■宇宙ショー、3回目■
アニメ業界の方から、「『私の優しくない先輩』、あんたがブログに書いていたのと同じ感想だよ、同じ目線で見てたよ」という内容のメールを、いただいた。
ネットでのレビューを見て歩き、あまりの酷評ぶりに萎えていたので、これは嬉しかった。
映画のレビューって、「最悪」という言葉を使う人が、前よりも増えたかもなあ……。
レビューの点数を基準に、映画を見に行く習慣は、観客に、「自分の眼で確かめる」という努力を放棄させる。偶然の出会いを奪い、その人にだけ起こりうる驚きを奪う。
みんな、「ハズレ」を引くことを怖れ、「100%の完成度」を期待しているかに見える。
でも、数値化できないものを見たいから、映画を見るんじゃないの?
何だか、よく分からないモヤモヤが、やむなく、「映画」とか「小説」とかの形式をとっているだけだと、俺は思う。映画なら映画の形式、約束事を通じて、そのモヤモヤに触れたい。
フォーマットに封じ込められたモヤモヤに、生身で触れたときに「うわっ」となるわけでしょ。驚きたいわけでしょ。
僕はまさしく、「腰が抜ける」という体験をしたよ。
ただ、『私の優しくない先輩』を見た全員に、同じ体験が訪れるとは限らない。なぜなら、ひとりひとり、違う人生を歩いているわけだから。
映画というのは、それぞれ、自分の身の丈サイズにカスタマイズしてこそ、消化できるんだと思う。
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『宇宙ショーへようこそ』、3回目に行ってきた。
さすが映画の日、夜の回なのに、20~30人程度の入りで、アベックもいた。
身近なものとは異質な物理法則ばかり、2時間も見せられっぱなしなんだから、これはラリっている状態に近い。
まず、そのラリリな状態が、多幸感・酩酊感を引き起こすのだと思う。
さて、夏紀というキャラクターは、理想的な自我との間にギャップを感じている。彼女は、ラストでようやく、ヒーローの真似事をやめて、「今夜は、夏紀だ」と名乗る。
彼女のルックスは、もちろん気に入っているけど、むしろ僕は、彼女が「治癒」していく過程に、憧れているのかも知れない。
僕にとっての夏紀のような存在を、「理想化自己対象」と呼ぶらしいです。対象者(この場合、夏紀)を、自分の一部のように扱うことで、未発達な自己愛を補填している。
精神分析の本からの受け売りだけど、だとしたら、このアニメに依存しすぎるのは、あまり良い傾向ではない――と、今回は、そんなことを思った。
8月下旬から9月にかけて、また全国で公開が始まる(山形では舞台挨拶まである!)ので、楽観してて正解だったかな?とも思うし、この格別に愛らしいアニメとは、ちょっと距離を置こうかなあ……と、寂しいことも考えてます。
おそらく、滅多にない甘美な関係を結べた映画だと思うし、2時間(計6時間)の間、幸せでしかたなかったんだけどね。
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