「ないものを規制することによって、問題があることにしてしまう」。
それがまず、『ぼくのエリ』という小さな映画の中で、試みられた。僕もてっきり、未成年の性器が映ったのだと思い込んでしまった。怖ろしいことに、映ってもいない、存在すらしていない「エリの性器」が、脳の中で像を結んでしまうのです。制作者の意図とは、無関係に。
事実とは正反対に、「あの映画には、未成年の性器が映ってるんだぜ」と、観客は刷り込まれてしまう。

表現規制の何がおそろしいかって、「思考に影響を与える」ことです。


昨年、アグネス・チャンが国会に招聘されたとき、「そんなに子供の裸、見たいですか?」と、恫喝めいた発言をしてましたよね。
『ぼくのエリ』のモザイク問題に関しても、まったく同じ反論が成立してしまう。私は、スクラッチ(引っかき傷)のない、プレーンな状態で映画を見たい。だけど、「どうせ、エリの性器を見たいだけなんだろ?」と反論されてしまう。
その羞恥のために、みんな黙ってしまう。為政者にとっては、ますます都合がいい。

しかし、僕は黙らない。みんなが黙っているぶん、発言しつづけます。

(C)EFTI_Hoyte van Hoytemahttp://pia-eigaseikatsu.jp/piaphoto/title/240/154212_1.jpg

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2010年10月 1日 (金)

■髪色各種■

まずは、『マイマイ新子と千年の魔法』の話題。明日2~3日にかけて、山口県防府市でイベントが行われます。
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まあ……場面カットも、ひさびさに見ましたね。
なるべく映像の記憶をぼやかして、何年後かのスクリーンでの再会を、最高のものにしたい。なので、実はDVDは一度も再生してません。映画館に来られなかった友達に、貸してあります。

その一方で、思わぬところで「署名やってた人ですよね」と声をかけられたりして、そういう有機的な関係も大事だし、DVDが出たことで友達に見せられるようになったし……で、遠くから小さな声で応援してるほうが、自分らしいとも思うし。

吉祥寺での上映イベントでは、防府や他県の方たちから、応援していただきました。
今度は、私のほうから、聖地でのイベント成功をお祈りさせてもらいます。


『化物語』最終話、レンタルでやっと見終わった。
Cat15_04_3真宵の出るシーンだけ、背景が「まよいマイマイ」と同じく、ル・コルビジェ調になってる。そういうところに、感心する(この絵は違うけど)。
ラスト近くの忍野の廃墟も、ちょっとコルビジェ風になってた。あのシーンには真宵がいないから、せめて背景だけでも……という配慮だったら、素晴らしい。
ストーリーは最後まで難解だったけど、尾石さんの次回作が楽しみ。次はもう、いきなり映画やってほしい。

あと、『けいおん!』もそうだけど、キャラの瞳のハイライトが小さいと、ハイティーン向きというか、男性向きになる。
ハイライトの面積が大きいと、女児向け、女性向けになるようです。『会長はメイド様!』なんて、ハイライトでかいですよ。
『とらドラ!』『ハルヒ』も、ハイライトは小さい。その代わり、グラデーションに力を入れて、艶っぽくしている。彩色時は仮色でベタ塗りして、撮影でグラデーションをかけるという、デジタル時代ならではの、一種のトレンドでしょう。

あと、『プリキュア』のマスコット・キャラの黒目にはグラデーションがない…というのはピカチュウも同じ。塗り絵とか、グッズの関係でシンプルにしてあるのかな、とも思う。


もうひとつ、髪の毛の色。黒か茶系の、渋い彩色が増えてきたけど、どう割りふっているのか。
Ga08_2『ギャラクシーエンジェる~ん』を取材したとき、5人なら5色の色相を割りふる、と聞いた。赤、青、紫とか。ところが、『エンジェる~ん』の主人公は、イエローオーカー。青紫の補色だから、こいつは脇役の髪色である、主人公にしては地味すぎたかも、と。
いま見ると、けっこう派手だけど、ピンクや紫のキャラに混じると、これでも地味なわけです。宇宙空間だと、かなり地味な髪色である。
――それだけ、今は日常を舞台にしたアニメが増えたってことなんでしょうね。

『ひだまりスケッチ』も『けいおん!』も、鮮やかな髪色は、主人公から外してます。やや彩度の低い地味な髪色を、主人公に割りふっている。
デジタル化によって、使える色の数が増えたって理由もあるんでしょう。口で言われるほど、美少女キャラ(死語)は記号化も類型化もされてない、と僕は感じる。

そう考えて見ると、『新子』は、けっこうトレンドですね(笑)。

(C)2009 高樹のぶ子・マガジンハウス/「マイマイ新子」製作委員会
(C)西尾維新/講談社・アニプレックス・シャフト 
(C)ブロッコリー・バンダイビジュアル

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