■いい映画は、途中から見ても面白い■
「Cut」の特集「ジブリがアリエッティに託したもの」を読んでいて、ハッとしたことがある。今までのジブリ作品って、少年と少女、男と女の出会いは強烈に描いても、「別れ」は希薄だった。たいていは、「ともに生きよう」とか「結婚してくれ」とか言って、終わる。
たとえ別れても、「いずれ、また会おう」みたいなラストだったりする。
でも、『アリエッティ』は、「一緒には生きられない。だから、お達者で」というラストだったよね。
それが突破口だったんじゃないかな? 「農家の嫁になる」とか、無理やりなハッピーエンドと問題解決が、ジブリならではの時代錯誤性であり、持ち味でもあった。「それしか思いつかん」という限界が、つねにあった。
ところが、『アリエッティ』は、「解決できない問題は、解決しない」。これは諦念ではなく、時代にそくした突破口なんだろうね、おそらく。
だからといって、あの作品を僕自身が楽しめたかどうかは、まったく別問題なんだけど。
『カラフル』の二回目は、さていつ行こうかな、と考えている。
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もうひとつ、先日の『けいおん!!』の記事。ちょっと補足。
冒頭の3カットは、さりげなくカッコいい。「唯のいないベッド」→「唯の見ていない雑誌」→「唯のいない部屋」。でも、それぞれ、脱いだパジャマとか、チリ紙が丸めてあったり、「さっきまで唯はいた」という痕跡を、描いている。
彼女が「起きた」→「雑誌を見た」→「部屋を出た」ということは、この3カットで分かる。
ということは、この3カットは、「空間」ではなく「時間」を描いている。過去を描いている。
そして、唯の足元の通学カバンが映ったとき、フィルムは「現在」に追いつくんだよ。
でも同時に、唯のいない3カットは、「唯は別のどこかにいるんだよ」と説明してもいる。カッコいい。過去を明示しつつ、現在を暗示している。機能的。カッコいいですよ。
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だから、「いい映画は、途中から見ても面白い」ってことです。ベテランの編集者で、「30秒見れば、そいつの演出力は分かる」って人もいた。
ストーリーというのは、カットの積み上げから、「読みとる」もの。画面にあらすじが表示されるわけじゃないんだから、何本も見ているうち、読みとれるようになる。
バラバラに撮影されたカットの集積から、「ああ、こういうストーリーなんだな」と読みとる。
だから、友達と映画に行くと、「あのシーンって、どういう意味?」「ぜんぜん、解釈が間違ってるよ」と、意見が分かれる。
最低限のルールはあるけど、答えはないわけです。
ケーブルで『人のセックスを笑うな』をやっていたから、途中から録画して、途中でやめた。それでも、ちゃんと面白い。
トータルバランスで「脚本もいいし、演出も合格点」みたいに完成度を求められはじめたのって、いつ頃からだろうか。どこかひとつ、いいシーンがあれば、それだけで得した気になるのは、僕だけだろうか。
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冒頭の「別れのあるアニメ映画」ということでいうと、『河童のクゥと夏休み』。
康一のもった箱を、サヨコがなでるでしょ。あれは、もちろん、箱の中のクゥをなでているんだけど、康一と話せたという「現象」に感謝しているんだよね。
『クゥ』の世界観は、仏教的。『カラフル』はキリスト教的だと思うんだけど、単純かな。
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コメント
『アリエッティ』については、アニメ専門誌以外の特集に目を見張るものがあった夏でした。
『BRUTUS』、『MOE』、 『CUT』…。
好きな人が好きなものを語る力は凄いんだから、「ウチは長いことアニメだけ見てきたんだから負けるわけが無い」と慢心してたら遠からぬ内に大怪我しますね。
投稿: てぃるとろん | 2010年9月 3日 (金) 04時11分
■てぃるとろん様
それらの雑誌を見ていくうちに、何だかジブリへの愛憎が抜けて、「卒業」できそうな、さわやかな気になれました。
僕も取材したんですけど、春なんでね。映画もできてませんでした。
>「ウチは長いことアニメだけ見てきたんだから負けるわけが無い」
アニメだけしか見てない、というのは大きな問題ですね。
食事のかわりに、お菓子だけ食べてるようなもんだと思います。
投稿: 廣田恵介 | 2010年9月 3日 (金) 06時49分