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2010年9月20日 (月)

■抑圧が強ければ、反発が生まれる■

『マチ★アソビ』の公式サイトに「氷川竜介&廣田恵介 アニメ評論家徹底トーク! アニメ語り ここまで話すと気持ちイイ」が、告知されてしまいました。

最初は、「僕は評論家じゃないし、聞き役に徹します」と交わしていたんですけど、どういうネタであれ、構成であれ、絶対に面白くします。
せっかく小さい飛行機(ジャンボジェットじゃない)にスシ詰めで行くんだし、東京では話せないトークにします。
10月10日14時15分から、眉山山頂パゴダ広場にて!


先日の『けいおん!!』最終話に関して、ちょっと書き忘れた。
梓が、唯たちの方を向く芝居。見知らぬ先輩の胸に花をつけてやって、その先輩の歩いていった方角を、それとなく見送ったら、そこに唯たちがいた……というのが、演技の流れなんですね。
何かキッカケがないと、人間の身体って、動かない。リアリズムですね。

実際、実写の監督から演技のレッスンを受けると、キッカケなしに動けないですよ。段取りっぽく動くと、すごく不自然になる。
でも、『ハートキャッチプリキュア!』を見たら、ぜんぜん違う。主人公たちがハッと見上げたら、いきなり敵がいる。でも、それは『プリキュア』のルールだから、それで正しいの。

その作品が、自ら敷いたルールさえ外さなければ、それでいい。


Twitterで、アニオタ保守本流こと古谷経衡さんが、『けいおん!!』の最終回に激怒していた。彼は彼のルールを貫いていると思うし、意見の違う僕のような人間と飲み明かしてくれたから、好感を持っている。

だから、彼に対する反論ではないんだけど、「物語の最後にキャラクターが成長しなければ終われない」という認識が、すでに紋切りなの。
前にも書いたけど、成長というのは、その時代の社会規範に合わせる、大人の都合に自分の心や体を適合させる、ということでしかない。

「貴様らの体に軍服を合わせるのではない。軍服どのに、貴様らの体を合わせていただくのである!」……これが、社会というものです。
そして、そんな価値は、今の社会にはない。映画『ぼくのエリ』表現規制について、しつこく追い回しているのは、社会を少しでもマシにするためだ。


いま、『ガンダム』シリーズの原稿を書いているけど、改めてギョッとしますよ。
2007110605321258415ファーストなんて、「女に作戦を聞くわけにはいかない!」とアムロが言っている。カイはミハルの死を「ジオンを徹底的に叩く」ことにすり替えているしね。そんな「成長」は、願い下げです。

それが、『Zガンダム』になると、「大人をやりゃあいいんでしょ!」になる。僕のように気ままな仕事をしていても、この言葉は、とても痛切に聞こえる。

アニメは、もともと児童文化だった。いまでも、まったくの門外漢に「アニメの記事を書いてます」と言うと、「子供向けですか?」と言われるけど、それで正しいと僕は思う。
抑圧が強ければ、反発が生まれる。エネルギーを失わないために、アニメは社会の鼻つまみ者でありつづけるべきだと思う。

その代わり、本格的な規制をはじめるのであれば、ただでは済まさないぞ、ということです。


『ぼくのエリ』表現規制問題で、「結局、ボカシを入れたのはアグネスなのかよ」と誤解している人がいて、笑いました。
でも、『ぼくのエリ』で傷だらけにされてしまったワンカットを見たとき、アグネス・チャンの発言と、まったく同じ匂いがしたんです。

2年前、スウェーデン本国で『ぼくのエリ』が公開された頃、アグネス・チャンがNHKの『視点・論点』に出演し、「もちろん、表現の自由を守りたいんです。そして子どもたちも守りたいんです。どうか皆さん、知恵を出しあって、そして両方守れる法律をつくってもらいたい。これが私たちの願いなんですね」と、無茶をおっしゃいました。→こちら

面白いことに、映倫の大木圭之介委員長も「『表現の自由』を護り、同時に『倫理を維持』することは、決して易しいことではありません。わたしたち委員(5人)は、かつての検閲のような規制概念に陥ることなく、あくまで謙虚な姿勢で、難しい二つの目的を果たしてゆきたいと思っています」と、似たようなことを映倫のホームページに書かれてます。→こちら

ここで使われている「表現の自由」という言葉の、何という軽さ。
誰か一緒に戦ってくれ、とは言いませんが、番組を聴いて問題意識は持ってほしいのです。→談話室オヤカタ#270

(C)創通・サンライズ

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コメント

>10月10日14時15分から、眉山山頂パゴダ広場
仕事が入ってなければ参加させて頂きます(`ー´)

投稿: キサ | 2010年9月20日 (月) 16時53分

■キサ様
ああ、徳島だと、逆に近いわけですね。
お待ちしています!

徳島へは9日午後入り、11日午後出発です。

投稿: 廣田恵介 | 2010年9月20日 (月) 17時01分

彼女らの幸せがどこにあるかという部分では、
「同じ女子大に行く」という着地点が出て来た最終回までの4話でなるほど、と納得しましたね。
その意味では展開は一見だらけた様に見える展開や家族との関わりの薄い展開もずっと狙いとして一貫していたと思います。古谷さんのおっしゃる事もとても理解出来るんですが、これはもう良し悪しの問題じゃないので。そういう普通の子供達のお話だという事で理解しています。

そんなけいおんが共感とともに支持され、例えばまなびストレートの様な「道を切り開く」物語が今ひとつ同世代に支持されないのは現象としてリアルでなるほどな、と思いました。ガンダムシリーズのキャラは多少歪んでいるのであまり参考にならないとは思うのですが(僕もZの頃の何かにつけて、おまえはここにいちゃいけない、いなくなれ(殺してしまえ)を連呼する主人公達を恐ろしく思いました)
作劇である以上、なんらかの成長物語でなければいけない(廣田さんのおっしゃる成長というのが社会規範や大人の都合に合わせるというのはちょっと異論があるのですが、どちらかと言うと僕の中では社会とは関係なく伸びしろを内面で自覚するる事が幸せ=成長、という考え方です。)というのは絶対的なあり方ではないという描き方をしたけいおんの終盤の展開はかなり衝撃的というか価値観が変わる感じでしたよ。

投稿: Miya-P | 2010年9月20日 (月) 18時57分

■Miya-P様
いやはや、まったくもって、同感なんです。
ただ、最初にお断りしておくと、僕は、あえて露悪的に「成長」という言葉を使っています。
それだけ、今の社会を理不尽に感じるからです。
本当は、「他人の都合を分かってあげられるようになる」「自分をころしてでも、道を譲れるようになる」…といった内面的な変化も「成長」だと思ってますよ。

それと同時に、実社会と折り合いをつけることも、実は大事である――といった感じです。

>ガンダムシリーズのキャラは多少歪んでいるのであまり参考にならないとは思うのですが

そうかも知れませんが(笑)、でもアレがスタンダードみたいな捉えられ方もしてるんじゃないですか。

「同じ女子大に行く」というのは、リアリティの問題ではありませんよね。「あんな簡単には、大学に入れないよ?」と思いつつも、作り手が確信犯的に「ぬるく」しているのは分かっていたので、つっこむ気にはなれませんでした。
そういう意味では、『まなび』のほうが「ドラマチック」ではあったのでしょう。

『けいおん!!』の、やや度をすぎた予定調和が受け入れられた理由は、やはりみんな疲れてるんだろう…としか、僕には言えません。
商業アニメって一本のこらず娯楽だし、商品だし、古谷さんは反論も折り込みずみで、ああいう発言をなさったんだと思います。

投稿: 廣田恵介 | 2010年9月20日 (月) 19時30分

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