■検閲は、これをしてはならない■
スウェーデン映画の傑作『ぼくのエリ 200歳の少女』の公開が、秋から冬にかけて、全国へ広がる。
僕は配給会社に、あの不自然なモザイクの理由を聞きに行ったが(詳細)、今度はそれを「生ぬるい」とばかりに批判する輩があらわれて、もうこの映画には、触れまいと思っていた。
ところが、mixiの日記を読むと、僕と同じようにモザイク処理に怒り、配給会社に直訴した人がいた。
僕は、配給会社の事情を噛んで含めて、それで何か解決した気になっていた。おろかにも、たったあれだけで満足していた。
問題なのは、「モザイクで消さなきゃ、審査は受けつけない」と、自分たちのつくったルールを、自分たちで都合よく作り変えた映画倫理委員会だ。
映倫はようするに、「こんなワイセツなもの、僕たちが審査したら、僕たちも共犯者になっちゃうよ」とビビり、配給会社の手を汚させた。
映画を見た観客が、どんな不満・不安をこうむろうと、自分たちの身が大事だったんだ。やはり、こんな団体は看過できない。
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昨日、『ぼくのエリ』公開までの顛末を、興行会社の人たちに話してみた。
「はあ? 映倫ってのは政府の機関なんですかねえ?」と、横で聞いていた若い社員が話に加わってきた。とんでもない。彼らは、権威に弱い、ただの年寄りだ。
「すると、やはり、児童ポルノ禁止法ですか?」 どうしても、そこに繋がる。あの改正案は、別に廃案になってないよ。今年になってからも、都議会で議論されたり、民間のシンポジウムで規制強化が謳われてるよ。
そうした「空気」を、マスコミも一体になってつくることで、法案なんか通らなくても、こうして表現の自由は奪われている。
『ぼくのエリ』は、全世界で80もの賞にノミネートされた。しかし、モザイクをかけられたのは日本だけである。なぜか? 日本には、映倫があるからだ。
配給会社も興行会社も、映倫のメリットを訴える。
あの団体がなければ、国内で映画の上映ができない……。いや、待ってほしい。モザイクで切り裂かれた映画は、果たして「上映された」と言うべきなのだろうか?
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ここで黙っていたら、もっとひどい抑圧が起きたとき、僕らは後悔に打ちのめされるだろう。何度でも言うが、僕らは、どこかの誰かが「見てよし」と許可したものだけしか、見せてもらえてないのだ。生まれてから、ずっと。
もうそろそろ、本当の自由を手に入れようではないか。そのためには、映倫の言い分も、聞かねばならない。
(c) EFTI_Hoyte van Hoytema (c)EFTI MMVIII
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