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2010年9月30日 (木)

■全興連も『ぼくのエリ』表現規制は黙認■

さて、映倫に『ぼくのエリ 200歳の少女』表現規制について質問状を送って、丸2週間が経過しました。何の音沙汰もありません。
答えがない以上、「配給会社を恫喝し、憲法で禁止されている検閲を行った」証拠に使えてしまうわけですが、映倫さんは、果たしてそれでいいのでしょうか?


さて、映倫からの回答を気長に待っている間、日本中のほとんどの映画館が加盟している「全国興行生活衛生同業組合連合会」(全興連)に、メールしてみました。
「なぜ、貴組合は、映倫の判断に唯々諾々と従っているのですか?」と。
その日のうちに、事務局長の眞保徳義さんから返答がありましたので、以下に転載します。
「お問合せの件でございますが、全興連に加盟している劇場は、映倫が審査した作品を上映することが基本となっております。映倫は特に青少年に対する映画の与える影響を重視し、作品の主題・題材や表現の仕方に大きな関心を払っております。全興連も青少年には年齢にふさわしい映画を通して、いろいろな体験・豊かな感動を感じてもらえる事は青少年育成に少しは寄与できるものと思っております。又、保護者の方々も現在のレイティングがあることで、子供たちに安心して映画を見せられる要因の一つと考えます。」

……出ました、「子供たち」のため。この国では、「子供たちのため」といえば、アグネス・チャンでも、平然と表現の自由を弾圧できます。これから私も、困ったら「子供たちのためだ!」と絶叫してみようかと思います。

さて、「青少年のため、保護者のため、子供たちのため」とおっしゃいますが、そのどれにも当てはまらない私のような独身中年は、彼らのために我慢をしなければならないのでしょうか?
たいへん損をしているように思えたので、『ぼくのエリ』のタイトルを出して、再度、眞保徳義事務局長に質問メールしてみました。「他の観客が苦痛を感じても、映倫の判断を尊重するのですか?」と。

すると、あれだけ早かったレスポンスが途切れました。
日本中の映画館が加盟している全興連でも、『ぼくのエリ』の話題はタブーなのか、眞保事務局長が『ぼくのエリ』をご存知ないのか、ともかく、全興連は映倫の判断に盲従する、もっと言うなら「映倫と全興連は癒着関係にあるので、ツッコミはご法度」ということなのでしょう。

一体、いつの間に、映倫という団体は、ここまで巨大な権力を有してしまったのでしょう? 日本全国3,000を越える映画館は、映倫の委員たちの思うがまま、コントロール下におかれています。
いえいえ、とんでもない。映倫の権力は、映画館の外にも広がっているのです……。


「映画とDVDは審査機関が違うから、DVDはノーカット版が出るんでしょ?」とタカをくくっている人たち。甘いです。
2007年から、映倫は審査範囲を拡大、DVD・ネット配信など二次市場向け作品についても、審査の対象としています。
……これ、知ってました? 私も、本で調べて、初めて知った。一体、どこの誰が、映倫にそこまでの権利を明け渡してしまったのでしょう? 一体、誰が?

『ぼくのエリ』を見て、あの無残なモザイクを見て、それでも映倫を看過しているあなたですよ。何も言わないことによって、あなた方は、映倫の横暴を容認している。違いますか?
そして、映画評論家、映画雑誌。いくら文章で「映倫は許せない」と書いたところで、別に抗議はしてないんでしょ? つまり、専門家たちの無神経さ・無関心さこそが、映倫をつけ上がらせている。ただの映画マニアのお子様どもは、クソの役にも立たない。
くやしかったら、この私を出し抜いて、映倫に一発くらわせてみろ……。

『ぼくのエリ』のモザイクの件を、外国人の知り合いに話しました。
彼は「いま、何世紀ですか? もう21世紀でしょう」と苦笑しました。『ぼくのエリ』に表現規制を加えたのは、世界で日本だけです。これを恥ずかしいと思ってください。

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2010年9月29日 (水)

■唯の昇る3カット■

『けいおん!!』は、いつも部分評価はしても、プロットそのものには感心しなかったのだが、最終26話は良かった。唯たちが、憩いの場である部室に「入らない」「入れない」。まして、部室の中の様子さえ見せようとしない。
唯だけが部室の前にいるのに、他の3人は階段の下にいる――この俯瞰と煽りの構図も、かなり残酷だと思った。部室という楽園に戻ることを拒まれた4人は、しかし、そのことを笑顔で受け入れる。


部室に梓がいる、と感知した唯は、廊下を走る。カメラは、唯の見た目になる。CGの背動の正しい使い方だ。
バスト・ショットで、上手から下手に走る唯。足元のアップ。ここから先の3カットがよかった。3カットとも、階段を駆けのぼる唯のフル・ショットなのだが、普通はサイズを変えてメリハメを出す。つまり、キャラの大きさを変えるのが常套だと思う。
だいたい、「フル・ショットで階段を昇る」って作画そのものが、かなり大変だよ。でも、『けいおん!!』は、それを平然とやる。


1カット目。唯は廊下の柱のかげからフレーム・インして、階段を昇る。しかし、アウトは描かれない。
そのままアクションつなぎで、2カット目へ。やはり、廊下の柱から唯がインしてきて、コーナーを曲がって、次の階段へ。そして、フレーム・アウトしない。階段を昇っている途中で切れる。
3カット目。もう、唯はフレーム・インさえしない。カット頭で、もうフレームの中で走っている。そして、階段を昇る途中で、やはりカットが切れる。

つまり、フレーム・アウトさせないことで、唯が急いている感じが出る。上手い。最後のカットなんて、もうインすらしないんだから。そこまで、唯を一生懸命に走らせるからこそ、その後、部室の前でピタリと止まってしまう芝居が、すごく生きてくる。
ドアノブをつかんだままの唯の横顔、目パチを一回やるところも、上手い。あそこで目パチがなかったら、深刻なムードになってしまう。


あと、先生の家へ向かう途中、澪が「プライベートがあるだろ」と3人を呼び止めるシーン。
Story「プライベート?」と聞きかえす3人は、密着マルチでスライド(左図)。
「彼氏が来てるとか……」と切り返す澪は、同ポジで動かない。その「同ポジである」ということが、澪の慎重な性格と思考を表している。
片や、スライドで動く唯たち3人は、その直後に走りだす(気が急いている)ので、だから、スライドで動かす。つまり、カメラワークに、根拠がある。

その後、走り出す3人は、走り方が、それぞれ違う。これは、心霊写真を見てビビるシーンでも同じ。全員、動きが違う。キャラクターの「性格」というのは、芝居とカメラワークでしか見せられないんだ、とよく分かる。
だから、このアニメは、いっそ映画にすれば?って思っていたら、映画になるそうで、単純に楽しみだよね。


いま、深夜アニメは本数の多さとソフトの売り上げが、反比例している。そんな中で、『けいおん!』シリーズのヒットは、福音といってもいい。
ケチらずに、全国28局2クールというのが効いたのかも知れないし、ポニキャンも相応のリスクをしょってると思う。映画のときは、どこが配給になるのか気になる。なんらか、変化球を投げてほしい気がする。

(C)かきふらい・芳文社/桜高軽音部

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2010年9月28日 (火)

■「キラキラ」表現の歴史■

来月9日~11日まで、徳島駅から眉山山頂で開催されるイベント「マチ★アソビ」のフライヤーが出来たそうで、今週から配布されます。
「氷川竜介&廣田恵介 アニメ評論家徹底トーク! アニメ業界ここだけの話 アニメ語り ここまで話すと気持ちイイ」は、10日の14時15分から、眉山山頂パゴダ広場にて。

11日には、『ハートキャッチ!プリキュアショー』があるので、それを見てから、東京に帰ってこようかと思います。


『プリキュア』の過去シリーズが、CSで放映されているので、なるべく見るようにしている。
できれば、ちゃんとした色指定を見たいのだが、06年の『ふたりはプリキュア Splash Star』最終回を見ると、目のハイライトが多い。通常の塗りわけで3点、アップ時にはブラシで眼球全体のハイライトが描かれている。
目のハイライトを生かすには、カゲ色を入れなければならないが、マスコットキャラの目には、カゲ色がない。そもそも、あのマスコットキャラは何だ?という話。

バンダイのHPを見ると、『プリキュア』製品の対象年齢は「3歳~」。プリスクールですね。
01_chara03_p02仮定だけど、男児・女児関係なく見られる『アンパンマン』から、女児向けの『プリキュア』に誘導するには、橋渡しになるキャラクターが必要で、それでマスコットキャラは、あんなにシンプルなデザインになっているのでしょう。
ただ、彩度は抑えぎみで、主役のプリキュアたちを食ってしまわないようになっている……本当は、バンダイなり東映なりに、カラーレシピがあると思うんだけどね。

『ハートキャッチ!プリキュア』のキャラデは、『おジャ魔女どれみ』の馬越嘉彦さん。
01_p01今までの『プリキュア』に比べて、シンプルで平面的。髪のハイライトの形なんて、デザイン的でいいですね。

『セーラームーンR』も見てるんだけど、東映がデジタル化するのが97年で、それ以前の作品だから、変身シーンは、かなり苦しい。ようするに、本物の透過光というのが、どぎつい。作画で光を表現すると、安く見えてしまうし。
デジタルになってから、もっとソフトな光を自在に使えるようになった。

ようするに、女児向け変身モノの歴史は、実は撮影技術の歴史なんだと思う。まあ、とにかく「キラキラ」の表現に対するこだわり、バリエーションだけでも、見てて飽きない。

(C)ABC・東映アニメーション

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2010年9月27日 (月)

■弱者にしか、強者は倒せない■

ようやく、長い原稿が手を離れたので、『ボーイズ・オン・ザ・ラン』をTSUTAYAで借りてくる。
Boysontherun01
原作を持っているので、どうしても比較しながら見ることになる。
メイン・ヒロインを出さず、前菜の部分だけ使って、映画にするという。原作の豊かなディテールが削がれる一方に見えて、しかし、ラストで「えっ?」と思うような逆転をする。
そのお陰で、原作よりテーマが際立った。

ようするに、「男をやっていく根拠」が、今の時代は希薄なんですよ。
主人公は、一方的に好きになった女をもてあそんだイケメンを殴る、という不条理な行為でしか、男になれない。ほかに、自分を「男」たらしめる動機がない。しかも、その企ては無残に失敗する。

松田龍平の演じるイケメンが、主人公に聞く。「お前、なんで殴りに来たの?」「僕は、あなたが嫌いです!」――これは、原作にはないセリフ。
女のためじゃない。女を言い訳に、嫌いな男を殴るしかない。この崖っぷち感が、一皮剥けて、快感だ。


原作は、『宮本から君へ』の同工異曲として知られる。
『宮本』は、彼女をレイプした男を病院送りにするが、それもやはり「自分のため」だった。アイデンテイティを獲得した『宮本』は、家庭づくりに向かうところで幕となる。

『ボーイズ・オン・ザ・ラン』も、原作は「家庭」へと向かう。しかし、映画はもっと切実だ。「男の幸せは、惚れた女をラブホに誘い、ソープ嬢と2人きりになったらフェラチオしてもらい、結局はカノジョをつくって、やりまくる」――この錆びた価値観から、主人公が解放されるまでの話だ。
イケメンでも金持ちでもなくケンカも弱い男には、それら社会の設定した「勝ち要素」を否認していく権利がある。弱者にしか、強者は倒せない。

それにしても、なんと我々は捨てていくべき価値観が多いのだろう。あらゆる既得権益を破壊せねばならない。気がついた人間が、自分でやっていくしかない。


『おにいちゃんのハナビ』、立川シネマシティでは98席でスタート。やはり、谷村美月では、客は呼べないか。次の日曜の最終回に行くことにする。

ファミリー劇場で、『REDLINE』特番。小池健監督と、石井克人の対談。どことなく温度差があって、いい雰囲気。
『トップランナー 今敏』の再放送。作品は好きではないが、自己分析の鋭さがすばらしい。自宅が近かったので、何度か道ですれ違ったことを思い出した。

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2010年9月25日 (土)

■アニメとアニマ■

Twitterで『ぼくのエリ』検索してたら、どなたかがニコニコ大百科にページつくっていたのが、分かりました。→こちら
Tumblr_kvlgbkyxqe1qax98lo1_500ログインしてないと読めないと思うので、抜粋しますと、モザイクと映倫/この映画には登場人物のエリの股間が映るシーンがあるが、フィルムに傷を付ける形でモザイク処理がなされている。この経緯については、Webラジオ「談話室オヤカタ」の「第270回目 廣田恵介さんご来店! 映倫に怒っているぞ!」(2010.9.15配信)で廣田恵介氏によって語られている。なお、廣田氏はこの件について映倫に質問状を送付したとのこと。(これを書いている時点では返事待ちの状態)

編集された方に、お礼を言いたいのですが、私はTwitterやってないので……すみません。
ともあれ、10月15日まで、映倫の回答を待ちます。たとえ、彼らが表現の自由を奪ったとしても、彼らの言論の自由を、私は守ります。

もちろん、こちらは「見たい映画を見られない」という不自由を、最初から映倫さんに強要させられてますけどね……でも、映倫さんの自由は、命にかえて尊重しますよ。

相手の自由を尊重せねば、とても公平な話し合いとは呼べないからです。


先日の「アニマ」の話のつづき。
51efdyaih6l__sl500_aa300_『マンガで分かる心療内科』の第7回は『実は男は女になりたい?』 男は女に比べて、感情を表に出しにくい……という話ですね。
「男は泣くな」「男がへらへら笑うもんじゃない」「男がぺちゃくちゃ喋るな」と、私も子供の頃、よく教育されました。そうやって鉄仮面をかぶせられていくうちに、自分の中のアニマ(女性性)は、ぐんぐん成長していく。

そして、「アニメを見る」という無防備状態になったとき、アニマは覚醒しやすい。アニメの中に自分のアニマを発見したとき、「萌え」というシステムが発動する。自我と無意識が足並みをそろえ、幸福感が訪れる。
「萌え」というのは、自分と出会いなおすプロセスだ。そんな繊細な心の作用をさ、みんなでよってたかって、「俗でくだらない二次コンの性欲」にしてしまったわけ。


「男」を生きにくい、というのは、この歳になって同世代の女性と食事に行ったりすると、よく分かるよ。値踏みされるから。「40代自由業? 年収いくら?」「なんで誘ってきたの? 再婚相手探し?」「それとも、ただヤリたいだけ?」
そうやって、女性から「社会人のオス」と見られることも、立派な抑圧なんだよ。俺は、もうウンザリだね。

だったらさ、俺はアニメをいっぱい見て、自分のアニマを探すよ。「萌える」とは、生まれたときに忘れてきてしまった、自分の身体の一部を取り戻すような作業だ。
「萌える」ってさ、たぶん恋愛や結婚より大事なことだって、俺は思うよ。結婚してても、「萌える」ことって必要じゃないかな。だって、君のアニマには、恋人も奥さんも触れられないんだから。


ちょっと気がくるったことを書いてしまったので、『ギャラクティカ』の話でも。
100924_14590001スピンオフ【THE PLAN】をもって、全シリーズ終了。
9.11以降の「フィクション」のあり方を、勇気をもって示した作品だった。このドラマのお陰で、イスラム世界に少しだけ興味を持つことが出来た。
宇宙を舞台にしているのに、政治や宗教について考えざるを得ない。

さっきの話と正反対に、社会の中で、どう立派に「男」をやり遂げるか。それについて覚悟を決めたいとき、『ギャラクティカ』を見るようにしている。

(C) EFTI_Hoyte van Hoytema

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2010年9月23日 (木)

■自殺するなら、萌えてしまえ■

モデルグラフィックス 11月号 25日発売
51d8dk3wssl__sl500_aa300_
●GM特集・エッセイ(?)執筆
編集から電話がかかってきて、「GMバカになってください」とか言う。いや、「ガンダムとGM、どっちが好きですか」って聞かれたのか。
東海村原八氏が「ちょっとしたGM」について批判するので、それと対立する文章にしたいんだけど、そのことは一度、忘れてくれとか何とか。

この本の場合、たいてい、いい方向へ転倒するので、そんなに心配はしてませんけどね。見本誌、楽しみ。


ここ数日間の『けいおん!』批判関連は、面白かった。
ただ、『けいおん!』叩きと京アニ叩きがゴッチャになってるのは、あまりに短絡。たぶん、「ジブリ作品=宮崎駿監督作ぜんぶ」みたいな捉え方が、癖になってるんだと思う。
「ガンダム=サンライズのすべて」じゃないでしょ。『カラフル』だって作ってるでしょ。

関東に住んでる人なんて、憶測でモノ言ってないで、どっかスタジオ見学させてもらえばいいじゃん。あちこち電話すれば、必ずどこか見学させてくれる。そういう努力もなしに、頭だけで考えすぎ。

それと、監督とか脚本家って、そんな独裁的な権限はないですよ。脚本家は、必ず打ち合わせに出て、各社プロデューサーの要望も聞き入れてまとめるわけだから、一人で好き勝手に書いてるわけじゃない。
スタジオだって同じこと。局やメーカーと話し合いながらつくってるに決まってるでしょ。特に『けいおん!』なんて、TBSの声がでかいはずだよ。全国28局に『けいおん!』を流してるTBSは攻撃しないの?

そういう「現実」は見ようとすらしないんだな、と。


それと、「成長」とか「大人」って言葉が飛び交ったけど、Twitterで思考がダダ漏れになっているお子様から、「大人になれ」とか言われてもなあ……。

「萌え」という言葉が、どれだけゾンザイに扱われてるか、よく分かったしね。
萌えが病だったら、現実の恋愛は病ではない? 実在する異性に頼ったら、それは依存じゃないの?
萌えが病だとしたら、病こそナメてはいけないと思うのですよ。


ある人から、『すべてはモテるためである』という本が送られてきた。恋愛ハウトゥ本です。
07なんとなく予感がして、最終章から読みはじめたら、「アニマ」の話が出てきた。ユングのいう、「男の中に抑圧されている女性性」のことですね。

この本の脚注に、「男は女を愛するのではない。女の肉体を通して自分のアニマを愛するのである」と書かれていたけど、非常に納得がいった。
『けいおん!』には女の子しか出てこないけど、単に彼女たちを犯したい、異性として征服したいと思っているファンなんて、少ないんじゃない?
あの4人か5人の中に、抑圧された自分の女性性を見てしまい、だから他人事とは思えないって人が、ほとんどじゃないかな。
いまの社会で「男」をやるのが、どんだけ大変かってことだよ。「男らしくなれ!」と抑圧されればされるほど、アニメの女の子の中に「解放された自分」を見出して、それを愛さずにいられない。
それの何がいけないんだろう。自分を肯定する、自分を許す、自分を愛する。それが出来ないから、年間10万人も自殺者が出る(自殺者の比率は、男のほうが圧倒的に高い)。

昼間は「男」として働き、このクソな社会に貢献し、夜中に帰宅して、美少女キャラを通して「自分」をいたわる。そのアニメの中では、葛藤も抑圧もない。あってはならない。
自分の女性性を解放してあげるのが、目的なわけだから、綺麗で、柔らかい世界がいいに決まっている。

翌日、また頑張って働いていけるんなら、オフタイムに、いくら美少女に自己投影したっていい。心の自由のためになら、あらゆる逃避が許されるべき。他人が、とやかく言うことではないね。

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2010年9月21日 (火)

■『REDLINE』爆音試写会の、さらに試写■

仕事を一段落させて、歩いて吉祥寺バウスシアターへ。夜中近くから、『REDLINE』爆音試写会の音調整があると聞き、同席させてもらった。
Rl_a_dvi089本番の試写会は、明日22日21時より。小池健監督らのトークショーがあるそうで、うーん、今から申し込んで間に合うのかな?→こちら

実は、『REDLINE』を見るのは4回目にして、初の劇場鑑賞。
最初はエンドロールのない段階での内覧試写。だいぶたってから、マスコミ試写。次に、シロバコ(サンプルDVD)で自宅で鑑賞。そして、昨夜が、爆音試写会の音調整。
この音量レベルは、普通のシネコンでは無理だそうで、これを見てしまうと、もう他の映画館では物足りない。踊りだしたくなってしまうよ。

しかし、見れば見るほど、「ああ……バカな映画だなあ」と(笑)。
「グレメカDX」誌で、藤津亮太氏は「小学五年生の発想」といったけど、これぞリアル小学生に見せるべき。もう、幼稚っぽいもんがガンガンに出てきます。ロボットが出てくるのは当たり前。やたら爆発するし。オッパイも出てくるし。

だから、クールでオシャレなアニメ、という宣伝イメージはフェイクです。
『AKIRA』とか『ルパン』のパクリ(パロディとかオマージュとかじゃない)はあるし、80年代OVAを大金かけてリメイクした感じ。


でも、こんなにアクが強くて、果てしなくバカで純情な映画、もう作れないんじゃないか?って気がしてしまう。
2_2(ヒロインのソノシーは、やっぱり声がいい。今回、ようやく「蒼井優」という名前を頭から消し去って見られた。自分史上、ベスト3に入るかも知れないアニメ・ヒロイン)

僕は、局主導の『踊る大捜査線』とか『海猿』をバカにしてはいるけど、彼らに稼いでもらわないと、低予算の個性的な映画が減ってしまう。
そういう意味では、『アリエッティ』が86億をこえてくれたことを、喜んでもいる。それは、『カラフル』に100億こえてほしい、とかいうのとは、また別なんです。『カラフル』は収支トントンぐらいでいい(笑)。原恵一監督の次回作が見られれば、それでいいので。

『REDLINE』は、どう誤解されてもいい。行けるところまで行ってくれ。
悪いけど、論じるようなテーマはない。とにかく、アニメLOVELOVELOVE! 俺たちはこんなのが見たかったんだ、アニメって超最高じゃん!みたいな、DQNっぷりが、たまらなくキュート!


藤津亮太著『チャンネルはいつもアニメ―ゼロ年代アニメ時評』、明日発売!
51mo1hmdbl__sl500_aa300_このご時勢に、評論本を紙で出せたのは、同人誌でもないかぎり、なかなか難しいと思うんだよな。

もう何年間も「オヤジ酒場」に付き合ってもらってて、いつ「もうやめましょう」と言われるか、ドキドキしてます。

(C)2010 石井克人・GASTONIA・マッドハウス/REDLINE委員会

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2010年9月20日 (月)

■抑圧が強ければ、反発が生まれる■

『マチ★アソビ』の公式サイトに「氷川竜介&廣田恵介 アニメ評論家徹底トーク! アニメ語り ここまで話すと気持ちイイ」が、告知されてしまいました。

最初は、「僕は評論家じゃないし、聞き役に徹します」と交わしていたんですけど、どういうネタであれ、構成であれ、絶対に面白くします。
せっかく小さい飛行機(ジャンボジェットじゃない)にスシ詰めで行くんだし、東京では話せないトークにします。
10月10日14時15分から、眉山山頂パゴダ広場にて!


先日の『けいおん!!』最終話に関して、ちょっと書き忘れた。
梓が、唯たちの方を向く芝居。見知らぬ先輩の胸に花をつけてやって、その先輩の歩いていった方角を、それとなく見送ったら、そこに唯たちがいた……というのが、演技の流れなんですね。
何かキッカケがないと、人間の身体って、動かない。リアリズムですね。

実際、実写の監督から演技のレッスンを受けると、キッカケなしに動けないですよ。段取りっぽく動くと、すごく不自然になる。
でも、『ハートキャッチプリキュア!』を見たら、ぜんぜん違う。主人公たちがハッと見上げたら、いきなり敵がいる。でも、それは『プリキュア』のルールだから、それで正しいの。

その作品が、自ら敷いたルールさえ外さなければ、それでいい。


Twitterで、アニオタ保守本流こと古谷経衡さんが、『けいおん!!』の最終回に激怒していた。彼は彼のルールを貫いていると思うし、意見の違う僕のような人間と飲み明かしてくれたから、好感を持っている。

だから、彼に対する反論ではないんだけど、「物語の最後にキャラクターが成長しなければ終われない」という認識が、すでに紋切りなの。
前にも書いたけど、成長というのは、その時代の社会規範に合わせる、大人の都合に自分の心や体を適合させる、ということでしかない。

「貴様らの体に軍服を合わせるのではない。軍服どのに、貴様らの体を合わせていただくのである!」……これが、社会というものです。
そして、そんな価値は、今の社会にはない。映画『ぼくのエリ』表現規制について、しつこく追い回しているのは、社会を少しでもマシにするためだ。


いま、『ガンダム』シリーズの原稿を書いているけど、改めてギョッとしますよ。
2007110605321258415ファーストなんて、「女に作戦を聞くわけにはいかない!」とアムロが言っている。カイはミハルの死を「ジオンを徹底的に叩く」ことにすり替えているしね。そんな「成長」は、願い下げです。

それが、『Zガンダム』になると、「大人をやりゃあいいんでしょ!」になる。僕のように気ままな仕事をしていても、この言葉は、とても痛切に聞こえる。

アニメは、もともと児童文化だった。いまでも、まったくの門外漢に「アニメの記事を書いてます」と言うと、「子供向けですか?」と言われるけど、それで正しいと僕は思う。
抑圧が強ければ、反発が生まれる。エネルギーを失わないために、アニメは社会の鼻つまみ者でありつづけるべきだと思う。

その代わり、本格的な規制をはじめるのであれば、ただでは済まさないぞ、ということです。


『ぼくのエリ』表現規制問題で、「結局、ボカシを入れたのはアグネスなのかよ」と誤解している人がいて、笑いました。
でも、『ぼくのエリ』で傷だらけにされてしまったワンカットを見たとき、アグネス・チャンの発言と、まったく同じ匂いがしたんです。

2年前、スウェーデン本国で『ぼくのエリ』が公開された頃、アグネス・チャンがNHKの『視点・論点』に出演し、「もちろん、表現の自由を守りたいんです。そして子どもたちも守りたいんです。どうか皆さん、知恵を出しあって、そして両方守れる法律をつくってもらいたい。これが私たちの願いなんですね」と、無茶をおっしゃいました。→こちら

面白いことに、映倫の大木圭之介委員長も「『表現の自由』を護り、同時に『倫理を維持』することは、決して易しいことではありません。わたしたち委員(5人)は、かつての検閲のような規制概念に陥ることなく、あくまで謙虚な姿勢で、難しい二つの目的を果たしてゆきたいと思っています」と、似たようなことを映倫のホームページに書かれてます。→こちら

ここで使われている「表現の自由」という言葉の、何という軽さ。
誰か一緒に戦ってくれ、とは言いませんが、番組を聴いて問題意識は持ってほしいのです。→談話室オヤカタ#270

(C)創通・サンライズ

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2010年9月18日 (土)

■卒業式■

『けいおん!!』最終回、何かを見落とした気がして、消せないでいた。
印象的だったのは、卒業生に花をつけるシーン。梓が、楽しそうにしている唯たちを見つ2めている。トラック・アップしっぱなしで、抜けが空。この構図が、孤独感を引き立てる。後ろで生徒たちがガヤガヤしてたら、台無しだからね。
こういうカットの「適切さ」が、『けいおん!!』は突出している。きちっと「正しい」構図を選んでくる。

で、梓目線の唯たちは、バストショットで画面にぎゅうぎゅう(彼女たちの声は聞こえない――つまり、梓とは距離がある)。その次のカットが、また同ポジで梓。やっぱり、トラック・アップしっぱなし。
次のカットで、梓のスカートが風に煽られ、髪が舞い上がって、額のバンソウコウが見える。
それをキッカケに、梓のもとへ友人が走ってきて、会話をかわす。彼女たちの声は聞こえない――つまり、さっきの唯たちと同じ「距離感」の中へ、梓も遠ざかってしまった。

そのあと、もう一回、唯たち4人が映る。今度は、梓の目線ではない。その証拠に、さっきより小さくフレームに収まっている。小さくなったことにより、もっと距離感が生じてしまっている。
つまり、最初、梓は思い入れたっぷりに唯たちを見ていた→ふたつのカットには関連性があった。
だけど、風が吹いたこと、梓のおでこの傷が見えたことで、ふたつのカットの関連性は切れてしまう。
だから、梓たちの会話は無音だし、唯たちの会話も無音なわけです。ふたつのグループは断絶し、それぞれ、視聴者から等しく距離をとってしまう。
――残酷ですね。このアニメは、親しさよりも孤独や孤立を描いたシーンのほうが上手いのでは?とさえ思ってしまう。

●梓の「一人」の構図と、唯たち「4人」の構図の対比
●カメラが梓に寄る、トラック・アップの効果
●風が、梓のおでこの傷を見せることの暗喩
●「会話が聞こえない」ことによる距離感の強調
●唯たち4人のサイズを変えて、「梓の視線が外れた」ことを演出

わずか、20秒のシーンです。


僕はこの最終回を見て、感動したり泣いたり……といったことはなかったけれど、「ラストがよくない」「ストーリーが把握できない」なんてことは、映画を見ていても、しょっちゅうあることです。
だけど、上のシーンに関しては、先輩たちに対する愛着と、それを吹き飛ばしてしまう、残酷な時の流れを表現したかったわけでしょ。
それは十分に達成できているから、「正しい」と言えてしまう。「あ、ここは頭いいな」「上手くやってるな」という発見はあるわけです。

僕が21話のことを書いたとき、「いいストーリーあってこその、いい演出」と言っている人がいたけど、そんな教科書的な見方をする必要は、まったくない。
いいシーンがひとつでもあれば、その発見を喜び、満喫しようじゃないか。トータルバランスなんて気にしてると、映画を★印で採点するような人間になっちまうぜ……。


さて、『ぼくのエリ』表現規制問題。映倫への質問状の「配達証明書」が、郵便局から届きました。
Scan20001平成22年9月15日配達。
質問状への回答は「一ヶ月以内」とさせていただいたので、10月15日までに、映倫から回答がくるはずです。
……が、委員長の大木圭之介先生のホームグラウンドは、名古屋の女子大なので、まだ質問状をご覧になってないかも知れません(ちなみに、元NHK記者だそうです)。

「何の話題?」という方は、「談話室オヤカタ」#270を聞いてください→こちら
番組を聴かれた方から、いくつか質問や情報をいただいたのですが、それはまた後日。

(C)かきふらい・芳文社/桜高軽音部

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2010年9月17日 (金)

■プリキュアの変身シーンは、カッコいい■

グレートメカニックDX14 発売中
517lxy51wl__sl500_aa300_
●『REDLINE』を駆け抜けろ!

カラーページだけど、モノクロで各マシンを紹介。

●シリーズ 90~00年代に何が起きたのか
今回は『カウボーイ ビバップ』。南雅彦Pのインタビュー付です。

●ロボット演出事始 第五回
「背景動画」をテーマに、初代『マクロス』OPを。

●グレメカ人生波止場 第八回
学生時代から『カラフル』まで、原恵一監督、ロングインタビュー。

●オヤヂ酒場DX
今回は、夏のアニメ映画3本と『REDLINE』でダベりました。

●ギャラクティカNOW Vol.10
スピンオフ『THE PLAN/神の誤算』の特集。


もう一度、貼っておきます。「談話室オヤカタ」#270『廣田恵介さんご来店! 映倫に怒っているぞ!』→コチラ
ほぼ連日、ブログやツイッターに好意的なレビューが上がっている『ぼくのエリ』。都内での上映館は多摩センターが24日で終わりなので、増やせないか打診中。

今回は『マイマイ新子』のときと違って、一人でやるしかない。


最近、キラキラしたものとかカワイイものが気になるので、今頃になって『ハートキャッチプImagesリキュア!』の変身シーンを見て、「キャーッ!」と喜んでます。

以前、ヤコログさんと飲んだとき、「ロボットの合体シーンはエロいよね」と話したことがありました。確か、「内部構造が見えること」「ドッキングが、ねちっこいまでに機能的なこと」「煙とか火花とか、余剰物を残らず描いてあること」……が理由だったかな。
合体シーンというのは、男玩スポンサーのためにつくるので、QARを使って丁寧に作画し、一年ぐらい持たせるのが伝統です。

その合体シーンの女玩バージョンが、変身シーンなんだけど、僕は何もセクシャルなものを感じません。だって、「プリキュアになりたい!」と思わせるためのフィルムだもん。
だけど、3人もいらないね。2人で変身するバージョンが、いちばん綺麗。


何カットあるのか数えようと思ったけど、これが難しい。なぜなら、ピンクと青の花びらがワイプがわりになって、そこでカットが分かれてるから。2人が腕を組んでぐるぐる回るところも、花びらの量がドッと増えて、腰から足先までPAN。各部の変身後は、花びらが消える。そういう目くらましが、上手い。気持ちいい。
髪が変わるカットも、花びらがワイプして、いきなり顔のアップになってる。だから、極端なアップからアップへつないで、まるで変身シーンぜんぶが、ワンカットであるかのように見せかけている。

俺が好きなのは、2人が「パンッ」と手を合わせるところなんだけど、その直前、一瞬、二人ともフレームアウトしている。これ、カッコいい。で、フレーム内に戻ってきて「パンッ」と手を鳴らしてから、正面へ向けて手を差し出す。この「動いて消えて、入って動いて、決め!」のテンポ感。すげえ。


もうひとつ好きなのは、変身終了後、アイテムを腰につけて、パン! もう一度パン!でポーチにアイテムが入るところ。目をつむって、SEだけ聞いてみ。カッコいいから。

あと、背景。キャラの立ち位置ごとに色分けされてるけど、最後近くのグルグル回るところは、青が上、ピンクが下。腕組んで回るところも、左右ではなく上下で色分け。
あと、変身中に左右のキャラの立ち位置が変わる。最初に上半身が変身したところから、青が右に立っている。そうやって色の配置を反転させると、単に「何度見ても、飽きない」んだよね。
作画もすごいが、撮影の力もすばらしい。

この映像が百年後も残っていなきゃ、そんな世界は価値がない。

(C)ABC・東映アニメーション

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2010年9月15日 (水)

■映倫に質問状を送りました■

池田憲章さんのWebラジオ「談話室オヤカタ」に、出演しています。タイトルは「#270 廣田恵介さんご来店! 映倫に怒っているぞ!」こちら ぜひ聴いてください。

もちろん、『ぼくのエリ』の表現規制問題です。僕がこの件から、目をそらすはずがない。
Bokueli_sub3_largeだって、映画の専門家たちが何もアクションしないんだから、観客である僕がやるしかないでしょ。映倫に対抗できる団体がない以上、個人が限界までやるしかない。

とりあえず、映倫には、内容証明郵便で質問状を送ってあります。
先ほど、配達完了メールが届きました。受け取ってもらえても、開封されないかも知れない。無視されるかも知れない。
もしそうなったら、プランBが発動するだけなので、楽しみに待っていてください。納税者として、日本国民として、ありとあらゆる権利を行使します。

ただ、映倫にも言い分はあるでしょうから、期限までは質問状は公開しません。
回答が来ても、公開しないかも知れません。
結果として、映画ビジネスを支配する、気味の悪い空気が払拭されてくれればいいのです。


ちょっと調べてみたら、映倫が「審査拒否」した映画に『大統領暗殺』という映画がありました。もともとは、『ブッシュ暗殺』という邦題でしたが、タイトルとポスターを映倫が「審査不可能」として退けました。
ちょっと前の記事ですが、修正前・後のポスターを見ることが出来ます→こちら 

そうです。ポスターやチラシ、予告編さえも映倫が「可」としたものしか、観客は見ることが出来ません。映倫の審査を拒否する権利は、観客側にはありません。
この国において、映倫だけが「表現の自由」という日本国憲法第21条をキャンセルすることができるのです。


この超法規的団体・映倫は「映画界が自主的に設立した」ことになっていますが、一体どこからどこまでが「映画界」なのでしょうか? 映倫の存在をいまいましく思っている映画館は「映画界」には含まれない? 映倫のせいで、余計な手間と時間をとらされた配給会社は「映画界」ではない?

「談話室オヤカタ」でも話したとおり、わが国における「児童ポルノ」の定義は、あまりに漠然としています。なぜ、権力を行使する側は、いつでも曖昧な言葉づかいをするのでしょう? そして、なぜ常に、われわれはこんなにも権力に対して、従順で寛大なのでしょう?

私たちは、ニコニコ笑って、せっかく持って生まれた自由を、権力者にタダで手渡してきたのです。

(C) EFTI_Hoyte van Hoytema

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2010年9月14日 (火)

■感情のアイドリング■

EX大衆 10月号 明日発売
Ex_taishu
●『伝説巨神イデオン』のすべて
サブタイトルは、「接触&発動クロニクル」。編集者が考えました。こういうのは、アニメ音痴な人のほうが、いいのを考えてくれます。

●杉原杏璃 グラビアポエム
ひさびさに、EX大衆でポエム書きました。

急な告知ですが、10月10日の「マチ☆アソビ」で氷川竜介さんと対談……というか、私が氷川さんに聞くつもりでトークショウやります。


NHK-BS『MAG・ネット』、原恵一監督の特集。
原監督のアウトローっぷりが、もうひとつ伝わってこなかったけど、『カラフル』で「徹底的に演出の要素をそぎ落とす」ってのは、面白いテーマだった。

その究極が、「真くんのお母さんが、居間でうたた寝しているシーン」だと番組は言う。完全なトメで、呼吸している仕草さえない。
計ってみたら、5秒ちょっと。長い。120コマぐらい、同じ絵が映っている。実写なら、完全なストップモーションです。

以前、『千と千尋の神隠し』の取材で、武重洋二さんにお話をうかがったとき、いわゆるBGオンリーのカットでも、ピタッと止めないで、ゆるやかにカメラを移動させていると聞きました。
原監督の言葉を借りると、何か動かさないと「死んだ絵になってしまう」。
だけど、『カラフル』の当該カットは、決して死んだ絵ではない。そこには、5秒間という時間が流れていて、決して、止まってはいないんです。


似たカットを例にあげると、『エヴァ』の24話で、カヲルくんをつかんだまま動かない初号機。なんと、60秒も止まっている。
96f3b042ようするに、カヲルくんをつかんだエヴァ初号機の絵ってのは、感情のアイドリング状態ですよね。シンジくんは、悩みに悩んで、前へ進めない。だから、この絵は、決して止まっているわけじゃない。緊張は持続しているわけです。

『カラフル』のお母さんも、疲労困憊して寝てしまったわけでしょ。それまでの積み重ねがあるからこそ、あそこで絵を止められる。止めることで、真くんの感情がアイドリングする。
初号機を映すから、映っていないシンジくんの感情が気になる。お母さんを映すから、映っていない真くんの感情が気になる。

変なたとえだけど、彼女からメールが来ないと、「一体どうしたんだろう?」「何を考えてるんだろう?」と気が急いてくる。あれは、焦らしのテクニック。同じことです。
シーソーゲームみたいなもんで、相手が引くと、こちらが乗り出す。相手が乗り出すと、こちらは引いてしまう。それが、映画と僕らの関係です。


つまり、感情の主体が見えないと、主体はわれわれ、観客サイドへ移ってこざるを得ない。
どちらかというと、感情の主体を「見せない」ことの問題じゃないかな。ただし、感情を「止めず」にアイドリングさせておくには、被写体を「止めて」見せる必要がある……見えないものを感じさせるために、見えるものを止めてしまう……だとしたら、アニメって、ほんと面白い。

(C)GAINAX/Project.Eva.・テレビ東京

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2010年9月12日 (日)

■アートアニメーションの小さな学校■

昨夜は、「アートアニメーションの小さな学校」で、舛成孝二監督の講義でした。
Ucyushow022時間のうち、1時間半が『宇宙ショーへようこそ』の地球パートのコンテを見ながらの解説(のち、当該シーンを上映)、30分は『R.O.D』のワンシーンを上映して、カッティングの効果を解説。
単にその作品のファンである…というだけでは着いていけないだろうけど、演出に興味があれば、この上なくエキサイティングな2時間でした。


まず痛快だったのは、演出になっても監督になっても、30歳ぐらいまで「イマジナリーライン」という言葉を知らなかった、という話。
「でも、理屈としては間違っていても、作品は間違っていなかった」という舛成監督の言葉、正しすぎる。
実際、最初から最後までイマジナリーラインを遵守している作品など、実写でもアニメでも、ほとんどありません。厳密にイマジナリーラインを守っている場合は、何かしら隠された意図があります。

僕らの大学でもそうでしたが、やたら「イマジナリーライン」を連発する人は、要注意です。そんなもん、映画の面白さとは微塵も関係ないので。


あと、メモ帳から監督の発言を拾うと、「コンテは、作画に有益な情報を渡すためにある」「キャラがものを食べはじめた瞬間、芝居ではなくなってしまう(なので、食べはじめる前に切る)」「ドラマとは、キャラクターの動きから生じる」……
最後の「キャラクターの動き」というのは、作画のことだけではありません。キャラがどこにいるのかという配置、セリフがOFFであるかないかなど、もっと立体的な意味です。

ようするに、僕が最近、『けいおん!!』が面白いと連発しているのも、そういう「面白さ」なんです。ストーリーやキャラクターのことを知らなくても、カメラの位置やカットのつながりを見ていくだけで、ちゃんと「面白い」はずなんです。
だから、「映画は途中から見ても面白い」と、僕には断言できてしまう。

『けいおん!!』23話の部室のシーンで、長椅子がフレームに入っているか、いないかだけで、ちゃんとドラマになってますよ。
「そんな瑣末なところ……」と笑われそうだけど、瑣末なところにドラマがある。起承転結がどうとかいうのは、文学か演劇から、劇映画が拝借してきた形式にすぎない。映画が映画たる根拠は、カットワークの中にしかない。何をどう撮り、どう繋ぐか。映画の面白さは、そこにある。

あえてアニメと映画を混同して書いたけど、アニメは劇映画の組み立て方を模倣しているので、基本原理は同じだから。
必要なのは、専門知識ではなく、「面白がる能力」なんです。


もっともっと書きたいけど、長いと誰も読んでくれないので……。
夏紀に関する、僕のキモイまでの思い入れは、思わぬ方向から説明がつきそうです(ヒントを下さった方、ありがとうございます)。

講義後の懇談会は、現役アニメーター、演出家の方が多かったのですが、京都学園大学の有吉末充先生とのお話が、面白かったです。製作委員会の座組みや興行収入の話で、あんなに盛り上がれるとは。

毎日、仕事に追い立てられてるけど、人生は面白い。


「自由にとって肝要なのは勇気だ」(アンゲラ・メルケル独首相)
『ぼくのエリ』問題も忘れてませんので、映倫の先生方、よろしく♪

(C)A-1 Pictures/「宇宙ショーへようこそ」製作委員会

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2010年9月10日 (金)

■『けいおん!!』23話も、面白かった■

水曜日、『ガンダムUC』第2話の試写会から帰宅、寝不足だったのか、泥のように眠った。
木曜午前は時間があったので、録画してあったアニメを消化しようと思って、『けいおん!!』23話。これが、21話とは別の意味で、緊張感にあふれていた。


学校という場所は、いろいろと障害物があります。
例えば、23話のアバンで梓たちが廊下で話しているけど、柱が手前にあって、全身は見えない。後半、梓が部室の前に立つと、階段が手前にくる。

人物が、背景に遮られるカットが多いと、「学校は狭い」という印象を与えます。基本的に、授業時間中のシーンでは、人物の手前に、何かしら入ってます。職員室で先生と話すシーンでも、フレームの下側に本が並んでいるから、窮屈な印象を与える。

だけど、放課後の軽音部の部室は、遮るものがない。
Story_2←画像が小さくて分かりづらいけど、こういうレイアウトばかりでしょ。
いちおう、お茶を飲むための机や椅子があるんだけど、セルで描かれているから、障害物とは感じられないわけです。
どういうことかっていうと、「放課後の部室には、邪魔なものがない」、自由で開放感があるってことです。
セリフではなく、カットを組み上げることで、「この部室だけは特別だ」と言っている。


ところが、部室にも障害物があります。それは、演奏スペースの手前にある長椅子。よく、梓が荷物を下ろしている、あの長椅子。
23話では、あの長椅子が、けっこう邪魔なんです。先生が入ってきて、長椅子ごしに唯たちの演奏を見てるでしょ。ここ、他のカットより、大きく長椅子が入っている。ちょっと目障りなぐらい、大きく入れている。

梓が頻繁に荷物を下ろすことからも分かるように、あの長椅子は、年齢や立場を別かつ分水嶺なんだよね。だから、学校に残りつづける先生と、卒業する唯たちは、長椅子で遮られなくてはならない。
開放的な部室にも、実は精神的な距離が生じることがある。それを、長椅子ひとつで表現している。カッコいいですね。


先生が、唯に「演奏の録音、手伝おうか?」と申し出るんだけど、唯は断る。すると、長椅子が画面から消える。
Story_1(←画像が小さく、申し訳ないです)
唯たちが主体性を発揮した瞬間、ただひとつの障壁だった長椅子は、不要のものとなる。
彼女たちの姿が、テレビを見ている僕らの前に「ズン!」と迫ってくるわけですよ。この一体感は、ライブのシーンより、ずっと強烈な気がする。

……というわけで、私は『けいおん!!』の絵コンテ集がほしい。これだけ学ばせてくれるアニメ、なかなかないよ。


『ぼくのエリ』問題は、後日まとめて。

(C)かきふらい・芳文社/桜高軽音部

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2010年9月 9日 (木)

■スウェーデン大使館は、スウェーデン映画より児童ポルノ撲滅に熱心■

別に、毎日『ぼくのエリ』のニュースを提供するつもりではなかったのですが、読者が減ってしまう前に、できるだけ多くのことを伝えておきたいと思います。

何しろ、こちらは一個人、一観客にすぎないので、映倫にモノ申すには後ろ盾がほしいと思いました。
そこで思い立ったのが、『ぼくのエリ』の後援であるスウェーデン大使館です。後援しているぐらいだから、こんな悲惨な状態で母国の映画が上映されていると知ったら、さぞかし……と、事情説明も含めて、「どう思われますか?」とメールしてみました。
その答えは、たった一行。

「ここは日本ですので、日本の法律に従わなければいけないと考えております。」

法律? 法律ですって? 映倫は日本の行政機関でもなんでもない、民間の第三者機関です。そう返信したのですが、別にどうでもいいらしく、返事はありません。

しかし、笑いあきれるわけにはいきません。だって、日本人のほとんどが、「ここは日本ですので、日本の法律に従わなければいけないと考えて」いるんですから。
みんな、「まあ仕方ないな」「そう決まったんなら、しょうがない」と思ってませんか? 
悪いのは、映倫だけじゃない。映倫の存在を許しているわれわれなんです。

出る杭は打たれるから、黙っていよう。波風たたないように、穏便に――その挙句、熱中症で人が死んでるのに、「死なないよう、注意してください」としか言えない政府ができあがった。ミイラに年金を払いつづける、ギャグのような国家が生まれたのです。

僕らは、スウェーデン大使館の無関心ぶりを笑えない。


……とか思って、ちょっと調べてみたら、スウェーデン大使館って日本ユニセフ協会(アグネス・チャンのいるダミー組織のほう)と大の仲良しで、こういう取り組みには熱心なんですね。

じゃあ、映倫によって「児童ポルノ」扱いされた『ぼくのエリ』は、ああいう処分にあって当然だと思っているのでしょうか。
まがりなりにも、「後援」に名を連ねている映画なのに? ますます解せない。

なんでも、スウェーデン大使館に質問状を送ると、日本ユニセフ協会が返答に応じるという、奇妙な事例も報告されています。→こちら
仲いいんですね、スウェーデン大使館と日本ユニセフ協会。


さて、映倫にアプローチするにあたり、スウェーデン大使館に連絡してみたら、芋づる式にアグネス・チャンへたどり着いてしまい、ちょっと不気味な思いです。
「役者がそろった」という感じですね。

映倫の裏に、もっと根深い問題が横たわっているものと想像はしていましたが、まさか「準児童ポルノ」「子どもポルノ」などの造語で、表現の自由を脅かす日本ユニセフ協会の名前が出てきたのは、これは果たして偶然なのでしょうか?

まさか、スウェーデン大使館が日本ユニセフ協会と映倫を仲介したりはしていませんよね?
両者が結託して、「少女の股間にモザイクを入れよう」などと取り決めていたとしたら、これは公権力に匹敵するのではないでしょうか。
(そのように想像させるだけの胡散くささを、スウェーデン大使館からは感じます)

ともかく、実際にモザイクを入れるだけの力を、少なくとも映倫は有しているわけですよね。『ぼくのエリ』だけでなく、他の作品に対しても。
こういう時、有識者や専門家は、何もしてくれません。気がついた人間だけが、少ない権利を武器に戦っていくしかないのです。

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2010年9月 8日 (水)

■名前? 言いません■

昨日、池田憲章さんのポッドキャスト「談話室オヤカタ」の収録に行ってきました。

「今日はもう……映倫の話しようか」という池田さんの一言で、『ぼくのエリ』問題を30分。勉強不足なところもあるし、怒鳴ってしまったところもあり、お聞きぐるしいとは思いますが、9月15日の配信をお待ちください。
一人でも多く、映倫が『ぼくのエリ』に対して行った蛮行を、知ってほしいのです。

また、映倫に対して、かなり暴言を吐いていますので、ぜひ名誉毀損で訴えていただきたい。
いずれにしても、法廷で話すのがふさわしい問題だと思うので。


ただ、どうして僕が「映倫より先に、配給会社に聞こう」と思ったかというと、こちらの記事を先に読んでいたからです→「映倫相手に粘ってみました」

……人と話をする態度ではないでしょう、これは?
担当者のくせに「名前? 言いません」と。普通、どんな会社に電話しても、市役所だって「担当の○○でございます」と名乗ってくれますよね。
それは、自分の発言に責任を持つという意味ですが、映倫は違うようです。


前回の記事は、多くの方に読んでいただけて、業界の方からもメールをいただきました。
「全国興行生活衛生同業組合連合会」という団体があります。あまりにも長ったらしい名前なので、「全興連」と略されます。
日本のほとんどの映画館は、この「全興連」に加盟しており、加盟していないと、映倫審査をパスした映画を上映できません。

なので、あまりにも映倫がウザイという映画館さんは、「全興連」を脱退して、映倫審査にかけていないマイナー映画を上映したりするそうです。
映倫と「全興連」の関係も、まことに興味深いと思います。『ぼくのエリ』の完全版を上映するには、この二つの団体を突破せねばならないようです。


『ぼくのエリ 200歳の少女』は、日本に送られてきたプリントが少ないそうで、リレー式にフImagesィルムを回している状態です。
なので、「そうは言われても、映画自体を見れないよ」という方は、上映情報をご覧いただき、近くでやらないようであれば、映画館にリクエストしてみてください。

『ぼくのエリ』は、ハリウッドでのリメイク版が完成しており、そちらはグローバルに全世界配給され、映倫もフリーパスだと思います。
そうなると、元祖スウェーデン版『ぼくのエリ』の存在感は薄れ、モザイク問題も忘れ去られてしまうでしょう。「少女の股間をアップにするような、映倫の審査にもかけられない破廉恥なヨーロッパ映画」は、脇においやられてしまうのです。

ワンカットに加えられた傷は、この映画の痛みです。それを取り除くことはできないか、本気で考えはじめています。

(c) EFTI_Hoyte van Hoytema

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2010年9月 7日 (火)

■検閲は、これをしてはならない■

スウェーデン映画の傑作『ぼくのエリ 200歳の少女』の公開が、秋から冬にかけて、全国へ広がる。
Let_the_right_one_in111僕は配給会社に、あの不自然なモザイクの理由を聞きに行ったが(詳細)、今度はそれを「生ぬるい」とばかりに批判する輩があらわれて、もうこの映画には、触れまいと思っていた。

ところが、mixiの日記を読むと、僕と同じようにモザイク処理に怒り、配給会社に直訴した人がいた。
僕は、配給会社の事情を噛んで含めて、それで何か解決した気になっていた。おろかにも、たったあれだけで満足していた。
問題なのは、「モザイクで消さなきゃ、審査は受けつけない」と、自分たちのつくったルールを、自分たちで都合よく作り変えた映画倫理委員会だ。

映倫はようするに、「こんなワイセツなもの、僕たちが審査したら、僕たちも共犯者になっちゃうよ」とビビり、配給会社の手を汚させた。
映画を見た観客が、どんな不満・不安をこうむろうと、自分たちの身が大事だったんだ。やはり、こんな団体は看過できない。


昨日、『ぼくのエリ』公開までの顛末を、興行会社の人たちに話してみた。
「はあ? 映倫ってのは政府の機関なんですかねえ?」と、横で聞いていた若い社員が話に加わってきた。とんでもない。彼らは、権威に弱い、ただの年寄りだ。
「すると、やはり、児童ポルノ禁止法ですか?」 どうしても、そこに繋がる。あの改正案は、別に廃案になってないよ。今年になってからも、都議会で議論されたり、民間のシンポジウムで規制強化が謳われてるよ。

そうした「空気」を、マスコミも一体になってつくることで、法案なんか通らなくても、こうして表現の自由は奪われている。
『ぼくのエリ』は、全世界で80もの賞にノミネートされた。しかし、モザイクをかけられたのは日本だけである。なぜか? 日本には、映倫があるからだ。

配給会社も興行会社も、映倫のメリットを訴える。
あの団体がなければ、国内で映画の上映ができない……。いや、待ってほしい。モザイクで切り裂かれた映画は、果たして「上映された」と言うべきなのだろうか?


ここで黙っていたら、もっとひどい抑圧が起きたとき、僕らは後悔に打ちのめされるだろう。何度でも言うが、僕らは、どこかの誰かが「見てよし」と許可したものだけしか、見せてもらえてないのだ。生まれてから、ずっと。

もうそろそろ、本当の自由を手に入れようではないか。そのためには、映倫の言い分も、聞かねばならない。

(c) EFTI_Hoyte van Hoytema (c)EFTI MMVIII

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2010年9月 6日 (月)

■カラフル、2回目■

立川シネマシティで、『カラフル』二回目。98席だけど、前3列以外は、ほぼ満席。
100905_19110001_2日曜夜の回でこれなんだから、昼間はもっと入っていただろう。

なんか、今回は、服の色が気になった。いくつかあったけど、真が父から借りたマフラーの色と、早乙女くんのマフラーの色が同じなのは、たぶん狙ったんじゃないかな。


真のお母さんは、ボーッとしていて、灯油を玄関にこぼしてしまう。女性キャラクターは泣くシーンが多いが、涙以外の液体を使って、涙以上のものを表現している。
ひろかの右手にした黒絵の具が、筆頭だと思う。ひろかが涙を流すと、床に黒い絵の具が滴る。
クライマックスのすき焼きのシーンで、泣きつづけているお母さんが、真の器に、すだちを垂らす。しぼり出すような、一滴の涙ですね。
ひろかの手をひっぱる真に、容赦なく降りかかる雨は、彼の涙なのかも知れないしね。

ただ、絵で語ろうとしていないというか、技巧の少ない映画だと思う。北野武は「背景なんか、ただ映ってさえいればいい」と言ったけど、その言葉の対極にあるように見えて、実は、近い哲学を持ってるんじゃないかな。
お母さんなら、ただ「お母さん」と認識できさえすればいい。そのために、絵を使っているわけであって、それ以上の理由はないと思う。

そのドライさは、閉塞であるように見えて、実は自由への通行手形なんですね。
キャラクターに淡白であればあるほど、文学性が増していく。「絵でありつづけることの意味」を、ここまで意識したアニメ映画も、なかなか珍しいと思う。


DVDで『マン・オン・ワイヤー』。
Images17歳のとき、世界貿易センターの建造計画を知り、なんとその完成を待ってから、二つのタワーの間を綱渡りした男、フィリップ・プティのドキュメンタリー。

建造中のセンターの屋上に登り、彼はこう思ったそうだ。「こんな高いところ、とても不可能だ……よし、やろう!」
注目すべきは、フィリップの行為が犯罪であり、警察に捕縛されるシーンを、余さず挿入していること。彼は毎回、絶対に捕まらなければならない。フィリップの「表現」は、社会秩序に対する反逆だから。

芸術は、既存の枠組みを壊すためにある。
以前に「芸術と犯罪は仲良し」と書いた。真実に迫れば迫るほど、法を侵食していく。タブーに分け入っていく。
どことなく、人の顔色をうかがった表現物が、いちばんつまらない。

(C) 2009 espace sarou.
http://www.espace-sarou.co.jp All Rights Reserved.

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2010年9月 3日 (金)

■トッカータとフーガ ニ短調■

シネマガールズ No.6 発売中
Isbn9784575451733
●愛しの仲里依紗 大特集 執筆
いったい何が起きたんだ?というぐらい、大胆にイメージを変えた「シネマガールズ」6号です。中身のデザインも、すごくいいですよ。

さて、私の記事。仲さんの出演作をすべて見て、『アイランドタイムズ』から『ゼブラーマン ゼブラシティの逆襲』までの4年間を、6ページに構成しました。
転回点となった『純喫茶磯部』は、仲さんの演じた主人公の感情曲線を図示。ストーリーの盛り上がりと、主人公の気持ちがシンクロしているとは限らない、ということです。


自宅待機の時間ができたので、中野レコミンツさんで買った『ファンタジア』を見る。
Disneyfantasia_1最初に見たとき、「春の祭典」に出てくる恐竜を「これは『ジュラシック・パーク』じゃないか!」と思ったので、93年以降のはず。
しかも、映画館で見たはずなんだけど、どこで上映していたのかな。

途中、サウンドトラックが画面中央に出てきて、さまざまな楽器の音をビジュアルで表現するのを見て、「やっぱり、ディズニーはドラッグをやっている」と確信したものだった。
ただ、『ファンタジア』は1940年公開なので、やはりLSDの前なんです。ということは、ぺヨーテ・サボテンか、マジック・マッシュルームじゃないかな……なんて邪推するのが、ディズニー映画を見る楽しみのひとつ。


僕も、この映画のように、「音を見た」経験があります。ソニック・ユースのライブ盤だったけど、音が遠ざかっていって、黄色い線が、目の前でメチャクチャに動き回っていた。あんまり、きれいなものじゃなかったね。

『ファンタジア』では、「トッカータとフーガ ニ短調」が、まさに「音を絵で表現する」極致でしょう。具体的な物体は、楽器の一部だけで、あとは抽象的な模様のみ。目玉というより、皮膚や身体の奥で、びりびり感じる映像。
視覚と聴覚が交わるような感覚があるので、気分が悪くなった人もいるんじゃないかな。実際、『ファンタジア』は大衆には支持されず、大赤字でした。

だけど、具象的なキャラクターが出てくるより、抽象的な模様のゆらめきを見ていたほうが、僕は純粋に幸せだけどな。


「トッカータとフーガ ニ短調」は、光や描線のようなものが画面をなでていくだけで、キャラクターは、一切登場しません。
にも関らず、私はそこに「物語」を感じる。つまり、映像が決定した「ルール」があり、そのルールに則して小さな動きから始まり、やがてルールの限界いっぱいまでダイナミックな動きをするのであれば、それはやはり「ドラマ」としか呼びようがない。

われわれが「物語」「ドラマ」と呼んでいるものの実相は、ある「ルール」によって並べられた、映像の連なりにすぎない。
「物語」は、目には見えない。観客が、頭の中で組み立てるもの。だから、映画が自分の身体の外部にあると思ったら、それは大間違いです。

どんなボロクソな評価の映画であっても、あなたが見たら、感動できるかも知れない。それは、あなたの身体に蓄積された経験がリアクションするということ。あなたがあなたである証拠なんですよ。

(C)Disney

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2010年9月 1日 (水)

■いい映画は、途中から見ても面白い■

「Cut」の特集「ジブリがアリエッティに託したもの」を読んでいて、ハッとしたことがある。
100831_21300001今までのジブリ作品って、少年と少女、男と女の出会いは強烈に描いても、「別れ」は希薄だった。たいていは、「ともに生きよう」とか「結婚してくれ」とか言って、終わる。
たとえ別れても、「いずれ、また会おう」みたいなラストだったりする。

でも、『アリエッティ』は、「一緒には生きられない。だから、お達者で」というラストだったよね。
それが突破口だったんじゃないかな? 「農家の嫁になる」とか、無理やりなハッピーエンドと問題解決が、ジブリならではの時代錯誤性であり、持ち味でもあった。「それしか思いつかん」という限界が、つねにあった。

ところが、『アリエッティ』は、「解決できない問題は、解決しない」。これは諦念ではなく、時代にそくした突破口なんだろうね、おそらく。
だからといって、あの作品を僕自身が楽しめたかどうかは、まったく別問題なんだけど。

『カラフル』の二回目は、さていつ行こうかな、と考えている。


もうひとつ、先日の『けいおん!!』の記事。ちょっと補足。
冒頭の3カットは、さりげなくカッコいい。「唯のいないベッド」→「唯の見ていない雑誌」→「唯のいない部屋」。でも、それぞれ、脱いだパジャマとか、チリ紙が丸めてあったり、「さっきまで唯はいた」という痕跡を、描いている。
彼女が「起きた」→「雑誌を見た」→「部屋を出た」ということは、この3カットで分かる。

ということは、この3カットは、「空間」ではなく「時間」を描いている。過去を描いている。
そして、唯の足元の通学カバンが映ったとき、フィルムは「現在」に追いつくんだよ。
でも同時に、唯のいない3カットは、「唯は別のどこかにいるんだよ」と説明してもいる。カッコいい。過去を明示しつつ、現在を暗示している。機能的。カッコいいですよ。


だから、「いい映画は、途中から見ても面白い」ってことです。ベテランの編集者で、「30秒見れば、そいつの演出力は分かる」って人もいた。

ストーリーというのは、カットの積み上げから、「読みとる」もの。画面にあらすじが表示されるわけじゃないんだから、何本も見ているうち、読みとれるようになる。
バラバラに撮影されたカットの集積から、「ああ、こういうストーリーなんだな」と読みとる。
だから、友達と映画に行くと、「あのシーンって、どういう意味?」「ぜんぜん、解釈が間違ってるよ」と、意見が分かれる。
最低限のルールはあるけど、答えはないわけです。

ケーブルで『人のセックスを笑うな』をやっていたから、途中から録画して、途中でやめた。それでも、ちゃんと面白い。
トータルバランスで「脚本もいいし、演出も合格点」みたいに完成度を求められはじめたのって、いつ頃からだろうか。どこかひとつ、いいシーンがあれば、それだけで得した気になるのは、僕だけだろうか。


冒頭の「別れのあるアニメ映画」ということでいうと、『河童のクゥと夏休み』。
康一のもった箱を、サヨコがなでるでしょ。あれは、もちろん、箱の中のクゥをなでているんだけど、康一と話せたという「現象」に感謝しているんだよね。

『クゥ』の世界観は、仏教的。『カラフル』はキリスト教的だと思うんだけど、単純かな。

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